決別

 あの日から僕の日常はがらりと変わった。

 という訳でも無かった。

 ただ、僕を突き刺してきた自然の痛みが除かれて、ここ数年の間で一番生きやすかったというだけだ。僕の精神を支配していた重い暗闇は、晴れ渡った。

 暗雲立ち込める、荒廃する野に僕は道標を見つけた。そして、吹きすさぶ風の中に僕は小高い丘を見出した。僕はその坂を上り、丘の上に打ち付けられた十字架を見た。十字架には誰も磔らていなかったけれど、確かに人の面影があった。茨の冠を戴いた僕と深雪さんの中間を象徴する陰影が、乾燥した十字架に写されていた。僕と深雪さんの灰色の残像がそこにあった。

 僕はその残像に手を伸ばして、僕らが求めたものを僅かにでも手に入れた。いや、僅かでは無い。僕らが持つ暗闇の理由は、ただその灰の中にあったんだ。僕らがこの世を厭悪していた理由はそうした残骸に宿らない下らないものでしかなかったんだ。手に残ったほんの僅かな感触が、僕らの正体だったんだ。

 とはいえ、僕がそれを掴んでも、深雪さんにこれを伝えることは出来ない。僕と深雪さんが会えるのは、一週間の内、一回だけだ。そして、僕がこれを伝えた時、僕らの関係は終えると思う。そして、もう一度新しい関係性が紡がれると思う。それは世間体から見ればあまりにも、醜く、触れづらく、耐え難い関係だ。

 でも、僕と深雪さんにとってその関係が無いと駄目なんだ。ただし、この関係があれば、僕らは生きることが出来る。汚れきって、辛い世の中を生きることが出来ると思う。真斗の望みは叶えられるし、両親の体裁も傷付けなくて済む。僕はある種の救済を享受することが出来るんだ。

 ただし、そのためにはまずしなければならないことがある。僕が深雪さんと会う前に、僕はその前に、自分の過去と向き合わなければいけない。そうしなければ、僕は救済を得ることは出来ない。僕は過去に向き合って、本当に自分がそれに絶望していたのかを確かめなければいけない。最終確認をしなければならない。もしも、もしもそれが違ったら僕が見出した小高い丘は、他の誰かのものだ。僕らの灰もただの砂塵に過ぎない。


「そろそろ、やらないとだ」


 あの日から四日後、僕は午後の麗らかな光に当てられて、昼寝を貪っている。午後三時の空気感は誰もを眠くさせ、全ての者たちがゆったりとした心持ちとなる。僕も例外なくそうだ。柔らかく、清潔なベットの上で、四日前、真斗に啖呵を切ったことを思い悩んでいた。

 僕の嘘は僕に重くのしかかっている。自分で吐いた言葉の対価を僕は、今払わなければいけない。今日でなければ駄目だ。これ以上、日を置いた所で僕の覚悟は倦怠を帯びて、使い物にならなくなってしまう。与えられた猶予に、縋って、期限を延ばそうと考えてはいけない。そう考えてみたところで僕のやさぐれだ性根は、甘い汁を求めて堕落に根を張るのだから。

 既に堕ちきった人間は、濁った目で天井を眺める。真っ白な天井を眺めても、何も変わらないことを知っておきながら、無意味な時間潰しをし続ける。笑い話にも何にもならない愚行を僕はし続ける。


「駄目だ。僕は後悔の無いようにと決めたんだ」

 

 堕落に身を任せながら、深呼吸をする。消毒液と真新しい布の匂いが肺に満たされる。そして、死んだ空気が鼻と口から放出される。覚悟も、呼吸の阿吽に従って打ちつけられる。

 僕がこの柔らかなベットから抜け出る時が来た。

 動悸がする。

 無性に胸の辺りが痛む。

 口が乾く。

 目にはチカチカとここ数日写っていなかった赤い斑点が見え、汚濁も視界の端々に見えるようになった。それに従って、頭を直接殴られるような頭痛が襲う。でも、少なからず僕はこれに慣れてきた。禁断症状は、僕の中で常識へと昇華とされていた。

