和やかな時間
僕らはひとしきり笑い終えると、微笑みながら顔を向き合わせた。真斗の顔には、爽やかな諦めの残像が微かに残っている。
腐臭が消え去った真斗は、今までより、より一層輝いて見える。けれど、僕の腐れが取れることは無い。むしろ、こいつの光に当てられて、腐った部分がより目立つようになった。それでも、今までよりも随分と呼吸はしやすくなったし、日常生活の弊害も取れたような気がした。それまで感じていた自然に対する痛みも今は感じない。
ただ、僕の体を苛む痛みは取れてくれない。痛みは少し引いたけれども、僕の体は相変わらず少々の痛みと悪寒に襲われてならない。汚濁も文字列も、薄れて行ったけれど、完璧に消えたわけじゃない。瞼を閉じれば文字列はチラつくし、瞼を開ければ、汚濁は視界の一割を占める。それらがちらつく度に、僕の体は鋭利な痛みに襲われる。注射針が数秒おきに、頭に刺されているような嫌な感覚だ。
嫌悪すべき感覚に包まれながらも、僕は二十年来扱うことの出来なかった模造の微笑でそれを取り繕う。死に際になって、まさか成長できるとは思わなかった。
「ああ、いい気分だよ。こんな晴々とした気分になったのはいつぶりだろ。清々しいよ。兄さんもそうだろう?」
「まあ、それなりに良い気分ではあるよ」
「それなら良かった」
真斗も僕の体調不良に、気付いていないみたいだ。青白い顔色を隠してくれるこの光には、感謝を捧げなければいけない。
僕の容態を心配することなく、真斗は落ち着き払って微笑む。ただ、突如として何かを思いついたのか、O字型に口を開いて、壁に立て替えておいたギターを手に取って、僕に差し向けてきた。
「兄さん。久々に歌ってよ」
「良いよ。今は調子が良いからね。僕のか細い声が保つ限り、歌い続けようか」
真斗を喜ばせるために、僕は嘘を吐きながらギターを受け取る。そこに僕は少し嫌悪感を覚える。嘘を吐くことが、今更になって醜く感じられるようになった。
僕はどうしたいんだ? コンプレックスは解決した。そして、猜疑にかかる
けれど、その正体は分からない。外形が見えたとしても、影の奥な潜む本体は見えずじまいだ。
それに彼女の闇の正体も分からない。あの暗号が何を示しているのか、僕の賢くない頭では、丸っきり何も分からない。
いや、でも、僕の目の前にその暗号が解けそうな奴がいるじゃ無いか。血を分けた賢弟が。
「なあ、その前に少しだけ、謎解きに協力してもらっても良いかい?」
「うん、兄さんの歌が聴けるなら、なんだって協力するよ」
僕の下手くそな歌を目を輝かせながら待つ真斗は、僕の頼みを二つ返事で受け入れた。早く僕から提示される問題を解決して、僕の歌を聞きたいから後先考えずに返事をしたんだろう。
複雑な僕らの関係性を是正しようが、結局はいつも通りだ。こいつは、変わらずに僕を求めてくれる。僕からしらたら全く持って無価値な見返りを求めて、こいつは動く。そして、僕もそれを知っているから頼むことが出来る。昔だったらこの行動に罪悪を抱いたはずだ。けれど、今はそういった感覚を覚えない。僕とこいつが本当の意味で対等になったからだと思う。
でも、今は感慨に浸っている場合じゃない。僕は僕自身のために、彼女から提示された謎を解かなければならない。
「『星の石。血の同位体。涅槃の三つ目。そこに辿り着く道は壊されて、その先も汚辱に塗れた。全ては暴力』これの意味って分かるかい?」
彼女の紡いだ一言一句を思い出しながら、僕は謎を提示した。
ただ、僕の体は謎を紡ぎ終えると、つい数時間前の雰囲気を思い出して、ぶるりと震えて粟立った。びくびくと震える僕の体は、言いようも無い悪寒を帯びた。これは僕の死を望む理性を越して、本能が生存に訴えかけた証拠だ。これを解決すれば、僕の運命は少なからず動かされることを本能は危惧しているんだろう。そのせいで、僕の体は冬の隙間風に当たったように、反射的に震えた。そして、僕が手に持っていたギターの六弦をぱちんとはじいてしまった。
けれども、真斗に僕の震えは見えなかったし、聞こえてもなかった。こいつは僕から謎を提示されると、すぐさま考えに耽り始めたんだ。僕はその瞬間を見ていなかった。でも、こいつの性分はそうするに違いない。
聡明な真斗は顎先に手を当て、瞼を閉じて、足を組み、丁度ロダンの『考える人』の様な体勢で思考の海に飛び込んでいる。静かに呼吸音を立て、時々口を動かして、思索に耽っている。知恵の形而下物は、目の前で静かに鎮座している。知と体の均衡を崩さず、黄金比を保った混合的な美が現れている。
僕はそれを汚せない。いや、汚すことが出来ない。それなら、僕はこの知恵に富んだ博識者に思考を委ねよう。そして、こいつが思考の海から上がってきたとき、疲れを癒す歌を思い出そう。ローレライの調べ? そんな気の利いた歌は歌えない。だから、小さな歌をこいつに与えよう。
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