第17話 第七官界ってどこにあるの?

 サキマリとマトペから連絡がこない、というようなことをその頃の私は気づいていなかった。それまでだって週二回集まることもあれば、一ヶ月か二ヶ月顔を合わせないということはざらにあったから。私は今度こそバイトを辞めないようにということに集中していて、二人がどんな生活をしているかなんてことは、まったく気に留めていなかったのだった。

「おつかれ加賀ちゃん」

 その代わりに、明日歌ちゃんとノリくんといる時間が増えた。もちろん当時は、代わりに、などという感慨をもってはいなかった。二人はたびたび仕事終わりの私を家の近くまで送ってくれ、私はいつでも腹を減らしていたので、大抵はどこかでご飯を食べてから帰ることになった。いくら他人に対しての興味が薄い私でも、二人が私と会うことで、何かしらのバランスを保とうとしていることくらいは分かっていた。

 分かっていることを分かっているという状態のままで、放っておくのが私の性分だ。

 仲睦まじく見える明日歌ちゃんとノリくんは、ときどき水の中に落とされたように、苦しげな顔つきをすることがあった。そんな時は私が、デザートを食べたいとか、お腹がいっぱいでいい気分だとか、思い出話を聞かせてほしいとか適当なことを言う。

 すると二人は――特に明日歌ちゃんは――顔色を明るくさせてそれに答えるのだった。明日歌ちゃんが明るい顔をしているとノリくんは嬉しそうで、とくに思い出話をしているときの二人は幸せそうだった。

 そうしてある時、明日歌ちゃんがふと思い出したように言った。

「この前いい駄菓子屋さん教えてもらったんだ! みんなで行こうよ」

「いい駄菓子屋?」

 私が興奮して繰り返すと、ノリくんが笑った。

「いいね。行こうよ」

 けれど、ノリくんはその日来なかったのだ。

 まだ春なのかもう初夏なのか、暦が分からない私には区別がつかなかったが、やや暑いと感じるような日だった。たまには車じゃなくて電車で行こう、という話だったので乗り換えの駅で明日歌ちゃんとノリくんと合流するはずだった。

「ノリくんは来ない」

 私が駅につくと、明日歌ちゃんは子供みたいに水っぽい声でそう言って、逃げていないのに追いかけるみたいに私の手を握った。私は、ノリくんが不在であるということより、自分の手が汗に濡れていることが気にかかった。とりあえず二人で目的地までの電車に乗った。

 陽光が電車の窓を突っ切って明日歌ちゃんの髪にあたり、栗毛が明るく光っていた。髪の気の中に赤い粒が見えるような気がして、私はそれを捉えようとじっと自分の体を固まらせていた。どうしたらいいのだろう、ということをゆるく考えながら。

 明日歌ちゃんは自分の履いているうす黄色のパンプスの先に目を向けて呟いた。

「ひと、すくないね」

 親子が一組と、優先席に杖を持った老人が座っているきりで、他には誰も乗ってこなかった。単線の電車は駅と駅の間隔が驚くほど短く、三秒くらいでドアの閉まる駅がある。車内にはまどろみの中のようなうっとりと重い空気が流れていた。

 やけに日が照っていた。

「あの山、昔登ったことあるよ」

 私は正面の窓から見える、山という漢字に似た山を指し、当時のことを話した。小学校と中学校の遠足で都合三回も登らされたこと、じゃんけんで負けた方がリュックを持つという遊びをマトペとやったこと、先生に見つかってひどく怒られたこと。

「帰りは先生に見張られながら降りた。よくわからないけど、歌を歌いながら降りなさいって」

 明日歌ちゃんがそっと笑う気配がして、自分の役目を果たせたような気がしてほっとした。

 駄菓子屋は無人駅の先にあって、目の前に公民館があった。公民館の白いペンキはところどころ剥げていて、木製のドアが開け放たれていた。中で幾人かの子供がめいめい勝手にすごしているのが見える。お茶らしきものを飲んで、腹ばいになって本を読んでいる子供が二人いた。

 その公民館と対で作られているような立ち位置にある駄菓子屋は赤い庇がついていて、やはり茶色いペンキが剥げていた。横にひらべったく、からからとなる横開きのガラス戸を開けると、小さな棚に無数の駄菓子が詰めこまれているのがすぐ目に入る。店内の明かりは古い裸電球が少しあるだけで、陽光の差し込む入り口付近の明るさが、奥まった場所の暗さを強調していた。レジ前の座布団には怖そうなおばあさんが座っていて、のれんの奥から昼間のテレビの音がしていた。

