第18話 それでも今でもサイゼリヤは美味しい
寝ぼけ眼で電話を取って、声を聞いてからそういえば久しぶりのような気がする、と思った。外はもう暗く、自分が何時間眠っていたのか、そもそもいつから眠っていたのかを思い出そうとしたが、分からなかった。
「今から出られる?」
サキマリの声は硬く固まっていた。
「ちょっと話したいことがあって」
「あ、うん。いく、行くよ。どこに何時?」
「8時にサイゼ」
時間を細かく刻まれたわけでもないのに、私は焦って自転車を飛ばした。店に入るともうすでにサキマリは着席していて、ひらひらと手を振るので、すこしだけほっとした。着席すると、早いじゃん、と軽いのに硬い声がする。
「そう? まぁ、ほら近いから」
「ご飯は?」
「まだ」
「じゃあ頼もう」
私はいつも迷って同じものを頼むし、サキマリは迷わず同じものを選ぶ。自然私たちは、同じような席で同じような景色を拝みながら、同じような話をすることになるのだ。いつも私の方が食べ終わるのが早く、サキマリはあと数口、たぶん五口くらいのところで口を開いた。
「ノリくん覚えてる?」
私はいつも人の名前を覚えていないけれど、さすがにノリくんは覚えている。それなのにすぐに頷けなかった。明日歌ちゃんの顔が浮かんだ。人生はどこで何が起こるのか分からない。先になにがあるのかは分からないが、頷けば話が先に進んでしまうのは確実だった。
けれど私が何か言う前に、サキマリは口を開いた。
「ナイトサファリ行ったじゃん?」
最初に会ったときのイベント名は、たしかにそんな風だった。サキマリは日常のなんでもない出来事にすぐ名称をつけたがる。
「ああ、ノリくんね。あの、いい匂いのする女の子と一緒にいた」
「そうそう。明日歌ちゃん」
「うん。明日歌うと書いて明日歌ちゃん」
「加賀にしてはよく覚えてるじゃん」
「そう? そうかも」
サキマリは私がノリくんと明日歌ちゃんと三人でご飯に行っていることを知らないらしかった。別に隠すようなことでもないのに、急に後ろめたくなってしどろもどろになる。
私はできればもう、サキマリには隠しごとをしたくなかった。
「なんか幼馴染らしいよあの二人」
「そーなんだ」
「そんで付き合ってないって分かってから、マトペがずっとノリくんノリくん言ってたじゃん?」
「言ってたっけ?」
それは本当に覚えてなかった。マトペがどんな言語を使ってどんなことを述べているのかを、私は気にしたことがない。
「言ってたんだよ。マトペってさ、一度こうなるとこうじゃん」
と、サキマリは頭に角をつけて、前に進むようなジェスチャーをした。架空の牛が赤マントに突っ込んで、ひらりとかわされる。私の頭の中で、ノリくんは何度も何度もマトペをかわしたが、途中で本当にちゃんとかわしたのだろうか、と不安になった。まさか。
「私もさ、協力してって言われて何度か三人で会ったんだよね。ほら、加賀がこられなかった時」
「三人っていうのは――マトペとサキマリとその、ノリくん?」
「うん」
「そうなんだ」
サキマリはそれからもぐもぐと最後までご飯を食べ続けた。妙な間だった。何かを言おうとして、それを憚っている人間の間のように私には感じられたが、気のせいかもしれないと思った。何かの気配があるけれど、気配なんて、実際はことが起こってしまってからじゃないと存在できない。けれどともかく、私はこの間を引き伸ばしたかった。
「えっと、サキマリ、デザート頼む?」
「いや、私はいい」
「あ、そう」
「加賀は?」
今から頼んでも間に合わないかもしれない。デザートが来た所で何にもならないかもしれない。焦って目を動かしたが、食べ物の位置を全部記憶してしまっているはずのメニュー表を見ても、何も頭に入ってこなかった。
「昨日、ノリくんと二人で会ったんだ」
それがサキマリの話したいことに違いなかった。
「二人で」
「うん」
「そっか」
「ノリくんがどうしようもない人間だってことは分かってる」
「え、そう? どうしようもない?」
うろたえて私は何か変なことを言ってしまいそうになった。ノリくんは黒いうまい米を食わしてくれるし、私の好きな駄菓子を覚えていてくれるし、私のために硬いプリンを願ってくれる。けれど、サキマリが私と同じノリくんを見ているはずなどないのだ。そう思うと、サキマリの声も他人みたいに聞こえた。
「あの人、基本的に一人の人間と付き合うっていう概念がないみたいでさ。マトペともそんな感じだし、役所勤めなのにだらしないし、人の話も聞いてるのか聞いてないのか分かんないし」
