動き始める運命

「いい加減ですね」


 感情に従ったほんのりと赤みを持った言葉が出た。

 ただ、深雪さんは僕の感情が籠った言葉を前にしてもその笑みを変えなかった。それどころか、深雪さんは肩を震わせながらクスクスと僕の感情を楽しむように笑う。軽蔑から吐き出されたものじゃない。それは喜劇の合間に挟まる秀逸なギャグを見て笑うのと同じだ。無邪気だ。あまりにも無邪気なんだ。だから、僕の心に灯った怒りの明かりは消されて、すっかり平生の調子に戻った。

 僕は子供の無邪気に怒れるほど、荒んでないらしい。


「そうだね。私は何時だっていい加減だよ。何から何まで、生き方から何まで破れかぶれなんだ。ただ一度の過去のせいでね?」


 けれど、無邪気な笑みは深雪さんが紡ぐ言葉によって失われて行く。代わりに浮かんでくるのは、過去を悔やみ、呪い、恨む、大人の怨嗟が籠った縮こまった微笑だ。寂しげな微笑は、美しく輝いている深雪さんにあまりにも似合わない。

 汚れだ。純白に見えるうちは、白いままで居て欲しい。例え、内面に苦悩の証を抱えていても、表面上の美しさは保っていて欲しい。これは僕の独善的な願いに過ぎない。そして、表面上の美しさを否定的に捉えている僕が到底言えたことじゃないことは分かっている。それでも、深雪さんには美しくあってほしい。

 独善的な願いは言えるけれど、それを叶えることは難しい。一度変わってしまった雰囲気を再び元の色に戻すことは、誰にとっても至難の業だ。そんな仕事を社会からあぶれて、堕ちきった僕にできるはずがない。無理だ。

 無理難題を押し付けられても、僕はそれに挑むことが出来ない。僕は逃げ出して、雰囲気のままに会話を流すことしかできないんだ。だから、僕は口を開くことなく、深雪さんの言葉を待つ。


「あ、そうか。確かに気になるね。私の過去。私の汚点。やっぱり気になっちゃうよね?」


「人並みの好奇心は持ち合わせています。腐っても、僕はまだ人間ですから」


 僕に向けていた人差し指を口元まで持っていくと、それを唇に当て、深雪さんは子供らしく首を傾げた。それから、僕を試すように含みのある笑みを向けてきた。彼女の細められた目には、ちらちらと深淵の闇が写っている。

 苦悩の証は、彼女の中に眠る暗き真実に近づいてはならないことを伝えてくる。けれど、僕はそれを知りたい。彼女に触れたい。彼女を知りたい。そして、僕を知りたい。

 だから、僕は彼女が僕に訴えてくる警告を無視して、会話の雰囲気に合わせて言葉を紡いだ。矛盾した願いだっていうことは分かっている。けれど、僕はそれをどうしても知りたかった。


「そっか。正信も人間なんだね」


「少なくともそう思っていますよ。そもそも僕は、発狂したくないから死にたかったんです。ありのままの姿で、ありのままの意志で、自分自身で死にたかったんです。もう少し時間が経てば、僕は発狂することが目に見えていましたからね……」


「そうなんだ。けれど、発狂した方がきっと人間は楽になれるんだよ。だって、現実と空想の境が分からなくなるんだから。辛いだけの現実なら、いっそのこと見えない方が良い。私と正信が悩んでいる理由も、全部現実にあるんだからさ」


 深雪さんはもの悲しげに笑いながら、手元に視線を移した。そうして、僕の自殺願望とは全く逆のことを言った。

 僕には到底分からない。

 死に際は美しくありたい。

 有終の美を賛美しながら僕は、自殺を遂げようとした。けれど、深雪さんの中にある自殺願望はまるで現実から切り離されれば、何だって良いみたいだ。きっと、推測にすぎないけれど、深雪さんは自殺できなくとも今の自我を捨てられればそれで良いんだと思う。生きたくない。死ぬのも怖くない。けれど、発狂して自我を失うなら命尽き果てるまで、天に命が戴かれるその時まで生きていたい。それが深雪さんの主な意志? なのかもしれない。

