第5話 錆びた有刺鉄線は臭い
私は立ち上がってサキマリらしい影の肩があるだろう場所に手を伸ばした。触れた瞬間、サキマリは勢いよく立ち上がった。そうして、追手から逃れた何かの主人公のようにあたりを見回した。
「まいたか?」
「誰を?」
「え?」
「誰かいたの?」
は? とサキマリは私を見た。
「加賀が見つかったって言ったんじゃん」
「見つかった? って聞いただけだよ」
紛らわしいとサキマリは私の顔に水を掛けた。やはり水の音だけがして、他に人の気配はない。マトペはまだ沈んでいた。あまりに動かないので死んでいるのではと思ったが、かすかに水泡が上がっている。
「いつまでもつかな」
マトペを見下ろしながらサキマリが言った。私もまったく同じことを考えていた。
「どうだろ。こいつやけに我慢強いとこあるからな」
私が過去のマトペの所業を思い出しながらそう答えると、たしかに、とサキマリが頷く。
「マトペ、いつまでもサウナ入れるとかパチこいてたもんな」
「金持ちだからかな?」
「なにが」
「我慢強いの」
「それ関係ある?」
「金持ちってケチじゃん。ケチって我慢じゃん? だから」
言っている途中で、サキマリはなぜか急に真顔を作り、私の肩を叩いた。分かってないな、とまた何かしゃらくさいドラマの真似事をしているようだった。
「加賀、節約は愛だぞ。愛」
「どういうこと?」
どういうことでもないらしく、答えは返ってこなかった。やることがないので、しばらく二人で水鉄砲で遊んだ。それにも飽きたころ、突然、大きな水音がしてマトペが空中に躍り出た。病気の豚の鳴き声みたいな呼吸をしている。
「お前いつか死ぬぞ?」
本当にいつか意味不明な死に方をしそうだと私は思った。マトペは我慢強いのではなく、我と思い込みが強いのかもしれない。豚の呼吸を繰り返しながらあたりを見回し、マトペはサキマリと同じことを言った。
「まいた?」
「だから、何をまくんだよ」
そう言ってなんとなくまたあたりを見回したとき、住宅街の前で何かが動いたような気がした。ぱっと見ると、丸くてもっさりとしたものが動いている。頭みたいな。
「ねえ!」
声を上げた瞬間、頭の所有者は暗闇を走り去った。と同時に、サキマリが声を上げた。
「あ。なっちゃん」
「え?」
ぱっと同じ場所を見返すと、なっちゃんが自転車で疾走していた。
疾走に他ならない。立ち漕ぎで、前傾で、暗くてよく見えないが何よりも表情が疾走していた。でも遅い。なっちゃんは自転車を漕ぐのが得意ではないのだ。プールから校門は対角線上にあるので、校庭を疾走してぐるっと回って住宅街の方までやってきたのだろう。体力も限界なのかもしれない。
マトペがのんびりつぶやいた。
「帰んのかな」
「んなわけないべよ」
私は急いでプールから出て、フェンス越しになっちゃんの走り去った方向を見たが、なにも見えなかった。大丈夫なのか。それに私はなぜこんな場所で下着一丁でいるのだろう。
振り返ると、サキマリとマトペはのんびりと赤台を片付けはじめていた。
「いやいや! もうちょっと気にしようよ」
「え? なにが」
「なっちゃんだって」
「だからなっちゃんがなによ」
「見なかったの? 男が走って行ったじゃん!」
頭が見えただけで男という確信があったわけではなかったが、まぁそうだろう。
しかしサキマリもマトペも信じてくれず、突然霊感があると言い始めたクラスのちょっと面倒くさい子みたいな扱いを受けた。仕方がないので片付けを放りだし、服を着て、私だけなっちゃんを探しに行った。
タオルなどもちろんなく、濡れたまま着たせいでサドルに尻をつけるたび濡れたパンツの形を感じて気持ちが悪かった。最初こそ立ち漕ぎで走り回ったが、なっちゃんがどの道をどう行ったのか分からず、すぐ気が削がれた。
当て所もなく自転車を走らせているうちに、本当に自分が見たものが人間だったのか疑わしく思えてきた。本当に霊感がある子供も、最終的にはこんな気持になるのかもしれない。夜の八時には子供ばかりか大人も眠る地方都市は、深夜ともなれば空き地を占領する雑草群のがさがさという音以外、なにも存在しない。