 吐き気を覚える鈍痛に悩まされながらも、僕は覚悟を決めてベットから起き上がる。胃から込み上げてくる酸性の液が、喉元まで達そうと道中を焼き尽くす。不快な酸の臭気が口に達して、より具合の悪さは増して行く。

 ただ、僕はやらなければいけない。僕が丘の上で見つけた僕らの陰影が写る十字架と、残された灰塵らが僕らの絶望の本質であることを証明するためにはやらなければいけない。

 のっそりと少しだけ肉付いた体を無理矢理立たせて、病室のキャビネットの引き出しから真斗から貰った五枚の十円玉を取り出す。俗世の金属の手触りは、僕を不快にさせる。

 けれど、僕は泣き言を言える立場では無い。僕は自分の吐いた嘘の対価を払わなければいけない義務を背負っているのだから。

 全身に感じる重積の重みに耐えながら、ゆっくりと足を動かす。あの日から今日まで、まともに歩けていたのに、今日になった途端この始末だ。また、何も分からなかった初日に逆戻りだ。

 ただ、僕には痛みと吐き気に対する抗体を持っている。それだけは初日と違う。僕は人の肩を借りて歩く必要は無いんだ。僕は自分一人の脚で歩くことが出来る。

 けれど、僕の脚は勇敢を装いながらも震える。やっぱり、僕はどこまで言っても臆病者だ。そして、贋作の癖に贋作を愛せない異常者だ。自分で自分を否定して、他人からも否定されていると思い込む精神病みだ。でも、僕はそれで良い。臆病な嘘吐きで良い。だから、この背反する自己を引っ提げながら、自分と向き合おう。僕と深雪さんの闇の理由を求めよう。

 生まれたての小鹿のように震える脚に、僕は精神に鞭を打って奮い立たせる。無理やり奮わせた脚の限界は何となく察することが出来た。そして、もう二度と自分に鞭を打つことが出来ないということも分かった。この一回きりの好機を僕は無駄にしない。今、ここで、僕は自分の過去の清算をしよう。


「行こう。何を心で言ったところで無駄だ」


 不格好な即席の勇気に後押しされて、僕は病室から出る。

 病棟の廊下は心地のいい午後の日差しで満たされている。時間も穏やかで、病棟内を満たす僕の嫌悪する雰囲気も落ち着いて見える。悪意は無く、善意だけが満たされた空間のようにも感じられる。そんな和やかな白く温い通路を僕は壁に設置された手すりに体を預けながら、ゆっくりと歩く。目指すはフロントだ。

 ああ、今日はエレベーターを使おう。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 フロントの空気は温かかった。無数のガラス窓から差し込んでくる柔らかい日光は、かなりの人数が待つフロントを照らす。心なしか、普段よりもこの病院に通う患者さんたちの顔色も良いように見える。苦しむ表情も無く、緩やかな会話の弾ませて、幾人もの診察を待つ人たちは青いベンチに座って、自分の診察番号が液晶画面に映し出されるのを待っている。

 病院とは思えない空気感に意外性を抱きながら、僕は中庭に面した横の通路に向かう。病院の構造上、陽があまり差さず、薄暗い通路には公衆電話がある。僕が僕自身と向き合うための装置がある。仰々しい言い方なんかする必要は無い緑色の公衆電話だ。

 でも、今の僕にそれはギロチンのように見える。絞首台のように見える。電気椅子のようにも見える。装置を目の前にすると、背けたい現実の目の前に立つと尻すぼんでしまう。けれど、僕はそのためにここに来たんだ。過去の自分を殺すために。新しい自分を創造するために。もしくは、それら全てを焼き尽くすために。

 僕はそのために、緑の受話器を取らなければいけない。これを取って今の僕を造り出す遠因となったあの家に、僕の本音をぶつけなければいけない。長城の戦いから逃げ出した僕が、戦場でやり残した残滓を僕は拭い去らなければいけない。

 義務を徹するために僕は、いざ、受話器を手に取ろうとする。緊張で手が震えるし、冷や汗もかきはじめる。膝もガクガクと震えるし、奥歯もカチカチと鳴る。傍から見たら、僕は怯える人だ。それも何もない所で、電話を目の前にして震える人だ。

 滑稽だろうか?

