死せる魂

 過去との決別の日から三日。僕と深雪さんの絶望の理由を、闇の理由を告げる時が来た。

 僕は朝の日課を普段通り行った。朝食を食べ、朝の運動に出かけた。


「不思議だ」


 ベットに横になりながら、ついさっきの違和感を思い起こす。

 僕らのための運動場は相変わらず辛気臭い雰囲気で満ちていた。鬱々として、けれど看護師さんたちは気丈に振る舞っている様が僕には醜く見えた。

 けれど、僕はそれに対して不快感をあまり覚えなかった。普段であれば、昨日ですら、僕はあの時間を何よりも嫌悪していたのにも関わらず、今日は全く拒絶する気分にはなれなかった。むしろ、僕はその空間において疎外感を感じていた。それまで僕が拒絶していた空間が今度は僕を拒絶していた。

 違う。それは驕りだ。

 あれが本来の世界だったんだ。

 僕はどんな立場になろうとも、他人を拒絶できない。僕が存在に対して否定を示せるのは、僕という人間に限られる。それを今まで僕の親友は、隠してくれていたんだ。認知のベクトルを変えて、僕という存在が傲慢に世界を拒絶しているように見せてくれていたんだ。そして僕に均衡をもたらしてくれていた。


「やっぱり、あいつは僕の親友だったんだ……」


 もう二度と聞こえないあいつの言葉を思い出すと、口からは寂しい言葉が漏れる。無知な僕に、何も見えていなかった驕る僕のために、自分の命を費やしていたあいつは健気だ。

 過去を想いながら上体を起こす。そして、枕元に置いていた読みかけの文庫本を取る。残り十数ページだけれど、読む気はしない。それにこの本はつまらない。でも、この物悲しい気分を収める働きはしてくれると思う。

 そう思いながらも僕の手は動かないし、僕の目も文字を追わない。僕はただ均等に印刷された文字を何を思うわけでも無く、ぼうっと眺めるだけだ。

 無気力に誘われて、視線を窓に移す。久しく痛みを感じない朝の眩しい日差しが、きらきらと差し込んでくる。雲一つない晴天だ。きっと穏やかな春風が世界を回って、芽吹き始める緑の香りを運んでいるんだろう。血に塗れた拷問台とすら思えた自然も、今や僕にとっても自然だ。ありのままに美しい風景は僕の心を和やかにする。

 緩やかに改善される精神は、このまま生き続けるのだろうか? 僕は自然体をいつまでも胸の内で温めて置くことはできるのだろうか? そして、本当にこれは自然なんだろうか?

 分からない。今の僕には何も分からない。

 けれど、胸中が温かいことだけは分かる。荒野に一条の光が差し込み、吹き荒ぶ風は止んだ。そして、僕の行く道は開かれている。十字架を称えた小高い丘は崩れ去り、そこに茨がうねる道が開かれた。一歩でも踏み入れれば、茨は足に絡みついて、僕の裸足を否応なく傷つける。傷口には破傷風が入るだろう。膿んで、壊死するだろう。青々と旺盛に茂った茨は僕の血を吸ってより茂るはずだ。おどろおどろしい道なのにもかかわらず、僕はそこに魅かれてならない。いや、もう僕はその道を歩く他ならないんだ。それ以外の道を僕は、親友を殺して閉ざした。

 ああ、そうか。

 この胸の温もりはあいつの言う通り決して健全なものじゃ無い。これは諦めの境地みたいなものだ。詰めに詰められた地点で、真っ直ぐしか見ることが出来ず、破れかぶれの目標をもった愚者の取り繕いに過ぎない。

 昇華させられた感覚は僕に錯覚をもたらす。そして、不幸の痛みを希望に変換する。依存だ。痛みから発生する快楽物質による依存。それなら、僕はこの不健全なものに身を委ねよう。中毒症状にやられないように、一生この物質を摂取し続けよう。それが出来なくなったとき、四肢が腐れ落ちて、内側から生じる痛みに耐えきれなくなったとき、僕は死のう。

 今日、その審判も下される。最後の審判、善悪二元論の法廷に立って僕の行く末を看取ろう。


「時間を潰そう……」


 どちらに転んでも良いと考える。そして、手に持った残り十数ページの本を読んで時間を潰そう。この本を読み終えて、また次の本に移った時、きっと深雪さんが病院に来る時間になるはずだ。

