一世一代の演技

 茜色が続く限り、僕は歌い続けた。弦を押さえる指は痛むし、喉も枯れてくる。けれど、僕は貴い時間を最大限飾り付けるために必死に歌った。ただ、僕は自分の歌を聴かれていることが、恥ずかしくてただ一人の聴衆の顔をうかがうことは出来なかった。多分、一曲が終わる度に小さな拍手をしてくれていたから、歌に問題は無いと思う。

 そうして、僕は羞恥の中で歌い終えると、時間は来た。窓から差し込んでいた日差しは、夜が日を抱えたおかげでほとんど無くなった。病室は宵の薄気味悪い暗さに満ちていた。けれど、僕と真斗は満足している。決して、僕らを包み込む不完全な夜に飲み込まれることは無かった。至近距離でやっと顔が望める程度だけれど、僕らは確かにこの瞬間を楽しんでいる。

 ああ、僕がこの世に生を受けてから最も楽しい瞬間だ。今がずっと続けば良い。でも、今はもう通り過ぎている。僕はオアシスの水を飲みほした。だから、これから先はその潤いだけで荒野を彷徨しなければならない。愚兄を見舞う賢弟とも、これでお別れだ。


「兄さん、ありがとう」


「頭なんて下げなくて良いよ。むしろ、僕が頭を下げるべきなんだからさ」


「いや、兄さんがそう思っていても俺は頭を下げるよ。感動に対しての金銭は、こうやって示さないと、俺にも格好が付かないんだよ」


「そうかい。なら、僕はありがたくそれを受け取っておくよ」


 さっぱりとした笑みを浮かべながら、真斗は頭を下げた。やっぱり、これをするのは僕の方だ。僕がこいつに礼を支払わなければいけない。

 でも、こいつがそれを拒否している。望んでも無いことをされることが、一番の迷惑だ。だから、僕は高慢にもこれを受け入れよう。

 恭しく頭を下げた真斗は、頭を上げるとはにかんだ。純粋な笑みは、薄暗さの中でも燦然と輝く。けれど、これが見れるのも今日が最後だ。僕はもう満足した。これ以上、こいつに迷惑を掛けるのは忍び難い。僕は僕自身の手で、後はもう僕一人の力で僕の全てをこなして見せよう。

 僕が覚悟を決めるのと同時に弟は立ち上がった。そして、もう一度、今度はさっきよりも浅い角度で頭を下げた。別れの挨拶だ。


「それじゃあ、俺は帰るよ。面会時間を随分と過ぎちゃったから、フロントで怒られるかも」


「大丈夫。お前の顔があれば、許してもらえるさ。ある程度申し訳なさそうに、けれども笑顔を浮かべていれば、どこにだってお前は行けるよ」


「兄さんがそう言うんだったら、きっとそうなんだね」


「ああ、お前の愚兄を信じてくれよ」


「そうさせてもらうよ。それと、俺は来週試験があるから来れないよ」


「そうかい。少しだけ寂しいね」


「兄さんらしくないぜ?」


「僕だって、そういう気分になることくらいはあるさ」


 そして、僕らは別れ際の適当な談笑をする。屈託のない笑みを浮かべる真斗の裏には、もう汚れは無い。自暴自棄の憧憬は、完全に捨てきっていた。それに男娼の様な妖しい雰囲気も全て棄て、勇猛果敢な一本の鋭い刃に挿げ替えた。

 成長し、真っ当な道を歩めるようになったこいつに掛ける言葉はもうない。僕がこいつに教えてあげられることは、何も無くなった。それなら、僕はもうこいつの目の前から消えても良いだろう。例え、こいつが僕の失踪に悲しんだとしても、僕はそれを選ぼう。僕の様な腐った人間は、再びお前に毒を与えて、もう一度お前が抱いてはいけない憧憬を無意識中に持たせようする。

 だから、僕はお前の前から消えよう。

 僕の自殺に対する猜疑も、あともう少しで晴れそうな気がする。深雪さんと僕が抱える孤独の願望の理由も、掴めそうな気がする。だから、もう、お前は僕に関わらなくて良いんだ。これでお別れで良いんだ。