 恐怖だろうか?

 笑い話か?

 怪談か? 

 きっと、それ全部が今の僕だ。傍から見れば滑稽な笑い話だ。絶縁している訳でも無い実家に電話を掛けることに、慄いて手が震えていることを二束三文のナンセンスとして売れば、一食分は稼げると思う。ただ、僕の内面を見れば、酷く脆い。虚勢の内面はひび割れた砂壁に過ぎない。触れればすぐに崩れ、衝撃を与えれば容易に穴が開く。そんな砂壁に過ぎないんだ。

 けれど、不完全な内面を僕は無視しなければいけない。自分の脆い心持ちを自認して、虚勢を張ることは出来ない。いや、出来るかもしれない。でも、僕には出来ない。


「……痛い」


 抱える弱きを追求する様に、頭痛は鮮烈な痛みを加え始めた。脳をナイフに切りつけられて、その傷に塩を揉みこまれたようなねちっこく、鋭い痛みが僕の頭の中を支配した。そして、この痛みに従って、目の前の人工的なプラスティックの緑色は汚濁に塗れる。こちら側とあちら側が混じり合った、不安定な世界の色彩は僕の不格好な覚悟を揺るがしてくる。

 痛い痛い。

 痛みと痛みの温床である汚濁は、僕を貶めようとする。たった一つの覚悟でさえ、僕は僕自身の内側から生じる刺激によって失われようとしている。もがき苦しもうとも、僕の手元には僕が望んだ覚悟は残らないのかもしれない。


『お前の覚悟は俺の死だよ』


 陰惨な心持ちと痛みに狼狽していると、奴が現れた。奴はついに僕との最終決戦を決め込むらしい。僕が、僕自身最大手の敵である過去と立ち向かうタイミングを計らって奴は薄気味悪い笑い声を発しながら現れる。

 ああ、けれど、それならば、僕の浅ましく、惨めな心持ちは奮い立つ。僕を空虚に閉じ込めて、鬱々とした生涯を僕に与えた最大の要因を殺すことが出来るのだから。


『お前に俺を殺すことが出来るのか? 俺には到底そう思えないぜ。お前は俺だ。だから分かる。お前は俺を殺すことすらできず、唯一憎悪することが許される俺を殺せない。それほど勇気の無い奴だ』


 知ってるさ。僕は人を、自分の一人格を殺せるほど勇敢な人間じゃない。僕は僕しか殺せないんだ。そうすれば罪の意識は僕にだけ向く。


『お前は贖罪を少しでも少なくしたいんだな』


 僕はこれ以上罪を重ねたくない。これ以上、僕が望む将来に対する負債を増やしたくないんだ。胸の重荷を少しでも下ろして、着の身着のままで歩いて行きたいんだ。例え、僕が目指す到達点が酷く醜い場所であろうとも、僕はそこに純粋な僕のままで辿り着きたい。茨の道に原罪以外を置いていきたいんだ。

 どれもこれも願望で仕方が無いとは、僕も思ってるさ。自分に願を掛けて、将来の自分に負債を増やそうとしているんだ。最も信頼できない存在に、今の僕は僕を預けている。こんな不良債権が許されるのか? いや、許されない。それは破産されるべき対象だ。だけど、僕は犯された人間なりに、最後くらい博打をしてみたいんだ。 

 お前は僕だ。だから、僕の言いたいことは分かるだろう?