 先客の子供が三人、子供の声量で話している。

「ちげーよ、こっちだよ」

「いやこっちだろ」

「ばかちげーよ」

「こっちだって」

 子供はいつまでも同じ言葉を使う。ちげーよ。こっち。ちげーよ。こっち。

 昔は私の家の近所にも駄菓子屋が三つあって、遠足の前日ともなるとどの店も身動きが取れないほど子供がひしめきあっていたが、今はどれも潰れてしまった。私の家の近くには三つの駄菓子屋があって、それぞれに特徴があった。綺麗だけど高くて怖い店、狭くて高くも安くもないが優しい店、それから、汚くてやや高いが犬のいる店。

「私は犬がいる店によく行ってた」

「なに犬?」

「雑種かな? 耳が半分垂れてた」

 明日歌ちゃんの家の近くには駄菓子屋がなかったそうだ。

「でも近所に犬はいたよ」

「なに犬?」

「ゴールデンレトリバー」

「耳が垂れてる?」

「うん。耳が垂れてる」

 赤い小さなかごにありったけの駄菓子をつめている事実が、私には少し重かった。労働法を無視して働き続けているおかげで、お金はありあまっていて、心のおもむくままに駄菓子を買い込むことなど、馬鹿みたいにたやすい。私のような人間でも、子供のころの夢なんて簡単に叶ってしまうのだ。こんな風に夢を叶え続けていったら、いつか生きていくための夢が足りなくなるのではないだろうか。

 ありったけの駄菓子を買うと、怖そうなおばさんは柔和な顔をした。外に出て、すぐ近くにあった公園ですぐ袋を開いた。面積ばかりが広く、極端に遊具の少ない公園だった。ベンチは一人分の居所が赤や黄色や青の鉄で区切られて、もしかしたらこれはあん馬的遊具なのかもしれない、と思った。

「三人でこられたらよかったのにね。ごめんね」

 明日歌ちゃんはそう言ったとき、私はその三人はどの三人を指すのだろうと考えた。普通に考えてノリくんを含んだ私たち三人であるはずなのに、私はサキマリとマトペを含んだ私たち三人のことを想像したのだった。理由がわからない。

「ノリくんは、元気なのかな?」

 何をどう聞いていいのか分からないのでそう聞くと、明日歌ちゃんはどうだろう、と答えた。

「なんでか分からないけど、ときどきこういうことになる」

「こういうこと?」

「私たち喧嘩したことがないから」

 喧嘩をしたことがないから、何がどうなったというのだろう。そう思ったけれど、あまりつっこんだ話をしない方がいいような気がしたので黙った。

 けれど、生まれた時から一緒にいて喧嘩をしたことがないというのはめずらしい。

「ちいさい頃もしなかったの?」

「うん。したことない」

 ぽやっとした唇で明日歌ちゃんは答えた。

「ちいさいころはもっと十分だったの。私とノリくんだけで、まんまるになって世間が終わってたから」

「まんまる」

 私は突然、ノリくんが明日歌ちゃんのことを「あす」と読んでいることを息苦しく感じた。飲み込んだものが飲み込みきれていないみたいな、妙な感じだった。明日。

「まんまるかぁ」

 二人が目を合わせていたり、喋っていたりするところを見るとき、私はそのまんまるを感じることがあった。そこにはぴったりとした球体のような完璧な世界があって、どんな存在も入る余地がない。けれど、そのまんまるはふと目を離すともう消えているのだった。

「お母さんたちがね、結婚式はこういう所がいいとか、よく話してるの」

 明日歌ちゃんがどのような思いでそう言ったのかわからなかったが、私は単純にいやな気持になった。

「こまるね、それは」

 うん、と明日歌ちゃんは頷いた。

 結婚という制度を至上の善行というか、人類のあるべき姿と信じて疑わないというか、そもそも疑うという概念を持たない人間が、世の中にはうじゃうじゃ存在する。別に私は彼ら否定したいわけではない。それをできない人間がいるということを、なぜ認められないのかとただ疑問に思うだけだ。抱き続けた疑問が膿んでしまうのは自然の摂理だろう。

