第2話 あの漫画を愛しているのは君だけ
中学の図書室前の廊下はどんなときでも有り得べからざるほどに暗く、湿っていた。
どういうわけだが私の通っていた中学では、二年の教室だけ別の校舎にあり、その禍々しい淀みのような図書室は二年の校舎にあった。その二年の校舎と一年と三年がつかう校舎を結ぶ渡り廊下は、これもまた有り得べからざるほどに明るかった。
渡り廊下の光彩を受けたあとに見る図書室前の廊下は、虚無に似ていた。しばらく立ち止まってじっと眺めてみないと、そこに何があるのか認識できない。だからかどうかは知らないが、図書館を使用する人間は少なかった。
その日の私は昼休みが終わって本鈴が鳴ってからトイレに行きたくなり、渡り廊下を渡ってトイレに行って、帰ってきたときにそこを通っていたのだった。
突然、淀みから声が掛かった。
「加賀!」
私が目をくらませているあいだに凪野はこちらまで走ってきていた。
「お前いいところにきたな!」
と、凪のは強く私の腕を掴んだ。
「え、なに」
「ちょっとこい」
「いや、授業」
「数学だろ。お前出ても変わんねえべ」
たしかに、それは一理どころか真理だった。私は絶望的に数学的事象に弱く、授業をほとんど受けていない凪野よりはるかに数学の点数が悪かったのだ。分数の掛け算でつまずいている人間に連立方程式の謎が解けるはずない。
凪野は図書室の入り口から五歩くらい離れた場所まで私を引きずっていって、壁に向かって仁王立ちした。
「肩車」
「え?」
「かたぐるま!」
「するの? 私が? 凪野を? むりでしょ」
私は学年で一番背が高かったが、たぶん学年で一番筋力がなかった。組体操の時も近所の柿を盗むときも、自分より3センチ低いマトペに肩車をしてもらっていたのだ。運動会のときには、他と比べてあまりに頂点が高いので目立って恥ずかしかった。
「お前ならできる」
圧に負けて私は凪野の股の下に首を差し入れた。首というより頭の方に重みが加わっていて、こんな風だったろうかと思う。肩車の正しいやり方が思い出せない。けれど、これが間違っていることだけは分かった。凪野は私の後頭部に股をのせたまま声をあげた。
「いけ! 持ち上げろ!」
「いや、なんかちょっと、協力してくれないと無理なんだけど」
「は?」
「頭じゃなく肩に乗って、いや、もうちょっと前、ちがう、そうじゃない」
「こら! あきらめるな」
「凪野が乗るの下手なんだよ」
それにどう考えても立ち位置が悪い。壁のぎりぎりに立っているから、垂直に持ち上げないといけない。相当屈強な首の持ち主ならいけるのかもしれないが、私の首は脆いし、そもそも立ち位置を変えた所で持ち上げられそうになかった。
それでも叱咤されて、私は何度か肩車を試みたが、凪野があばれるのでバランスを崩して、最終的に尻もちをついて終わった。へたくそ、とまた凪野は私を罵倒した。
「仕方ないな。作戦を変えるぞ」
「っていうか何、なにがしたいの?」
私は物理的な筋力の痛みと、授業をサボっていることへの良心の呵責に耐えられず、ふらふらになっていた。凪野は壁の上を示した。
「そこ開けといた」
図書室の上窓を指している。確かこの向こうには、今週のおすすめだかなんだかが並べられている本棚があるはずだ。上窓のすぐ向こうはその本棚の上だ。
「中に入りたいってこと?」
「そう」
今日は日中司書が不在らしく、そういう日は休み時間以外図書室の鍵は閉められている。加えて放課後も書架の整理とやらで、しばらく図書室は閉鎖されるのだという。
そのころ、本を読むのは根暗の明かしで、教室で本を読んでいるのは、ある種の覚悟を決めた人間だけだった。当然、私のグループに本を読む人間はいなかった。私も絵本から漫画へ移行した人間だったので、そもそも図書室にあるような本を読むことはなかったが、本を読むという行為に憧れはあったため、ときどき難しそうな本を探しに図書室へ行っていた。
最近、たしかに図書室で凪野を見かけていた。授業中でもすこしもじっとしていない凪野が座って本を開いている光景は、はっきりいって異様だった。理解できない絵画に似ていた。
図書室には手塚治虫全集と、日本の歴史シリーズだけ漫画の設置が許されていたのだ。
「ブラックジャック?」
「うん」
凪野は闇医者にぞっこんだった。一緒に読んでいた他のヤンキー連中はすぐに飽きたようだが、凪野だけが図書室に通い続けているのは知っていた。
けれど昨日までは毎日図書室は開いていたのだ。
「借りればよかったじゃん」
凪野は顔をしかめ、うるせえと私の足を軽く蹴った。
「借りれないんだよ」
ふてくされたようにそれだけ言って、今度は壁を蹴った。
素行が悪いから貸し出しは出来ないとでも言われたのかもしれない。図書室の司書は本を好む人間以外を知的生命体だとは思っていない節がある。あるいは担任からそういう働きかけがあったのかもしれない。真相はわからないが、ありそうな話ではあった。
