第20話 半分の球体は月みたい
「すみません、いつも明日歌がお世話になって」
式の前も最中も後も、明日歌ちゃんのお母さんは、ノリくんのお母さんにずっと寄り添っていた。私は明日歌ちゃんのお母さんとは会ったことがあったが、ノリくんのお母さんを見たのは初めてだった。どういうわけか明日歌ちゃんと外見がよく似ている。もしかすると錯覚なのかもしれないが、同じ時間を過ごすと顔つきが似てくるものなのかもしれない。
明日歌ちゃんがお母さんたちと話している間、私は喫煙所を探してさまよった。
こういう場所で、職員に喫煙所の場所を聞いていいのか、悪いのか、まったく想像がつかなかった。結局自力で探しあてた喫煙所は建物の外壁沿いにあり、複数の人間が同じように曖昧な顔つきで煙草を吸っていた。
あちこちで煙が上がっている。
「消防団もよくがんばってくれて」
「病気なんてしたことないって感じだったけど」
「過労じゃないのか。子供も小さいし、ろくに寝てなかっただろ」
「でもすこし元気が」
「薬を」
「お子さんの」
「奥さんが」
ノリくんが社会に整理された人間をやっていたことを、私は驚かなかった。
これらの声のうち、どの声がノリくんのことを言っているのかなんて分からない。けれどノリくんが結婚をして子供を育てていたことは本当だ。あのときに嫌だと言っていたことを、ノリくんはやっていた。
何かを好き続けることは難しいけれど、嫌い続けることだって難しい。かといって、意見を翻すのだって簡単ではない。好きだったものを嫌いと認めるより、嫌いだったものを好きと認めることの方が、より難しいのに違いない。
もちろん、猿の愛と同じように、ノリくんが本当は何をどう思っていたかなんて、誰にも測定できない。ノリくん自身にだってわからなかったかもしれない。けれど、見える事実のうちの一つとして、ノリくんは家族を大事にしていた。社会的に。
猿の愛に見える行動を、愛でないと否定できる証拠はどこにもない。だから、ノリくんはちゃんと人間を好きでいたのだ。
でも私は、その先にいたのが明日歌ちゃんでなかったことがとても寂しかった。
泣きすぎると瞳が溶けるという話をいつかどこかで聞いて、私はそれを信じていなかったが、恐れてはいた。
明日歌ちゃんはお母さんが実家に帰れと言うのを断って、私たちの家に帰ってきた。明日も仕事があるというのが理由だったが、あれだけ憔悴している母親たちのもとでは、自分だけのことを考えられないからだろうと私は思った。昨日の時点でもう、明日歌ちゃんは職場に休みの連絡をしている。
一人にするのが嫌だったので、居間にふとんを敷いた。明日歌ちゃんはありがとうと言って横になってまた泣いた。根拠はないが瞳を溶かさないためには、出したぶんだけの水分を与えるべきだと思った。何か買いにいこうかと考えたが、家から離れるのもよくないような気がして自作した。
「まずい」
「なあに?」
泣きながら明日歌ちゃんが聞いてくる。
「いや、たくさん泣くためには、水分がいると思って」
「うん」
明日歌ちゃんの声は内容にたいする頷きというより、私の喋っていることを聞いているという返事のようだった。
「塩と砂糖とレモン汁でスポーツドリンク作れるっていうから作ったんだけど」
「うん」
「すごくまずい」
明日歌ちゃんはのっそりと起き上がって手を伸ばした。ペットボトルを渡すと、音を鳴らして飲む。ごきゅごきゅとうい音は、締める時の水道の音に似ていた。
しばらくして、ぷは、と明日歌ちゃんは鯨の呼吸のようなものを吐いた。
「ちゃんとおいしいよ」
「そう? すっぱすぎない?」
「これくらいがいい」
「そっか」
明日歌ちゃんはまたふとんに戻って涙を流した。私は買ってきた駄菓子をふとんの横にたくさんおいて、そこで食べた。さきほどまでのわんわんという泣き方ではなく、今の明日歌ちゃんの涙はただほろほろ流れているようだった。人の涙の質が変わっていくのを観察するのは、本当はよくないことなのかもしれない。いいか悪いか、やはり私には分からない。
昔は正しかろうが間違っていようが、簡単に答えを出していて、とんでもない過ちの答えも中にはあっただろうが――もしかするとほどんどがその類だったかもしれないが――そんなことを気にしたことがなかった。私が正しいと思うことはある意味で真実正しいのだと、信じ切れていた。
今では、小さな善悪ひとつ自分ひとりでは決めきれない。
私はもう、自分の人生が自分だけのものだと気がついてしまった。昔はどんな個人も、社会とかいう大きな生き物のなかの一部でしかなく、私のようなちいさな存在の信じる善悪など、何にたいしても影響をもたないと思っていたのだ。自分と他人との境目もまだはっきりとしていなかった。