 推測の結果は彼女の後光を弱める。そのせいか、彼女の胸に、そして下腹部に、汚濁が浮かび上がった。汚された? いや、僕の勝手な期待が汚したんだ。


「現実が無い場所に行けたらいいんですか?」


「そうとも言えるね。私は現実世界を捨てたいんだ。だって、私の汚れた体が生きているのは現実なんだから。どこもかしこも汚れているの。正信、いや誰にも見えていないところが汚れているんだ。苺畑にでも行けたら私は、それが一番幸せなんだ」


 僕を見ながら、けれども内面的には自分を見つめながら深雪さんは、薄い微笑を浮かべた。その表情から紡がれる言葉は、僕の推測が精神に及ぼした邪な影響を取り払われた。汚濁も消え去り、皓々とした後光も再びその輝きも取り戻した。

 汚濁の世界から唯一切り離された深雪さんは、美しさに目を奪われている僕の言葉を待っていた。やっぱり、深雪さんは見えない理由を探し求めるために自分の行動を曲げる気は無い。僕と話していく中で、僕らの生きる理由を探し求めるらしい。即時的な理由を求めて死を願う僕とは違って、深雪さんにとって見出すべき理由は地獄を生きるための道しるべなんだ。だから、出来る限り、自身の体と精神に限界が来るまでじっくりと探したい。遠回りをしてでも、自分が納得できる一握の砂の様なかけがえのない理由を求めている。

 思い描く理想郷はどこにもない。なのにもかかわらず、探し求める深雪さんは僕の言葉を待って、沈黙を保ちながら笑っている。

 ただ、僕は深雪さんの期待に応えられる気の利いた言葉を掛けられることは出来ない。僕は現実を伝えることしかできない。


「確かにそこに行ければ、高いも低いも何も分からなくなるでしょう。けれど、僕らの生きる世界は残酷です。否が応でも、僕らに現実に生きることを強制してきます。そして、その世界こそが最も美しいものとして、僕らの思考を固定します。思考の呪縛は、決して解けません。僕も呪縛に縛られて、その美しさを求め、死を願うんです」


「それじゃあ、正信は私に命を捨てろっていうの?」


 理想と背反する言葉に、深雪さんは顔に浮かべていた笑みを潜めて、苦悩の証の深淵を瞳に再び呼び起こした。惚れ惚れするほど暗く、淀んだ瞳だ。

 けれど、一切の光を通さない永久の闇に見惚れていてはいけない。僕は深雪さんの口から紡がれた言葉を返さなければいけない。それは義務だ。人の理想を犯した者の義務だ。罪には罰なんだ。


「本心ではそう願っているのかもしれません」


「心中しようとしているの?」


「いえ、そんなのは笑い話にもなりませんよ。残された弟が可哀そうだ。両親の名声も傷付く。僕は一人で死にます。ただ、僕はもしかしたら一人で逝きたくないのかもしれません」


「へえ、それじゃあ死にたくないのと同義だね」


 僕の胸に深淵より吐き出された言葉は、ぐさりと刺さる。そして、僕の精神中枢まで刃は到達して、僕の根底にある自殺願望、僕が発狂せずに居られる唯一の理由を揺るがしてくる。

 確かにそうだ。深雪さんの言う通り、僕が赤裸々気に、無意識的に紡いだ言葉通りなら僕は死にたくないんだ。僕は深雪さんと同じように理想郷に行きたがっているのかもしれない。いいや、それは違う。理想郷に行ったところで、僕は汚れた存在にしかなれない。誰もから、ありとあらゆる存在する事象から拒絶される異物にしかなりえない。だから、違う。

 それじゃあ?

 ああ、僕はただ自分と同じ哀れな境遇を誰かに味わってほしかっただけなのかもしれない。この汚れきった体を同じ誰かに経験してもらいたいだけなのかも、知れない。しかも、その対象はほとんど決まっているようなものだ。たった一人、僕が何の気遣いも無しに語り合える血を分け合った愛しい人。その人だ。


「僕は最低だ」


「うん、最低だ。正信は最低最悪の人間だ。矛盾に塗れた、哀れで、傲慢な人間だよ。けれど、正信は孤独じゃない。同類の人間の私が居るんだからさ」


 精神が吐き捨てた言葉に、深雪さんは深淵の瞳のまま理解の言葉を紡いだ。顔には、悪魔染みた笑みが浮かんでいる。美しいのにもかかわらず、その裏には人間の立ち入ることが出来ない闇が縫い付けられた、明暗が分かれた笑みが貼り付けらえている。


