強要

 看護師さんは、ガラスコップ一杯の水と、白髪交じりの黒髪と真っ黒なちょび髭を蓄えた壮年の医者を連れて来た。僕は上体を起こして、看護師さんからコップを受け取ると一思いに水を飲み干した。そうして、僕が飲み終えると医者は僕が病院に運び込まれた経緯を懇切丁寧に説明してくれた。

 医者曰く、僕が意識を失ってそのまま自重に従って首を吊った時、土壁ごと釘が抜け落ちたらしい。そして、僕の痩せ衰えた体すら支えられない土壁が剥がれる音を聞いた僕の部屋の下に住んでいる大家さんが何事かと思ったらしく、慌てて僕の部屋の鍵をマスターキーで開けて、大家さんは首に縄を掛けながら意識を失った僕を発見した。そして、救急車を呼んでくれた。そのおかげで、今に至るという訳だ。

 それと運び込まれたとき、僕の脈はほとんど無かったらしい。今生きていることは奇跡に匹敵する、と経緯を喋り終えた医者は言ってきた。僕に生きる選択を強要するような目つきだった。僕は小心者だから頷いてしまった。

 いつも通り、僕は僕自身に落胆した。けれど、そんな僕を励ますみたいに医者はもう一つ希望を伝えてくれた。それは僕の遺書通り、手配を済ませてくれたことだ。僕の身元保証人は、叔父さんになっていて、僕の自殺を知っている人は叔父さんと弟だそうだ。大家さんが、僕の遺書を真っ先に見つけてくれて、そして僕のことを考えてそうしてくれたようだ。大家さんには迷惑を掛けてしまって、本当に申し訳ない。大家さんには頭が上がらない。

 また、医者は午後から弟が見舞いに来るということを伝えてくれた。自殺の報を叔父さんから聞いた時、自分から見舞いに来ると言ってくれたそうだ。僕は嬉しくて、仕方が無かった。けれど、同時に弟に申し訳なくなった。僕のつっけんどんな態度を被り続けてきた弟が、僕よりも優秀な弟が、不出来な兄を見舞うために自分の時間を費やすなんて言うのは、弟にとって不幸だ。僕だったら絶対に見舞わない。もしかしたら、弟は一応来るのかもしれない。僕を心配してじゃなくて、遺書に書かれたことを、兄が見ていたかもしれない幻想を、自殺を止めるために、家に迷惑を掛けないために、それだけのために来るのかも知れない。そう思うと、胸が痛くなった。

 一報を伝え終った医者は、とりあえず一か月は入院だということを伝え終えると看護師さんを残して出て行った。どうせなら、看護師さんも出て行ってくれれば良かった。僕は、僕の弱さを見られたくない。

 わなわなと震える手のせいで、震えるコップを僕は見つめる。怒り? それとも、悲しみ? 分からない。どうして、僕の手は震えているんだろう? 分からないことだらけだ。


「す、すみません。コップ、預からせてもらえませんか?」


「ああ、すいません。よろしくお願いします」


 震える可愛らしい声で看護師さんはコップを受け取るために、僕の方に手を伸ばした。その手と声に僕は返事をしながら、空いたコップを綺麗な手の看護師さんに渡した。僕は看護師さんの顔を見ない。その顔を見たら僕は、傷付いてしまう。それに僕の陰鬱な顔を見たら、この人も傷付いてしまう。憔悴しきったうらぶれて落ちた人間の顔なんて見ない方が良いんだ。僕は一人で良いんだ。

 ベットの背もたれに、僕は寄り掛かる。それからジッと痩せ衰えた手を見る。骨ばった手は、僕の不幸の象徴だ。実家に居た時は、家族にこんな自分の本性を見せたくないために、無理やり食べていた。けれど、実家を出て一人暮らしをし始めてからは自分の食欲に任せて、何も食べなくなった。だから、どんどん体重は落ちて行くし、髪の毛も白髪が増えた。それから無気力になった。大学の医学部に落ちて、自分の希望で違う大学の文学部に行ったのにもかかわらず、僕は自分で決めたことすら全うすることは出来なかった。落ちこぼれて行った。零落していったんだ。

 その象徴が、この醜い手だ。しばらく何も成していない手だ。趣味のピアノすら投げ捨てた何も成すことの出来ない手だ。


「悲しい……」


 ボソッと僕は声を漏らした。


「悲しいことばかりじゃありませんよ。きっと、松岡まつおかさんにとって楽しいこともあるはずです。ですから、前向きに生きましょうよ!」


「え?」


 僕は顔を見上げた。

 ああ、看護師さんの優しい言葉を掛けてくれた。けれど、僕にとっては空虚な言葉にしか聞こえなかった。僕の性根が腐っているからだ。だから、しょうがないことなんだ。

 

「あれ、私……。ああっと、大変な失礼を! ごめんなさい!」


 ただ、どこか抜けている看護師さんは白い看護服の袖を握り締めながら頭を深々と下げた。きっと、看護師さんの口から紡がれた言葉はきっと無意識から出て来たものなんだろう。優しい人だ。顔付き、声色だけじゃなくて、内面も優しい人だ。

 でも、そんな人の言葉を真っ直ぐと受け取れない。どうしても曲解してしまう。だから、僕の口から出る言葉は看護師さんの言葉に対するアンサーじゃない。乾いたものだ。


「いえ、ありがとうございます」


「そ、それじゃあ、失礼します!」


 乾いた僕の言葉を聞くと看護師さんは、バッと頭を上げて焦った調子で踵を翻した。けれど、今は帰られないで、待ってほしい。気が変わったんだ。


「ああ、待ってください。散歩がしたいんですけれど、しても良いですかね?」


「え? さ、散歩ですか? してもらって構いませんけれど、念のため私が着いて行くことになりますよ?」


「ええ、それでも大丈夫です。今は外に出たいんです」


「分かりました。それじゃあ、先生に伝えて来ますね」


 僕が散歩をしたい旨を伝えると、慌て切っていた看護師さんは落ち着いた調子に戻ってにっこりと微笑んで答えた。そして、空いたコップを片手に僕の病室から出て行った。

 まだ頭は痛む。けれど、ここに居れば居るほど僕の頭は痛むんで行くような気がする。だから、僕は見たくも無い青空と太陽の下を歩かなきゃいけない。一種の罰なんだ。自殺しようとしたことの罰だ。選択式の拷問に過ぎない。けれど、何か、気が変わるかもしれない。淡い期待だ。

 ああ、そう言えば、あの看護師さん。僕のやつれ切った顔を見ても気味悪がらなかった。きっと、僕に無関心だからだ……。

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