第16話 ぷちぷちの黒い米おいしい

 二度と会わないと思っていたノリくん一味とは、それから都合二回会ったが、とくに何も覚えていない。サキマリとマトペはもっと頻繁に会っていたようだったが、私はバイトが忙しくて参加できなかった。

 私はまだちゃんと配膳のバイトを続けられていた。年末年始の繁忙期を越え、スポットで入っていた学生たちがいなくなると、数少ない常備アルバイトですべての宴会をまかなうようになった。合法なのか非合法なのか分からないが、二ヶ月の間、全休が三日しかなかった。

 どうあれ私には疲労よりも安堵の気持ちが強かった。高校時代に部活を辞めてしまってから激しい辞め癖がついていて、大学もすぐに辞めてしまったし、バイトも数日から数週間で辞めまくっていた。だからどんなに非合法の匂いがしていようと、働けているという事実が大切だった。

「お前は歩いて帰れ」

 女子大生を助手席に乗せ、バイト先の上司はそう言い残しラブホへ向けて車を走らせていった。乗ろうと思えば私があと三人くらいは乗れる車だったが、野暮なことは言わず、大人しく駅まで歩く。

 このあたりは八時にはバスが終わってしまうので、会社の誰かしらが車で駅まで送ってくれる取り決めになっていたが、ほぼ非合法な職場なので深夜に放り出されることがままあった。ままあることではあるが、十二時近くまで働いてからの二キロ徒歩はいつも割とつらい。

 国道から二つ山側に入った狭い二車線の道路には、両端に桜が植わっていて、非常に狭い世間の中で名所とされているが、昼間見た木々には明るい緑色がさらさらと揺れていて、花の気配はもうそれほどなかった。始まったと思っていた春は、もう終わりはじめているようだった。

 夜の空気はもったりと停滞していて、注意深く嗅ぐとどこかから花の匂いがするような気がしたが、それが桜かどうかは判然としない。

「加賀ちゃん!」

 その時、突然暗闇から声がして体が二センチくらい飛び上がった。あはは、という声が聞こえて顔を向けると、対向車線に見慣れない大きな車が止まっている。後部座席で人間が手を振っているのが分かったが、顔までは見えなかった。見えはしないが、振る舞いとシルエットからノリくん一味の女であることが分かった。名前がすぐには思い出せない。

「なんでこんな時間にこんな所歩いてるのー?」

 質問に大声で答えるのが恥ずかしかったので、左右を確認してから、道路を横切った。車に近づくと、運転席からノリくんが顔を出した。

「今の左右確認必要あった?」

 付近には人気も車っ気もない。

「小さいとき車に轢かれたことあるんで一応」

 そう答えたらノリくんは笑わずに顔をしかめた。

「マジ? 大丈夫だった?」

「まぁ生きてはいるって感じです」

「あー、たしかに。生きてはいるね」

 どういう会話なんだ。と思いながら助手席を窺ったが、もうひとりの男は乗っていないようだった。後ろから女がいつも歩きで帰っているのかと問うので、送迎係の上司が日雇いバイトの女子大生を持ち帰るために職務を放棄したため、仕方なく歩いていると答えた。

「なにそれ、ひどい! はやく乗って! 送るから」

 それは悪いから、いやいや大丈夫だから、というようなやり取りが面倒だったのですぐ車に乗った。女はいつもの甘い匂いを発しておらず、清潔な人間の新しい匂いがした。ホテル帰りなのかもしれない。

 間近で顔を見て、彼女の名前が明日歌だということを思い出した。明日に歌うと書いて明日歌だ、という説明をしてくれて、その説明がすごくいいと思ったのだ。すごくいいと思ったのに、どうしていつも忘れるのだろう。

 明日歌ちゃんは私のために口を尖らせていた。

「深夜に一人でこんな道歩かせるなんてひどいねー」

「まぁそういう職場なんで。でもここ街灯少ないので助かりました」

「加賀ちゃん暗いの嫌いだもんね!」

 そんな話をしただろうか。もしかしたらサキマリとマトペが話したのかも知れないが、よく他人の苦手なものを律儀に覚えていられるものだ。

「加賀ちゃんおなか空いてる?」

 ノリくんの質問に、夕方の休憩で食べた栗まんじゅう以降、ほとんど何も食べていないことを思い出した。残り物のローストビ―フ一切れは食事というには些細すぎた。

「端的に言ってものすごくぺこぺこですね」

 そう答えると、あはは、と明日歌ちゃんが笑って、ノリくんも少し笑った。

「じゃあご飯行こう。送るのそれからね」

 車はいつも私たちが意味もなく向かう山とは反対方向へ進み、海辺のスペイン料理屋に着いた。こんな夜中にやっているのだからスペイン料理バーとでも言うのかもしれない。どちらにせよ入り口に松明がかかげてあるような店には入ったことがないので、やや気後れした。けれど店内が思った以上に広く暗かったのと、雑な生活をしていそうな人間が何人も詰まっていたので居心地は悪くなかった。人間がたくさんいれば、その分自分の異物感は薄まる。ぎゅうぎゅう詰めでないのならば人間がたくさんいるのはいいことだ。