 その時まで、僕の運命が決まるまで、僕は茨の道を歩き続けよう。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 中庭の桜はすっかり葉桜に変わっていた。新緑の葉は、抜く春風に揺られて心地よいざわめきを奏でる。梢の先には一羽の名前も分からない小さなこげ茶の鳥が休んでいる。きっと、鳥だけでは無く、この木に寄り掛かり休息を貪っている生き物は多く居ると思う。かくいう、僕ら人間もこの木を取り囲むように芝生を敷き、花壇を造り、ベンチを造り、憩いの場を造営した。全ての生き物はこの立派な桜の木に、寄り添える。気を許すことが出来る。

 つい最近まで棘に覆われた歪な老木にしか見えなかった桜の木も、今やどっしりと地に根を張った格調高い木に見える。それに有刺鉄線のオブジェクトだったものに、僕は触れることが出来ている。ごつごつとしてほんのり湿った皮、古びた木の香り、有機物の温もり。人間の精神は不思議だ。それまで痛みと感じ取っていたものを、心の持ちようを変えるだけで心地良いと感じられるようになるんだから。

 右手でしみじみと木を触れていると、僕の右肩は小さく叩かれる。傷物をそれ以上痛ませないように、撫でるように僕の肩は二回叩かれた。こんなことをする人は、一人しか居ない。


「深雪さんですか?」


「当たり。すごいね。顔を見なくても、声を聞かなくても私だって分かるなんて。もしかして、正信は私のことを気に掛けてくれているの?」


「ええ」


 僕の口は随分と素直に動いた。恥ずかしくて死にそうだけれど、僕は深雪さんを前にして嘘を吐けない。そして、僕の正直な言葉を受け取った深雪さんは一瞬息を飲んだ。

 僕の言葉を気味悪がっているんだろうか? 先週まで、悲観に暮れて人生に絶望していた人間が急に芯のある声で答えるなんて確かに不思議なことだ。疑う余地しかない。僕は人の常識が分からない。けれど、人間だったら誰だって急な変身を遂げ者を疑うだろう。気味悪がるだろう。

 深雪さんの本心が怖くて、僕は後ろを振り向くことが出来ない。首は凍えたように固まる。なのにもかかわらず、内面では恥ずかしさによる熱が発生する。自分でも耳が赤くなっているのが分かる。


「大丈夫だよ。私は正信のことを気味悪がらないよ」


「……恥ずかしいですね。年下の女性にそんなことを言わせるなんて」


「今に始まったことじゃないよ」


「そうですか」


 恥ずかしがりながら好意の反転に恐怖する僕の心を知ってか知らずか、深雪さんは淡白でありながら人肌の温もりが籠った声を僕に掛けてくれた。ほんのり惨めな気分に落ち込みながらも、僕は凍えた首を動かす。

 すると、僕の肉付きの悪い頬にほっそりとした美しい指が当たる。深雪さんは自分の悪戯が成功したことを知ると、子供らしい笑みを浮かべる。僕もついつい微笑してしまう。


「やっとこっち向いた。待ちくたびれたよ」


「待ちくたびれるほど時間は経ってませんよ。ほんの瞬間が過ぎただけです」


「その瞬間でも私にとっては長いの」


「我が儘ですね」


「生き急いでるんだよ。嫌なことを考えたくないから、いそいそと動かなきゃいけないんだ。正信もそうでしょ?」


 首を傾げながら深雪さんは、その無垢な顔に似合わない言葉を平然と紡いだ。この人もやっぱり人生に絶望しているんだ。延々と続く人生が徐々に徐々下降していき、歩めど歩めど暗がりしか続かない人生に絶望しているんだ。上がることの出来ない真っ黒な奈落への坂しか残されていないことに、悲観しているんだ。

 希望の光が差し込まない底なしの穴を、深雪さんは走る様に歩んで行く。けれど、それも今日で終わりだ。いや、終わりになるかどうかは僕には分からない。だけど、少なくとも、手を差し伸べることくらいは出来るはずだ。この弱々しい手で、一方を塞がれた道の反対側を開けるかもしれない。不健全な道に誘えるかもしれない。そうすれば、僕も深雪さんも一緒に歩める。一蓮托生の仲を紡ぎだせるはずだ。


