善悪みだり
犬怪寅日子
第1話 三人組の後部座席は侘しい
三人組の後部座席は侘しい。
軽自動車ならまだしもミニバンの前部座席と後部座席の間には大きな隔たりがある。人間の声は前に向かって飛ぶので後にいると聞き取りづらいし、飛んだ声もやたらにビートを刻む音楽に打ち消されるので時々は完全に聞き逃した。かといって、前のめりになるほど価値ある会話はしていないので、私はいつもシートにぴったり背を付けて座る。
誰もいない三列目から薄暗闇と無音が顔にかぶさってきて、ややむなしい。
「加賀の番!」
前列から声が飛んできて、いつまで続けるのだろうと思いながら考えた。最初はただのしりとりだったのに、途中からきで始まってきで終わる言葉しか許されなくなっている。
「キューバ危機」
「なにそれ」
「わかんない。なんか歴史のやつ」
たぶんキューバが危機だったのだろう、と考えていると助手席のサキマリが携帯で調べはじめた。
「嘘だったらやり直しだから」
「私にだけ厳しくない?」
キリンの幹も黄緑の目利きも既存の言葉じゃなかった。存在する言葉を出したのだから評価してくれてもいいのではないか。そう訴えようとしたが、ちっという声だけの舌打ちが聞こえたのでやめた。キューバ危機はやり直しを免れたが、木原さんの天気のあとに肝試し基金が出てきて、しりとりは正しく終わりを迎えた。
運転席のマトペが煙草を咥えて、隣のサキマリがそれに倣う。やや時差があり煙が後部座席に漂ってきたので、私も煙草に火をつけた。
車はまだ国道に入ってもいない。
人生にとって意義も意味もない時間は過ぎていくのが遅い。
どうやら私たちはもう完全に大人になってしまっているらしい。若いといえば若いのだろうが、学生のような純粋な若さからは三歩くらいはみ出している。それなのにまだ互いをあだ名で呼び合い、訳もなく集まり、意味もなくしりとりをしている。あの頃と何一つ変わらず、同じことを繰り返して。
所詮は若さのパロディだ。
いつまでもこうして過ごしていくのだろう、と意識さえしなかった頃がオリジナルで、その次にいつまでもこうして過ごしていくに違いないという確信の中で過ごす続編の日々があった。そうして今では、いつまでもこうしてはいられないのだと意識しながら、いつまでもこうして過ごしていくに違いないと、すべての日々を模倣している。
オリジナルは遠ざかる。
ずっと同じ人間で生きているはずなのに、なぜなのだろう。なにかが変わったのか、変わったのだとすれば、なにかを失ったのか、それとも獲得したのか?
なにひとつわからない。
ただ過ぎる。
「あ、凪野」
マトペが窓を開けて、半身を外へ乗り出した。交差点の向こう側へ大きく手を振っている。
「凪野!」
サキマリも同じ窓へ身を寄せ、手を振った。後部座席は途中までしか窓が開かない上にスモークが貼ってあるので、凪野の全貌をはっきり捉えることは出来なかった。前部座席に乗り出そうかと腰を浮かせる前に信号が変わって、車が発進する。交差点を進むわずかの間に、スモークの点々の間から、ママチャリの前と後ろに子供を乗せた凪野の姿が見えた。
まるで主婦だ。
実際に主婦なのだろう。
「あいつ今何人子供いんの?」
蓋を開くと光る灰皿に煙草を突っ込みながら、マトペが言った。私が知っているのは三人目の子供が生まれたときまでで、それはもう四年も前のことだ。
「五人じゃない? 連れてたのはたぶん三人目と四人目」
サキマリの答えに、なんとなく何かを思い出したような気がして、私は少しだけ声を張った。
「三人目と四人目が同じ父親?」
ちがう、と声が返ってくる。
「四人目と五人目が同じ父親。三人目が松富の子」
松富も同級生だが顔が思い出せなかった。それ以外は父親が違うのだ。たしか一人目を産んだのは高校のときで、子供を堕ろしてはいけない宗教だから仕方がないとか、仕方がないということはないだろうとか、そんなような話をしたのも、もうかなり前だった。
「久しぶりに見たな、凪野」
凪野とは中学二年の時に同じクラスだった。サキマリもマトペも同じクラスで、あの頃が人生で一番楽しかった、という話ももうここで何度したか分からない。車は聞き飽きているだろうが、私たちは話し飽きることがない。
前部座席から聞こえてくる鉄板の思い出話に参加しながら、私は凪野のすばしこい小動物じみた動きを思い出していた。凪野とは同じグループに所属してはいたが、同じグループに所属しているということ以外、特別な繋がりは一切なかった。
サキマリと凪野は小学校が一緒だったし、マトぺと凪野は塾が一緒だった。私は部活も委員会も実験の班も誕生月も、卒業するまで一度も凪野と一緒にならなかった。
