第3話 理由はないけど国道に出る

 凪野とは別々の高校に入学して、在学中に子供を産んで退学したらしい、という話は聞いていた。もしかしたら産んだ後に何度か会ったかもしれないが覚えていない。会ったとしても大人数のうちの一人として会ったのだろう。私が凪野と二人で会ったのは、あの図書室での一件と、もう一回は大学一年の秋口だ。

「加賀!」

 道を歩いていたら呼び止められて、振り向くと、凪野が自転車の前と後ろに子供を乗せていた。

「すげー久しぶりだな!」

 凪野の声は相変わらず神出鬼没に空気を突き抜いていた。顔つきも中学のころと一切変わっていない。髪は金ではなく茶色になっていた。夕方の、水辺だった。川というには狭くどぶというほどには汚れていないが、時々自転車が落ちているような水路のそばだ。

「うん。ひさしぶり。元気?」

 私はほとんど子供を無視して凪野だけを見た。同級生が子供を産んでいることが恐ろしかった。

「おー元気元気。お前、今なにしてんの」

 気軽に凪野が聞いていて、私は言葉を吟味するタイミングを失い、ありのままを答えてしまった。

「バイトしてるふりしてる」

「は?」

「あ、いや、この前バイトクビになったんだけど、家族にバレたくないから時間つぶしてる」

 私が大学を十日も通わず辞めたことを、凪野が知っているのかどうか分からなかった。狭い世間だから知っているかもしれないし、知ったとしても忘れているかもしれない。私は早くも人生に完全に失敗していて、人間と普通に話す能力さえほとんど失っていて、その欠如をカバーするために嘘ばかり吐くようになっていた。

 本当はクビになったのではなく逃げたのだ。

 その四日前、サキマリの兄に紹介してもらったバイト先の化粧品工場で、勤務中に居眠りをしていることを元ヤンの金髪の上長に怒られたのがショックで、気がつくと私は勤務中に自転車で遁走していたのだ。一体どうしてそんなことをしてしまうのか、自分で分からなかった。そのころはちょうど、自分は頭がおかしいのではないかと真剣に考え始めていたころだった。

 凪野は一瞬ぼうっとしたかと思うと、急に大きく笑い出した。

「まじか! 加賀プーなのけ!」

 そう言って私の二の腕のあたりをばんばん叩いた。

「い、いたい」

「いいじゃんプー太郎! 楽しそうじゃん!」

 それが本当に楽しいと思って言っているのか、私を励まそうとして言っているのかはわからなかった。凪野は教師や嫌いな人間には乱暴で凶悪だったが、身内にはいつでもあっけらかんと優しかったから、少なからず励ましの意味はあったのだろうと思う。

「遊びたい放題じゃん。こんなとこいないでもっとどっか遊びにいけよ」

「どっか」

「ゲーセンとか」

「ゲーセン」

 そんなに音のある所に行ったらいよいよ発狂してしまうかもしれない。けれど、凪野に言われると、それもいいような気がしてきた。それほど親しくない間柄だからかもそう思えたのかもしれない。近くの人間にそう言われたら、きっと落ち込んでいただろう。

 だってよぉ、と凪野は続けた。

「子供できたら全然遊べねぇよ? 妊婦だと酒も煙草もだめだし」

 そもそも未成年だ。話しぶりから察するに、凪野の腹の中にはまた新しい子供がいるらしい。私はそのとき初めて、自転車の前と後ろに乗っている小さな人間に目をやった。前に乗っているのはさっき生まれたような大きさをしていて、自転車のベルを触って、何事か声を発していた。

「凪野は子供がかわいいと思ったりするの?」

 私には恐ろしいという以外、子供に対する感情がひとつもなかった。

「なんだそれ! お前相変わらず変だな」

 その時、前に乗っている人間よりふた周りくらい大きい後ろの人間が物音を立てた。凪野が例の小動物じみた動きで振り返る。

「こら! 家に帰ってからって言ったでしょ」

 後ろにいる大きめの小さな人間は、買い与えられたお菓子だか玩具だの袋を開けようとしているらしかった。もう一言だか二言、凪野は後ろの小さな人間に注意を与えた。

 凪野はもはや子供に善悪を教える立場になっているのだ。

 子供を産んでしまえば個人の人格は終わってしまうに違いない。凪野はもう元の凪野には戻らない。昼休みに学校を抜けてコンビニで買い食いをしていた凪野も、出来たばかりのショッピングモールでルーズソックスを五本も盗んできた凪野も、もう終わってしまった。

