第21話 雪の降らない街に住んでた

 泣きつかれたらしい明日歌ちゃんは朝方近くなって深い眠りについた。少しだけカーテンを開けると、窓からしらしらと灰色に近い光がさしはじめている。雲が多いようで下の方だけがうっすら明るく、空の高い所を濁った白色がぼそぼそと埋めていたて、ふと、私はあの日のことを思い出した。

 桜が咲いてすぐのころ、あの街に雪が降ったことがあった。

 あれは三人で会った最後の日か、最後の前の前の日か、もう私には分からないけれど。ともかく、最後に近い日々のうちのどれかだった。バイト疲れのため、後部座席でほとんど眠っているような状態の私をおいて、前部座席でサキマリとマトペがはしゃいでいた。

「すげー、こんなことってある?」

「写真撮るべ写真」

「どうせならいいとこで撮ろうよ」

「どこがいい? やっぱ山?」

「登るべ登るべ」

 空気が湿っていて、とても寒い。

 車ではココナッツの匂いがやっと薄くなりはじめていた。目をつむりながら、これくらいがちょうどいいと私は考えた。マトペは嗅覚が鈍感すぎるのだ。煙の匂いと甘い匂いが混じってややこしい匂いになっていることに気が付かないのだろうか。ややこしい匂いは頭をぐずぐず重くさせるし、とにもかくにも今日は寒い。

「加賀! コンビニ!」

「ああ、うん」

 数日前、私はもうすぐ衣替えをするべきだろうか、ということを考えていた。何年も生きているのに、毎回季節を忘れてしまう。冷静に考えたら衣替えは六月だ。まだ三月の終わりだから早すぎる。面倒だとやらなかった自分を褒めてやらなければ。

「ほらまっすぐ歩けー」

 サキマリに手を引かれてコンビニに入ると、マトペがすでに週刊誌を開いている。またいかがわしいゴシップページでも読んでいるのだろう。

「おい、長くなるから読むなよ」

「わかってる」

「閉じろ」

「うん」

 マトペは一度として私の言うことを聞いたことがない。

「加賀、加賀」

 サキマリが手招きをするので寄っていくと、牛乳のゾーンの明かりに目がくらんだ。

「これこれ、この前言ってたやつ」

「なんだっけ」

「言ったじゃん! クローンヨーグルト」

「ああ、牛乳に入れるとまた新しく作れるってやつ?」

「そうそう、ヨーグルト地獄だよ」

 たぶん無限ヨーグルトと言いたかったのだろう。ヨーグルト地獄はぜんぜん嬉しくない。生臭そうだし。無限ヨーグルトもちょっと怖いけど。というかたぶん、クローンヨーグルトもなんか違う。

「いいでしょ、加賀買いなよ」

「今はちょっと寒いかな」

「お得だよ」

「定価じゃん」

 むしろコンビニは全部割高だ。

 ちぇ、とあからさまな舌打ちの真似事をしてサキマリは温かいペットボトルの棚に走っていった。菓子のコーナーを見たけれど、このコンビニにはうまい棒とチョコケーキくらいしか駄菓子を置いていないみたいだった。ずいぶん気取ったコンビニだ。音の出るラムネくらい置いて欲しい。

 窓際にまだでかい影が見える。

「マトペ!」

「わかってる」

「ねえ加賀! 二円持ってる?」

「え、ちょっと待って」

 コンビニを出ると、したたかに寒かった。小走りで車に乗り込んだが、いささかの温もりも残っていない。それに、いくら待っても後部座席はずっと寒いままだった。

「これ暖房かかってんの?」

「あ、うしろ切ってるわ」

「おい」

 ごめんごめん、という言葉は前方に飛んでいって、後部座席には雰囲気しか届いてこない。やはり行き先は山に決まったようで、車は知っている道をだらだらと進んだ。雪はもう降っていないようだ。

 私たちの住む街にはめったに雪が降らない。すぐ隣の街まで降っていて私たちの街だけ降っていないなんてことはざらで、だからこの街の人間は雪への感情が強い。雪だ、雪だ、といつまでも言っていられる。

