看護師さんの手を借りずに病室に戻った僕は、皺だらけの真っ白なベットに布団を掛けずに横たわった。それから電気も点けずに目を閉じた。その後、すぐに昼食が運ばれてきたけれど、僕は付け合せのフルーツが和えられたヨーグルトだけ食べただけで、他のスープだとかご飯には手を付けなかった。僕の今の体は、普通の固形物を食べるには向かなかった。食べたところで戻していたと思う。

 短く簡素な食事を終えると、同じようにベットに横たわった。そして、窓から痛々しい青い空を見る。雲一つない晴天。

 けれど、僕の心持ちは酷く落ち込んでいる。ずっと落ち込んでいるんだから、今さらの話だ。でも、泥濘の中に僕の心があろうとも誰も居ない静かな病室は、薄暗く、静かな影に満ちている一室は僕に安らぎを与えてくれる。

 ただし、そんな安らぎも、扉を叩く音で崩される。

 

「兄さん、入っても良いかな?」


「入って良いよ。真斗まなと


 けれど、その来訪者は僕を病ませる人じゃ無かった。むしろ、僕が最も信頼を置いている人間だ。だから、僕はそいつの声が聞こえると同時に入室を許した。若干、高慢ちきな言い方になってしまったけれど、弟と話す時はいつもそうだからしょうがない。

 僕の返事を聞くと弟は静かに扉を開けて、僕の目の前に現れた。やっぱり、こいつはカッコいいし、体つきもしっかりしている。僕と違って短く整えられた髪、落ちくぼんでいないくりっとした母親譲りのおっとりとした二重の目、父親譲りの右頬の可愛らしいチャーミングな黒子と百八十以上あるしなやかな筋肉のついた美丈夫。それから、両親双方から譲り受けた聡明な雰囲気と人の心を一聴するだけで掴む低くも優しい声。本当に僕と血を別けた兄弟なのかと不思議に思う。白いシャツとベージュのカーディガン、藍色のジーンズのシンプルな服装が良く似合う。僕が着ても成り立たないのに。

 そんな似ても似つかない出来過ぎた弟は、大き目のトートバックを床にそっと置くとベットに腰を下ろして、寝転がる僕の顔を覗きこんできた。


「酷い顔色だ」


「早くも医者のつもりかい?」


「相変わらず酷い皮肉だ」


「人は変わらないよ。僕は生涯哀れだし、お前は生涯輝かしい。だから、せめてもの皮肉だよ。お前に出来なくて、僕にできることなんて何にもないんだから」


 理解者に対して僕は酷い物言いをする。

 相手を突き離す言葉を掛ける。

 僕の惨めな心に、コンプレックスに塗れた本心を見られないようするために。好意を受け取らないようするために。本当に彼女の言う通りだ。


「悲しいことを言わないで。兄さんには音楽があるじゃないか。俺は兄さんのピアノ好きだよ。俺には鳴らせない音を出してくれる。どんなピアニストよりも、独特な音を鳴らせるじゃないか」


「違うよ。あんなのはパクリだ。それに僕のピアノは下手くそだ。美しさなんて微塵も無い直情的なものなんだ」


「そう……」


 僕の突き放すような言葉遣いは、端正な弟をあからさまに悲しませてしまった。

 分かりきっているのに、僕はまた過ちを犯してしまった。また言い過ぎてしまった。加減を知らない愚かな僕は、弟がベットに着いている右手の手首を掴む。


「そんな顔をしないでくれ。僕はお前を悲しませたい訳じゃないんだ」


「なら、兄さんもそんなことを言わないでくれよ」


「すまない。どうしても僕はこんな言い方しかできないんだ」


「あはは、そうだね。兄さんは不器用だもの」


 そして、言い訳がましい謝罪を弟にする。優しい弟は愚兄の間違ってばかりの行動を温かく笑ってくれた。何時も何時も僕の言葉に傷つくのは弟なのに、こいつはそうやって笑って僕を許してくれるんだ。僕はそんなこいつを見るたびに胸が痛くなる。同時に僕を理解してくれる唯一の人が、居なくなってしまうんじゃないかっていう恐怖に襲われる。突き放しているのは、自分なのにもかかわらず、見捨てられてもしょうがないことをしているっていうのに。