 夕日が水に反射して、瞳の水分を低い温度でじりじり焼いていた。過ぎていく時間が目に見えるみたいに疎ましかった。過ぎていく時間の象徴のような生まれたての命が笑っているのが憎らしかった。その目が、水をいっぱいに含んで西日でてらてらと光っているのが。

 私は君の母親と本当に悪いことをしたことがあるのだ。

 小さな人間たちにむかって私は念じた。

 君たちはそのことを一生知ることがないだろう。凪野があのときのことを覚えているはずがないし、覚えていたとして、君にそれを伝えるはずはないからだ。君は凪野の新しく正しい分別をのみ与えられ、見て、大人になっていく。何も知らないまま。

 大きめの小さい人間は私と母親とに、何かどうでもよいことを喋りかけていた。凪野は母親らしい手つきで――けれどやはりやや乱暴だった――子供の髪の毛を撫で付けた。また何ごとか大きめの小さな人間が言葉を発して、それに対して私は笑おうとした。結果がどうだかは分からない。それが私と凪野の短い邂逅のすべてだ。

 別れ際、凪野はもう一度私の背中を強く叩いた。

「元気出せ! な!」

 私は、うんとかすんとか言ったと思う。凪野はけらけらと笑って、小さな体に不釣り合いな大きなママチャリに乗り、水辺を走り去った。あそこは私の通学路でも凪野の通学路でもなかったのだ。もう学生ではなかったのだから当たり前のことだ。

 でも私は、そのことがひどく悲しかった。

「この曲飽きた!」

 前部座席からサキマリの声がして、音楽が消え、ラジオから別の音楽が流れ初めた。FMから流れる音は過度に丸みと色彩をはらんでいて、幻めいている。スモークが貼られた窓にはあまり似合わない音だ。黒い点々のついた窓をじっと眺めていると、対向車線を何度も車が走り去っていった。

 車はあきらかに国道に向かっている。私たちはずいぶんと大人になっている。

「ていうか今日どこいくの?」

 いつも最後に拾われるせいで私は大抵行き先を知らなかった。意見を聞かれることなく、すでに目的地が決まっていることが多い。

「ドンキ」

 端的にマトペが答えた。

「何買うの」

「クッション」

 またファーのついたものを増やすつもりなのだろうか。どうして田舎のマイルドヤンキーはみんなしてミニバンにファーを付けたがるのだろう。ごてごてしたハンドルのカバーも、統一感のないぬいぐるみ類も、カエデ型のココナッツの匂いのする飾りも、ここでしか見ないけれど既視感がある。

「ついでにゲーセン行くべよ」

「お前スロットやりだすと長いからやだ」

「加賀だってメダルゲームずっとやってるじゃん」

「メダルゲームから簡単に抜け出せるならこんな人生送ってねぇよ」

「久しぶりにプリクラ撮りたくない?」

「あ、いいね」

「犬連れてくればよかったな」

「あれはウケた」

「私が店員だったらぶちギレてるけどね」

「バレなきゃいいんだよ」

「いやーバレてたと思うけどね」

 凪野は正しい。

 人間は成長したら新しい分別を身につけ、古い分別を若かったと笑い、切り捨てて生きていくのが本当なのだ。いつまでも子供のように、体の気持ちよさだけで善悪を判断するのは、人間の本筋ではない。

「あ。煙草なくなった」

 そう言うと前部座席から煙草の箱が飛んでくる。

「カートンで返せよ」

 中から一本取り出し、火を付けて煙を吸い込む。煙を吐き出す。もう一度煙を吸い込むと、くらくら目眩がした。私の体は煙に合っていない。

 でも、健全なんてくそくらえだ。

「禁煙しなきゃなー」

 前部座席からもう何度聞いたか分からない惰性的宣言が聞こえてくるが、私たちにできるのは、誰にともなく、何度となく、ぬるい相槌を打つことだけだ。

「三十になってからでよくない?」

「たしかに」

「三十になったらさすがにね」

「うん」

 私たちはもうほとんど若さを使い果たしていることを知っている。それでも、ひょっとしたらこのまま生きていけるのではないかという微かな望みを抱え、あと僅かしかない若さを空費している。

 けれど本当は、本当にこの時間が終わるなんてことは考えていなかったのだ。なにがあっても、結局は死ぬまで一緒にいるのだろうと、意識することなく信じていた。

 やはりまだ、若さのうちにあったのだ。

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