クローディアス

 漠然とした理由に僕は慄いた。自分が今ここに居る理由が余にもあいまい過ぎるからだ。僕が欲しかったのは、明確な理由と理屈だ。僕がどうして今生きているのか、そして僕はどうして死のうと思ったのか、そう言った命に対する猜疑を晴らすために僕はこれまで生きて来たんだ。灯に照らされた微かな足元を頼りに、僕はゆっくりと生と死の中途の道を歩いてきた。

 だのにもかかわらず、理由の境界線は全く持って見えやしない。どちらが黒で、どちらが白なのか、いや僕の場合、何を持って死なのか、何を持って生なのかがはぐらかされている。

 僕のこれまでの耐え難い日々は一体何だったんだ?

 突然、僕の視界は暗くなった。

 そして、僕はベンチから芝生へと倒れ込みかけた。けれど、また深雪さんが僕の身体を支えてくれた。多分、そうだ。

 けれど、深雪さんの声は聞こえない。

 暗がりの正体を作ったのは、瞼の裏に焼き付いているあの文字列だ。突如として無限に増幅した文字列たちは、僕の視界を遮り、脳髄に直接情報を流し込んで、僕を廃人に追い込むように鈍痛を頭に与える。

 痛い。痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

 止めてくれ!

 僕を痛めつけたって何の意味も無いだろう! 

 母体が無いと生きていけない癖に!

 どうして反抗するんだ!

 お前は僕だ。だから、僕に適応しろ! 僕の望みを叶えてくれ!


『嫌だね。お前が俺を抑えたその時、お前は私を殺すからな』


 どの道、お前が生きていけるのは僕が生きている間だけだ。所詮、お前は寄生虫に過ぎないんだ。僕という精神を犯されて、落ちぶれて、けれども傲慢な人間の中のクズに寄生する塵芥よりもよっぽど程度の低い存在がお前だ! そんな存在が僕に口出しをするな。


『開き直るなよ。傲慢が過ぎるぜ。お前が傲慢だってことは俺が一番よく分かってる。お前は自分を否定してきれてないんだ。中途半端にお前は、自分を肯定したがっている。どこかで……』


 それ以上言うな!


『おお、怖い。けれど、お前はこのまま行けば、いずれお前が一番なりたくなかった廃人になるだろうよ。本当は分かってるんだろう?』


 ……。


『ダンマリか。まあ、それもまたお前らしいよ。ハムレット』


 お前はクローディアスか?


『さあね。俺はお前だよ。だから、何とでも呼ぶがいいさ。親殺しとでもね』


 誰かも分からない奴は、笑うともなく適当な言葉を吐き捨てると僕のどこかに去って行った。僕の精神の中のどこかに消え失せた。けれど、僕はそれを見ることは出来ない。そいつは外形すらも分からない。影も形も声すらも分からない。文字と概念だけの存在の行方は僕自身にも分からないんだ。

 消えた奴は、自身唯一の作用と言うべき頭痛を引っ張って消えて行った。そのおかげで僕の頭から痛みは消えた。視界を覆う真っ黒な文字たちもどこかに消えて行った。でも、突発的な変化の副作用なのか、開けた視界には汚濁がより多くなった。自然は汚されて、痛々しい美しさはすっかり現実と向こう側が混じり合って汚らしく汚染されてしまっている。醜いだけの汚濁だ。


「目は醒めた?」


「やっぱり、どうして?」


「何を思ってるのか分からないけれど、女の子に向かってその目は無いと思うよ。もっとカッコいい顔をしなきゃ。基は良いんだからさ」


 全てを汚しているはずの汚濁なのにもかかわらず、深雪さんだけは微塵も汚れていない。それどころか美しさがよりまして、僕の心を奪って行くようだ。

 タナトスかヴィーナスか、コキュートスかエデンの園かは分からない。けれど、汚れた中でも燦然とした美しさを僕に写してくれている。汚れた人間には眩しすぎる輝きを深雪さんは僕に向けてくれている。冗談交じりの微笑は、ピエタの慈愛をも超えて美しい。

 大衆的な冗談と知識人的な魅力を兼ね備えた深雪さんの言葉であったけれど、どうにも僕には皮肉にしか聞こえなかった。例え、貴女にそんなことを言われても僕には打算的な言葉にしか聞こえない。誰だって、僕にそう言ってくる。誰だって、そこでしか僕を見てくれない。表面的なことでしか僕を見てくれない。だから、それは嘘だ。詭弁だ。虚偽だ。もしも、貴女がそう思っていても僕の主観がそれを許さない。


「止めてください」


「やっぱり」


 深雪さんは悪戯が成功した無邪気な子供のように、屈託のない笑みを浮かべる。


「知ってたんですか?」


「だって、正信は私と同じなんだよ。私と同じだからそう言っただけ。再確認ってことも含めてね」


「それでも貴女は嘘つきだ。貴女は僕を騙した」


「謝ってほしいの?」


「違います。違うんですが、何か酷くむしゃくしゃするんです。これが何なのかは分かりません。ただ、怒りだとか苛立ちだとかじゃないことは確かです。本当に何故か、どうしてか、胸のあたりが痒いんです」


 僕は自分が深雪さんに感じていることをそのまま伝えた。すると、深雪さんは無邪気な目つきから、柔らかさを保ちながらも僕の内面を抉り取ろうとする鋭利な目つきに変わった。そして、僕の内面から何かを見つけ出すと、深雪さんは冷たい輝きを鞘に収めて、柔らかさだけを表情に残した。

 優しい表裏の無い表情に僕の意識は吸い込まれて行く。意識の全てが、僕の内在の意志から切り離されて、深雪さんに集中する。長い睫の一本一本、呼吸の一音一音に僕の意識は溶け込む。


「きっと、正信がそれを理解できるようになったら私の曖昧な理由が、実は実像のはっきりしたものだって分かるよ」


 けれど、深雪さんは融解する僕の意識を許してくれなかった。深雪さんは僕の眉間に右手の人差し指をビシッとさすと、内面の破棄を許さないように確固たる意志を瞳に灯しながら相変わらず優しい笑みを僕に見せた。


「僕に分かるんですか?」


「分かるよ。絶対。ま、私も分からないことだから何とも言えないけれどね」


 物語の結末がどんなものかを告げた深雪さんの言葉であったけれど、深雪さん自身も本当の結末を知らないらしい。

 滅茶苦茶だ。僕を生殺しにしているっていうのに、その理由は曖昧だっていうのに、自分で作ったその状況を説明できないんていうのは甚だしく遺憾なことだ。

 腹が立つ。にわかに信じられないことだけれど、僕は目の前の人に怒りを覚えた。小さな怒りだけれど、確かに僕の胸にそれが灯った。


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