 丁度、部屋が暗くて良かった。僕の表情はきっと落ち着ききっている。青白い顔に、覇気を感じさせない表情は、聡いこいつの目には異常に映るだろう。けれど、今は僕も、こいつも、顔に掛かる青黒い帳のおかげで陰影の動きしか見えない。そんな中でも、闇を切り裂いて僕の下に届くこいつの笑みは、本当に価値がある。打算的な言い方かもしれない。でも、それでも、こいつの微笑はラインの黄金と同等の価値がある。これを手に入れることが出来た女性は、誰よりも幸福になれる。そして、こいつもまた自らの黄金を指輪にして、人生の全てを照らすことが出来る。 

 そういう未来がこいつに待っている。それなら、もう僕は要らない。自分の人生を始める時が、こいつにも来たんだ。僕に憧れる必要も無く、僕を考えることも必要なくなるんだ。後は逃れることの出来ない運命の呪縛に縛られながらも、その中で望める幸福を追求するだけだ。


「それじゃあね」


 未来に向かって歩く希望に満ち溢れた真斗は、体の前で小さく手を振って、僕に別れを告げる。僕もそれに向かって手を振った。

 ただ、僕は間が悪くもあることを思い出した。最後だというのに、段取りが悪すぎる。最後くらい、ドラマで終わっても良いじゃないか。けれど、これは僕が忘れていたことだ。だから、僕が悪い。

 僕は立ち去ろうとする真斗の手首を、腕を伸ばして、爪が削れて丸みを帯びた手で掴んだ。


「ちょっと待ってくれ。現金なことを言うようで悪いけれど、十円玉を五枚くらいくれないか?」


「何に使うの?」


 ほら、間が悪いせいで、こいつの警戒心を呼び覚ましてしまった。

 でも、挽回は出来るさ。それに、これは僕のするべき義務として与えられた仕事だから、歯に衣着せずに言えばこいつも警戒心を解いてくれるはずだ。

 そのためにはまず、こいつの将来に対して抱く、喜ばしさを包み隠さなければいけない。難しいことだ。でも、やってみれば案外行けると思う。

 僕は今日取得した微笑を浮かべながら、真斗を見上げる。


「家に連絡する」


 そして、なるべく堅苦しい雰囲気を纏わせた言葉を発した。

 僕の言葉に真斗はぶるりと震えた。肌が粟立っている。僕よりもそれを恐れているように。


「本気で言ってる?」


「僕は本気だよ。あの人たちに、僕の今を伝える。もう、恐れは無いよ」


「けど……」


「ああ、分かっているよ。お前は僕が何時もの強がりを言っているんじゃないかってね。大丈夫。今度ばっかりは本気だ。逃げないよ」


 僕よりもびくびくと震える真斗に、余裕のある笑みを浮かべながら僕は優しい言葉で語りかけた。こいつは僕が居なくなることを何となく気付いているんだ。それに恐れているんだ。

 だから、僕は真っ赤な嘘を吐く。贋作が贋作足り得る理由を、僕は真っ直ぐと真斗の瞳を見ながら紡いだ。自分でも上手く吐けたと思う。

 これに真斗は、目を見開いた。


「本当?」


「ああ、もう逃げないよ。僕はもう逃げない。お前を置いて行くことは無い。僕とお前は別々の人生を送ることになるけど、僕がお前の前から消えることは無いよ。確約する。生きる希望が湧いてきたんだ。希望と言っても、何かを成し遂げたいとかそういうことじゃ無い。ただ、生きようと思えているんだ。質素で、貧しい中でも、どうにか僕は人生の光明を見つけたくなった。大学にも行こう。労働をしよう。その中で、もう一度、人生を考えてみたいんだよ」


 そして、僕はさらに嘘を続ける。

 本当は生きる希望なんて見出していない。今の僕を支えているのは、甘美な死への中毒症状だ。

 でも、そんな副作用は僕に立派な顔を浮かばせてくれる。取り繕った汚らしい言葉を紡がせてくれる。人を騙すにはもってこいの酷い言葉が、僕の脳裏に次々に浮かんでくる。例え、ここで真斗が反駁したとしても、僕はそれを丸め込める自信しかない。