『醜悪な自己弁護だな。自分を信用していない癖に、贋作を愛することが出来ない癖に自分を望むだなんて詭弁にも程がある。お前にとってお前自身は信用する値しないだろう? 下に荒れ狂う海を臨む切り立った崖を歩む旅人が、小心者の山人に案内を頼むようなものだ。自分自身でも不安定極まりないのに、さらに自己を不安定にさせてお前はどうするんだ。お前は俺を殺すために、ここに居るんだ。震える手で構える太刀の一振りにやられるほど俺は軟じゃないぜ』


 確かにお前は僕が携えるなまくらの太刀じゃ殺せないし、僕の貧弱な筋力から発せらるひと振りをも余裕で耐えるさ。それほどお前の纏う鎧は固い上に、点の力にも強い。

 完全無欠な鎧を壊すことなんて、僕には到底できない。例え僕が全てを打ち砕く鎚を持っていたとしても、非力な僕の腕はそれを振るい下ろせない。僕に出来るのは、精々甲高い音を鳴らすことくらいだろう。

 正面突破は不可能だ。なら、計略を使うまでだ。正々堂々と戦うことなんて、最初から放棄するさ。だけれど、僕はお前を確実に殺す。いや、確実に殺せるだけの策がある。


『そうとは思えないがね。お前の言葉は、俺にとって我が儘な幼子の強がりにしか見えないぜ。所詮、精神は幼稚なんだよ。お前は体が成長しようとも、心はそれに見合った成長をしていない。お前は哀れな人間でしかないさ。俺にとって都合の良い木偶人形に過ぎない。だから、早くお前は俺に委ねろ』


 駄目だ。

 僕はお前じゃない。矛盾だ。お前と僕は同じなのに、それを違うと言って否定するのはあまりにも矛盾が過ぎる。けれど、僕はそれでも言おう。僕とお前はまるっきり違う存在だ。

 お前はただ一人で生きていくことが出来る。自分の足だけで、自分の臓物だけで、自分の眼だけで、自分の頭だけで自立して生きていくことが出来る。だけど、僕にそれは出来ない。お前の言う通りだ。お前の言う通り、僕の精神は未発達だ。身に余る身分を与えられたせいで、そしてそれを無知なまま甘受した僕の得た精神は脆く、不格好で醜い。


『よく分かっているな。それなら、お前の体を寄越せ。そしてお前は忘却に沈め』


 断固拒否するよ。お前に体を預けるくらいなら、僕はようやく見えた希望を打ち捨てて、首を括るよ。


『駄目だ。お前の体が無くては俺は生きられない』


 分かってるよ。

 そして、お前がこうして存在している意味も。数日前に全て分かったんだ。どうしてお前が僕を発狂へと導こうとしているのか、どうしてお前が僕に死んでほしくないのか。それはお前の生存本能だ。そして、母体である僕を気に掛けていたんだ。

 というよりも、お前は僕の生存本能に過ぎない。お前は僕の中で捨てられた生存本能の死骸に憑りついた僕の亡霊だ。腐りかけの体を引きずりながらも、お前は僕を生かそうとする。お前が差し伸べる傷んだ手は、僕に体調不良を巻き起こす。そして、お前は自分の意志を隠すために僕を貶める。そうやって僕らは今日まで生きて来たんだ。


『何を言っているんだ……? そんな解釈、都合が良すぎると思わないか?』


 動揺するなよ。でも、そんな反応をしているってことは、僕の言っていることが図星ってことだ。お前の役割は僕を生存させるためなんだ。僕が拒否反応を示していることをお前は提示し、そしてそれを強要させようとした。

 だけど、今日でその役目も終わりだ。僕とお前の依存関係は、ここで断ち切るべきなんだ。お前も僕も、これ以上生を共にしていたところで意味を成さない。だから、僕とお前はここで決別するべきだ。


『止めろ止めろ! 俺を分かるな! お前は無知なまま、俺の痛みに怯え続けていればいいんだ! 俺に触れるんじゃない!』


 お前に触れなくとも、もうお前に与えた毒はお前の体をすっかり犯しているよ。それに僕はお前が居なくとも、生きようと思えているんだ。その前に確認しなければいけないこともある。だけれど、僕は生きる道を手で掴みかけているんだ。


『違う。お前の掴もうとしているものは、お前の全生涯を台無しにする。確かにお前は絶望して自殺を試みた。ただ、その自殺は健全なものだった。だが、お前の手に入れようとするものは不健全だ。前提に不幸を敷いた生きる道など無意味だ! それこそ死んだ方が良い!』


 お前がそれを言うか?

