出会い

 四方向をガラス窓と建物で囲われた病院の中庭の中央には立派な桜の木がどっしりと根を張って、少し狭い憩いの場を彩っている。満開だ。満開の桜は薄紅色を日光に称え、人工芝の地面の緑と、木を囲うに置いてある茶色の長細いプラスティックのプランターに植えられた白と黄色の名前も知らない花の淡い印象を蹴散らしている。そして、上から吹きつけてくる緩く温かい風は草花が混じった香りを四隅におかれたベンチに座る面会に来た家族あるいは友人と微笑みながら話し合っている患者たちに届けている。

 当然、僕の体も自然満ちた明るい風を受ける。自然を包括したような風は僕の汚れきった長い髪の毛をなびかせる。僕の背中に左手を回して支えてくれている看護師さんは、なびく艶のある髪の毛を手で押さえている。


「あらら、ベンチ空いてませんね」


「ええ、空いてません」


 看護師さんはなびく髪を右手で押さえながら、辺りを見回した。そして四つのガラス窓を背に設置された二人掛けのベンチが全部埋まっていることを確認すると、落胆したような声を漏らした。僕はそんな看護師さんに低い声で答えた。

 醜い僕の声色に看護師さんは、ビクッと肩を一瞬震わせる。

 ああ、この人は僕が目を覚ました瞬間あった人と変わらない人だ。やっぱり、この人は僕に孤独を与えてくれる人だ。

 僕に幻想を抱かせてくれた看護師さんは、一瞬間の体の震えを如実に表した不安げに困り眉を作った美しい顔で僕の顔を覗きこむ。


「何か気に障りましたか?」


「いえ、別にそう言う訳ではありません。ただ久々の外気に体が適応してくれないんです。ここに運ばれてくる前、僕は二週間前から外に出てませんでしたから」


 ただ、看護師さんは僕が過去を少しだけ話すと表情をすぐさま変えて強がった。けれど面持ちを変えた看護師さんは強がった顔を僕に一瞬見せると、すぐさま視線を前方の桜の木に移した。


「本気だったんですね」


「本気でしたよ。今も本気です。もし、あの桜の木の枝に絞首刑の太い荒縄が掛かっていたら僕は首をかけると思います。それで桜の木をより紅に近い色に染められたら僕は本望です。少しだけ、何もできない病んだ男が役に立てるんですから」


「駄目ですよ。この桜の木は淡い紅色だから綺麗なんです。それに赤すぎる桜なんて柄が悪いと思いませんか?」


「確かにそうですね。ええ、確かにそうです。確かに自然に衝撃は要りません。頭の片隅に記憶を色づける程度の色彩で十分です。そうです、濃淡はっきりした自然には風情がありませんね」


「ええ、全くそうですよ」


 自分の表情を悟られまいと桜の木を見続ける看護師さんは、しみじみとした声色で自然のちょっとした有り方を説いてくれた。きっと、それは自分の心を少しでもこんな惨めったらしい人間から目と心を背けたかったからだと思う。僕の意識が自然とそう言った思い違いをさせているのかもしれない。

 違う。

 絶対にそうだ。

 きっと、そうなんだ。

 そうであってくれ。

 どうか、僕を見放してくれ。頭が痛む。

 拭い去れない過剰な自意識が、僕の頭を蝕んでくる。足元が崩れ落ちて、延々と深く二度と上がって来れない穴に吸い込まれていくような感覚を僕の足は覚える。そして、その空想の引力に従って僕は崩れ落ちて、人工芝に両膝をついた。


「無理しないでください」


 けれど、崩れ落ちた僕を看護師さんは支えてくれた。おかげで僕は脆い手を地面に着かずに済んだ。もしも、脆い体をそのまま地面にぶつけていたら骨の一本や二本容易く折れていたと思う。そのが現実に起こっていたとしたらゾッとする。僕はついぞ人が居なければ身の周りの仕事が出来なくなることが、怖くて仕方が無い。