「だから、ゆっくり理由を捜そうよ。もっとも、このまま行けば正信が入院している間に見つけられそうだけどね」


「たったの三週間で?」


「うん、今初めて知ったけど、それだけの時間があればきっと見つかる」


 深雪さんは何を理由としているのか分からないけれど、胸をポンッと叩いて、自信満々に僕に伝えてきた。それが虚勢じゃないってことは、深雪さんの紡いだ言葉の声色で分かった。

 でも、どうしてそれだけの自信を持つことが出来ているのかは分からない。まさか、天からの啓示を受けたって訳でもないだろう。もしも、深雪さんの口からその言葉が出て来たならば、僕はこの人と縁を切らなければならない。神は僕が信じることが、どうしても出来なかったものだ。僕は陰ばかりを追って、超常的なものを信じられなかったんだ。だから、それを受容する人も信じられない。


「どうして? どうして、深雪さんはそんなにも自信があるんですか?」


「私の目だよ。私の目は特別なんだ」


「どうして特別なんですか?」


「さあ、それは私にも分からない。いつの間にか備わっていたんだ。慧眼は培われていたわけだよ」


 深雪さんは僕と違ってクマの無い右目元に、指を当てると自慢げに鼻息を立てた。僕と出会ったあの時も、深雪さんは自分の目で僕の内面を言い当てて見せた。僕が孤独で、汚れて、自殺することが叶わずに無意味にも生きてしまった人間だということを深雪さんは、ただ一目見ただけで看破した。前例はある。

 けれど、僕はそれを本心から信じられない。僕はどうしても、これを疑ってしまう。例え、僕がその効果を目の当たりにしていようとも、僕は物資的で科学的な情報が無ければ、深雪さんの目を信じることは出来ない。無条件でこの人を僕を救済してくれる人だと認識できたのにもかかわらず、その人が誇ることは信じられない。


「私の目を信じられないんだね」


 僕の内面を抉り取る様に深雪さんは、不服気に頬を膨らませながら言ってきた。

 ああ、でもこれで信用できる。僕の浅ましい唯物的科学信奉者の装いを脱ぎ捨てて、深雪さんを信用できるように、深雪さんの特別な目も信用できる。


「けれど、今は信じられます」


「だね」


 深雪さんは僕の心持ちの変化をその特別な目で見つめると、今度は下唇に指を当てて、ニヤッと悪戯っぽく笑って見せた。僕もそれに呼応するため、動かない口角を無理やり動かして、不器用な笑みを浮かべる。

 ぎこちない造り物の笑みを見た深雪さんは、目を見開いて驚く。僕の浮かべた笑みが、あまりにも気持ち悪かったからだと思う。何時まで経っても、気の利いた言葉も言えないし、気の利いた表情も出来ない。

 僕は何時まで経っても成長しない人間だ。どれだけ、自分の内面の進化を望もうとも、僕は内面を成長させることが出来ない。それどころか、僕は退化してる。僕の精神的潔白の絶頂は生まれたその時だ。そこから僕の純白は零落している。今となっては、地に堕ちている。汚れて、汚されて、貶して、貶されて、おぞましい嫉妬と憎悪に巻き込まれて、僕の精神は堕ちた。何事も汚れきったフィルターを通じてでしか、判断することが出来ない。今の深雪さんの目だってそうだ。

 果たして、こんな僕にたったの一か月で理由が見つかるのか? 深雪さんの目を疑う訳じゃない。けれど、落ちぶれた人間に猜疑を晴らすことの出来る理屈の通った理由が見つかるとは、到底思えない。


「大丈夫だよ。例え、正信が理由を見つけられなくても私は見つけられると思う。そして、それは正信にとっての答えにもなるはず。だって、私とあなたは一緒。何もかもが一緒なんだから」


 視線を地に向けた僕の丸まった背中を、子供をあやすように撫でながら僕の耳元で深雪さんはささやいた。その瞬間、僕の背筋はブルッと震えた。言いようの無い悪寒が、全身を駆け巡った。

