第19話 愛に見える猿の指先

 明日歌ちゃんと同居しはじめてからもう三年が経っているらしい。まったく信じられないという気持ちと、まぁそれくらいは経ったか、という実感が同時に沸き起こってきて、なぜか体がだるくなった。

 あたらしい喪服なのに、どうしてかタンスの匂いがする気がする。鼻をすんすんして袖のところを嗅いでいると、明日歌ちゃんが首をかしげた。

「なに?」

「なんかおばあちゃんちの匂いしない?」

 鼻先にあてて見せると、明日歌ちゃんもすんすんと鼻を鳴らした。

「しないなあ」

「視覚効果?」

「そうかも」

 明日歌ちゃんがあまりにも普段どおりなので、かえってどうしたらよいのか分からなかった。私は今では多少の人の慰め方を知っているが、知っていても実行はできない。それにやはりまだ、すぐそこに迫ってきている未来にさえ、逃げる以外の選択肢を持っていないのだった。ほとんどすべての事態は、逃げることが出来ないということを知っていてなお、逃げられるのではないかという、未来の忌避のための希望を持っている。

 死ほど不可避な事態はないのに。

 もともとあった予定としての駄菓子屋めぐりを強行したのは、明日歌ちゃんがそうしたいと言ったからだった。小さな棚にいろいろの駄菓子が詰め込まれていて、私は自分がまだそれらを好きなことに安堵を覚えた。小さなヨーグルトみたいなやつ、煙草もどきのラムネのやつ、細長いねじねじしたゼリーのやつ。

 変わらない。

「昔いっしょに行ったよねー」

 明日歌ちゃんはそう言いながら、真っ赤なすももが二個入っているパックをかごに入れた。またそんなに酸っぱいものを。

「行ったね。もう何年前?」

「五年かな、いや六年か」

「そっか」

 あえて口にしないようにしたわけではなく、言う必要もないかと思ったので言わなかったのだが、明日歌ちゃんは簡単にそのことを口にしてみせた。

「ノリくんが来なかった時だ」

「うん。そうだね」

 私がサキマリとマトペと決別して――実際に決別したのはサキマリとマトペだったが、同じことだ――そのすぐあと明日歌ちゃんもノリくんと決別した。決意も準備もまったくなく、受動的にことをすませた私と違って、明日歌ちゃんは自らの意思でそれをしてみせたのだった。

 そうして、いつまでも泣いて私に謝っていた。

「ごめんね。加賀ちゃん、ほんとうにごめんねえ」

 一連の出来事の当事者はノリくんとサキマリとマトペであって、起きたことだけを考えれば、私や明日歌ちゃんは完全な部外者だった。でも私には、明日歌ちゃんの謝りたい気持ちがわかった。

「私こそごめん」

 二人の仲を取り持つような行動を私は一度もしなかったし、考えもしなかった。二人というのはサキマリとマトペのことだし、明日歌ちゃんとノリくんのことでもある。唐突に終わる物語に、私たちにできることが何ひとつなかったとしても、何かをしようとしたという行為が気持ちをおさめる場所になることがあるだろう。

 でも私たちは何もしなかった。

「今日のごはんどうする?」

 葬式用のちいさなバックに駄菓子を詰め込んで、明日歌ちゃんは歩きながら首をかしげた。ときどき私は明日歌ちゃんのことを、こんなに背が小さかっただろうかと思い、同じ頃明日歌ちゃんも私にこんなに背が高かったかと聞いてくる。人間はもしかしたら、雰囲気でしか物事をとらえることができないのかもしれない。

 ご飯を考えようと一応、唸ってみたが、何一つ思いつかなかった。

「じゃがいもは飽きちゃったよね?」

 明日歌ちゃんが顔を覗き込んでくるので、首を振った。

「まったく飽きてない」

「加賀ちゃんって本当にグルメじゃないよねえ」

 ふふふ、と明日歌ちゃんは嬉しそうに笑っている。

「褒めてくれたの?」

「うん。褒めた」

 同居しはじめて三年ということは、地元を出てから三年ということだ。その間に何か変わったかといわれれば、何一つ答えが出てこない。けれど時間というものは、同じ瞬間が一度としてないらしいから、実際には三年前の私は気が遠くなるほど別人なのだ。

 あれからサキマリとマトペとはそれぞれ何度か会ったけれど、今ではたまに連絡をするくらいで、会うというところまでなかなか至らない。あの頃、理由もないのにあれだけ集まっていられたのは、やはり若さとかいうものの仕業なのだろうか。

「五年じゃなくて六年?」

 バックを振り回しながら明日歌ちゃんが聞いてくる。

「あれから?」

 私と明日歌ちゃんの間では、あれから、という言葉がよくでてくる。それは何時何分、というような時間ではなく、ぼんやりとした期間を指すのだろうし、私のあれと明日歌ちゃんのあれが同じものであるという確証はない。

 でも、あれから、と私たちは言う。

「どっちかわからないから、間をとって五年半にしよう」

 あれから、私は年数を数えるのが苦手になった。単に大人になってしまったからかもしれない。社会人になってやるべきことが増えて、いちいち数えていられなくなった。なにもせずただ友人と話して終わるだけの日なんて、もう一日もない。