私はノリくんのだらしなさを知らない。ノリくんはいつでも私の言葉を正面から受け取ってくれるし、律儀に返してくれるし、一度として私をぞんざいに扱わなかった。それは親しさからではなく、おそらく距離の遠さから。
つまり、サキマリとノリくんはもっと近い仲なのだ。
「マトペには申し訳ないけど、別れられそうにない」
サキマリは深刻そうに何もない皿を見つめた。私は精神がひきつけを起こしたようにほとんど人間らしい感慨を抱けずに、止まった。ようやくどのようなことが起こっているのかを理解したが、あまりの想像外の出来事に、どこも動かなくなってしまった。
「えっと、つまりその、マトペには話してないってことかな、いろいろ」
「話してない」
「二人で会ったとか」
「言ってない」
「マトペはどういう状況なの?」
「たぶん普通にノリくんと付き合ってるつもりなんだと思う」
「そ、そっか」
この状況がどういった事態を引き起こすのか、私にはまったく想像がつかなかった。とても危険なことのようにも思えたし、大したことじゃないような気もした。貞操観念のゆるい男女などどこにでもいるし、私たちの生活のだらしなさを加味すれば、下関係だってだらしなくなければバランスが悪い。こういった事態が今まで起こらなかったことの方がおかしいのかもしれない。
けれど、ノリくんには明日歌ちゃんがいるのだ。いろんな女に手を出してしまうのも、何かのバランスを取るために違いなく、どちらにせよ未来を考えて真剣にお付き合いをしている、ということはないだろう。サキマリもマトペも今まで長く男と続いていないのだし、今回のこともそう深刻にならずとも一時の気の迷いで過ぎ去るのではないだろうか。
そんなことを、考えていた。
「適当にごまかしたら、なんか、どうにかなるんじゃないかな?」
私はマトペが頑固なのを知っていたはずだったし、サキマリが後ろめたいことを続けられるような性格でないも知っていたはずだった。あるいはマトペが何よりも嘘をつかれるのが嫌いなことも、サキマリが調子に乗りやすくどちらかと言えば依存体質なことも、サキマリとマトペの二人ともが、曖昧な状態を放置したまま、日常を続けていく人間ではないということも、ちゃんと知っていたはずだった。
だから私は見誤ったのではない。
「きっと大丈夫だよ」
見ようとしなかったのだ。
こんな風に物事をすぐに楽観視するのは、根が明るいからでも、何かに自信があるからでもなく、ただ未来を見定めたくないからだ。見定めた先にあるのが、薄暗く希望のない現実だと予想がついているからこそ、まやかしの明るさでそれを覆い隠すことしかできない。だから、いつだって本当の未来が来たときには、だたうろたえるしかないのだ。
それから五日後のバイトの休憩中、誰も使っていない廃屋のような狭い喫煙所で煙草を吸っていると、突然サキマリから連絡がきた。
「駄目だった」
その声には前に会ったときのような緊張感はなく、清々しささえ感じられた。いうなれば諦観を乗り越えた人間の出す声だ。明るい気の迷いを携えて日常を暮らしていた私には、その声音はあまりに唐突で、やはり、体を静止させるしか術がなかった。
「だめ?」
「うん。今度詳しく話すけど、マトペとはもう無理だ」
「話したの? ノリくんのこと」
「話した。話して終わった。とりあえず加賀には先に報告しとこうと思って。ごめんねバイト中に」
たぶんマトペからも連絡行くと思う、というその言葉の通り、そのすぐ後にマトペからも電話が来た。
「聞いた? あいつマジ最低っしょ。別に私はノリくんとやったこと怒ってるわけじゃないんだよ。好きなら好きって言ってくれればよかったって話。そうでしょ? 言わないってことは、私を信じてないってことじゃん。それだけの仲だと思われてたことがショックで怒ってるの。でもそれを分かってないんだよね。しかも一度ごまかそうとしたし。マジでありえない。加賀も付き合う人間考えた方がいいよ。サキマリさあ、ノリくんと三人で会ったとき加賀のことうつ病だとかいって笑ってたから。私それ本当に許せなくて。だって加賀がうつ病なのは加賀のせいじゃないし、そもそも何も知らない人間にそういうこというのってありえないじゃん。加賀だって嫌でしょそんなこと言われるの。まぁ加賀の人生だから口出ししないけど、私はもうサキマリとは会わないから。そのつもりで。今度また詳しく話すからまたどっかで会うべ」
じゃ、と声がする。
「え?」
うつ病ではない、という言葉をねじこもうとしたが、電話はもう切れていた。
「あれ?」
こうして、なんの前触れもなく私の日常は終わった。
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