 おぞましい。何よりも、誰よりも、重くて濁った闇を彼女は抱えている。そのことに、僕はこの瞬間気付いた。人の不幸や苦悩を比べるつもりは、さらさら無い。その重さは十人十色だ。僕にとっての不幸や苦悩は、他人にとってはとてつもなく軽いものとも見なせるし、僕にとって何てことの無いことだって、他人からしたら酷く重いものとも捉えれらる。甚だ、人は自分の内面を他人と比べることは出来ない、けれども意識的に無意味な比較をしていることは、間違いないことだと思う。そして、その無意味な愚行がより進行し、その行為をしなければ自我を保っていられなくなっている状態が今の僕だ。僕は少なくとも、これを自覚していると思う。自分の天秤が壊れきっていることも知っている。

 けれど、その壊れた天秤であろうとも、彼女の中にある不幸や苦悩は、常軌を逸した負荷と、全てを虚に帰す、悪辣で捻じれた闇であり、この世の内で最も重いものと判断した。そして、その闇を解決するだけ理由がこの世にあるのか疑わせた。とても、一か月で理由を見つけられないと本能的に感じる。


「大丈夫。私も私のこれが、酷く重いものだって分かってる。誰にも言い出せず、まだあなたにも言えていないことだし。けれど、きっと見つかるはず。私たちみたいな哀れな人間が揃えば、どんな闇でも、それを死っていう結果で補えるはず。それと私がさっき言った発狂したいっていうのも、嘘だよ。私だって死にたい。というよりかは、違う体で生きたい。でも、そんなことは無理だ。だから死にたいんだ」


「それじゃあ、貴女はずっと僕に嘘を?」


 僕は彼女を恐れて顔を上げることが出来ない。今、僕を溶かそうと甘い言葉を掛けてくる彼女の顔を見たら、僕の自我は崩れると思う。そしたら、僕が求めた自我を持った死は受け居られないまま、僕は理由を彼女に見つけられて死ぬはずだ。

 肩は震える。

 目も揺れる。

 汚濁も徐々に徐々に増して行く。地面は現実と向こうの世界が完全に、混濁した状態だ。僕の足は、その底なしの混濁に飲み込まれて行くような感覚に陥る。

 それでも、僕は言葉を紡いだ。さっきまで、神のように見え、今は僕の自我を飲み込んで行く悪魔に、奥歯をがちがちと鳴らしながら僕は彼女の嘘を尋ねた。


「うん、そうとも言えるね。私はあなたが、本当に死にたいのか確認したかったんだ。それで確認してみたら、中途半端な意志だったから意地悪しちゃった。でもね、あなたは死ぬよ。私が保証する」


 甘い死の宣告を彼女は僕に与える。

 ただ、僕がそれに反応することは出来なかった。僕の体は生きるよりも深い恐怖に、陥ってどうしようもなく震えるだけだ。


「そんなに震えなくて良いのに」


「震えますよ。今の貴女を見たら、誰だって震えますよ」


「そっか。ふふふ、それじゃあ震えるあなたに、少しでも私の闇を理解できるように私の苦悩のヒントをあげる」


 僕の背中で動かす手を止めて、彼女はほくそ笑みながら僕にささやく。


「『星の石。血の同位体。涅槃の三つ目。そこに辿り着く道は壊されて、その先も汚辱に塗れた。全ては暴力』これが私の闇」


「涅槃? どういう意味ですか?」


「それを探るのが、あなたの役割だよ。回りくどい言い方でも、そこから真実を見つけなきゃ。ヒントはこれだけ」


 吐息を僕の耳に吹きかけながら、艶っぽい語調で彼女はささやく。けれど、僕のリビトーは刺激されない。その代わり、僕の内面は縮こまって震える。とうの昔に壊れきった生存本能が、僕の感情を動かして、滅多に感じなかった本質的な恐怖を精神に与えている。

 僕は恐れる。それまで、救世主のように見えていた人が豹変して、とても人間のように見えなくなったからだ。僕が見れない彼女の顔は、今どうなっているのか想像できない。あくどい顔をしているのか、恍惚としているのか、聖母の様な顔をしているのか、それらが全部混じった奇天烈な表情をしているのかは、サッパリ分からない。

 いや、分からない方が僕にとっては良いんだ。それを理解した瞬間、僕は彼女の奴隷になる。隷従しなければならなくなる。そんな関係性は、僕が望んでいた関係とは程遠い。だから、今、僕は、そして今後も僕は何も見ないようにしよう。何も聞かないようにしよう。そうして、孤独の室に籠って、対等な深雪さんの口から得られた情報を考えて、誘惑する彼女の言葉から闇を見出そう。