「いいえ。僕は自殺に対する猜疑を晴らすことが出来ました。そして、自分の歩むべき道を見出せました」


 共倒れの仲を予期していた深雪さんは、目を見開いて僕の言葉に驚いた。深雪さんの口からは、驚愕の吐息が漏れている。


「生きるの?」


 そして、震える声で深雪さんは小さな声で、震える瞳で僕に訴えかけてきた。


「条件付きです。僕が生きるか生きまいかは、深雪さんによります」


「私による?」


「そうです。僕の命は深雪さんに掛かっているんです」


 僕がそういうと深雪さんは妖しい笑みを浮かべる。それまで纏っていた清純な雰囲気は堕ちる。僕の体はそれを認めると同時に、ぶるりと粟立つ。

 これはあの人だ。深雪さんじゃない。僕の親友と同じ奴が、深雪さんの意識の主導権を握った。あいつの言った通り、深雪さんは月の光に照らされている。頭上で麗らかに輝く太陽に下でも、現象としてありえない月が発する光に彼女は照らされているんだ。

 だけど、僕は彼女に立ち向かわなければいけない。僕の歩む道はこの人に掛かっていると言っても過言では無い。狂気に犯されて、正気の主導権を奪われた深雪さんと僕が生きてゆくには、僕の親友と同類のこいつを何とかしなければいけないんだ。


「そっか。ということはあなた、私の暗号も解けたんだ」


「ええ」


「けど、あんまり変なことを考えない方が良いよ。私はこの子のためにあるんだからね」


 彼女はそういうと両手を胸の前にあてがうと、何やら脅迫めいた文言を吐いた。およそ、深雪さんの人格を人質にとっているんだ。二度と深雪さんの人格を発現させないことで、僕に脅しているんだ。もしくは、僕の前で深雪さんの人格を発現させないという限定的なものかもしれない。

 生存から言わせると、そんなことが実際に成された暁には僕の命はそこで途絶える。それもまた運命だとは思う。だけど、反抗せずに大人しくそれに従おうとは思わない。こちらにも、妖しい彼女を脅すだけの策はあるんだ。


「知ってますよ。かつて、僕の中にも貴女と同じ忌まわしい奴が居ました。そして、そいつも僕を生かすために存在していました」


「過去形?」


「ええ、僕は自分の手でそいつを殺しました。唯一親友と言える人格を僕は、自らの手で、毒を盛って殺しました」


 自分と同等の存在が殺されたことを聞くと、彼女は美しい顔を渋く顔をしかめた。


「それじゃあ、どうしてあなたは生きているの?」


「僕がそいつの提示した道以外の道を歩むからです。そいつは僕の生存本能の亡骸に魂を持って生きていました。僕はその亡骸を毒で犯したんです。もはや、僕の中にある生存に対する欲求は僕の独力で叶わないものとなりました。僕の手から離れて、ある存在に依存しなければ生きてゆくことの出来ないものに変貌したんです。だから、僕が生きるか死ぬかは、深雪さんに掛かっているんですよ。そして、人格である貴女にも」


「空っぽなんだね」


「呆れられても困ります。僕は初めから空っぽなんです。ただ、貴女と出会ったその時には傲慢さや、自分の将来に対する義務の残骸、無数の猜疑で満たされていただけなんです。がらくたで僕は満たされていたんですよ」


「そこまで来ると清々しいよ」


「ありがとうございます」


「褒めてないんだけどね。ただ、あなたの言いたいことはよく分かる。そしてあなたがやりたいことも。けれど、それは不健全。この子にとっても、あなたにとっても。どちらか一方が居なくなったら、その両方が死ななければいけない道連れの関係なんて醜い。そんなのを叶えるくらいなら、私とこの子が両立して生きた方がずっと良いよ」


 嘘かも本音かもわからない言葉を含みのある微笑を浮かべながら、彼女は紡ぐ。確かに彼女の言うことには一理ある。死を前提とした関係を結ぶくらいならば、これまで通りの適当な関係を続けていた方が良い。そちらの方が健全だ。

 だけれど、それでは誰も救われない。僕も深雪さんも、この世に絶望して生きる道をただ一方向にしか見れなくなった僕らの人生は、ずっと深い闇の中に落ちてゆくばかりだ。これ以上ない深淵に飲み込まれながら、僕らは自分の人生に絶望して、この世を恨みながら死んでゆくことしかできなくなってしまう。これは悲劇だ。