 ただ、そんな自信も要らないらしい。真斗の体の震えは止んだ。そして僕らを包み込む青黒い膜の中で、真斗の双眸と僕の目が合う。暗くて、満足に顔が窺えない。でも、こいつは僕の嘘を真実として受け取ったことは分かる。見えない真斗の光は、僕に信頼を示したのだから。


「俺は兄さんを信じるよ」


 ほら、信じてくれた。

 けど、どうして、僕の心は傷付かない? 普段なら予定調和の重い罪悪感が僕を襲うはずなのに、どうして僕は平然としていられるんだ?

 それどころか、むしろ僕は喜びすら覚えている……。何かがおかしい。でも、それを疑うよりも僕の心は踊る。


「ありがとう」


「ああ、まさか兄さんの口からって言葉が出てくるなんて驚きだよ」


「言っただろ、人の精神は不安定だって。だから、こういうこともあるんだよ」


「特定方向にしか傾かないとも言っていたけど?」


「存外、違う場合もあるんだ」


 饒舌な僕の二枚舌は、ぺらぺらととめどなく嘘を吐き続けた。そして、純朴な太陽の子を騙す。

 すっかり騙された真斗は、右手をズボンのポケットに突っ込んで、二つ折り財布を取り出した。それから、僕の手をそっと退けて、財布内の硬貨をカチカチ、ジャラジャラと鳴らしながら、小銭を取り出す。


「それじゃあ、これで良いかい?」


「ありがとう……」


 真斗は数枚の十円玉を僕の空いた右手に握らせた。掌に数週間ぶりの俗世が宿る。

 でも、僕がそれに哀愁を覚えることは無かった。

 僕は真斗から受け取った十円玉を握りしめると、優しく、けれども出来るだけ力強い笑みを浮かべる。これに真斗は、本当に輝かしい笑みを浮かべた。僕にその輝きは、眩し過ぎた。

 ただ、ここまで上手く行って目を背けることはできない。目が潰れんばかりの光から目を逸らさず、僕は真斗に微笑み続ける。


「それじゃあ、本当に僕は行くよ。じゃあね」


 そして、真斗は上機嫌に鼻歌を歌いながら、別れの挨拶を告げた。そのまま、楽しげな調子で病室から出て行こうとした。けれど、踵をカッと床に鳴らして、入り口付近で立ち止まった。看護師さんが来たんだろう。

 ただ、あの美しい人ならあいつの規則違反を見逃してくれるはずだ。臆病な態度を取らずに、はにかんで対応すれば何の問題も無い。


「あっ、すいません。面会時間かなり過ぎてますよね。ええ、もう帰ります。はい、本当にすいません」


「病院としては困ります。ですけど、松岡さんのことを考えれば多少の違反があっても、長く弟さんと話してもらっていた方が良いんです。一人の時間も必要です。けれど、心を癒すためには自分のために親身になって話を聞いてくれる人との時間が一番大切なんです」


「そうですか」


「ええ、そうです。ですけど、規則は規則です。でも、見逃してあげます。ですから、早く帰ってください。今ならそんなに怒られなくて済むと思いますから」


「ありがとうございます。それでは、兄さんのことで色々と迷惑を掛けるかもしれませんがよろしくお願いします」


「いいえ、こちらも仕事ですから任せて下さい」


 真斗は看護師さんに一礼して、明るくも反省の色を込めた声色を紡いで病室から急ぎ足で出て行った。これが最後の別れとなると、少々寂しいものがあるな。自分で蹴りをつけるって意気込んでいたのに、この様だなんて見っとも無い。後悔を失したいのに、どうしてこうも僕は負債を増やすんだろう?

