コンプレックス

 歌い終えた僕は左手に力を入れたこと、声に強弱をつけたことが久々過ぎて、大した運動量じゃないのにもかかわらず体力をかなり消費していた。それにあまりにも動かしていなかった筋肉を急に動かしたせいで、左手と喉が軽く痙攣して違和感がする。

 けれど、そんな僕の副作用は弟にとってもどうでも良いらしい。歌い終え、ギターをあぐらをかいた足の上においた僕を、弟はその大きな瞳を輝かせながら見ていた。窓から差し込んでくる午後の柔らかなも相まって、弟はより端正な顔つきを映えさせている。綺麗で無垢な表情だ。まるで物心ついてない目に入れても痛くない純粋な赤ちゃんの様な瞳をしている。そして、その輝かしさの意味は尊敬? みたいなものだと思う。こんな愚兄なんて尊敬するに値しないのにもかかわらず、こいつは僕のことを輝かしいものだと見つめてくる。

 止めてくれ。反吐が出る。僕はそんな尊敬だとか、憧れだとかに値する人間じゃない。僕は蔑まれるべき人間だ。最愛の人を苦しませるような心配を掛けて、しかもそれに対しては突き放すような皮肉気な対応しか取れない仇で生きている人間なんだ。だから、どうか僕をそんな目で見ないで。

 眩しすぎる慇懃な弟の目から少しでも離れるために僕は、俯いてもう一度ギターを握って、適当に弦を撫でる。行動に意味なんてない。少しでも弟の眼差しから逃げたいだけなんだから。


「兄さん、もう一曲やってくれる?」


 ただ、僕の弟はやっぱり僕を分かっていても今の僕の心持ちを分かってくれないみたいだ。やっぱり、他人なんだな……。

 でも、ここで突き放すみたいに言葉を掛けることは僕の最後の良心が許してくれない。だから、僕は普段とは震え方が異なる声帯を使って不器用にでも声を出す。


「無理だよ。この声を聞いたら分かるだろう? それに指も痛くてもうコードを抑えられそうにないよ」


「そっか、残念だ。出来れば明るい歌も歌ってほしかったけれど」


「『人生はまだまだ続くのよ』って? 僕はデズモンドみたいに仕事をしてないし、家庭も無いよ。学生すら全うできないはみ出し者だよ」


「けど、兄さんの人生はまだまだ続くよ。兄さんの人生が続く限り僕の人生も続くし」


「そんな共倒れになるようなことを言わないでくれ。お前は医者に成らなきゃだよ」


 存外僕の良心は腐っていなかった。

 いや、最後の良心だけが僕に残っていただけだ。パンドラの箱を空けて最後に残っていたのが希望の鏡であるように、僕の空っぽで全てを仇にした汚れた心に最後に残っていた両親が僅かに輝いただけでしかない。だから、弟が僕の死と共に自分の死を暗喩するような悲し過ぎる結末の言葉に、顔を上げて、強い声色で訴えたことは所詮僕が見せられる最後の輝きに過ぎないんだ。僕が持ちうる汚泥の中の一筋の金属的な輝きなんだ。

 普段通りの自己嫌悪を発症する僕であったけれど、僕の弟は驚いたような、嬉しいような、とかく悪い解釈の表情をしてなかった。その丸い双眸を僕に向けて、午後の光に輝かせながら見てくる。


「兄さん……」


「お前は生きなきゃだ。僕が死のうとも必ず生きなきゃならない存在なんだよ、真斗。お前は僕と違ってなんだってできる。勉強だって、人付き合いだって、スポーツだって、きっと音楽もすぐに僕を追い越すはずだ。そんな人間が、自分の一生涯を自分で断ち切ろうとする愚かな人間と一緒に倒れちゃいけない。お前は僕の死を軽蔑しながら生きるんだ」


「そうだね。確かに兄さんの言う通りだ。僕は兄さんが死んでも生きなきゃならない。でも、忘れないでね。兄さんは僕にとってあこがれの人なんだってことをさ」


 弟は僕の責めたて、煽り立てるような言葉を全て聞くとクスッと笑った。美しい笑みの中に僕は、弟の醜さを見出した。僕にあって、弟には無いものを欲する弟の哀れな影が見えた。

 望んではいけないものに手を伸ばそうとする弟に僕は物理的な手を伸ばした。けれど、僕の手は弟には届かなかった。弟は立ち上がると床に置いていたトートバックを持って、中から数冊の文庫本を取り出してギターの上に置いた。


「それじゃあ、僕はそろそろ帰るよ。兄さんもまだ頭が痛いでしょ? ゆっくり寝て居なよ。あと、スマホは退院してからね」


「真斗……」


「ばいばい、兄さん。また来週来るよ」


 遠くゆく弟を僕は呼び止めようとした。けれど、僕の喋り過ぎて擦れてしわがれた声は弟の耳に届くことがあっても、弟の足を止めるには至らなかった。弟は最後にもう一度笑みを浮かべるとそっと部屋から出て行った。

 幾つかの本とギターで物質的若干豊かになった病室であったけれど、酷く寂しい空気が充満していた。そして、その不安は僕の頭痛を悪化させと同時に弟に対する嫌な思考を進行させてくる。

 止めてくれ。あいつは僕と違うんだ。僕と違う人間で、僕と違って優しくて、僕と違って良い奴なんだ。だから、違う、あいつに限って……。

 僕の頭の中は嫌な予感で一杯になる。これに従って頭痛は酷くなる。その連鎖が絶え間なく僕を襲う。僕は痛む頭と震える体に鞭を打ちながら、僕はギターと本をベットの傍らに置いた。それから嫌な思考と頭痛から逃れるために布団を頭からかぶって、体を横たえて、暗闇に身を委ねる。

 午後の日差しが鬱を強いてくる……。

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