がさがさと。
しかしそれは有機的な音をしていた。音のする方を見ると、背高泡立草然とした植物の根がもぞついている。止まってじっくり観察してみると、ぼんやり白い。肌に見える。人間の足が植物の間からはみ出ているように見える。見覚えのあるずんぐりした足首に見える。
「なっちゃん!」
驚いて声を上げたが、なっちゃんは倒れているのではなく、草の中に頭を突っ込んでいるらしかった。私の声にずりずりと尻を後退させて、突っ込んでいた頭をあげた。ぽかんと口が広がっている。
「加賀じゃん。どうしたの?」
「どうしたって、なっちゃんすごい形相で走ってくから、なにかあったかと思って」
「えー、見てたの?」
なっちゃんは照れたらしくへにゃへにゃと笑った。どういう感情の発露なのだろう。そんなところに這いつくばって、照れている場合なのだろうか。
「なっちゃん何してたの?」
草むらの奥に手を伸ばしている様子だったが、まさかその先に男がいるわけではあるまい。するとなっちゃんは、あ、とやや嬉しそうに声を上げた。
「加賀なら届くかも。ちょっとこっちきて、あれ、あそこ」
なっちゃんに怪物のように生い茂る茎や葉の奥を覗くように促され、私もしゃがみこんだ。雑草たちは空き地を囲む柵からはみ出て生えていて、かき分けた先に錆びた有刺鉄線がある。なっちゃんが指しているのはその中だった。
「なにも見えないけど」
「カメラだよ」
「カメラ?」
街頭がすぐ近くを照らしていたが、葉やら何やらに隠れて下の方はほぼ闇だ。目を凝らしてみても、カメラらしい物体は見当たらない。虫がいる気配だけがすごくした。
「え、わかんない」
「あれだってば、この指のさき」
「指のさき」
先もなにも闇しかない。私の目が悪いのだろうか。なっちゃんはしばらく私が何かを発見するのを待っていたが、無理だと悟ったらしく、しばし黙った。それから、ぽん、と静かに両手を叩いた。これはなっちゃんの癖だ。
「わかった。じゃあ、こうして」
どういう理解かわからないが、暗闇に手を伸ばせという指示だった。虫への懸念で少しも気が進まなかったが、なっちゃんがあまりに真剣な顔をしているので従った。右、とか、左、と声がかかるが、手の甲に触る葉がこわくて本当にいやだった。
「そこ、もうちょっと前」
「いや、前はこれが限界だよ」
伸ばそうとすると有刺鉄線に触れる。すると、なっちゃんは横から手を伸ばし、有刺鉄線のイガイガしていない場所を握って、ぐいっと下に押し込んだ。劣化とそもそもの質の悪さはあるだろうが、有刺鉄線は大きく動いた。
「なっちゃん手痛くないの?」
「すごくいたい」
「えっ」
「すごく痛いからはやく取ってほしい」
「ああ、うん。わかった」
腕を前に伸ばしたら、頬に細い葉があたってぞわぞわした。はずみで濡れたパンツのことを思い出して気持ちが悪くなったが、そこ、もっと先、となっちゃんが痛がりながら指示をするので、精一杯がんばった。
思い返せば、私はいつも誰かの指示でなんらかの作業をしている。
大して親しくないクラスメイトに呼ばれ、高い場所にあるダンボールを下ろし、見知らぬ教師に呼ばれ高い場所にあるカーテンの付け替えをし、近所のおばさんに子供が欲しがっているからと網を渡され高い所にいる蝉を取った。
今夜はそれが発展して、這いつくばりながら高さではなく前への挑戦を強いられている。
どういうことなのだろうか。
「あっ」
指先に明らかな人工物の感触がした。思い切って強く手を伸ばし、掴むと、隣でなっちゃんが声を上げた。
「やった!」
「いて!」
なっちゃんが少し手を緩めたので、二の腕が少し有刺鉄線の犠牲になった。急いで手を雑草から引き抜くと、手のひらには確かに使い捨てカメラがあった。正しくはレンズ付きフィルム、と無駄なうんちくが頭の中を走る。
「ていうかこれは、なに?」
なっちゃんがこんなものを持っていた記憶はない。
「盗撮」
「え?」
「さっきの男がプール覗いてて、これで写真撮ってたの」