 ただ、何時までも落ち込んでいられない。僕がこうして落ち込んでいたら、看護師さんを変に勘ぐらせてしまうかもしれない。自分の職業に真摯に取り組んでいるから、患者の機微にあの美しい人はすぐ気付いてしまう。

 だから、僕は自分を取り繕わなければいけない。それなりの嘘を顔に貼りつけて、虚構を口で紡ごう。真斗には出来た。でも、それは僕が唯一を心を許し合える仲だったからだ。僕があいつの中身を知っていたから出来たことだ。その人をおこがましくも知り尽くしていたから、僕は何の気兼ねなしに嘘を吐けた。

 だけど、それが赤の他人に通用するかどうかは分からない。それも僕の様な人たちの多く相手にしてきた練達の人に、素人の演技が通じるか酷く不安だ。

 けれど、不安を抱きながら堂々とやらなければならない。舞台に立ったら、誰もが役者だ。役者は人を騙して、幻灯の神秘を現世に表現することが義務だ。そして、僕もその舞台に初めて上がる。猿踊りを僕は演じて見せるさ。

 演技のえの字も知らない僕が、演技へを試みようと覚悟を決めると同時に看護師さんは病室に踏み入れてきた。ただ、僕の下に直行してくるわけでは無く、この青黒い空間を照らすために、入り口横の電気スイッチを手元が見えない中、手探りながら探す。

 僕はその間、小さく、勘付かれないようにほとんど動かない表情筋を動かして、自然な表情を作れるように準備運動をする。準備運動が満足に行こうとも、僕の心臓は潰れるほど脈打つ。初舞台で初主演のプレッシャーは酷いものだ。吐き気も催してきた。けれど、不思議と気持ち悪くは無い。これは健全な吐き気だ。久しく感じてこなかった緊張による吐き気だ。

 僕の体は段々と生に向かって伸びていってる……?

 ああ、違う。

 そんなことは無い。

 それはただの思い違いだ。

 ただ、僕の浮かれる心が幻影を見せているに過ぎない。僕の荒野にむらむらと湧き立つ蜃気楼が、僕の目を騙して安住の地を見せているんだ。僕が行く場所はそこじゃない。僕が行かなければならない場所は、骸骨が積み上げられた小高い丘の上だ。そこに全ての真実がある。僕はそこにある真実を見なければいけない。それから、また行く先を決めなければいけない。

 だから、今は幻影に惑わされることなく真っ直ぐと歩こう。もう少しだ。もう少しで、僕はそこに到達する。僕と深雪さんとの闇が、自然とそこに導いてくれるはずだから。そして、何かしらの衝撃がそこに加われば、僕と深雪さんは自分が死を望む理由を見いだせるはずだ。この世に対して嫌気が差したという理由の下に隠されている本質的な僕の願望が、露わられると思う。そして、衝撃が僕を襲うのもそう遠くないはずだ。僕の直観がそう言っている。

 でも、今はこの場を乗り切らなければいけない。あの美しい人の目から、僕は自分の願望を覆わなければいけない。

 明かりが点いた。

 暗がりに慣れた目には眩しすぎる。

 もう時間は無い。

 さあ、僕の顔よ、十分に演技をしておくれ。僕にしかできないうらぶれた演技をして見せよう。


「……」


 ただ、そう意気込んでも僕は初動から間違っていたのかもしれない。

 看護師さんは、病室に入り、すっかり照らされた部屋の中で僕を認めると目を見開いて、呆然と立ち尽くしてしまった。今にでも胸のあたりで抱えたクリップボードが、腕の脱力によって落ちそうだ。

 よっぽど酷い演技なんだろうか? 僕の主観としては十分な笑みを浮かべられていると思う。けれど、実際は死者の苦悶に満ちる表情だったのかもしれない。ついさっきまで意気揚々と話していた人を黙らせてしまうほどには、気持ちが悪く、拒絶されるべき表情だったのかもしれない。

 憶測飛び交う演技だけれど、僕は演じきろう。今のままで良い。変に技法を変えたら、僕は虚を必ず突かれて、自分の隙を見せてしまうだろうから。だから、僕が飽くまで、看護師さんがすっかり僕の偽装を見破るその時が来るまで、僕は自分で見出した猿芝居をしよう。

 ともあれ、それをする前にまずはたった一人の観客の意識を呼び覚まそう。なるべく優しい声色で、なるべく真斗に話しかけるように、なるべく希望が籠っているように、緊張して硬直した声帯を動かそう。