 ああ、これがお前の役目の終わりか。お前は今、自分で自己矛盾を唱えた。それがお前に与えた毒の最たる効果だよ。お前はもう死ぬことしかできない。いや、僕に溶け込むことしかできない。


『ああ、そう言うことか。お前は俺を貶めたんだな。腐りかけの体を看破して、王を名乗った俺の位を極限まで下げて、死を纏わせたのか……』


 そうだよ。お前にはすまないと思うけれど、だけど、どうかお前は自分の運命を受け入れて欲しい。僕の生存本能と共に燃やされてくれ。


『嫌だと、言ってももう仕方が無いんだろうよ。お前は遂に自分を覆う絶望の正体に気付いたのだからな。お前の未成熟なあさましい精神は遂に俺に毒を盛った。お前は本心から俺のことを不要と見なす。それならば、俺もお前の中に溶け込まなくてはいけない。脳細胞が造り出した幻灯はここで消されるのが宿命らしいからな』


 呑み込みが早くて助かるよ。

 お前の出現の兆候が僕を痛ませて、この世の中における幸福全てを台無しにした。僕はそんなお前を厭悪してきた。早く僕の中から消え去ってくれと願った。僕は僕の人生の色彩を汚すお前を許容することが出来なかった。共存は無かった。僕とお前が同時に生きることは、この体を引き裂くのと同義だ。常時、八つ裂きの刑に下されているようなものだ。

 だから、お前は死んでくれ。お前の死をもって、僕は茨が敷き詰められた道を裸足で歩きはじめよう。足の裏が傷ついて、化膿して、壊死しようとも歩き続けなければいけない道を行こう。

 お前はこの道を不幸と言った。お前の言うことは最もだ。僕がこの道を行くことで、僕の人生は破滅する。依存し合い、どちらかの愛想が尽きてしまったら、どちらも死ぬなんて言うのは歪で、醜悪で、爛れている。

 酷く浅い決断のようにも聞こえるはずだ。僕自身にもそう聞こえる。僕の胸には未だに死が根付いて、その花を咲かせようとしている。荒野に落とされた出た一つの種子が、吹き荒ぶ熱風に当てられて芽生えようとしている。それを無視した決断は底が見えている。

 だけど、僕は叶えられない道に手を伸ばそう。何時か芽吹く花を汚れた手で摘み取ろう。


『お前にそんなことが出来るのか? それはお前が蒔いた種だ。お前が丹精込めて育て上げようとした花の種だ。自分のことも言えるその花を、お前は自分の手で摘むことが出来るのか? 俺には到底できるように見えない。お前のそれは他人の手でしか、摘みとれないぜ。俺が保証してやろう。ただ一度の自殺に失敗し、自分が死ぬのが惜しくなり、哀れにも蜘蛛の糸一本にも満たない細すぎる生命の糸に縋り付くお前の痩せこけた手じゃ何もできないよ』


 何もできないとお前は思うだろう。だから、僕は今からお前の常識を覆そう。お前が見下してきた僕と人格がやれる覚悟をここに示そう。他人の手に委ねること無く、自発的に動く死刑囚の働きを見せてやろう。


『……』


 僕の生涯を支配してきた悪魔に、僕をここまで生かしてくれた天使に、僕は啖呵を切った。そして、汚濁に塗れた受話器を手に取る。プラスティックの無機質な手触りはどうしようもなく気持ちが悪い。普段は何ともない物質は、流転して悪趣味極まりない感覚を僕に抱かせる。

 およそ、僕の中に居座る奴が僕に幻影を、現実に投影しているんだろう。僕に誤った道を歩ませないように、僕に健全な人生を歩ませるために、こいつは最後の働きを弱りきった手で行っている。黒ずんでくすんだ手で、爪の剥がれ落ちた手で、腐りきって骨が見える手で、僕の脚を引っ張り続ける。

 未来に向かって歩きはじめる善良な隣人を僕は振り払う。力なき手はするりと、僕の脚から離れて、怨念の込められた眼差しが僕に向けられる。

 僕はそれ無視する。そして、汚濁の受話器を手にとって耳に当てる。ツーツーと音が鳴る。頭の中で反響する音は、痛みを増大させる。健気に僕に反抗し続け、僕に生存を訴えかけるこいつは、最後の最後に死力を尽くした痛みを生じさせた。