やはり男がいたのだ。私はサキマリとマトペに今すぐにでも言ってやりたかったが、それより、先程のなっちゃんの疾走顔をぱっと思い出した。
「なっちゃんそいつ追いかけたの?」
うん。となっちゃんは頷いた。
「おい、って言ったら逃げたから追いかけた。そしたら途中でカメラ捨てたから」
カメラの回収が最優先だと思ったらしい。
それにしても、おい、ということはないのではないだろうか。他にもっと言い方はなかったのか。ちょっと、とか、もしもし、とか、すみません、とか。
おい、というのはまるでなっちゃんらしくない。というより――。
「危ないよ」
なんでそんな危険なことをしたのだろう。一人で追いかけていくなんて。けれどなっちゃんに伝わらなかったらしく、ぽかんとした顔を向けられた。なぜこんな単純明快な危険がわからないのだろう。
「逆襲されたかもしれないのに」
なっちゃんは顔をしかめた。
「だって嫌じゃん。そんな写真持たれてるの。むかつくじゃん」
「むかつく?」
「むかつく!」
ふとカメラの小窓をみると17という数字が見えた。だからなんだ、と思う。なっちゃんはまだ腹立たしそうな顔をしていて、気圧された私はそれ以上何も言えなかった。
「これどうするの?」
まだ17枚撮れるから、というわけではないが私は聞いた。すると、なっちゃんの勢いが急になくなった。
「え、どうしよう。加賀もってる?」
「なんで?」
「だってこわいし」
男を追いかけるのは怖くないのに、カメラの所持が怖いというのはよくわからなかったが、人が怖いと言っているものを持つのは気が引けた。どうしよう、と沈黙していると、深夜の住宅街にそぐわない大きな声が遠くから聞こえてきた。
サキマリとマトペが自転車に乗ってこちらに疾走してきている。
「うるさいなぁ」
二人の声に気に取られている隙に、なっちゃんは私のズボンにカメラを突っ込んだ。
「えっ」
これまた抗議する間もなく、サキマリとマトペと合流してしまった。
「探したわ!」
「なにしてんの」
なっちゃんは二人に男のことを伝えなかった。たぬきがいたとか妙な言い訳をしたせいで、私たちは朝方までたぬき捜索をするはめになった。見つけたのはたぬきではなく鼠の死体一匹で、小学校の給食室の裏で死んでいた。サキマリが枝で転がして側溝に落とした。
あのカメラはどこへいったのだろう。
海らしき暗闇をスモーク越しに眺めながら私は考えていた。
「なんか腹へらない?」
「マックよる?」
カメラを持ち帰った記憶が一切ない。私の性格からして、苦労して拾ったものをまた捨てるということは考えにくい。ならば、まだ家にあるのだろうか。
だって嫌じゃん、と言ったときのなっちゃんの顔を思い出した。
私には、友人の裸の写真を誰かが持っていて、それを嫌だと思う感性はない。あんな所でほぼ全裸で騒いでいたのだから自業自得だし、通報されなかっただけありがたい。欲しいのなら暗闇にうかぶ女体の写真くらいあげればいいのだ。それ以前の問題として、あの暗闇の中で人間の姿が識別できる写真が取れたとは思えない。
でもなっちゃんは疾走した。
なっちゃんは時々、悪名高いサキマリやマトペも驚くような無茶をすることがあった。頓珍漢な私たちの分別の、ブレーキに見えるアクセルとして。
「なっちゃん元気かな」
海に向けてつぶやくと、前部座席から声が飛んでくる。
「そのくだりもうやったから」
「そっか」
でも私たちはこれからもなっちゃんの話をするだろう。あと何十回とか、何百回とか、何千回、は言いすぎかもしれないけど。だってなっちゃんがここにいないから。
なっちゃんがいないということがどういうことか、その時の私たちはまだ気がついていなかったのだ。その大きな事件について。だって、下着でプールに入ってしまうような人間たちばかりが集まって、一体何が出来るというのだろう。何を防げるというのだ。
けれど私たちは最後までその事件に気づくことなく、過ぎていく時間を無頓着に暮らし続けていた。
車はすでに、国道を走り始めている。
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