第4話 ドン・キホーテのない街

 私たちの住む街にはドン・キホーテがない。

 ドン・キホーテに行くためには国道に出て海沿いを三十分走るか、小銭を払って山中の高速を十八分走らなければならない。小銭といえども金を払って出かけるような場所ではないので、当然海沿いを選ぶ。集まるのは大抵が夜半だから景色もクソもなく、昼間だとしても胸焼けがするほど見慣れた汚い海なので見たところでなんの感慨もない。

「なっちゃん元気かなー」

 サキマリがコンビニで買ったロイヤルミルクティーを吸い込んだついでに呟いた。

 このマトペの車の中でされる会話のほぼすべてを、私たちは既に三十回は繰り返しているが、なっちゃんについてのやり取りだけで言えばもう二百回はやった。あるいは五百回を超えているかもしれない。もちろん回数はただの感慨だ。なっちゃんの話は時候の挨拶のようなもので、いちいち内容を覚えていないので時には却って新鮮な話題に思うことさえある。

「まだ保育やってんだっけ」

 私は毎度そう確認するが、答えはいつも是で、なっちゃんは相も変わらず実家から一キロメートルしか離れていない保育園で、子供相手にどうにかこうにかしているのだった。

「今度呼ぼうよ」

「おお、呼ぼう呼ぼう」

 なっちゃんの話はすぐに終わる。それはなっちゃんが誘えばいつでも来てくれるからで、なっちゃんとはそういうもので、だから私たちはいつもなっちゃんを呼ばない。

 呼べばマトペはドンキでなっちゃんの体に電マをあてがうだろうし、サキマリはココスでなっちゃんのメロンソーダにタバスコを入れるだろうし、私だって健康ランドでいかに自分が上手くタオルでくらげを作れるかを披露し続けるだろう。

 なっちゃんはそれらを楽しんでくれる。私たちはなっちゃんが楽しそうだと調子に乗る。けれどそれは、なっちゃんの生活に必要なことではない。

 だから誰もなっちゃんを呼ばない。

「ライターないんだけど」

「さっき使ってなかった?」

「前見て運転しろよ」

 なっちゃんは煙草を吸わないし、お酒も飲まないし、たぶん夜の十時には寝る。

 日が沈んでから集まって、意味と理由のない時間をただ過ごし、日をまたいでから家に帰るなんてことはしなくていいからしないのだ。しなくていいことをさせるのはきっとよくないことだ、という分別をその時の私たちは持ち始めていた。

 昔はそんなことは構わずに、理由なくなっちゃんを誘い、否応なく無駄な時間をともに過ごさせていた。いつから誘わなくなったかは覚えていないが、私たちが、純粋に若かった頃には、なっちゃんも一緒にここにいたように思う。

 あの頃。

 サキマリは専門を卒業して整骨院で働きはじめ、マトペは芸人がルームシェアをするという体のネット配信番組のADをやっていて、私は近所のつけ麺屋を三日でバックレていた。なっちゃんがその時何をしている人間だったのかは覚えていない。保育園で働くための修行のようなものをしている時期だったかもしれない。

 夏で、ともかく暑かった。それに深夜だったのだ。

 私たちは酒を一滴も飲まず、夕方からバーミヤンに集まって、しこたま中国茶を飲み、食後の愛玉子と杏仁豆腐をめぐりめぐって三回も頼んだ。

「どこいくよ」

「んー」

 という会話だけですでに四時間は浪費していた。浪費に耐えうる精神こそ若さの証なのかもしれないが、好き好んでそうしていたわけではない。私たちが惜しむべきものを何一持っていなかった、というだけの話だ。

 そうして、鳴き声のようになっていた何十回目かの「どこいくよ」の後に、マトペが突然こぼした。

「学校行くべ」

 頭が悪いのに、マトペはときどき飛び抜けて冴えている。それは進化と呼んでしまいたいくらいの革新的な提案だった。私とマトペの通っていた小学校はバーミヤンの真裏にあったのだ。夜の学校に特別な用事はないが、このまま飲んだ分の水分をトイレに還元するだけの時間を過ごすより一億倍は有意義な時間の使い方だろう。