 二つに一つを選んだところで、僕と深雪さんの生涯は悲劇に終わる。それなら、最も良い悲劇を選んだ方が良い。後腐れなく、一切の後悔が残らない清々しい閉幕を迎えるがずっと幸福だ。

 幸せを追求することこそが人生なら僕はその道に、後も先も無い人を導こう。傲慢だ、独善だと罵られることは分かりきっている。僕が人の人生に観賞できる権限を持っていないことも知っている。いや、それすらも僕の知ったかぶりなのかもしれない。僕はあいつが居た時から一切成長していないのかもしれない。

 僕は分からない。一寸先すら見通せず、何もかもが不安定な歩みになっている。

 駄目だ。

 これじゃあ、まるで駄目だ。

 僕は白黒はっきり、自信を持ってつけなければいけないんだ。中途半端な妥協点を見いだして、そこに着地してはいけない。現実という常識に立ち向かって、僕と深雪さんだけの世界を上書きしなければいけない。それが出来なければ、僕は死だ。生きる価値は無い。

 そうだ、僕は生きたいんだ。深雪さんと一緒に爛れた関係を紡ぎたいんだ。例え、それが世界にとって非常識で不健全なことであっても、僕は歪な情態を僕は望みたい。


「ええ、貴女の言う通りです。だけど、僕は貴女の言う通りになりなくない。この世界に囚われたくないことも確かです。だから、僕は貴女の存在を否定する。そして、分裂して生きることを否定する。僕は貴女が欲しい訳じゃない。僕は深雪さんが欲しいんだ。僕は深雪さんと共に生きたいんだ」


「まるで告白」


「告白そのものですよ」


「そう。あなたが自分の発言を全面的に認めるなんて不思議だね」


「僕自身も疑問に思ってますよ。人間関係に絶望して首を括った人間が、それを求めて再び手を伸ばしていることが不思議で仕方が無いです」


 自嘲を込めて、僕はクスッと笑う。


「でも、この子は愛を欲していないよ」


「知ってますよ。そして、それが貴女の正体だっていうことも。貴女は人を遠ざけるために、深雪さんにとって最も辛い感情である愛を遮断するための存在だ」


「そこまで分かってるんだ。それなら、なおさらこの子に干渉しない方が良いよ。私たちは私たちで生きていけるんだから。この上ない地獄を危うい足取りで、何とか歩けているんだから、それを妨げる突風を与えるのは愚策としか思えないよ」


「貴女にとっては愚策と思えるでしょう。ですが、僕からすればこれは現状取れる最も良い判断です。このまま心身とも傷付きながら、切り立った崖の縁を歩む必要がなくなるんです。人間、誰しも落ちてみないとそこに何があるか分からないものです」


「そこが見えていたとしても?」


「ええ、材質は誰にも分かりません。頑丈な岩石かと思ったら藻の塊だっていうこともあり得ます。所詮、僕らは荒れ狂う海の底を考えることが出来ないんですよ」


「確かに私たちは外見に囚われてるね」


 彼女は顎先に指を当てながら、空を見上げた。

 蒼穹が僕らを包み込むようにして、どっしりと世界を爽やかに覆っている。僕らの間の殺伐とした雰囲気とは真逆だ。

 ただ、彼女はそんな雰囲気を感じ得ていないんだろう。顎先に当てた指を僕に指しながら、確信めいた笑みを浮かべる。


「でも、そっか、確かあなたは違うんだよね」


「僕は違います。僕は表層上のことに囚われていません。それが僕をこうさせた要因でもあり、今僕が貴女に振るうことの出来る唯一の武器です。陰惨な過去で鍛えられた武器です。これのおかげで僕は誰しもが抱える煌めく黄金を色眼鏡無しに見ることが出来ます。深雪さんの目と同じです。深雪さんの目も、僕の目も特別なんですよ」


「その特別な目が、私たちの歩みを危険な道から安全な道に換えてくれるの?」


「安全な道ではありません。むしろ、深雪さんにとってよっぽど危険な道です」


「矛盾だよ」


「矛盾です。ですが、そちらの道の方が今よりはずっと楽です」


 はにかみながら、優しい声色で彼女に語りかける。僕の言葉に彼女は懐疑的だ。いや、彼女でなくてもこんな話を二転三転させるような奴の言葉は、誰もが信じられない。詐欺師の口上にしか感じられないはずだ。

