真実

 一つの人格を殺され、食べられた深雪さんは、僕の頬にあてがっていた手を胸に当てながら、もの悲しく感傷的な表情を浮かべて、僕から視線を逸らす。溌剌な深雪さんは陰を潜めている。

 ぽっかりと埋まることの無い穴を抱いた深雪さんは、空虚な胸の内にしばし味わうと再び僕を見つめる。


「殺しちゃったんだ」


 淡白な声色で深雪さんは、分かりきったことを僕に尋ねる。


「ええ、殺しました。僕の手で殺しました。僕が殺しました」


「随分とあっさりしてるね」


「もう、僕は罪を購うことはできませんからね。僕の道は真っ当な道から逸れました。もはや、受難の道を行くことしかできないんです。そして、これは深雪さんも同じです」


「うん、知ってる」


 深雪さんの無機質で空っぽの表情は、短い返答とスタッカートの利いた笑みで崩される。深雪さんの表情に抱える闇の影は見えない。純粋無垢な表情だ。

 だけれど、深雪さんの持つ闇が根本的に消えた訳では無い。未だに深雪さんの中で、過去の汚辱は輝かしい未来を求める精神を蝕み続けている。でも、深雪さんはその痛みを感じさせない笑みを浮かべている。健気で美しい。

 僕は屈託のない笑みを浮かべる深雪さんの手を、恥ずかしげも無く取る。キザっぽくて仕方が無いことだ。だけれど、僕がここから先を生きるためには、こういうことをしなければいけない。それから、僕は輝く深雪さんの双眸を見つめる。言葉に出さずとも、僕の言いたいことを伝えるために、同じ言葉を繰り返さないために、深雪さんの目で僕が見つけた僕の闇の本質を見てもらうために。


「震えなくて良いんだよ。私と正信は、対外違いの凹凸なんだから」


 深雪さんは胸に置いた手を再び僕の頬に添えると、恍惚とした表情を浮かべる。


「私は愛を与えることを望みながら、それが出来ないってことに気付いて絶望した。正信は無償を愛を望みながら、それがもう自分に与えられってことに気付いて絶望した。奇跡だね。私と正信はそれぞれを補い合える関係にあるんだから。けど、どっちか一方が消えてなくなったらそれは容易に壊れちゃう。当てはまる型が無くなって、不安定な個人に逆戻りしたら、きっと私たちは過去の安らぎを求めて消えることになる。お互いがお互いの手を取り合っていない限り、私たちは砕け散る運命だね」


「ええ、そういう運命です。けれど、僕らはそうでもしなければ生きてはいけません。そうしなければ、僕らに待ち受けるのは孤独で惨めな死だけです」


「うん、そうだね。私たちはそういう運命に囚われているんだ。だから、それを私は受け入れるよ」


「うっ!」


 大人びた表情から急に子供らしい無邪気な表情になると、深雪さんは僕の胸に飛び込んできた。入院してから少し肉が着いたとはいえ、僕の体は世間一般から見れば痩せ細っているし、体力も軟弱だ。それだから、僕は深雪さんを抱きとめることが出来ずに、後ろに倒れてしまう。

 手に乾燥した芝生のざらざらとした感触と土の湿った感触が同時に伝わって、くすぐったい。それに僕の胸に体を預ける深雪さんが重い。


「それは女の子に思っちゃ駄目だよ」


 僕の心が見え透ける深雪さんは僕の失礼な考えに、鋭い視線を向ける。


「失礼しました」


「分かってくれるならそれで良いよ」


「ありがとうございます。それと恥ずかしいので、退いてくれませんか?」


「嫌だよ」


 すっかり二人の世界に囚われていた僕だった。そんな認識を深雪さんが与えてくれた衝撃は、打ち砕いた。そのおかげで、僕らが今どうやって他人から見られているのか理解した。

 僕らはすっかり中庭で憩う人たちから注目されている。例え、僕らに視線を向けて居なくても体の集中は僕に向いている。僕はその現実が恥ずかしくて仕方が無い。

 でも、深雪さんはそうじゃないみたいだ。悪戯っ子の笑みを浮かべながら、僕の肋骨が見える無い等しい胸板に額を擦りつけながら、籠る笑い声を漏らす。猫みたいで可愛らしい。けれど、やっぱり恥ずかしい。

 だけど、そんな恥を忍んで僕は深雪さんの好意を受け取ろう。真っ黒く彩られた未来であろうとも、僕はこの瞬間を楽しもう。未来も過去も公開の対象にしない。僕は今を、このたった一瞬間だけの記憶で生きよう。


「あっ、そうだ。こういうこともしないとね」


 深雪さんは顔を上げると、舐めずりながら僕を見下ろす。


「何をするんですか?」


「受け止めてくれればそれで良いよ」


「ちょっ」


 僕の戸惑いに答えることなく、深雪さんは瞼を閉じると、僕の胸板に手を置いて、僕の乾いた唇に瑞々しく艶やかな唇そっとつける。

 柔らかくて、温かい……。

 全身が燃えるほど暑くなるのが良く分かる。きっと僕の顔は真っ赤だ。恥ずかしい。けれど、それは深雪さんも同じだ。こんなことをしても、深雪さんは女子高校生だ。年相応の恥じらいを見せる。耳が真っ赤で、頬も赤い。