 ああ、怖い。

 やっぱり、生きる異常に怖いことは無い。永久の眠りに就けば、こんな苦行も無い。ましてや苦痛も無い。一瞬の痛みや苦痛を乗り越えれば、その先には自我も何もない全てが溶け込んだ混沌とした世界が待っている。もしくは、俗世の苦痛よりも辛い地獄が待っているか。

 どちらにせよ、生きるよりはよっぽどマシだ。人生なんて、苦痛の連続だ。生まれて、育って、働いて、そしてうらぶれて死ぬ。人生の無数の工程の中で、一体人間はどれほど辛くて痛い経験をしなきゃいけないんだ。比べられ、蔑まれ、軽蔑され、羨望され、貶められ、憎悪を抱き、溜飲を飲み下して愛し、命を紡ぎ、命を失う、そして最後にはそれら全部の工程を無に帰す死。人の世は凄惨だ。

 理解できない。いや、理解してはいけないんだ。数十億と居る人間の人生の意味なんて、理解してはいけない。そうなる様に、この世は仕組まれているんだ。きっとそうだ。そうじゃ無ければ、世紀の大天才たちが僕ら人類の生きる意味を、人生という喜びから始まって悲しみで終わる、零から始まって零で終わる工程の全てを証明してくれているはずなんだ。

 けれど、この二十一世紀になっても人生は黒い箱の中だ。誰にも開けられない、どれもが見たくない箱の中身に人生の意味が入っているはずだ。きっと、その箱を空けることの出来る鍵を精神の闘争の中で、鋳造できた人も居たはずだ。だけど、誰もがその鍵を持ってして、箱を開けなかった。それを開けてしまったら、自分の一生涯全てが崩れ落ちてしまうことが必至だからだ。知らない方が良いことの最たる例だ。全ての知ることは、全てを忘れることだ。

 ただ、彼女は、いや深雪さんと僕はその鍵を鋳造して黒い箱を開けようとしている。そして、彼女は僕よりも先に鍵の金型を作っている。僕はその作業を手伝っているに過ぎない?

 いいや、僕も自分の鍵を作っているんだ。僕も僕だけの箱を開けたいと願っているんだ。けれど、彼女は、今僕の背中をさすっている人は、僕の箱を壊そうとしている。

 なるほど、だから僕はこの人をこんなにも恐れているんだ。彼女は単一的個人の箱を認めていない。僕の人生も彼女の人生も、そしてこの世に生きとし生きる全ての人間の人生をいっしょくたに混ぜ合わせている。そして、全人類共通の意味を、それと背反する自殺に足り得る理由を探し求めているんだ。

 単一と集合、僕と彼女とが目指す目標はかけ離れている。でも、どうして、それなのにもかかわらず僕はこの人に魅かれたんだ? 真逆なのにもかかわらず、自分の理屈を歪めてでも、この人に魅かれたんだ? そして、どうして僕と彼女が同じだって彼女の慧眼が認めたんだ?


「それを探すのも、あなたの仕事だよ」


 暫時、声を紡がずに子犬のように震えてた僕の心を再び彼女の慧眼は抉った。そして、彼女は僕の役割を告げると立ち上がって、僕の頭にポンッと手を乗せた。


「それじゃあね、正信。また来週もここで、会おうね」


「ええ……」

 

 僕は最後まで彼女の顔を見れなかった。けれど、去り際の深雪さんが屈託のない笑みだけは見ることが出来た。深雪さんの無邪気な表情、着こなした制服姿、そして痛々しい青空と滑らかな陽光はモネのある絵を彷彿とさせる。僕はあまりにも美しい絵画の世界に、満足のいかない別れを告げて、僕から離れて行く彼女を見送った。

 失われた安定した大地は、再びその姿を取り戻した。汚濁に塗れた世界も、徐々に徐々にありのままの形に戻って行った。痛々しい自然は、緩やかな温もりを持つ春の風で僕と去り行く深雪さんの頬を撫でた。

 通り過ぎる風に従って、僕の怖気付いた心持ちは普段通りの歪な形に変形する。そして、彼女から深雪さんに戻った。全ての雰囲気は、麗らかな午前の日差しの中で揺れる草音の中に吸い込まれて行く。


「痛い」


 優しさに満ちる春とは裏腹に、僕の中に潜む寄生虫はうごめき始めた。

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