「すげー! 雪だよ雪」

「あそこ積もってるわ」

 もしかすると何ミリという程度なのかもしれないが、雪が残っているという事実が重要だった。降ったとしても、いつもは積もることなく消えるから。

「桜散っちゃうかな」

「めちゃくちゃ寒いもんね」

 私はまたうとうとしながらその声を聞いていた。まぶたを閉じる名残の瞬間に通りの桜が見えた。普通に満開に近い。テレビでキャスターが、桜の上に雪が積もっています、と興奮気味に叫んでいたのを思い出す。

 しばらくすると、前部座席から歌が聞こえてきた。中二の時の合唱コンクールの自由曲だ。

 マトペはソプラノ、私とサキマリはアルト、ついでに言うとなっちゃんは六組でピアノを弾いていた。家にピアノがあるという話に尾ひれがついたのか、なっちゃんはピアノが弾ける人間として教師陣に認知されていたのだ。実際は姉についてピアノ教室に通ってはいたが楽譜が読めなかった。けれどクラスに他のピアノ伴奏者候補がいなかったため、私たちはなっちゃんへ過激な特訓を施した。それで途中、癇癪を起こしながら、なんとか最後まで間違えずに弾けるようになって感動したのだけれど、当日会場で聞いたなっちゃんの伴奏は他と比べて、明らかに、ずば抜けて、下手だった。

 私たちはまたその話をしている。

「機械伴奏ね!」

「サキマリなっちゃんが退場するときなんて言ったんだっけ?」

「よっ、晴島屋!」

「いやなっちゃんち庶民だから」

「なっちゃんがスベったみたいになってたよね」

「えーまんざらじゃなさそうだったけど」

「なっちゃんいま何してんのかな」

「平日だから仕事じゃん?」

 山道に入って、いよいよ私は本格的な眠りについた。体中が痛かった。昨日のバイトで、重たいから男性が持つようにと言われている銀色の器を、一人で五個も運んだのだ。なぜあんなに重くする必要があるのかわからない。世の中には、理解しがたいことがあちこちに散らばりすぎている。

 ときどき、少しだけ目が覚めた。ライターをつける音がする。

「サキマリは?」

「禁煙した」

「マジ?」

「二日目だけど」

「じゃあ吸いなよ」

「なんで?」

「明日から禁煙すれば二日なんてすぐじゃん」

 すぐにライターをつける音がして、口からふっと笑いが漏れた。

 人間はそんなにすぐには変わらない。

 この車の揺れはそんなに悪くない。なんなら褒めてやってもいいくらいだ。マトペはだらしがないので、そこら中に紙袋やら衣類を放置しているから汚してもそれほど罪を感じないし、灰皿はどこにでも転がっているし、足はのばせるし。それに、前から声が微かに聞こえるのがいい。

「銅鐘山だっけ」

「足曳山だよ」

「えー? 銅鐘山でしょ」

「いや絶対足曳山」

 二人が言っているのは同じ山だ。

 私たちが足曳山と読んでいるのは足曳峠のことで、銅鐘山の途中にある。私とマトペは小学校の四年の時に足曳峠まで登って、六年の時には足曳峠を通らず別のルートで銅鐘山の頂上まで登った。サキマリと三人で登ったのは中学二年のときの遠足で、その時には足曳峠を通って銅鐘山の頂上まで行ったのだ。

 頂上でカップラーメンを食べるのだと言ってカップラーメンを持っていったけれど、店の人にお湯はないと言われ、湯気のあがる鍋を見つめながらそんなはずはないだろうと思ったけれど、三人でカレーうどんを頼んだのだ。それでまた先生に怒られた。弁当持参と遠足のしおりに書いてあるだろうと言われたが、私たちはちゃんと弁当を持参していて、朝早くに全部たいらげただけだと反論をして余計に怒られた。

 気がつくともう話は終わっていて、車内には無言が訪れている。私たちは互いがそこにいることに慣れきってしまっているので、喋りもするし、黙りもする。黙っているときは、ただ車の進んでいる音だけがした。

 冷えた窓が頭のてっぺんに触れていて冷たい。でも身じろぎをしたら完全に目が覚めそうだったのでそのままにした。音楽が流れている。またこの曲か、と思う。そんなはずはないのに永遠にこの曲ばかり聞いている気がする。

 この車には、ずっと同じ時間が流れているのかもしれない。そんなはずはないけれど。そんなことは起こり得ないけれど。わかりきっていることをどうしてこんな風に毎回思ってしまうのだろう。