「会わないって、すごいことだよね」

 小さいゼリーを口に含みながら明日歌ちゃんは言った。

「ずっと会ってないと、あんなにずっと一緒にいたのに、ぜんぶまぼろしだったみたいに感じる。ノリくんっていたなー、でもほんとにいたのかなー、って。思たりするんだよ。おかしいよね。離れている時間の方が短かったのに、一緒にいたときの方が嘘みたいに感じるの」

 明日歌ちゃんがその連絡を受けた時、私はキッチンで紅茶を作っていた。明日歌ちゃんがめずらしくリビングで電話を受けていたので、家族からなのだろうと思った。

「え、そうなの? うん。いや、全然。もう何年も会ってなかったから。うん。うん」

 そうだね、驚いたね、と明日歌ちゃんは電話の先の誰かを、かなり長いあいだ励ましていた。葬儀、という言葉が聞こえて、誰か身内がなくなったのだろうと考えた。そういう時、どういう風にするのが大人として正解なのかが私には分からなかった。心の中をうろうろとして、とりあえず自分の部屋に帰るのはやめにして、換気扇の下で煙草を吸うことにした。

 紅茶は冷えた。

 電話を切った明日歌ちゃんがこちらへ寄ってくる。

「紅茶?」

「うん。飲む?」

「飲もうかな」

「ミルクいれようか」

「あのね、ノリくん死んじゃったんだって」

「え?」

 やはり明日歌ちゃんの喪服からもおばあちゃんちの匂いがするような気がした。小さなゼリーの入っていたゴミを小さな喪服のバックに突っ込んで、明日歌ちゃんはまたバックを振り回すようにしながら歩いた。

「泣けないって、私すごく薄情だよねえ」

 でも明日歌ちゃんは葬儀場で立てなくなるまで泣き続けたのだ。

 ノリくんの遺影はもちろん私の知らないもので、そもそも私はノリくんと写真を撮ったことがないし、ノリくんが写った写真を見たこともない。妻らしき人はふくふくとして穏やかそうな女性で、子供も女の子のようだった。まだ小さい。

 私はその女性と子供を見た時、いつだかノリくんと二人で話したときのことを思い出した。あの黒い米を出してくれる店にはたしか四回くらい行って、毎回黒い米を食べたのだ。そういえば、ノリくんがご飯を食べているところを、私はあまり思い出せない。そのときも、ノリくんは私の食べているところを見ているだけだった。

「加賀ちゃんって食べるの好きだよね」

「え? ああ、まぁ好きですね。食べ続けるのは苦手ですけど」

 そういえば私は最後までノリくんに敬語を使っていたような気がする。ノリくんは、ほんのかすかに首を右に傾けていた。ときどき、そういう仕草をしていた。

「食べ続けるってどういうこと?」

 黒い米は一粒一粒が独立していて、噛むとぷちぷちと音がする。

「なんて言うんですか、こう、すごく好きなものとかすごく美味しいものでも、最初の三口くらいで、あ、もういいや、ってなっちゃうんですよね。それを過ぎると社会性の食事なっちゃうというか」

 社会性、とノリくんは繰り返して、子供のような顔で私を見た。

「三口目までの食事はなんの食事なの?」

「私の食事です」

「わたくしのしょくじ」

 また繰り返して、ノリくんは遠くを眺めた。

「私の食事だけが続けばいいのにね」

 ノリくんの視線の先には揺れている人間たちがいた。揺れている人間たちのいくつかは、男女の番のようだった。世の中のどこにでも現れるこの男女の番は、別の個体なのにいつも同じような顔つきをしている。世の中には正誤があり、自分たちはいま正しさの中にあるのだという、薄い悦びの顔を。もちろん、そんなのは私の感傷だ。

 ノリくんはやや笑みを取り戻して私を見た。

「俺、この前、人を本気で好きになったことないでしょ、って言われたんだよね」

「まじすか。その人、創作物の読み過ぎでは?」

 人様にそんなことを言う人間が、本気で人間を好きでいるとは思えないが、そもそも本気で好きの本気をどういうことだと捉えているのだろう。

「それ、定義があるんですかね?」

「定義って?」

「本気で好きとはどういうことか」

 ああ、とぼんやり呟いてから、ノリくんは自分からその話をしはじめたのに、ひどくつまらなそうに相槌を打った。

「優しいとか、話を聞いてくれるとか、自分より相手のことを優先するとか? わかんないけどそういうことなんじゃない?」

「じゃあ鍛えられた猿がそれしてくれたら、その猿に本気で好かれてると思うんですかね」

「どうだろ。とりあえず猿にはむずかしいかもね」

 やってやれないこともないだろう。猿がだめなら人工知能とか。どちらにせよ、誰かが誰かを好きだということを、外にいる人間が正しく測定できるはずはない。相手が猿にしろ、機械にしろ。

「俺は好きにも嫌いにもなりたくない」

 ノリくんの視線の先でトイレから出てきた明日歌ちゃんがこちらに歩いてきていた。

「三口目のあとみたいに、好きも嫌いもいつかは社会に整理されるんでしょ」

 そんなのは嫌だ、とノリくんは子供のような声で言っていたのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る