 あり得た恐怖におびえる僕の全身は、気味悪く小さく震えて上手く言葉を吐き出せない。声帯すらまともに動いてくれない。


「すみません」


「謝る必要は無いよ。だって、この人があなたを助けたのは仕事の便宜上だろうからね。少なくとも私の目にはそう映ったよ。体も心も病んでる人」


 目を伏せながら、僕はやっとのことで看護師さんに向かって声を紡ぐことが出来た。けれど、僕の言葉を受け取ったのは看護師さんでも無く、医者でも無く、誰でも無かった。僕の知らない人、それも声の若い女の人だった。

 名前も、声も、顔も、体格も何もかも知らない僕と看護師さんの背後に立つ女の人は、僕が心の片隅で思っていた鬱々として意地悪いことを言い当てて見せた。

 青天の霹靂だ。暗雲立ち込める僕の精神に一筋の稲妻がピカッと光り、僕が最も隠したかった僕自身を稲光で照らし出した。僕の背筋は凍りつく。


「違いますよ。もちろん、仕事の上でこうしていますが私は患者さんの身の安全を一身に思ってやっています」


「そうだね。けれど、それは私も知ってる。だから、ごめんなさい」


「あなたどういうつもりなの? 大人をからかっているの?」


 そう、看護師さん。そんな失礼なことを言うやつには、強い口調そう言ってやるのが、正解だし、大人の対応だ。けれど、僕はあなたに知らない女の人と同じ感覚を抱いているんです。僕にとって、あなたの行動は便宜上の行動にしか見えないんです。でも、僕にとってはそっちの方が楽なんです。

 ああ、なるほど。知らない女の人は、僕に向かって言っているんだ。看護師さんに対する言葉じゃなくて、僕に対する言葉なんだ。僕に対する皮肉なんだ。だから、この知らない女の人には僕が話をつける義務があるんだ。果たして、僕が見ず知らずの人とこんな震えた状況で話せるかどうかは分からないけれど、僕は立ち上がって、苛まれる頭で話をしなきゃならない。

 生まれたての小鹿のように震えて、未だに空想の引力に引きずられる弱々しい足を何とか持ち上げて僕は、僕から離れていた看護師さんの手を借りずに立ち上がる。足元がよろついて、目の前は貧血で一瞬暗くなって、その暗がりの中に頭痛から来る赤い斑点がチカチカっとほとばしる。けれど、僕は倒れ込まずに何とか立つ。そして、体を翻す。


「えっ……」


 僕は呆然と立ち尽くした。

 僕はもう一度衝撃を受けた。

 何せ、そこに立っていたのは灰色のブレザーを着て、黒く短めのスカートを履いた学生だったんだから。学生の背丈は、僕と頭一つ分違う看護師さんと同じくらいだから女性にしては高い方だ。若々しく艶のある髪は、パーマのかかったボブカットでいかにも現代の学生らしい髪型だ。また、顔は一般的な女性よりも整っている。程よい濃さの眉毛、二重でぱっちりとしたこげ茶の瞳、ほっそりと高い鼻、血色がよくふっくらとした唇は人を惹き付けるんだと思う。すらりとスカートから伸びる長い足、それを映えさせる色白でありながらも健康的な肌にはシミ一つ無い。

 ただ、僕はこの学生の見た目になんか興味は無い。僕はただ彼女の、彼女の鋭い光を帯びた瞳にだけ吸い込まれる。名前も知らない彼女の僕を全て見透かすような怖い瞳に恐れを成すだけだ。

 逃げ出したくなる。僕の全てを見透かす双眸を目の前にして、僕は自分自身を保っていられない。僕の内面を見ないでくれ。気持ち悪い自意識がむくむくと成長した汚らわしい内面をどうか見ないで。