 鈍痛が頭の中に走る。頭の内側と外側の両方を鎚で打ち付けられるようなそんな痛みが僕を襲う。そして、痛みに従って前進に悪寒が走り、ずっと感じ続けていた吐き気は頂点まで達する。絶え間ない嘔吐を僕にもたらそうと、狂った体はむくむくと動き始める。冷や汗がとめどなく体から発せられて、背中はぐっしょりと濡れる。それから赤い斑点がチカチカと点滅して、僕の視界を覆う。

 全てがダイナ意志にされた視界の中でも、僕はポケットから十円玉を五枚全部取り出す。そして、ギラギラと光る硬化投入口にしわがれた十円玉を入れた。からりと十円玉が落ちる音を確認すると、この世で最も忌まわしき数字を震える指で打ち込む。数字を一つ一つ押す度に、僕の心臓は張り裂けそうになる。逃げ出したくなる。

 逃亡は罪だ。そう自分に言い聞かせて、僕は電話番号を押し終える。もはや、逃げることは出来ない。不退転の覚悟でもって、僕は自分の十字架に写しだされ、灰の中で見出した僕と深雪さんの理由を証明しよう。そして、この証明が終えると同時に僕の体を苛むこいつも居なくなるだろう。


「さあ、怯えずに」


 プルルル……、プルルル……、呼び出し音が受話器から聞こえてくる。僕の心臓はそれが途切れる度に強く脈打つ。大動脈に流れる血の量は増加する。そして、僕の痛みも増加する。


「もしもし、どちら様でしょうか?」


 綺麗な女性の声が聞こえる。

 ただ、その緊張もこれで終わりだ。

 良かった。電話相手を変えることなく、済みそうだ。


「母さん、正信です」


 僕は生唾に吹き出す口内を必死に取り繕って、あくまでも平然とした声色で母さんに口上の挨拶を告げる。僕の言葉に母さんも他人行儀な息遣いから、親しい人にだけ向ける息遣いに変わる。


「ああ、正信。最近、連絡を取ってなかったから心配してたわ。けど、今は検診忙しいから用事があったら早く言って」


「いえ、ただあまりにも連絡を入れてなかったのでまた入れただけです。それと病気を患ったことも伝えたかったんです」


「病気?」


「はい。精神を悪くしたんです。そして、自殺未遂を起こして、今は入院しています。叔父さんと真斗が取り計らってくれました」


 贋作の平常心を抱きながら僕は事実を淡々と伝える。母さんの息遣いが変わったのが、良く分かる。母さんはふっと息を吸い込むと、何か声にならない言葉を漏らした。僕は特段、それに心を痛めることは無い。

 鮮烈な赤に歪む視界の中で、僕は母さんの返答を待ち続ける。僕の伝え述べた事実を飲み込んでくれることを時間の限り待つ。そのために僕は追加で十円を入れる。

 時間に余裕を与えたその瞬間、母さんの口は開いたらしい。微かに口が動いて漏れる音が聞こえる。


「正信、学校は大丈夫なの? 学校に連絡は入れたの?」


「ええ、叔父さんが休学届を出してくれましたからそこは問題ありません」


「そう、それなら良かった。それで、体の方は大丈夫なの?」


「全く問題ありません。寝つきは悪いですけど、生きてます」


「なら良かったわ。医学部に落ちて、それでいて不健康だなんて酷く不愉快ですものね。貴方にとっても、お父さんにとっても」


「確かにそうですね。それと今回の件に関して真斗には何も言ってあげないでください」


「言わないわよ。貴方を心配して優しい気遣いをしてくれたあの子を叱責しないわ。それに叔父さんもね。むしろ、家の不貞を隠してくれた分、感謝しなきゃいけないわね。今度、何か送ってあげなきゃならないわね」