 ネームプレートに副店長と記されている頬のこけた男に睨まれながら個別会計を済ませ、私たちは外に出た。呼び鈴が背後で鳴り、鼻先にだるい空気の匂いがする。完全に外に出てしまうと、暑いとか蒸しているとかよりもまず、重かった。

 あの頃はまだ誰も車を持っていなかったので、連れ立って自転車で小学校まで移動した。

 私たちは――少なくとも私は――校庭を自転車で乗り回すという軽微な罪に高揚していて、ほとんど凱旋に近いような心持ちでいた。

 小学校二年のときに「てつぼうがんばったで賞」をもらう礎となった低学年用の低い鉄棒や、数ヶ月に一人のペースで骨折者を出す危険遊具(私たちはそれを「手シーソー」と呼んでいた)や、マトペが膝を打ち付け大量出血し、のちに保健室で「逆さ女目撃事件」を引き起こすきっかけとなった丸太など、かつてそこにあり、今もそこにあるものが揃って私の成長を喜んでいるように感じられた。

 誰もがやけに高揚した声を上げていた。みんな仏手烏龍茶で酔っ払っていたのだ。

 私たちは「箱根ターンパイク」という意味も理由も分からない呪文を大声で唱えながら、ひとしきり校庭でドリフトを楽しんだあと、遊具を端から端まで遊んでいき、その最後の遊具であるプール前の登り棒を昇った。

 登り棒は登った先が櫓のようになっていたので、そこから足を投げ出し私たちはなんとなく景色を眺めた。満点の星が見えるわけでも、遠くから波の音が聞こえるわけでもなかった。私たちが住んでいるのはひどく凡用な地方都市で、田んぼさえ山の麓にいかないとお目にかかれないのだ。あるのはやたらに低くやたらに横に広い商業施設と、各種ファミリーレストランと、それぞれの身の丈にあった家々だけ。本当にそれだけ。

 で、見下ろすものがプールしかなかったので、当然の帰結として私たちはプールに忍び込もうという気になった。

「え、えっ?」

 なっちゃんだけが困惑の声を上げながら、最後に登り棒を降りた。なっちゃんもそれなりに仏手烏龍茶で酔っ払っていたに違いないが、どうもまだ正気を保っていたらしい。四人のうち一人だけが正気だなんて地獄でしかない。

「やめなよー」

 弱々しく声を上げるなっちゃんを見て、私はひどく不思議に思った。その不思議さが、なっちゃんがプールに入ろうとしないことに掛かっていたのか、私がプールに入ろうとしていることに掛かっていたのかは、正しく測定できなかった。

 私は、どのような過去のどのような場面においても、なっちゃんと立場を同じくしてきた自覚がある。サキマリとマトペは学生の時分から目立って様子がおかしく、良かれ悪しかれあらゆる話題に上っていたが、私となっちゃんは常にその一味でしかなかった。個人としては悪行も名声もない、平々凡々たる一般人に違いなかったのだ。

 プールを取り囲む金網を超えるとき、私は今一度なっちゃんを振り返った。なっちゃんは明かりのない金網の向こうでただの人影としてあった。頭がしきりに動いている。サキマリに人が来たら知らせるようにと言われたから、あたりを見張っているのだろう。

「捕まりそうになったらなっちゃん一人で逃げてね!」

 私は大きめの小声で告げたが、なっちゃんがどう答えたのかは覚えていない。

 プールへの侵入があまりにも容易かったので、私たちは興奮を持て余した。プールサイドをてろてろと歩き、更衣室が開かないことを確認したら、もうやることがなくなった。なんとなく水の入っていない腰洗い槽に腰を落ち着かせて、今後の展望について話し合った。

