病院での目覚め

 揺れ動く暗闇の中だ。

 体は重くて満足に動かないし、乗り物酔いのようにゆらゆらと揺れている。その上、頭が酷く痛む。それに口の中は生臭い。これが死の底なのかもしれない。

 音も無い……? いや、音はある。何かの電子音だ。それも聞き覚えがある。それに匂いもある。この臭いは、アルコール? 消毒液のつんと鼻に来る臭いだ。柔らかい何かが僕の体を覆っていることも、僕の脳は伝えてくる。鼓動も感じる。肺を感じる。空気を感じる。清潔感を感じる。日差しの温もりも感じる。

 ああ、成程、僕は失敗したのか。あれだけ用意周到に自殺の準備をしたのにもかかわらず、僕は自害することに失敗したんだ。自分の最後すら僕は自分で決めることは出来ないんだ。やっぱり、神は僕を見捨てた。死神ですら、その鎌で僕の魂を刈り取ることを止めたんだ。


 どうして、僕は死ねなかったんだ?

 どうしてこの世に生きていてもしょうがない僕を天は死なせてくれなかったんだ?  

 どうしてまだこの世に生きろなんていう酷く辛い仕打ちを僕に与えて来るんだ?

 どうして?


 押し問答だ。僕の胸中に答えの無い押し問答が繰り広げられる。僕は僕自身の精神の絶叫に気が病みそうになる。これも今に始まったことじゃない。僕は精神分裂症患者だから。僕は僕の意識の外に、誰かを匿っている。それが誰かは分からない。けれど、そいつが僕によく似た何かって言うのは良く分かっている。そして、そいつは僕に纏わりつく。僕の考えを掻き乱す。僕自身の決定に文句を言ってくるし、僕の感動をぶち壊すように唐突に頭の中で絶叫する。全てを壊すんだ。

 破壊者だ。そして、今そいつは僕の中に現れた。きっと、僕という母体を失うのが怖くなったからだ。僕の肉体が無ければ、存在することの出来ない寄生虫みたいな邪魔者が僕の行動を戒めるために、今後また死のうとしたら今みたいに脳味噌をぐちゃぐちゃにかき混ぜる様に叫ぶことによってトラウマを植え付けようと必死に暴れる。

 頭が痛い。ただでさえ痛いって言うのに、今はよっぽど痛い。


「うぅ……」


 痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い・・・・・! 止めてくれ! もう、僕が死ぬことは無い。だから、どうか、僕の体で暴れることは止してくれ。僕はお前の奴隷だってことを認める。それで許してくれるんだろう!? 痩せっぽち!

 ああ、違う、違う。認めちゃ駄目だ。僕がどうして僕の分裂した精神に屈さなきゃいけないんだ。けれど、痛む。酷く痛むんだ。逃れられない鈍痛が僕の頭を襲ってくる! 逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい! 死にたいんだ! だから、死にたいんだ! クソクソクソクソ! 叫んだって仕方が無いことは知ってるさ。けれど、こうでもしなきゃ僕は自我を失う。僕は自分自身を見失ってしまう……。


「あぁ……誰か……」


 生臭い口からはうめき声に似た、ざらついた助けを求める惨めな音が漏れる。乾ききった喉からは、その声が限界だ。

 けれど、誰も助けに来てくれはしない。知ってる。誰も彼も、僕が苦しんでいる時、僕を見捨てる。どれだけ僕が人を助けようとも、誰も彼も僕を見捨てて、知らんぷりをするんだ。だから、今に始まったことじゃない。僕は自分一人で、僕は一人ぼっちで何とかしなきゃならない。

 僕は鉛のように重い瞼を開ける。

 そこには、電灯の光が無い白い空間が広がっている。純白のベットの上に横たえていた汚らわしい怠い体をむくりと起き上がらせると、頭上のナースコールのボタンに、痩せすぎた骨の腕を伸ばした。病衣の袖は余に余っている。そして、やっぱり骨の手で、鳥の様な手で僕はようやく届いたナースコールを押した。その瞬間僕の体からガクッと力が抜けた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「大丈夫ですか!?」


 ボタンを押した後の記憶が無い。

 ああ、どうやら僕は気を失っていたみたいだ。それだから誰か女の人が、いや看護師さんが僕の体を揺すぶって大きな声で安否を確認してくれているんだ。きっと、この人は大いに焦っていると思う。