しかし一体、凪野ほどあの本を愛している生徒がいるだろうか。金輪際いないように私には思える。それだけ必要としている人間に、本を貸さない図書室とは何なのだろう。
「肩車はむりだから、なんか台持ってくるよ」
どこかの準備室にあるだろうとそう言うと、凪野はぱっと顔色を明るくさせた。
「そうだ、お前ここに四つん這いになれ」
「え、なに、いや痛い、ちょっとまって」
ほとんど押し潰されるようにして、私は壁の近くで四つん這いさせられた。
それは非常に馴染みのある体勢で、めくるめく組体操の思い出がフラッシュバックした。小学校五年と六年、そして中学の一年と、私はピラミッドの一番下の段の真ん中でいつもこんな格好をさせられていた。なんなら小学校四年のときも練習するのに人が足りないとかで、五六年に混じってやはり、一番下の真ん中でこうしていた。
あれは膝の皮膚に小石がつまるので、やるまえに砂をすべて払うのがコツだ。
「もっと高くしろ」
「いや、どういうこと?」
これが四つん這いの上限だ。腕も足もこれ以上伸びようがない。
「そっから立ち上がれ」
「だからどういうことよ?」
私の背中には凪野が乗っているのだ。ここから立ち上がるなんてことが人類に可能だとは思えない。そう言おうとした時、窓を開く音がして、背中の重みが取れた。
「立て! 加賀!」
「え? え?」
ともかく立ち上がった。
「いてっ」
肩を強かに蹴られる。避けても避けても上履スタンプが上から落ちてくる。どういうことだと上を見ると、凪野は上窓から向こうに手を伸ばして、向こう側の本棚の減りに捕まっているようだった。パンツが見えている。
「おい、逃げるな。足持て」
「あし?」
とっさに私は暴れる凪野の上履きを両手で持った。手のひらに湿った泥のような、粘土のような、ともかく何か不衛生な感触がした。
「よし! 押せ」
「いやむりむりむり! 痛いって」
「いける! お前なら出来る! いけ!」
「いいいいいい」
「よっしゃ」
のたうち回って私がバランスを崩したあたりで、凪野はするりと上窓の向こうへ体を滑り込ませた。けれどそれは私の頑張りとは関係なく、凪野の身体能力の高さによってなされた事業のように思われた。
青息吐息で見上げると、本棚の上に小さくおさまった凪野が、犬を見るように私を見下ろしていた。
「よくやった。もう帰っていいぞ」
「横暴だ!」
「今度数学教えてやんよ」
「いやむりでしょ」
私が断トツに最下位なだけで、凪野だって下から数えた方が早い。凪野は私の声を聞かずに、本棚の向こう側へ飛び降りた。上窓から凪野の動く気配が聞こえてくる。物音が光の中から漏れ出ている。廊下が異様に暗いだけで、図書室自体は明るいのだ。
しばらくその物音を聞いてから、私は教室に戻り、転んで手を擦りむいたからと教師に告げ、またトイレに戻った。
石鹸で洗った手のひらには、上履きのあとが微かに残っていた。私は凪野のことを考えた。凪野という人間にたいする大人たちの対処について。
図書館が本を貸さないなんて、あってはならないことだ。なぜそんな悪行を犯すのだろう。なぜそんな仕打ちを。
それから数日後、朝礼の時間に担任が「図書室の本が盗まれました」と鹿爪らしい声と顔でやりはじめた。これは犯罪であり、あってはならない悪いことだ、というその言葉は、明らかに凪野に向かって放たれていた。司書は凪野が足繁く図書室に通っていることをもちろん知っていただろう。その凪野の読んでいた本がなくなったのだから、彼らは当然凪野が犯人だと思っている。全員に向かって説教をする、ということで凪野になんらかの感慨を与えたいと思っているのかもしれない。
私は凪野より前の席にいて、凪野がどんな風にそれを聞いているのかは分からなかった。
じきに図書室からはすべての漫画類が撤去され、このできごとは晴れて、本当に悪いことの仲間入りをはたした。ブラックジャックが置かれていた場所にはしばらく張り紙が貼られていた。
曰く、みんなが平等に読めるために図書室はあるだとか、今後このようなことがあれば一層管理が厳しくなるだとか、持ち出した人間は正直に名乗り出ること、だとか。
凪野も私も名乗り出なかった。
二人でその話をしたこともない。その後もいつものように机をくっつけ、同じグループで給食を食べ、早食い競争をして、体育の時間に風よけにされ、音楽の時間にアルトで一緒の旋律を歌った。凪野はブラックジャックを返さなかったが、そのうちに誰もそのことを口にしなくなった。張り紙もなくなった。
でも、私はずっと覚えている。
私はいまでも、あのできごとを本当に悪いことだとは考えていない。それが私の分別だった。凪野は本当に悪いことはしなかった。それは本当のことだ。なのに、なぜかそのことを思うと心臓が焼ける。焼けなくていいのに、すでにちりりと焼けている。
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