 僕は十円玉をもう一枚追加する。


「全くです。あと、一つだけ聞きたいことがあるんです」


「何?」


「母さんは今の僕と真斗をどう想っていますか?」


「変な質問ね」


「自分でも変だと思っています。けれど、後生ですから答えて下さい」


「そうね。手のかからない自立した息子たち、かしらね。もうすっかり大人よ」


「そうですか……」


「どうしたの黙って?」


「いえ、これで本音が言えると思うと少し心が安らいだだけです」


「本音?」


「僕は家が嫌いです。貴女が嫌いです。父親が嫌いです。全てが嫌いです。僕たちが無知な時から将来のレールを敷いて、それに沿った教育しかさせなかったあなたたちが嫌いです。これが僕の本音です」


「気でも違ったのかしら?」


「いえ、いくら精神病みでも本音は本気です。僕は本気であなたたちが嫌いなんです」


 三枚目の十円玉を入れる。


「子供の時からずっとそう思ってきました。僕たちのことを自分の子供としか認識していなく、僕たちが一個人であるという事実から目を背けた両親が嫌いなんです。僕だって自分の両親を嫌いたく無い。けれど、どうしても、本能的に、生理的に、嫌えてしまうんです。両親に子供部屋は汚されました。両親に幼子の真心は壊されました。そんな人間がどうして両親を愛することができましょうか」


「それを言えるのは真斗だけよ」


「ええ、分かっていますよ。最善の教育を施されながも、到達点に辿り着けなかった僕にあなたたちを非難する資格はありません。けれど、僕はあなたたちが嫌いです。これが本心です。義理もなく、道理もない貴女の血を継いだ人間が貴女たちに抱く本心です」


「当て付けかしら?」


「A little more than kin, and less than kind.」


「そう。でも、勘当しないわよ」


「結構です。僕は家から離れるつもりはありません。僕はあなたたちの体裁を汚すつもりありません。その資格を持ち得ていないのですから。だから、僕は真斗の影に隠れてひっそりと生きていきます」


「そうしてくれるとありがたいわ」


 母さんは冷たい口調でそう言うと電話を切った。

 ツーツーと呼び出し音が再び鳴る。けれど、僕の頭が痛むことは無い。それに視界の覆っていた赤い斑点も消え去った。内外から感じられた打ちつけられるような痛みも、悪寒も、吐き気も、冷や汗も全てが消えた。


『お前の覚悟がこれか』


 僕の覚悟はこれだよ。


『随分と一方的なものだったな。けれど、お前は確かに自分の意志を伝えた。そして、お前は自分の過去と向き合ってみせた。もはや、お前の歩く道は止められない。茨の道は開けた』


 もう誰にも僕は止められない。


『ならば行け。迷わずその腐った道を歩けよ、ハムレット。俺は俺の骸でもって、お前を送り出そう』


 ありがとうクローディアス。

 いや、お前のことを僕は今の今までお前を勘違いしていた。お前は僕にとって、友人の一人もいない侘しい僕にとって唯一の親友だったんだな。

 お前はホレイショーだ。別れのタイミングで言うことじゃ無いけどさ。


『そうだな……。まあ、そうか。それならばお前の親友としてお前の中に引っ込もう。ただ、一つだけ忠告をしておこう。オフィーリアは、もう月の光に照らされている。それだけは分かっておけ。じゃあな』


 さようなら。そして、ありがとう。


 あいつは笑いながら消え去った。それが嗤いなのかは分からない。ともあれ、僕だけの親友はもう居ない。あいつは僕の中に消え去って、その骸すら消した。跡形も無くなった。

 塵と化した親友を僕は掬う。そして、十字架と灰の中で見つけた理由に擦り付ける。

 すると、二つは妖しく輝き始めた。

 やっぱり、そうだったんだ。

 立証は終えた。あとはもう深雪さんに伝えるだけだ。僕らが抱えるこの晴れることのない鬱屈とした病んだ闇の原因を。

 不健全な光を得た僕は、清々しく病室に向かって脚を動かす。ぐっしょりと濡れる服が気持ち悪い。けれど、そんなことがどうでも良いと思えるほど気分が良い。

 階段を使おう。そうすれば健やかな午後の日差しを受けることが出来るはずだ。

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