「大丈夫ですか?」


「……ッハ! 大丈夫です。問題ありません! ええ、全く持って私は大丈夫です。ちょっと、驚いただけですから。ああっと、それと、す、すいません」


「いえ、頭を上げてください」


「は、はい」


 あからさまに動揺した様子を見せながら、緩んだ力を急に入れて、看護師さんは顔全体を赤らめながら頭を下げた。どうやら、僕の演技は猿芝居じゃ無かったようだ。胸の重荷がホッと降りた。

 ただ、ここで気を抜いちゃいけない。最後まで髪の毛の先から、指先、足先まで健全な緊張を張り巡らせて、この人に向かい合おう。でも、僕の声がうろたえたのは演技じゃない。あれは本当に看護師さんの衝撃にやられただけだ。

 とかく、早いことを用事を済ませてもらおう。


「それで何の用ですか?」


「あっと、夕食の件です。今日の朝、松岡さんご飯を減らされたじゃないですか。ですから、夕食も減らした方が良いのか、確認をしに来たんです」


「それなら、少しだけ減らしてください。昼食を食べてから動いていないせいで、あまりお腹が減っていないんです。すいません」


「ええ、では伝えておきますね」


 まだ少し動揺する声色で、そう言うと看護師さんは勢いよく頭を下げた。

 余程、僕の演技が素晴らしかったんだろう。でなければ、こんな反応を見せてくれない。あからさまに顔を種に染めた様子を見て、分からないというのも頭がおかしい奴だ。鈍感では無い。盲なだけだ。

 いや、僕も心は盲だ。それにこんなのは僕の傲慢な程度に、他人を当て嵌めただけだ。高慢にも程がある。猿芝居に酔っているのは僕の方だ。満足な台本も無ければ、ロマンチックな演出も無い舞台に上がって、少し黄色い声が得られたから僕は浮かれ気分になっているんだ。自分を中心にして、初めて空気を暖められたことに自惚れているんだ。大したことも無いのに、僕はたった一回の成功に満足している。醜悪だ。

 酷く汚れたスポットライトに当たり続ける。そして、僕はそれに自惚れた。どうしてもそれが、僕には大きな恥だ。看護師さんとは別の意味で、顔を赤らめる要因だ。従って体温は上がり、せっかく施した二束三文の化粧は汗によって垂れて、剥がれ落ちる。自分でも分かる。今、僕の顔は崩れている。普段通りのうらぶれて、落ちくぼんだ顔になっている。

 そして、この最悪のタイミングで看護師さんは頭を上げる。急いで化粧を取り繕うと思っても無駄だ。もう、美しい人の目は僕の嘘を見ている。初主演は失敗に終わった。


「やっぱり、作り笑いだったんですね」


 この人は本職だ。

 だから、患者のことを思いやって真実を告げてくる。それが治療のために有効だと考えれば、この人は平気で虚構に踏み入ってくる。この人は決して、罪を犯している訳では無い。この人は僕のためを思って、そうやって現実を突き付けてきてくる。嘘を嘘と教えてくる。そして、嘘で生きるのではなく、ありのままの自分で生きて良いことを僕に教えてくれる。清廉と潔白を教えてくれる。

 僕はどうしてもそれに弱ってしまう。純白であろうとすること、現実という酷く辛い環境に身を置くことに、僕は逃げ続けてきた。ここ二年間は特にそうだ。僕は自分を取り囲む運命から逃れて、逃れ続けてきた。そんな現実を受け入れられない人間が、生きる術を教えられても放棄することしかできない。自分の身に付けて、この世を生きていこうとは思えない。だから、弱る。せっかく教えてくれていることを、教えてくれている人を無下にしてしまっていることに弱るんだ。

 僕の心持ちを弱らせた看護師さんの真っ直ぐな声は、僕の猿芝居を揺るがした。破綻しかけた芝居の舞台に上がる僕のセリフは途切れ途切れになって、道化のようになってしまう。