「大丈夫。私も同じだから。私もあなたと一緒」


「君が僕と?」


「そう、一緒。汚れているの。こんな綺麗な自然を痛い痛しいモノとしか感じられないし、人の好意が打算的なものじゃないかっていつも疑う汚れた人」


「汚れている? でも、君はどう見ても清純だ。清らかだ」


 名前も知らない学生の言う言葉の裏は分からない。

 けれど、分からなくても、どう考えてもこの人は汚れていない。清廉潔白の身で、誰からも愛されるような見た目をしているし、こんな非常識な行動をするけれどこの人の笑み一つで冗談で済まされる。

 僕じゃ、石を投げられ、蔑まれる。けれど、この人は違う。その点だけはこの人と違う。だから、この人は汚れていないはずだ。僕と違って汚れていないはずだ。

 でも、それでも、僕はこの人と一緒だと思う。


「ふふ、そう見えてる? だったらあなたは私と違って、目が無いのね」


「僕は君と違うみたいだ。でも、きっと一緒なんだ。だから僕は君と話せているんだ。僕と違う人だったら、僕の口はこんなに回ってないし、目を合わせることも出来ないんだ」


「本当にそうだね。ここまで私と似てる人初めて見たよ。落ちぶれて、何にも頼れず、孤独を望む人」


「……君の目は良すぎる」


 違うけれど同じ人種、それが僕の目の前で茶化すように目を細めて、口元に微笑を浮かべている彼女だ。未だ、青春の絶頂を過ごしている彼女は悲しいことかな僕と一緒なんだろう。

 そう思うと僕の痩せこけて、まともに言葉を発せられない落ちくぼんだ僕の口元にも彼女と同じような笑みが浮かぶ。僕反応に従って、彼女はクスリと音を立てて笑って見せた。僕はそんな彼女反応が愉快で仕方が無かった。けれど、僕の病んだ精神は僕を笑わせてくれない。僕の自然を何時も台無しにしてきた知らない誰かは、再び僕の頭の中に現れて、僕の頭を掻き交ぜた。少し収まっていた頭痛がとめどなく僕を襲う。また、僕の中で生まれた幸福を、同類を見つけたことのあさましい同情意識から派生する心持ちを滅茶苦茶にし始めた。

 痛い。止めてくれ。どうして、僕を幸福にしてくれやしないんだ? 僕をほんの一瞬でも僕を楽にさせてくれ。

 痛い。痛い。痛い。痛い……。


「ああ、すいません。水をくれませんか?」


「……水は直ぐにとってきます。ですが、その後は病室に戻りましょう。そして、ゆっくり体を休めて下さい。それにもうじきお昼になりますから」


「分かりました。すいません」


 頭の中を釘で撃ちつけられているような激痛を頭に抱えた僕は、これを悟られまいと何とか振り絞って、苛立ている看護師さんに本当は飲みたくなんかない水を頼んだ。無意味な僕の要望に看護師さんは、僕を孤独にさせてくれる安らぎの視線を向けると、すぐさま体裁を取り繕って僕の体調を看破した。そして嘘を吐いた僕のことを嗜めるような言葉を掛けると、僕の無意味な願いを叶えるために微笑む彼女の脇を通って、中庭から出て行った。

 鈍痛の中に身を沈める僕と名前も知らない彼女は、一切の妨げが無く向かい合う。そして、彼女は楽しげに口を開いた。


「来週の今日。もう一回ここに来てよ。私、待ってるから」


「分かった。けれど、僕と君は互いのことを何も知らない。名前も何もかも、それだのに君は良いのかい?」


 僕はもちろん彼女ともう一度会いたいと思う。けれど、何も知らないのは互いに危険だ。

 けれど、どうやら彼女はその危険性を知らない? いや、楽しんでいるみたいだ。彼女はクスクスと笑う。


「それが良いんだよ。それで良いんだよ。でも、流石に互いのことを知らな過ぎるのも良くないね。名前だけは互いに知り合おう。下の名前だけね。私の名前は、深雪みゆき。深い雪って書いて深雪。あなたの名前は?」