 呆れた自己嫌悪に陥る僕に相変わらず微笑みかけてくれる優男とは、何か思い出したらしく急に表情を変える。

 

「そう言えば、遺書は読んだよ。叔父さんが持ってきてくれてね」


「何も言わないでくれ」


「分かってるよ。何も言わないよ」


 僕のことを知り尽くしている弟は、僕の傲慢な頼みを無条件で聞いてくれた。ただし、まだ何か言いたいことがあるらしく、口を中途半端に開けた口を一度閉じた。


「でも、伝えなきゃいけないこともあるんだ」


「学校のこと?」


「そうそう、ビンゴ。大学には叔父さんが休学届を出してくれたよ。叔父さん曰く、今年いっぱいは心を休めた方が良いからってさ。あと、家のことだけどあそこは引き払うことにするってさ。だから、ここを退院したら叔父さんの家に兄さんは住むことになる。荷物は全部叔父さんの家に運んであるから大丈夫だってさ。それと、うん……」


 僕は僕が眠っている間に叔父さんと弟の間で交わされていた僕に対する様々な処遇を聞いた。退院した後、叔父さんと住むことになるなるのは嫌なことだけれど、僕がしたことを鑑みれば当然のことだ。また、一人暮らしをさせて自殺騒ぎを起こされたら堪ったものじゃない。

 ただ、弟はまだ僕に伝えたいことがあるらしい。しかも、最後に伝えることが一番重いらしく、弟の口は若干震えていた。僕が震えなきゃいけないのに、どうして弟が震える必要があるんだろうか? 

 違う。僕が一番避けたいことを、逃れたかったことに対しての話題だから口を震わせているんだ。今、弟が必死に紡ごうとしている言葉とそこに伴う行動だとかにもう一度僕が身を捨てようとするかもしれないことを恐れているんだ。でもこんなのは、僕の勘違いによる予想に過ぎない。

 けれど、僕は気持ち悪い予想に沿って行動しよう。僕は弟がびくびくと震えている様子をこれ以上見たくない。弟には何時も輝いていて欲しい。僕みたいに汚れて欲しくない。要らない重荷を担ぐ必要は無いんだ。こいつは、僕と違って器用に生きることが出来る。だから、しがらみなんて要らない。順風満帆に生きれるんだったらそのまま歩んでほしいんだ。


「両親のこと?」


「うん、当たり。叔父さんが言ってたよ『春の終わりまでは両親にこのことは隠す。けれど、その時になったら自分の口から両親にこのことを伝えろ』ってさ。筋は通せって」


「まあ、そうだろうね。ここまでしてもらってだんまりっていうのは、筋が通ってない。義務だ。だから、僕はその義務を全うするよ」


 僕は暗い顔をする弟の重荷を下ろすために、本当は嫌で嫌で仕方が無いことを口にする。反吐が出るほど気持ち悪い演技をする僕に、弟は見事騙されてくれた。正直すぎる弟は、僕の嘘を信じると顔をパッと明るくさせた。

 けれど、一瞬で灯った光は一瞬で消えてしまう。


「兄さんがそれで良いなら僕は良いんだ。ただ、自殺はもうしないでよ」


「しないとは言えない。けれど、今する気は無いよ」


「今後もしないって言ってくれると気が楽になるんだけれどね」


 寂しげな笑みを浮かべながら、弟は健気にも明るい声を紡ぐ。

 違う、違う。僕は弟にこんな表情にさせたかった訳じゃない。僕は弟に自然な笑みを浮かべて欲しいんだ。ありのままの無垢な弟で居て欲しいんだ。

 話を逸らそう。この話題はもうやめだ。


「安心してって言って良いのか? とかく、しばらくする気は無いよ。僕は僕の死に疑問を持ったからね。あの汚れきった部屋に居た時は何の悔いも無かったし、何の疑問も浮かばなかったけれど、ここに来てある人と会って疑問が浮かんできたんだ」


「ある人?」


「うん、初めて見る類の人だよ。僕とほとんど一緒の人さ」


「兄さんと一緒の人? それはきっと知的な人なんだろうね。兄さんと同じってことは、きっとそうだ。捻くれた頭の回転のね」


「ああ、多分そうだよ」

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