 初心な少女は可愛らしい。


「ふふ、突き放すと思ったよ」


「一人の愛する女性の勇気を拒絶するほど僕は腐ってませんよ」


「そっか。そうだね」


 照れながら出来損ないの余裕を浮かべる深雪さんは、僕の飾らない声に打ち砕かれた。僕に赤い顔を見せたくないのか、深雪さんは僕から離れて立ち上がると、桜の木を見上げる。

 さらりと春風が中庭に吹き込む。内面から熱された僕の体を心地よく風は冷却してくれる。そして、僕は葉桜がざわめくのと同時に立ち上がる。


「これで……、うん、これで良いんだ」


「深雪さん?」


「うんうん、何でも無いよ」


 桜の木陰に立つ深雪さんは、耳を真っ赤に染めながら何かを呟いた。僕はなぜか深雪さんの口から紡がれた言葉の体裁を装った何かが、酷く気になった。

 けれど、身を翻して、無垢な表情を浮かべる深雪さんの表情を見るとそんな疑問は無くなった。深雪さんは下唇に人差し指をあてがいながら、僕を見つめてくる。


「それにしても随分と早く私たちはお互いの理由を見つけられたね」


「ええ、色んな人が協力してくれたお陰です」


「弟さんとか?」


「真斗もそうですし、看護師さんもそうです。そして、今の僕を形成した家もです」


「背中を向け続けていた現実を見たんだね。けど、その結果も結局は現実逃避に過ぎなかったなんていうのは皮肉だね」


「皮肉でも良いんですよ。貴い愛を紡げたんですから」


「そっか」


「そうです」


 素っ気ない返答を最後に僕らの間には沈黙が満たされる。だけど、それが不快だということは無い。むしろ、何か適当な会話で、お互いに適当に時間を費やすよりはよっぽど良い。安らかな沈黙が僕らの関係に一番適切なんだ。

 ただ、その沈黙が長く続くことは無い。


「それじゃあ、私はそろそろ時間だから行くね」


 深雪さんは別れの挨拶で、沈黙を壊した。

 名残惜しいけれど、深雪さんにも深雪さんなりの都合がある。だから、こうして別れるのも仕方が無い。もう少し一緒に居たいけれど、折り合いがつかないことなんだ。そう思っても、やっぱり寂しい。

 表情の浮かぶ寂しさを隠すために僕は、つま先に視線を集める。強がりだ。僕の中でまだ死んでいなかった男としての意地が、僕を意固地にさせる。

 ただ、そんな僕の頭はふわりと包み込まれる。自然な柔らかさとありのままの甘い香り、人肌の温もりが僕の頭を包み込む。そして、僕の凝り固まった意地を緩やかに解いてくれる。そして、深雪さんは僕の耳元で生温かい吐息を漏らす。


「大丈夫だよ。私は正信を傍からいなくならないから。例え、私の肉体が朽ちようともね」


「それはどういう?」


「マルガレーテと一緒だよ」


 耳元でささやかれる艶っぽい言葉に、僕は戦慄を覚えた。


「……駄目です」


「けれど、最後は迎えに来るよ」


「それは駄目です。生きるんです」


 僕の言葉に深雪さんはクスクスと耳元で笑う。僕は自分の言葉に嘘を吐いていない。真っ直ぐと自分の言いたいことを紡いだ。それは僕の願いであるし、僕らの歩く道の前提だ。

 だけど、深雪さんはそれを笑った。いや、こんなのは考え過ぎだ。あさましい人間の行き過ぎた誇大妄想に過ぎない。

 ただ、そう思っても僕の不安は消えない。


「うん、生きるよ」


「生きて下さい」


「だから、生きるよ」


「お願いしますよ」


 念を押すように僕は耳元でささやく深雪さんに、生きることを頼み込んだ。深雪さんは相変わらず軽い笑い声を浮かべながら、僕の言葉を受け入れてくれた。そして、僕の頭を抱える腕にさらに力を加える。深雪さんの胸の柔らかさがより伝わってくる。


「明日もまたここに来てよ。渡したいものがあるんだ」


「分かりました。明日もまたここで待ちます」


「そう来なきゃね」


 深雪さんは僕の頭を解放すると、今度は僕の両頬に手を当てた。そして、無理やり僕と視線を合わせて、屈託のない笑みを浮かべる。僕はどうしてか、深雪さんの愛らしい表情を見ても何も言えない。

 さっきまで抱いていた楽しくて、浮かれる心持ちは真っ新に消えて、漠然とした不安だけが込み上げてくる。

 ただそんな不安げな僕の頬に、僕を落ち着かせるために深雪さんは鳥の羽が当たるような軽いキスをしてくる。ほんの一瞬、柔らかさと温かさが僕に伝わる。同時に深雪さんの何かが、いや、深雪さんの全生涯の記憶の断片が僕に伝わってきたような気がした。

 僕の不安は溢れかける。それに応じた声を僕は発そうとする。けれど、深雪さんは僕の唇に人差し指を当てて、僕の声を塞ぎこむ。艶っぽい笑みが僕の不安をよりかきたてる。


「じゃあね。明日、絶対に来てよ。来なきゃ恨むから。バイバイ!」


 僕の言葉を封じ込めた深雪さんは、それまでと打って変わって溌剌とした表情と声音で別れの挨拶を切り出した。そして、僕の傍を駆けて行った。


「さようなら……」


 去り行く深雪さんに漠然とした不安を抱きながら、僕はただ一人、他人から注目を浴びて取り残される。蒼穹には真っ白だけれど重厚な印象を抱かせる雲が、春風に誘われてゆらゆらと漂っている。

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