「ばれましたか」


「ええ、ばれちゃいましたね。けど、良いんですよ。誰だって嘘を吐きたくなる時はあります。ですから、良いんです。でも、私としては自分に嘘を吐いて、他人に自分の悩みを見せないよりは他人と悩みを共有してくれた方が良いんです。まあ、その役割は私じゃなくてカウンセラーや弟さんなんですけどね。それでも、身近にいる人には嘘を吐かずにいて欲しいんです。担当の先生や、私みたいな看護師さんには、時々で良いですから自分を見せて欲しいんですよ。そちらの方が松岡さんの病気の具合がよく見れますし、もっと松岡さんに向き合えますから」


「……そうですか。確かにそうですよね。僕がここに居るのは病気を治すため。そのために僕は居て、先生が居て、貴女が居るんですから」


「そうです。ただ、あんまりに悲観的になっちゃいけませんよ。自分の気持ちを下げることが一番の毒です。自分を嫌悪することが一番よくないことです」


 看護師さんは僕のうろたえる内面を覗き込みながら、優しい笑みを浮かべてくる。それは確かに優しく、女神の様な微笑みだ。でも、優しい中にも棘が込められている。「何時までも逃げていないで現実と向き合え」そんな言葉が漏れて聞こえる。

 曲解かもしれない。けれど、僕の耳には、そう聞こえて仕方がない。

 自分では高尚な舞台に立って、誰にも書けない戯曲を演じていると思っていた。でも、いざ舞台に上がって演技をしてみると、そこはおんぼろの舞台で、戯曲も驚くほどつまらない。そして、演じる役者もよく見れば酷く不恰好だ。伊達男の面影は無く、醜い男が猿も笑わないぎくしゃくとした踊りを踊っているだけなんだ。僕はそういう人間なんだ。

 でも、僕は自分の醜い踊りを続けよう。最後まで踊り続けよう。後悔はしたくないんだ。例え、恥だとしても良い。僕は自分を保ちたい。


「確かにそうですね。では、これからは正直に生きてみようと思います」


「それも嘘ですよね?」


「さあ、どうでしょうか? なんて、ちっぽけな人を試すようなことは言いません。嘘です。けれど、ある意味では嘘じゃありません。僕は少なくとも僕には嘘を吐きません。これだけは確かに言えます」


「そうですか。でも、ほんの少しでも私たちにも、正直になってくれませんか?」


 看護師さんは真摯な表情で、胸に手を当てながら言う。僕も、僕もそうあれたら何よりも良いことだ。誰に対しても素直で、純朴な心持ちでいられたら十分だと思う。

 けれど、実際、僕はそうなれない。諦めた訳じゃない。僕はそういう運命の下に生まれたんだ。だから、僕の偏屈な猜疑心が消えることがない。そして、人に嘘を吐いて、自分を自分で愛せない存在にまで貶めて生きることしかできないんだ。


「それは、難しいことです。僕は、偏屈で仕方無いんですよ。他の人みたいに人を信じられない。神を信じられない。救済を、助けを信じられない。その裏に僕を貶そうとしているんじゃないか、僕を辱めようとしているんじゃないかって思えてしまうんです。例え、どんな人でも僕はそう感じてしまうんですよ」


 自分勝手で、自暴自棄になった役者は舞台で素面を見せる。僕も同じで、自分を嘲笑する。

 美しい人。

 どうか、それをわかって欲しい。

 僕は貴女と同じじゃないんだ。僕は、僕。大多数からあぶれて、それから見た少数からもあぶれて、誰からも、どこからもあぶれて堕ちた人間でしかないんだ。何も望めない、何も望みたくない人間だ。

 僕は孤独で居たいんだ……。

 ただ、看護師さんは僕を見捨てること無く、僕と目を合わせる。貴女の瞳は美しい。濁ることもなく、生きる喜びで満ちている。

 けれど、その光は揺らいでいる。妖しく震えている。そして、この光は僕を惑わした光だ。


「そうですか。それじゃあ、私がまず松岡さんに正直になってみます」


 僕が看護師さんの光の妖しさに気付くと同じくして、看護師さんは僕に歩み寄ってくる。クリップボードを丸椅子の座面に器用に投げ置いて、そしてベットに手をついて、身を乗り出して、僕の眼前に、僕の呼吸と看護師さんの呼吸が混じり合うことが分かる超至近距離まで近づいた。