 ふっと息が漏れて、私はまた深く眠った。


 雪の降るような音がして目が覚めた。

 そんな音は聞いたことがないし、想像もつかない。なんでそんなことを思ったのかも分からなかった。車は冷え切っていて、手足がびきびきに固まっていて寒さなのか痛さなのかよくわからない感覚がする。前部座席に二人の姿はない。

 ぎゃはは、という声が外から聞こえてきて、ドアを開けると白かった。

「雪だ」

 地面に降りると、足からさくりと音がする。

「おっ加賀!」

「起きたか、加賀!」

 名前を呼ぶだけでぎゃはぎゃはと二人は笑った。車はどこかの広い駐車場のど真ん中に止まっているらしかった。他に車の姿は見えない。

 笑い声の方を見ると、山が二人を覆っていた。

 やはり白い。

 二人は土砂崩れ防止のコンクリートに登ろうとしているらしかった。才能のない猿の子供のように、互いに何度もずり落ちている。ずり落ちるたび、ぎゃはぎゃはと声を上げる。

「加賀も登ろうよ」

「ごめんむりさむい」

「体動かしたらあったまるべ!」

「そも体が動かん」

 結局登らされた。

 登ったところで何があるわけでもなく、コンクリートの上にはフェンスがあって、フェンスの網の目をくぐって桜がぴょこぴょこと飛び出ていた。花びらに雪がかかっている。

 地球が狂ってしまったみたいで気持ちが悪かった。

「最悪、尻ぬれた」

「私はパンツもぬれてる」

「絶対後悔するよこれ」

「でもほら絶景じゃん!」

「ぜっけい、か?」

 詳細は分からないが宗教的建築物が周りを取り囲んでいた。神社にも寺にも教会にも見えるが得体が知れない。ともかく宗教施設の駐車場であることだけは確かだ。入り口のチェーンがぞんざいに外されている。きっと勝手に入ったのだろう。

「これ見つかったらめちゃくちゃ怒られない? 折檻とか」

「見つかんないべ」

「人いないし」

「うーん」

「加賀は心配性だなあ」

「だって私しか良心がいないから」

 すると一呼吸あって、ぎゃははは、と二人はまた大きく笑った。しかもなかなか笑い終わらなかった。私がいない間に酒でも飲んだのだろうかと疑っていると、サキマリが横から肩を叩いてきた。

「かわいそうに、加賀は忘れちゃったんだな」

「なにが?」

「あれは忘れもしない高二の冬!」

 冬、にあわせてサキマリの口から盛大な白い息が生まれた。

「生物の授業で育てていたコバエを冬休み中にすべて逃してしまったサキマリちゃんは、休み明けに加賀ちゃんにそのことを相談しました。さて、加賀ちゃんはなんと答えたでしょうか?」

 ちっちっち、と時計のマネをしたかと思うと、すぐにブブー、と音がする。答えさせる気などはなからないらしく、正解は、と元気いっぱいにサキマリは叫んだ。

「生物室からジャクリーンのハエ盗めば、でした!」

 ぎゃはは、とマトペが大げさに笑った。ジャクリーンという名前を今の今まで忘れていたが、彼女はドイツからの交換留学生とかなんとかで、ハーフだかクオーターだかしらないが、控えめに言って大変日本をなめていた。授業はヘッドフォンをして受けていたし、何か話していると自分の話かと割り込んできて面倒だし、日本人が高校生にもなって英語を喋れないのはなぜなのかといつまでもうるさかった。

「加賀ジャクリーンのこと嫌いだったもんね」

「ちがうって、あれはだって、気持ち悪いとかなんとか言ってジャクリーンがハエ拒否したから、だったら一人分余ってるんじゃない? っていう確認だよ」

「でも加賀が率先して盗ってきたじゃん」

「だって生物の先生怖かったじゃん。サキマリ怒られるの嫌いじゃん」

「あの時思ったよね、あ、加賀が一番やばいって」

「やばくないやばくない」

「はいはいじゃあ第二問!」

 マトペが奥から手を上げてくる。

「うるせえな、もういいって」

 桜の咲く雪の積もった山の中で、私はそれからしばらく、自分の悪行クイズを聞かされた。

 嫌いな家庭科の先生の車に一日一回偶然をよそおってボールをぶつけていた。飼育室係だった時にうさぎが死んだのを隠そうとして、まだ生きているうさぎとニワトリを全部逃してしまった。合唱コンクールで真面目に練習しないグループに説教をしながら泣き続ける学級委員に苛立って、後ろから力いっぱいボールをぶつけた。練習試合の相手にうどの大木と陰口を言われたのに腹を立て、そいつが弁当の蓋を開けたところを見計らってボールをぶつけた。などなど。武器がボールしかないらしい。