 なにより出てきた黒い米がべらぼうにうまかった。

「おいしい?」

 明日歌ちゃんが嬉しそうに聞いてくれるので気分がよかった。ノリくんが明日歌ちゃんのことを「あす」と呼んでいるのもよかった。いつか別れるだろう女のことを明日と呼んでいるのかと思うと感慨深い。

 ドコドコと外国の音楽が流れていて、店の中央のあたりで人間がゆらゆらとしている。クラブというほどのものではないが、それに近い場ではあるらしい。母の腹の音に似ているのか、みな一様にとろとろ眠りそうに揺れている。

 黒い米をすっかり食べ終わると、ノリくんが微笑んだ。

「加賀ちゃんデザートは? 食べる?」

 明日歌ちゃんがメニューを開いてデザートのページを開いて見せてくれる。

「加賀ちゃんの好きなのあるかな。どう?」

 聞いたことのないカタカナがいくつかあって、よくわからなかった。プリンだけがわかる。

「このプリンって硬いプリンですかね?」

「どうかなー? ノリくん食べたことある?」

「どうだろ。頼んでみよっか」

 柔らかかったらごめんね、とノリくんは店員を呼んだ。柔らかいといいね、と明日歌ちゃんが注文してくれた。私は確かに硬いプリンが好きだが、そうだったらいいな、という程度なのに、二人とも私以上に硬いプリンを望んでいるようだった。

 最初とその後の二回会った印象では、二人とも倫理観と人間性がやや平均以下のどこにでもいる青年といった感じだったが、今日はやけに落ち着いて見える。サキマリやマトペと一緒になって甲高い声を上げていた人間とは、別種の生き物のように感じた。

「今日はあの人いないんですね」

 もうひとりの男の人間の名前を私は完全に失念していたが、明日歌ちゃんがテーブルの上を紙のおしぼりで拭きながら、ああ、と答えてくれた。

「もっくん?」

 そんな名前だったろうか。あやふやに相槌を打つと、ノリくんが煙草を咥えながら答えた。

「嫁が里帰りから帰ってきたらしいから、さすがにね」

「ああ、結婚してたんですね」

「悪いやつだよ。嫁のいない間に」

「まぁ私がもっくんさんの立場なら絶対に遊び狂いますけどね」

 できれば一生里帰りしていてほしいと思うだろう。赤子に行動を制限されるなんて考えるだけで背中に羽が生えそうだ。

 はは、とノリくんはやはり落ち着いた笑い方をした。

「たしかに。結婚なんかする人間の気がしれない」

「ですね。実際どういうことなんでしょう。人間としての心の機微として」

「正気じゃないんでしょ」

 ノリくんはゆらゆら揺れる人間たちを眺めて言った。

「一人の他人と一生一緒に生きていく覚悟を決めるなんて狂気だよ」

「そんなこと言って」と明日歌ちゃんは明るい声をはさんだ。「ノリくんみたいな人がぱっと結婚するんだよ」

「しないしない」

「それで私が嫁にいびられるだ」

 明日歌ちゃんは細い指でノリくんの煙草を一本掠め取った。二人は同じ煙草を吸っている。私は何かを見誤っているのかもしれなかった。

「お二人はいつからの知り合いなんですか?」

 婉曲に関係を聞いたつもりなのに、二人は一瞬驚いたような顔をして、ふっと同じように笑った。そうして、同じような声を漏らした。

「生まれた時から」

 予想していなかった答えに思考が固まってついでに口が少し開いた。生まれた時から一緒の他人なんているのだろうか。そもそも他人だと言っていなかったかもしれない。私は本当に人の話を何も聞いていない。

「二卵性双生児とかですか?」

 そう聞くと、やはり二人は声を合わせて赤の他人と答えた。

「でももうずっと一緒にいるねー。なんでだろうね」

「あすが付いてくるからじゃない?」

「ノリくんが誘うからかもね」

 ドコドコと鳴る異国の音楽の中で、二人はさまざまな思い出を私に語った。同じ産院で一日違いで生まれたこと。明日歌ちゃんの方があとから生まれたので年下だということ。ママ友になった母親たちの異様な連帯のこと。引きずれ回された数々のテーマパークでの出来事。うら寂しい庭園で一緒に迷子になったこと。大きなショッキングピンクのうさぎに助けられたこと。中学校の入学式のクラス発表の感想。化学の実験での危険。それから、そのときどきに二人がどんな人間と付き合っていたのかということ。

「あすが一番長かったのはクヌギだよ」

「えー? サトルくんのが長くなかった?」

 母親たちは今でも二人が結婚するものだと信じているらしい。

 私は明日歌ちゃんがあの深夜の暗い車の中で、何をもってしてノリくんを悪い人間だと断定したのか、そのことが気になってしょうがなかった。二人はとても仲睦まじく見える。互いのことを互いが一番よく知っていて、互いの存在をこれ以上なく好ましく思っている。そういう風に見えた。母親たちが結婚を信じるのも無理はない。

「あ、加賀ちゃんプリンきたよ」

「スプーンある?」

 けれど私は、なぜかその二人に不気味な印象を持ったのだった。

「おいしい?」

 私が頷くと、やけに安心したような顔つきがふたつ返ってきた。

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