 下手くそな言い回しと美しくない文言は、深雪さんの意識を支配する彼女の感情を揺さぶる。だから、彼女の眉間には醜悪な皺が作られる。深雪さんの顔によく似合わない。けれど、自ら悪女の役を買って出る彼女の顔には良く似合っている。

 ここまで来たら、あと、もう少しだ。もう少しで、僕は彼女を殺せる。深雪さんを覆う一枚の人格を破壊することが出来る。それによって深雪さんが幸福になるか不幸になるかは、分からない。だけど、彼女が死ぬということは深雪さんがその人格を不要だとしたことだ。つまり、自分の意志から彼女を手放すということだ。

 ならば、そう差し向けよう。僕が見つけた理由を話そう。僕が深雪さんの中で煌めく黄金から見出した光を話そう。それこそが、彼女を殺す唯一の刃だ。


「ずっと楽? そんなことは無い。まだ、私たちの歩いている道の方が良いはず。だって、そこは後に引き返さなくて良いんだから。真っ直ぐと前を向くだけで良いんだ。いつか晴れるかもわからない未来だけ見ていれば良いんだよ」


 彼女は、自分と深雪さんが二人三脚で歩いてきた道を正当化しようと口早に、ありもしない希望を紡ぐ。彼女の言葉だけ受け取れば、表面上だけそれを見ればこの空と同じ、あの太陽と同じ清々しい澄んだ輝きを持っているだろう。

 だけれど、それは体裁だ。中身が伴わない先行く陰でしかない。実際は真逆だ。だから、真実を伝えよう。彼女は知っていながら、深雪さんに伝えていなかったことを伝えよう。


「未来は晴れません。それは保証できます」


「どうして?」


 苛立つ低い声色で、端的な疑問を彼女は紡いだ。

 これで最後だ。


「貴女も知っているでしょう。深雪さんは自分で愛を与えられないんです。例え、今後生涯を掛けて何らかの影響を被って、愛を与えられる想ってみても、それは全て詭弁になります。見せかけのまやかしです。自己錯覚でしかありません。深雪さんは汚された肉体で関係を築くことも、汚された肉体から人を産むことも、汚された肉体から育ちゆく人も、それら全てに嫌悪を抱くことになるんですから」


「……」


 彼女は黙る。

 桜の木の梢は吹き込む温風に揺られて、力強い新緑の葉を揺らして、音を鳴らす。


「深雪さんはそれら全ての関係と経験に、自分の忌まわしい過去を思い起こすはずです。取り返しのつかない純白を肉親に汚されたことが、それらを築いていく中で何度も何度もリフレインされて、全てを疑い、そして全てを嫌悪することになります。自分を起因とする何もかもが、自身の過去に犯されて耐え難い悪臭を放つんです。そのような未来しか深雪さんには残されていません。深い深い傷を負って、膿んで、壊死した心は二度と戻りません。全部が傷ついたまま残されるんです。そして、その後遺症は自分の未来永劫に掛けて延々と残り続けます。何時か晴れることは決してありません。何時如何なる場合でも、深雪さんを神経痛染みた過去は襲ってきます」


「良く分かってるね」


 呆れたように彼女はうらぶれた微笑を浮かべる。

 駄目だ。貴女が最後に浮かべて良い表情は、それじゃない。貴女は自分の体を張って深雪さんを守り切って来たんだ。醜い現実から深雪さんが自分の生きる術を見出すその時まで、守ろうとしてきたんだ。

 これは僕の独善に過ぎない。僕が殺して、僕が一個人の最後を決め付ける醜い願いでしかない。だけど、それでも、誇り高い貴女の最後がそんな表情だなんていうのは許せない。


「そうですね。けれど、これが解けたのは貴女のおかげです。貴女は僕に貴方自身の引導を渡してくれたんです」


「まあね。私もあなたなら、この子を支えられると思ったからね。この子の痛みに、この子の抉られた心を癒せるのは、美しいこの子の汚れた部分を色眼鏡に邪魔されることなく、見ることの出来るあなただけだと思ったから。けど、結果はこの様。私は殺されるし、この子の未来は茨の道。この子の安寧のために産まれてきた私は、自分の仕事を最後の最後で間違えちゃった」


