音楽
それから僕は弟としばらく話し合った。
話題は弟も僕も極力、自殺と両親の重苦しい話題から逸れて弟の学校生活のことや今日あった出来事とか日常的なことばかり話し合った。頭は少し痛むけれど、そんなことすら忘れられるほど僕ら楽しく話し合えた。
やっぱり、弟と話すことは楽しくて仕方が無い。その上、弟が出してくれる話題は面白いことばかりだ。先輩との付き合いの話、僕に憧れて入ったオーケストラサークルの話、勉強の話、何から何まで僕の経験したことが無いキラキラと輝く愉快な世界が広がっていて僕のすさんだ心によく響く。おどけたように自分の経験を語ってくれるこいつの語り口も僕を愉快にさせる。
でも、その弊害として僕の何もなさに僕は絶望する。少し生まれた年が違うだけで、こんなにも輝かしい経験とどん底の経験になるのかと思うと嫌気が差して仕方が無い。そんなんだから、僕は弟の口からどんどんと溢れて出てくる楽しげな思い出話に対して、嫉妬が発生した。
浅ましいことだ。努力して手に入れた人の成果物を自分の手には無いからって嫉妬して、それを貶めるような感覚を抱くなんて言うのは気色が悪い。けれど、僕は弟の話に嫉妬を覚えざるおえなかった。輝かしい弟の未来を望んでるって言ったのにもかかわらず、僕はそれと矛盾した感情を覚えるんだ。気持ち悪い。
対外的な感情は嫉妬を覚え、内向的な精神はそれを否定する。ダブルスタンダートを地で行く僕は、次第に弟の話がつまらなくなって行った。本当は心から面白いと言いたいことも、他人事であり、自分がどれだけ求めても到底手に入らないものだと思うと、輝かしい話は堕ちてしまった。決して、弟に原因がある訳じゃない。全部、僕のせいだ。
「随分と長いこと喋っちゃった。ごめんね、兄さん」
弟は次第に顔から柔らかさが消えた僕を見ると何か察したらしい。そして、僕を気付かって本当は悪くないのに謝る。こちらが謝るべきなのに、僕は謝れなかった。申し訳なさそうにする弟の顔を見るばかりだ。
「そうそう、忘れたてけど色々持って来たんだ。ちょっとでも暇を潰せるように、本だとかミニギターだとか。確か兄さん、ギター弾けたよね?」
「まあ、小学生のころ叔父さんに教えてもらってたから人並み程度なら弾けるよ」
「良かった。それじゃあ、これ」
「ありがとう」
愚兄に合わせるために、話をガラッと変えた弟は持って来た大き目のトートバックから小さなソフトギターケースを取り出すと僕に手渡し、僕もそれを受け取った。随分と軽い。それにやっぱり普通のアコギに比べるとかなり小さい。僕の弱々しいに手でも軽々と弾きこなせるくらい小さい。
あと、どうしてか弟の手からこれを受け取った時僕の胸は一瞬だけ踊ったような気がした。諦めきった音楽の楽しさを思い出した? いや、そんなことは無いはずだ。僕は唯一の友達だった大切な電子ピアノを衝動で壊したんだから。初めて親父に買ってもらった、僕に対して唯一向けてくれた親父の好意を僕は叩き壊したんだ。だから、僕が音楽の楽しさを思い出すなんてことは無いんだ。もしも、そんなことがあったとしたら僕は誰よりも不幸な人間で、誰よりも自分勝手な人間で、誰よりも恩知らずな人間だ。
なら、これも壊せばいい? いいや、それも違う。僕は弟から貰ったものを、最愛の人からの贈り物を目の前で壊せるほど出来た人間じゃない。そうだ、そこまで狂えていたら僕はむしろ楽だったんだ。だから、僕は壊せないし、楽に慣れない。
中途半端に狂った僕の意志と体は、弟を悲しませないために動く。僕は知らず知らずのうちにギターケースを開けて、小さなアコースティックギターを取り出した。マホガニー材の白いギターだ。それから僕は適当に弦を上から指先で撫で下ろす。それなりに良い音が鳴る。数か月ぶりに聞くギターの音色は、チューニングがあっていないけれど思ったよりも美しい。けれど、その美しさも今の僕にとっては毒なんだ。
何の考えも無しに、自分で分かりきっている毒素を摂取した僕の頭はまた痛みを増し始めた。やっぱり、今の腐れ果てた、今後は蛆に食われるだけの存在となった僕じゃ音を奏でることは出来ない。僕は手に持ったギターをそっと置こうとした。けれど、弟は許してくれないらしい。
「何か歌って見せてよ」
「ここは病院だよ。大きな音を鳴らしちゃ駄目だ。それがルールだし、僕がここに居るために必要な義務だ」
「大丈夫、ギターホールカバーあるし」
「良くできた弟だよ」
理屈。というよりも常識を僕は説いて、僕が被る痛みを抑えようとしたけれど僕の良くできた弟は常識をさらに説いてきた。トートバックから弟は黒い円形の蓋を取り出すと、ギターを僕からひたくって、ギターホールに着けると再び僕に渡してきた。
用意周到で、逃げ場を失った僕はもう一度そっと指先で六つの弦を撫で下ろす。音はあまり響かない。きっと、隣りとか廊下にも聞こえないと思う。それでも僕にとっては毒で、頭の痛みを増加させてゆく。
ああ、けれど、僕はやらなきゃいけない。弟を裏切らないために。例え僕に対して唯一愛情を示してくれた父親の象徴を壊したろくでなしであったとしても、僕は最愛の人を落ち着かせるために弾いてみよう。そして、歌ってみよう。
僕は掛布団の下であぐらを組んで咳払いをする。
「それじゃあ小さな声と小さな伴奏で歌って見せるよ。聞き苦しいだろうけどね」
「良いよ。僕は兄さんの演奏が聞ければそれで良いんだ」
「それじゃあやるよ。曲はニルヴァーナの『Come As You Are』で」
僕はベットに腰を掛けて、僕に寄り添うように座りながら微笑む弟の顔になるべく自然な笑みを見せながら口と手をぎこちなく、そこはことなく僕が好きな彼を意識して動かし始めた……。
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