けれど凪野はたびたび私の名前を呼んだ。
「加賀!」
遠い場所から大声で呼び、ただ呼ぶだけの時もあれば、盾になれと言われることもよくあった。凪野は給食がパンの日には取っておいて、掃除の時間に担任にちぎって投げることを趣味としていたから。そういう時、私を盾に使うのだ。
「動くな加賀」
私は学年で一番背が高く、凪野はクラスでニ番目に背が低かった。給食のときではなく掃除の時間にパンを投げるのは、その後すぐにちりとりで回収出来るからという凪野なりの配慮らしい。なぜああも担任にパンを投げたかったのかは分からない。
あるいは凪野は私に、髪の毛を引きちぎる許可をくれたこともある。
在学中ほとんど金髪でいた凪野は、もともと粗悪な染め粉を使っていたことや、始業式や面談などの行事があるたびに輪をかけて粗悪なスプレーで髪を黒く塗りつぶしていたことがたたり、基本的にずっと髪が傷んでいた。それでいつだか赤髪に挑戦した時、凪野の髪はついに限界を迎えたのだった。
髪を引っ張るとゴムのように伸び、ちぎれるようになったのだという。
サキマリとマトペが面白がって、触らせろと凪野を取り囲んでいたのを覚えている。触るなと大声で叫びながら、凪野は野山の動物のように机と机の間をどたばたと逃げ回っていた。そのあいだ私は、机五つ分離れた場所で静かに衝撃を受けていた。
髪の毛が伸びるのも意味がわからないし、ちぎれるという表現はもっと分からなかった。分からないが、空恐ろしい事態だということだけは分かる。実に関わりたくない。
凪野は、目ざとくその私を発見した。
「加賀になら触らせてやってもいい。おい加賀!」
「い、いやだ」
本当に嫌なので誠心誠意辞退したが、凪野は追いかけてきた。
他人の髪を引きちぎるなんて、そんな恐ろしいことはしたくはない。私は必死で逃げたが、足が遅いので廊下の非常ベルの前で簡単に追い詰められた。近くで見ると凪野の髪は赤というよりは橙に近く、干からびたナポリタンに似ていた。一本一本が細かくうねり、縮れ、全体的に空気を含んで頭が一回り大きくなっている。
その膨れた頭を、凪野はぐいぐいと私の体に押し付けた。
「早くひっぱれよ、ほら」
予鈴が鳴った。
しかし引っ張るまで凪野はどきそうにない。仕方がないので、おそるおそるその頭に手を伸ばした。膨大な毛の中から一本をつまむというのは思いの外難しい。おまけに急かす凪野の圧力にまごついて、私は摘んでいるのかいないのか分からないような状態のまま、思い切り手を引いた。
「いたっ!」
ぷつんと音がして、三本の髪の毛がちぎれず根っこから取れた。
「下手くそ!」
罵倒を残して凪野はさっさと教室へ帰っていってしまった。取り残された私はどうすればいいのかわからず、髪の毛を持ったまま自分の席についた。机の上に置いて眺めてみると、それは先に行くほど透明度が増し、細くなっている。先端が髪とは思えない消えいり方をしている。幻みたいな髪の毛だった。
そのまま授業を受けて、一本は目を離した隙にどこかへ飛んでいってしまった。いないとなると急に惜しくなって、床を目だけでそろそろ探したが、見つけられなかった。
ベランダ側の一番後ろの席で、私は密やかに残った凪野の髪を両方から引っ張った。それは他の何とも違う弾力で伸び、ある地点でぱちんと弾けてちぎれた。伸びるとちぎれるの間がどこにあるのか知りたくて、髪がなくなるまでちぎって遊んだ。
「まぁね、凪野は本当に悪いことはしなかったから」
気がつくと前部座席の凪野の思い出話は、すでに終着点に至っている。凪野、という言葉が出る時の話の終わりは、必ずこの言葉でもって迎えられるのだった。凪野は本当に悪いことはしなかった。
私たちにすれば、担任にパンを投げつけるのも、ワキガの社会科教師の顔に制汗剤を振りかけるのも、授業中に空き教室で大貧民をやるのも、本当に悪いことではない。
本当に悪いことというのは、例えば授業ができなくなるほど騒いでドアを壊したり、他校の生徒と喧嘩して遠足の行き先を江ノ島から近所の山へ変えたり、合唱コンクールの練習に出なかったりすることを指している。少年時代の小さな世間には、斯様に独自の厳密な善悪の堺があるのだ。
凪野は本当に悪いことはしなかった。
その言葉に頷くとき、私は心の底からそう思っている。けれど同時に、心臓のそれほど重要ではなさそうな端の部分が微かに焦げたように感じる。凪野は本当には悪いことはしなかった。たしかに。ちりり。と、そんな具合で。
異論も反論もないが、すこし焼ける。
それは私が凪野の行った、本当に悪いことに加担した過去があるからだ。
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