「間違いではありません。貴女は二つに一つの結末を自分で選んだまでに過ぎない。そして、その結末はどちらとも狂っているんです。平たく言えば、貴女がどちらの結末を選ぼうとも貴女は自分の存在意義を否定する他なかったんです。ですから、貴女の仕事に間違いはありません。元より間違っていたんですから」


「そんな二つの道しか残されていないことに気が付かないで、愚かにも仕事をした気になっていたなんて馬鹿だね。嫌気が差すよ」


「いいえ、貴女は自分の仕事が無意味だということに気付いていました。それは無意識化であったかもしれませんが、貴女は確実に自分の仕事がどちらに転ぼうとも深雪さんの人生がまともな方向に向くことが無いと分かっていました。それでも、貴女は自分の仕事を全うしようとしたんです」


 自嘲気味に言葉を吐き捨ていた彼女は、僕の言葉の影響により、自分の中で根付いていた固定観念が白紙化され、それによる認識の変化に呆然とした表情を浮かべる。辛気臭さは消え去り、そこには新たに産まれた認識が植え付けられている。

 過去を改めた彼女は、ほどなくして平生の悪女に戻った。含みのある笑み、深雪さんに似合わない陰湿な雰囲気、こちらの根底を震わせる潜在的な恐怖を彼女は再度身に付けた。

 良く似合っている。深雪さんの体には、高邁な態度は不格好で似合わない。けれど、彼女にはそれが一番似合う。そして、その姿こそが彼女の死装束だ。自らを悪女とし、その存在を現実に投影してきた人間は最後まで悪女でなければいけない。自分の誇りを捨てることなく、最後の最後まで穢土に足を着いて、逝かなければいけない。安らかな表情、自嘲する表情なんていうのは、それまでの人生の全てを台無しにする演出でしかない。そんなものは不要だ。むき出しの演技こそが、彼女の最後だ。

 人生史上最高の演技を見せつける彼女は、僕に自身に溢れた笑みを向ける。挑戦的で、絶対的な自身に溢れている。気高い彼女だ。


「そうだよ。私は自分の仕事を全うしようとした。それはこの子を守るため。自分の腕に力が無くとも、私はこの子のために生きようとした。そして、人の精神が一時的な防衛機能として生み出した存在でしかないのにもかかわらず、光り輝く穢土を欲して生きようとした」


「ええ、貴女は人になり損ねたんです。けれど、その歩みは気高かったはずです。僕はたったの一度しか貴女と会っていません。ですから、貴女が産まれて、今まで生きてきた道程を僕は知りません。だけど、貴女はきっと優雅に生きてきたはずです」


「ふふ、あなたからそう言われるならきっとそうなんだ。でも、その役割も今日で終わり。私の代わりにこの子を守れる? いや、この子と共に道を歩める唯一の人が私の目の前に現れたからね。私の存在を否定する人が現れたからね。だから、そんなあなたに全てを任せるよ。この子も、私の歩みも全部」


 彼女は僕の頬にひんやりとした手を当てながら、微笑を浮かべる。僕に殺される人なのにもかかわらず、僕を恨む調子は一切無い。真っ新な感情で、淀みのない瞳で僕を見つめてくる。僕もそれを習って純粋に微笑みかける。

 彼女は死ぬ。

 僕が殺す。

 そして、彼女は倒れる。

 僕がそれを食べる。

 なら、僕は三つの魂を持って茨の道を歩こう。


「貰い受けるよ。貴女の全てを。そして、貴女が守りたかった深雪さんの真っ黒な運命を。それら全てを僕は背負おう。重荷に脚を砕かれようと、僕は茨の道を真っ直ぐと進もう」


「ええ、お願いね」


 端的な言葉を最後に、彼女は満面の笑みを浮かべた。けれど、その笑みは決して人懐っこいものでは無い。獅子の微笑と同じ、強く気高い存在が、自分の気を許した者にだけ見せる表情だ強者の面持ちだ。

 もう、僕はそれに臆することは無い。僕は彼女の笑みを、彼女の人生最後の表情として捉えられる。彼女の遺影は僕の目の前に現れている。


「さようなら」


「ばいばい」


 クスッと笑って、彼女は僕の刃に倒れる。

 ふっと、彼女の刈り取られた魂は僕の中に入り込む。

 僕は彼女を受容する。これまで深雪さんを守り通してきた防人は、僕を拒絶することなく浸透してくる。他人の魂は温い。

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