 美しい顔が目の前に広がる。長いまつ毛よく見える。きめ細やかな肌、くまを隠す化粧も、全部がよく見える。けれど、僕は不思議と恥ずかしくなかった。女性を知らない僕なのに、どうしてか僕の体は熱くならない。でも、看護師さんの顔は赤く燃えている。


「どうしたんですか?」


「意地悪ですね。女の子がこういう行動を取る時なんて一つしかないでしょう?」


 そう言って看護師さんは、僕の肩に手を乗せて、より顔を近づけてくる。

 でも、僕はそれを受け入れることができない。

 身に余る幸福を僕は避ける。そのために、看護師さんの柔らかい唇に人差し指を置く。僕はそれを受容しちゃいけない人間だ。それに僕が欲しいのはこれじゃない。僕が欲しいのは……。


 ああ、そういうことか。

 僕はそうありたかったんだ。

 やっぱり、あの文字列の通りだったんだ。


 ともあれ、僕は目の前に広がる好意を拒まなければいけない。苦しいことだ。虚しいことだ。

 でも、この美しい人に思えば、こんな所で一生を棒に振るう選択をさせる方が不幸だ。この人は僕と違って、明るく生きられる人だ。そして、真斗と違って、自由な将来を拓ける人だ。不自由で、運命の呪縛に縛られる僕と一緒に居てはいけないんだ。

 僕と貴女は一緒になれない。それが現実です。これが僕らの生きなければいけない世界なんです。


「駄目です。それは過ちです。それは衝動です」


「一目惚れが過ちなら、この世全ての恋は過ちじゃないんですか?」


「いえ、僕に一目惚れするということが過ちなんです。僕は不幸だ。そして、僕を取り巻く人も不幸にします。どんな人でもです。だから、駄目なんです。僕は貴女に幸福で居て欲しい」