 少し意地悪をしたくなる。いや、下らない。臆病で、弱虫で、人と付き合うことが何よりも苦手なくせに、自分が優位な立場に着くと強気に出てしまっているだけの話だ。本当はそんなことをする勇気なんてない癖に、心の中で虚勢を張って、人を困らせてみたいなんて醜すぎる。きっと、弟ならこんなこと思わないはずだ。あいつは僕と違って愛嬌があるから、自分からコメディを演じられる。僕みたいに一々深く考えて、自分を批判して、嫌悪しながらも道化を演じるなんてこと、あいつはしなくて良いんだ。お道化は僕だけ……。


「聞こえてますか!?」


 看護師さんの若くて高い声が僕の重い頭に良く響く。まだ痛む頭の中で、反響する看護師さんの声は耳鳴りを起こして、僕の気分を悪くさせる。僕の体調が悪いだけで、この人が悪いわけじゃない。けれど、これ以上の知らんふりは僕の体に毒だし、この人の精神上良くないことだ。だから、目を開けよう。

 目を開くと、僕を右側から覗き込む長いまつげが特徴的な顔の整った若い看護師さんの顔があった。こんな状況じゃ無ければ、僕が一生見れない景色だ。二重の瞳、健康的な肌、可愛らしい唇、日本人らしいこげ茶の瞳と艶やかな黒い髪の毛……。


「綺麗な人だ……」


「へぇっ!?」


 ついつい言葉に出てしまった。名前も知らない綺麗な人は、僕の擦れきった声を聞くと僕から離れて後退りをした。しょうがないことだ。こんな痩せ細った陰鬱な男からそんな言葉を言われたんだから。

 普段から拭いきれない自己嫌悪を胸にしながら、僕は退けて行った看護師さんを目を右に動かしてちらりと見た。その人は顔を赤らめながら、わなわなと震えている。怒っているか、僕のことを本気で軽蔑しているかのどちらかだ。きっと、後者だと僕は思う。けれど、看護師さんは自分の仕事を全うするためにおどおどとした歩調で僕に近づいて来る。


「大丈夫です……か?」


「頭が痛みます。それと、水をください」


「はい! 分かりました。とりあえず先生を呼んできますね!」


「……はい」


 空回った調子で、看護師さんはさっきとまるで違って、ばたばたと忙しなく足を動かして部屋から出て行った。よっぽど、僕と一緒に居るが辛かったんだ。昔から女性と二人きりになると不気味がられて避けられてきた。それが例え病人になっても、僕自身の気味の悪さは変わらない。気を遣われ続ける人間なんだ。

 自分自身を知っておきながら、自分を特別扱いされることを望む気色の悪い病人こと僕は、右から左へと動かしてた。ここは個人部屋みたいだ。窓は西側に一つあって、そこからは優しい日差しが差し込んでくる。温かい……。

 そう言えば、僕の部屋で最後に見た光もこんな日差しだった。けれど、この光は僕にとって辛すぎる。生きる喜びは悲しみだ。もう、生きることすら痛いんだ。この頭の痛みよりもずっと痛い。あの青空は、僕の曇り続けている内面を否定してくる。太陽は月しか登らない僕の夜を睨みつける。

 世界がずっと夜なら、どれだけ僕は救われるんだろう……。誰も彼もが夜の中で、一生明けることの無い暗闇の中で動けばいいんだ。手元だけの世界が、どれだけ生きやすいか。他人なんて、見えなくて良いんだ。自分ただ一人を見続けることが、出来ればそれで良いんだ……。

 ああ、何でだろう? どうして枯れていたはずの涙が出てくるんだろう? 小さいころにとっくに枯れていた涙が、どうして出てくるんだ? 


「寂しい……」


 寂しい?

 どうして? 

 ただ一人で死のうとした癖に、どうしてそんなことが吐けるんだ? 訳が分からない。僕は死にたいんだ。永遠の孤独に居たいんだ。『寂しい』なんて言うのは、分裂した僕が感傷的な気分に浸りたいから言っただけに過ぎない。僕の本心じゃない。僕じゃなくて、僕の中に居る誰かなんだ……。そして、今涙を流しているこの僕も僕じゃない。誰か知らない恥知らずだ。

 僕は僕の中に居る恥らずと戦うために、瞼をゆっくりと閉じた。瞼の裏にはきらきらと輝く日差しが痛々しく残っている。


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