「加賀はなあ、取る手が陰険かつ凶暴なんだよ」

「理由もわりと横暴だしね」

 そんなことはない、と言い切れなかった。私は自分をまじめな小市民だと思っているし、実際その性質もあるのだが、この面子でいると気が大きくなることはたしかだ。大きくなる、ということは、小さい状態ではいつでもその陰険さや凶暴さを持っているということになる。

 そもそも、私に分別などあったのだろうか?

「あ! みてみて!」

「なに」

 マトペはどこかを指差していたが、どこを指しているのか分からなかった。

「なによ」

「そらそら」

「そら?」

 指先の奥の奥を見ると、雲の切れ間から陽光が差し込んでいた。そう言えばまだ昼下がりだった。世間が白いのと、眠ったり起きたりで時間間隔がなくなっている。曇天の薄暗い世間の中に一筋だけ異質な光がそそいで、その下の街だけ違う世界みたいだった。

「きれー」

「綺麗か?」

 世界が終わるみたいで気持ち悪い。

 そう答えると、またサキマリが急に「私たちは滅亡する人類を救う特殊部隊」とかなんとかやり始めた。無責任にマトペが盛り上げるので、設定がどんどん追加されていく。曰く、サキマリは自分を守って死んだイケメンに特殊部隊の隊長を託された新米スナイパー、マトペは人格破綻により檻に閉じ込められていたが実は亡国の王女だった風呂嫌いの天才マッドサイエンティスト。

「で、加賀は自分のことを魔法少女だと思ってる犬」

「犬」

「ときどき本当に魔法が使える」

「すごい犬だ」

 私たちは戦った。桜が咲く頃に雪が降るなんておかしいと思っていたのだ。街にはなぜかゾンビが蔓延っている。どうやら宇宙人が地球を攻めてきたのが原因らしい。この高台が落ちれば人類は滅亡だ。もはやここに意識をもった人類は私たちしかいない。持てる力のすべてを使って戦わなくては。ゾンビを一匹ずつ正確にスナイプ。建物を破壊しない特殊な爆弾を作って宇宙人を殲滅。魔法で体つきを変えることなく筋肉隆々になれるご飯を作成。数々の敵をやっつけ、国の要人を救っていると、空から新たな光が差し込んでくる。しかしそれはボス宇宙人との決戦のはじまりにすぎなかった。人類の滅亡を阻止し、我々で街を救うのだ。

 各種ファミレスが揃っている以外、とりたてていい所のない雪の降らないこの街を。

「号令! 1!」

「2!」

「え?」

「いや3でしょ、そこは」

「ごめん、だって急に言うから。っていうか三人だけで戦うの? 政府の要人なにしてんの」

「シェルターに逃げた」

「ひどくない?」

「加賀、ちゃんとダイナマイト持ったか?」

「は? さっき宇宙人に普通の爆破攻撃はきかないって言ってただろ」

「おいおい加賀ちゃん。状況は刻一刻と変わるんだよ」

「そうそう。もうダイナマイトきくから」

「いや言って? そういうことは」

「察しが悪いと最初に死ぬよ」

「そうだぞ。帰って気立てのいい大型犬と結婚するんだろ」

「あ、私犬か」

 真ん中に座っているサキマリが、突然私たちの両肩をばんばん叩いた。

「絶対に三人で生きて帰ろうな!」

 じんじんと肩がしびれたが、実際にはそんな戦争は起こっておらず世界は普通に続いた。半目を開くと光を感じて、自分が眠っていたことを知る。顔の横に駄菓子の袋がはりついていて、剥がすとすごく痛かった。部屋の隅で、埃が光っている。

 起き上がると、明日歌ちゃんも布団からもぞもぞと顔をだした。

 目がぱんぱんだ。

「おはよー」

「ん、おはよ」

 カーテンを開けると、知らない街の知らない朝がはじまっている。

 春が終わって、今は夏。

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善悪みだり 犬怪寅日子 @mememorimori

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