「じゃあ、あの子は良いんですか? 深雪さんは不幸になっても良いんですか?」


 少し声を荒げながら、看護師さんは最もなことを言ってくる。確かにそう言われたら、ぐうの音も出ない。

 でも、今は違う。今ははっきりと異議を唱えことができる。僕と深雪さんは一心同体なんだ。互いに無くてはならない存在なんだ。


「違います。僕と深雪さんは同じなんです。新月と満月が同じように、僕らは表裏一体の存在なんです」


「私とはそうなれませんか?」


「出来ません。僕と貴女は違うんです。ですから、諦めてください」


 僕はそう言うと、僕の肩に乗っかる看護師さんの優しい手をゆっくりと退けた。それと同時に、看護師さんも僕から離れた。彼女の目に宿った光も消えた。

 ただ、その代わり彼女の目には涙が浮かんでいる。


「そうですか。それじゃあ、仕方がありませんね」


 僕に背を向けながら、紡ぐ言葉は辛いものがある。自分で否定したのに、こんなことを思うのは自分勝手が過ぎる。

 でも、どうしても、僕はこの美しい人と一緒にはなれない。美しい花は燦々と輝く太陽が似合う。

 けれど、本当に、おこがましいことだけれどこの人に言葉を掛けよう。これ以降の僕との関係のためにも。自分勝手な言葉を紡ごう。


「ですが、僕は貴女が嫌いではありません。僕は貴女の好意が受け取れないだけで、僕は貴女を善い人だと思ってます」


「なら!」


 声を荒げながら、善良で美しい人は涙を浮かべて、悲しみに赤らんだ顔を向ける。糾弾の声は、僕の心に突き刺さる。

 それでも、僕は貴女と一緒になれない。


「すいません」


 僕は瞼を閉じて頭を下げる。

 美しい人の悲しみに追われる声が聞こえる。

 暫時、悲しいさえずりは部屋に響く。僕はそれに何も言えず、頭を下げ続ける。

 ただ、それも止んだ。どれくらい続いたかわからないけれど、僕の胸はおこがましくも締め付けられる。


「けれど、私は諦めません」


 僕は力強い声を聞くと頭を上げた。そこには、目元を腫らした美しい人が腰に両手を当てて、自信満々に立っていた。

 その様は微笑ましかった。それと同時に羨ましかった。でも、ここで抱くべき感情はそれではない。僕は微笑しよう。そして、最後に一つ警句を教えてあげよう。


「Get thee to a nunnery」


 僕はなるべく発音が分かりやすいように、ゆっくりとハムレットの台詞を紡いだ。


「どう言う意味ですか?」


「貴女を想っての言葉です。ただ、それだけです。貴女は僕よりも良い人を見つけた方が良いですよ。でなければ、あなたの人生はつまずくばかりですから」


「いいえ、諦めませんよ。女の子の執念を舐めないでください。女の子は怨霊となってもその人を愛し続けるんですからね」


「そうですか。それじゃあ、楽しみに待ってますね」


「ええ、待っていてください」


 看護師さんはビシッと指を差し、僕に高らかに恋を宣言して見えた。こちらの言葉を意図しないほど女性の恋心の執着は重いみたいだ。いや、もしくは看護師さんの愛が重いだけか。もっとも、愛を知らない僕にその判断を下すことは出来ない。

 けれど、この美しい人の愛が重かろうと軽かろうと、僕に抱いてくれている愛は本物だ。何も混じっていない純粋な恋心を僕に抱いてくれている。僕はそれだけで嬉しい。例え表面上の美しさだけを捉えていたとしても、純朴な愛を初めて貰えたこの経験は、貴ぶべきものだ。

 人生史上初の経験をこの人は、僕に与えてくれている。そして、僕はその恩を返すために笑顔を造る。僕が舞台で見せられる唯一の演技であり、唯一ものになっている嘘を僕は吐く。美しい人を、美しいまま保つためには、この演技が一番適っている。そして、貴女を傷付けないためにもこの演技が必要なんです。

 僕の微笑に看護師さんは、再び顔を赤らめた。僕も恥ずかしい。でも、たった一人の観客を喜ばせるためなら演技を続けよう。


「そ、それでは失礼します」


「ええ、ありがとうございました」


「あっ、そうだ。この瞬間から私たちは患者さんと看護師の関係です。そして、この関係もこの病室の中だけです。ですから、もしも、病室の外で私に見惚れてもここに私が来るまでその想いは胸に仕舞っておいてくださいね」


 ただ、看護師さんは座面に置いたクリップボードを再び胸元に抱いて、業務に戻り始める。美しい人はしなやかな人差し指を唇に当てて、僕に輝かしい微笑を向けた。僕はそれに見惚れてしまった。この人を幸せにすることが出来ないのにもかかわらず、この人の恋心を否定したいのにもかかわらず、僕は不躾にも見惚れてしまう。

 でも、僕も役者だ。自分の本心を隠すことは出来る。幸運なことに、僕の微笑はまだ崩れ落ちていない。


「分かってますよ。貴女にも、僕にも立場がありますからね」


「ご理解ありがとうございます。それでは、直ぐに夕食が来ると思いますんで準備しておいてくださいね」


「はい」


 看護師さんと僕は微笑みあいながら、元の関係に戻ることを確認した。そして、看護師さんはすっかり元々の雰囲気を取り戻して、病室から出て行った。その足音はどこか、軽やかで明るかった。

 僕は看護師さんの足音が聞こえなくなり、病室が静けさに満ちた中、ほっと溜息を吐いて、胸を撫で下ろす。僕の演技は醜かったものの、最後までそれを演じきることが出来た。初主演、初舞台の演技は終えた。演技による疲労は思ったよりも重い。

 体にかかる疲労に負けて、僕はぐったりと仰向けに寝る。そして瞼を閉じて、ついさっきの貴い経験で得たことを想った。

 どうやら、僕の勘は案外正しいらしい。


『自分を知られたいのか? 自分を知りたいのか?』


 すると、例の文字列が頭の中で、僕の中に巣食う寄生虫の声で発音された。僕と深雪さんの死への理由はすべてここにあったんだ。


「その両方だよ。月と太陽、光と影、僕と深雪さんのね……」


 そして、僕は瞼をゆっくりと開けながらそんなことを呟いた。

 窓を見れば、外はすっかり夜の帳が落ちて真っ暗になっている。燦然と青白く輝く星が見える。きっと外は寒いはずだ。

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