 男女が睦まじくしていて、あるいは喧嘩をしていて、その間に子供がいるのを見ると、私はどうしようもない閉塞感を感じる。当たり前とされている営みができないのは、本当に自分がおかしいからなのだろうか。でもきっと、明日歌ちゃんやノリくんもこちら側の人間だ。そばにいたらわかる。

 絶対にいつか壊れるものを形成する勇気が私にはない。その点で言えば生まれた時から球体のようにぴったりはまる他者がいた明日歌ちゃんとノリくんは、どれだけこわい思いをしたのだろうと思う。

 きっと成長すればするほど、外部から球体を壊されてきたのだろう。二人きりで生きていけるのならばいいが、世界には彼ら以外にも人間がいる。完璧であればあるほど、ほんのささいなノイズが気にかかり、徐々に完璧なまんまるに戻ることができなくなる。だから二人はときどきあんな風に息苦しそうな顔をしていたのだ。

 明日歌ちゃんは泣きながらカツもどきの駄菓子を噛み切った。

「私はノリくんと恋人になったり結婚したりしたいわけじゃない。ノリくんもそう。ただずっと一緒にいたいだけなの。でもそれが許されないから、三人目が必要なの。三人でなら一緒にいてもゆるされるから。だけど、それもノリくんが壊しちゃう」

 私は明日歌ちゃんの腕を触った。今でも私は人の励ましかたが分からない。明日歌ちゃんの口からぽろぽろ油かすがこぼれた。

 どうやっても世界は二人きりにはならないのだし、ならば諦めるか、迎合するか、それもできないのならば、先延ばしにするしかない。けれど先に延ばしたところでいつかは何かを決めなくてはいけない日がくるのだ。ノリくんが三人でいることを壊してしまう理由が、私には分かるような気がした。

 だっていつかは、いつか必ずくるのだ。

 突然襲いかかられるより、自ら壊したほうが、まだましな気がする。だからノリくんは関係を壊すし、壊すけれども、やっぱりまんまるが恋しくて戻ってきてしまうのではないだろうか。

 明日歌ちゃんの腕はほのほの暖かかった。

 別れるはずの乗り換えの駅についても、私たちは別れなかった。どちらが言ったわけでもなく駅に入っているショッピングモールを下から上に順番に登っていて、買う気のない商品を見ながら、可愛いとか可愛くないとか、高いとか安いとか、どうでもいいことを言い合った。五階に大きな書店があって、互いに本を読むという共通項があることを、私たちはそのとき初めて知った。

 そこでも面白いとか面白くないとか、勝手なことを言って時間をすごした。

「あ、これ好き」

 明日歌ちゃんが棚から取り出した文庫本は、私も高校のときに読んだことがあった。人間がある日突然獣になりはじめるという話だ。

「私も読んだ。よくわかんないけど面白かった」

「この人これ一作しか書いてないんだよね」

「へー。そうなんだ」

「それも含めて好きなの。ラストが賛否分かれてるけど、私はこれがいい。このラストが好き」

 そうなのか、と心の中でだけ相槌を打った。私は全体としてはかなり好きな部類だけれど、ラストはもう少しどうにかならなかったのか、と思わなくもない。

 人が獣になる病気が流行っている世界、という設定ながら、この物語ではずっと日常が続いていく。なんてことない暮らしの中の小さな出来事を中心に語られ、主人公は大きな成長こそしないが、自らの存在の大きさに寄り添った生き方を続ける。そうして主人公の外の世界を席巻している、人間が獣になってしまうという事件はいつまでも物語の中心にやってこず、ただうっすらと不穏な気配だけが漂っているのだ。

「最後、けっこう唐突だよね」

 私が言うと、明日歌ちゃんは小さく頷いた。それまで日常を暮らしていた主人公が獣になってこの話は終わる。なんの前触れもなく、ある時突然、すべての日常が終わる。明日歌ちゃんはさらさらと表紙をさわっていた。

「私たちの生活も一緒だよね。いつどうなるかなんて全然わからないし、なにかの気配を感じてても、なにも起きないことだってあるし、決定的なことが起きちゃうこともあるでしょう? でも、本当は私たちにはなにもかも、どうすることもできないんだよ」

 大切なものを隠すように、明日歌ちゃんはその本を棚に戻した。

「だからお話を読んで、練習しておくの」

 それにしてもあの終わりは唐突すぎだ、と愚かにもそのときの私は思ったのだった。

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