今では、私と他の人々が耐え難いほどに別の個体だということを理解してしまっている。いくら新しい友人や家族ができたとしても、私の人生は、私だけが生きなくてはいけないのだ。私の善悪は私だけに返ってくる。
だから、決められない。
「ノリくん、死んじゃってたね」
明日歌ちゃんがみじろぎをしながら言うので、私はうなずいた。
「そうだね」
「私ね、ずっと会わないでいるのって、相手が死んじゃったのと同じだなって思ってたの」
ずず、と鼻を吸って、明日歌ちゃんはかすかに笑いのまじったような声を出した。
「でも、会ってなくても死んじゃったら、その人って死んじゃうんだね」
「うん」
それは少なからず私も感じたことだった。
ノリくんとは時間的にも、親交の度合いとしても、顔見知り以外ではなかったし、この先の人生でも深く関わる可能性がほぼなかった。それなのに、死んでしまった今、ノリくんは私の心で確固たる地位を築いてしまった。ずっと会っていなかったのに、ノリくんは完全に死んでしまった。
「今日、いろんな人がノリくんの話してた」
明日歌ちゃんの瞳にまだちゃんと涙が残っているのか、私は気になった。
「誰かが覚えてるって、すごいことだよね。ノリくんもういないのに」
「そうだね。うん。そうかも」
「昔はノリくんを知ってるのが私だけだったらいいのにって思ってたのに、変だよね」
明日歌ちゃんはまたノリくんの話をした。いつかしてくれていたみたいに。
庭ではじめてあおむしを見つけたときのこと。ダンボールで飼っていたらある日急にいなくなってしまったこと。風邪をひいたときに糸電話で話したこと。近所の公園でのブランコの位置どりのこと。砂場の中で見つけたきらきらするカードのこと。二人の誕生日と誕生日の真ん中の日にケーキを作って食べていたこと。時計を分解したこと。拾った野良猫が保健所につれていかれてしまったこと。その墓をつくったこと。結局名前が分からなかったラッパのような大きなうすい橙いろの花のこと。身長のくらべっこをやめたこと。手をつないで帰っているのをからかわれたこと。二人で作ったビーズのかいじゅう。
相槌を打ちながら、私も私の知っているノリくんのことを話した。
「きゅうりが絶対にきらいって言ってたよ」
「ほんとう? そんなこと言ってた?」
「うん。絶対にっていうのがなんかおもしろくて、なんで絶対なんですかって聞いたけど、答えてくれなかった」
「たぶんそれは、おばけきゅうりだよ」
「おばけ?」
「うん。小学校のとき、ノリくんのおばあちゃんちに一緒に泊まったことがあってね、おばあちゃんちは裏がお寺でお墓があったんだけど、おじいちゃんがおもしろがって肝試しするぞーとか言って、夜にお墓のどこかに隠したおやつを取ってこいってさ。不謹慎だよねえ」
「行ったの?」
「うん。行った。ノリくんは全然こわそうじゃなくて、私はずっと目をつぶってた。で、お寺の横に畑があって、そこからガサガサーって音がしてね。ぱっとみたら何かがわーって走っていったの、たぶんたぬきとかなんかだと思うんだけど」
「たぬき? いいなあ」
「でも私、生き物だってわからなかったからすごくこわくて、ぎゃあぎゃあ叫んで、ノリくんをつきとばしちゃったみたいなのね、そしたら」
くっくっと明日歌ちゃんは笑った。
「ノリくん畑にころがっちゃって、でね、その畑にものすごく立派な――というより、たぶん収穫が追いつかなかったんだと思うんだけど、きゅうりの森みたいなところがあって、ノリくんそこにひっかかっちゃって」
「わー、それはこわい。だって夜でしょう?」
「うん。で、私は逃げた」
「ぎゃー」
「網が絡まってなかなか出られなかったみたいで、顔の前にものすごく大きなきゅうりがたくさん垂れ下がってたとかで、それがこわかったんだって。だからノリくんはきゅうりが絶対に嫌い」
ひとつ話が終わると、明日歌ちゃんはまた泣いた。笑ったり泣いたりしていたけど、ノリくんの話をしているとき、明日歌ちゃんは幸せそうだった。
「思い出があるってすごいね」
「うん」
「頭の中に人がいるみたい」
そう言って、明日歌ちゃんはすっぱいスポーツドリンクをごきゅごきゅ飲んだ。瞳にたくさん水分が戻ったような気がして、私は安心した。
「加賀ちゃん。これからもいろいろお話しようね」
「うん。そうだね」
心を込めて、私は頷いた。
私たちは一人で生きていかなければいけないけれど、いろんなことを覚えている。 いろんな人間が、生きていたことを知っている。
「たくさん話そう」
私たちは、たったひとりの人間を、たくさんの人間と共に生きている。
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