「僕の名前は正信まさのぶ。正しいに信じるって書いて正信」


「これで私たちは知り合いだ。互いの傷を舐め合えるだろう知り合いだ」


「ああ、知り合いだ」


 僕らは互いに名前を交換し合った。相変わらず頭の中で知らない誰かは暴れ回って僕の鈍痛を与えて来るけれど、僕はそんな陰鬱な痛みの中でも彼女の名前を知れたことが嬉しい。得も言えない温かみが心に広がってくる。

 いや、待て。この温かみは僕に要らないものだ。僕はこんなものを欲しくは無い。僕が欲しいのは、理解者じゃない。僕が欲しいのは永遠の孤独だ。僕はそれを求めて、荒縄で地獄に向かおうとした。そしてその結果ここに居る。それだのに、どうして僕はこの関係に温かみを感じているんだ? 矛盾だ。僕は僕自身の死を恐れていたのか? いいや、それだけは、それだけは絶対に合っちゃいけないことだ。僕は確かに僕の死を望んでいたし、今も桜の枝に荒縄を掛けたいっていう願望は消えていない。それなのに、どうして僕はこんな満ち足りた気を抱いているんだ? 

 分からない。分かりたくない?

 駄目だ、分からなきゃいけない。それは僕の義務だ。自分の死を悲観視しながら死ぬなんてまっぴらだ。死ぬなら、永遠の安楽を手に入れるためには死を全肯定できるだけの理屈が必要だ。けれど、逃げるために死ぬという生涯の至上命題に対して今目の前で懐疑が生まれた。だから、僕はこれに反駁して、徹底的に貶して、自分自身を納得させなきゃならない。


「瞳が変わった。どうやら、生きる意味を、いや違うか」


「そうだよ。生きる意味じゃない」


 珍しく僕の口は、輪郭のはっきりとした声色で強気な言葉を吐いた。

 そんな僕の言葉を受けた彼女は、優しく微笑む。

 ただ、僕はその微笑みの中に冷たい何かを見出した。鋭く、汚れきった血まみれのナイフのような鈍い刃を彼女の笑みは含んでいた。堕ち行く天使の様な神秘を纏いながら。


「それなら良いんだ。私と一緒に見つけよう」


「……分かったよ」


「あの看護師さんが水を持って来たよ。それじゃあね。また、来週の今日、この時間にここに集合ね」


 冷徹な神秘に臆した僕はたった一言、簡素な言葉しか出なかった。そんな僕の言葉を聞くと彼女はくるりと身を翻して、中庭の入口の方に背を向けた。ブリーチのかかった彼女の髪はふわりと宙に舞った。


「あと、一つだけ忠告。あの看護師さんをあんまり信用しない方が良い。あの人は、ああいう人は、他の人にとっては一番の良薬だけれど、私たちみたいな人にとっては劇薬だから」


 そして、警句を残して遠ざかって行った。それと同時に僕の意識も遠退いて行った。けれど、意識を失うことは無く、その場にへたりと座り込むだけに済んだ。

 彼女の代わりにやってきた看護師さんは、水の入ったガラスコップを持ちながら、中身をこぼさないように駆け寄ってきた。


「病室に戻りましょうか」


「ええ、その前に水を一杯だけ」


 そう言って僕は看護師さんからガラスコップを受け取って、冷たい水を飲んだ。僕の体は水を受け入れた。ずっとむかむかしていた胃も、程よく落ち着いてくれた。それから頭痛もほんの少しだけ収まってくれた。

 飲み終えたコップを看護師さんに手渡すと、僕はほんの少しだけ軽くなった体を自力で立ち上がる。


「病室に帰りましょうか」


「支えは要りませんか?」


「ええ、今は大丈夫です」


「それじゃあ行きましょう」


 そして僕はゆっくりとした歩みで、痛々しい自然から抜け出して、消毒液に塗れた病室へと歩んで行った。

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