 このまま帰るのではあまりにもつまらない。

「せっかくだしプール入ろうよ」

「服どうすんの?」

「すぐ乾くんじゃね?」

「着衣水泳はキモいよ」

「じゃブラとパンツでよくね?」

「まぁ機能的にはほぼ水着だけど」

「見た目的にもほぼ水着じゃん」

「たしかに」

 というような話の運びだったかどうか、恐らくはそんなようなところだったろうと思うが、私たちは腰洗い槽の中で服を脱ぎ、下着でプールに入った。一体どんな種類の頭の悪さでそういうことになったのか分からないが、私たちは昔から無茶を好む傾向があり、暗闇で下着になるくらいは大した無茶とは思えなかったのだろう。

 しかし、入ってからわかったが、下着は下着である。機能的にほぼ水着と言ったのは大変な間違いで、水をたっぷり吸って重く、立ち上がると乳と布の間に空気が入ってがぽがぽして気持ちが悪い。下着。あまりにも下着。

 それしか考えられなかった。

 私たちは最初の数分こそ、大いにはしゃいで水を掛け合い、足で捕まえたクロルカルキを投げ合い、どれだけ上手く腹打ちが出来るか次々やってみたりしたが、すぐに飽きてしまった。仕方がないので、赤台で滑り台を作り、それを滑ることをこの催しのクライマックスにしようと決めた。

 そうしてプールサイドに積まれた赤台をサキマリとマトペが移動しはじめたとき、私はふとなっちゃんの存在を思い出した。

「あれ?」

 人影がない。

「加賀そっち持って」

「うん。ねえ、なっちゃんいないけど」

「これこんなに重かったっけ?」

「まぁ水に沈むくらいだし」

「いやなっちゃんが」

「っていうか向きこっちじゃなくない?」

 赤台の構造は左右対称だ。

「向きとかあるっけ?」

「こっちじゃない?」

「えー、なんかへんだよ」

「だから向きとかなくない?」

「じゃこう?」

「うーん」

 そんなこんなでどうにか赤台の滑り台が完成した。

 最初にサキマリとマトペが普通に滑り、面白い滑り方を要求されたので私は後転しながら入った。鼻から水が入って、頭にクロルカルキの匂いが届き、その衝動で私はまたなっちゃんの存在を思い出した。水から顔を上げ運動場を見たが、やはりいない。

「あれ?」

 声を上げたのはマトペだった。運動場ではなくその反対側を見ている。

 そこにはフェンスの向こうに車が一台やっと通れるような道があって、道沿いにはどこまでも住宅が続いている。春山んち、風祭んち、ゆきちゃんち。少し離れた松本んちには、なんと雑種が三匹もいるのだ。

 丑三つ時なので、電気はどこもついていないように見えた。マトペが何を見ているのか、私には分からなかった。

「なに、誰かに見つかった?」

 そう声をかけた瞬間、プールサイドにいたマトペとサキマリが、慌てた様子でプールに飛び込んできた。

「わ! なに? なんで入ってきたの?」

「ばか潜れ」

「え?」

 サキマリはそう言って、鼻をつまみ素早く水に潜った。マトペはすでに潜っている。

 状況に焦って、訳がわからないまま私も鼻をつまんで水に潜った。ゴーグルがないので目をつぶるしかなく、多重の気配を感じる水の音と暗闇を、急に恐ろしく感じた。一体どうしたというのだろう。誰かに見られたのだとしたら、潜っている場合なのだろうか。逃げたほうがまだ可能性があるような気がする。水の中で見つかれば現行犯だ。下着でプールという見出しに世間がエモを感じてくれるのはきっと高校生までだろうから、私たちのやっていることは単なる蛮行だ。世間から強めに袋叩きにされて、この街では暮らせなくなるかもしれない。

 そんなことを考えて、しばらく水音の中でじっとしていた。

 誰かが水の上に出るような気配がした気がして、そっと水面から顔を出しすと、夜の音がした。目に水が入って煩わしい。ぽたぽたと落ちる雫がまた目に入ってうるさい。あたりを見回したが、サキマリもマトペもまだ水に沈んでいるようだった。住宅街へ目を向けたが、自分から落ちる水滴の音以外、なんらの物音も気配もなかった。

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