第11話 向かいの校舎の鏡からきらきら
ある日、なにげなく幼少期の写真を見てみると、私は一つも笑っていないのだった。少なくとも小学校に入る前までの写真はぴくりとも表情が動いていない。母が言うには、生まれたときからほとんど物音一つ立てなかったらしい。静かに黙って泣きも笑いもしないので、一度医者に見せに行ったらしいが「こういう性格」の一言で片付けられたという。
赤ん坊のころはどうだかしらないが、確かに保育園あたりの記憶では笑うという心持ちにならないようにしていた気がする。もともと外部の刺激に心を動かしにくい性格ではあったのだろうけど、それに加え、笑うという行為そのものに抵抗があったのだ。
泣くのも笑うのも、平常とは違う気分のときにするもので、他人が平常心をなくしているのを見るのが嫌だったし、自分がそうなるのはもっと恐ろしかった。だから努めて凪の状態を保った。
小学校に入り、自由に外を走り回る喜びを覚え、他人がどうとか自分がこうとか、そういったことを考える暇がなくなったらしく、低学年の写真を見ると別人のように笑っている。むしろ進んで道化の役割を担っていた覚えもあり、かなり大げさな表情もしているようだった。
それが高学年の写真になると、幼い頃の無表情と低学年の喜劇的表情が入り混じった、ぎこちのない笑顔が現れる。それは笑おうとして顔にシワを作り出しているという状態に過ぎず、気味の悪ささえ感じた。
生理がはじまり、自分の体が自由にならないということは、私の心と脳に相当な傷を与えたらしい。当時はそんな客観視は出来なかったので、理由の分からない憂鬱と喜びにただ翻弄された。それがホルモンバラスの仕業などとは夢にも思わず、泥と清流が入れ替わるように、脈絡なく心身の状況が変わるのを、すべて自分の人格が悪いせいだと考えていた。
だから、明るく安定したものを見るのは厭わしかった。
「加賀が笑うようになったのは私のおかげだから!」
これはサキマリの常套句だが、それを事実だと知って言っているのかは分からない。
むやみに明るい彼女のことも最初期の私はもちろん厭わしく思っていた。部活の時間ばかりでなく、朝も昼も夕方も、サキマリは絶えず私の前で光り散らかしていたのだ。マトペは単に声が大きく疎ましかったが、サキマリの声は光線のようで、今までにない感慨を私に与えた。それがどういう種類のものなのか、私は長い間分からなかった。
まだ眠っていたのに、無理やりに朝日を浴びさせられたときと似ている。
中学の生活にだいぶ慣れてきた六月の終わり、窓辺の席で授業を受けていると、ちらちらと目に光が差し込んだ。心象風景ではなく実際の光で、光源を探すと、向かいの校舎でサキマリがぴょこぴょこ一人で跳ねており、手鏡らしきものを持っているのが見えた。
授業中なので無視をすると、またちらちらと頬に光線があたる。大した光量ではないが、外れた光がノートを照らして非常に鬱陶しい。なんとか無視を決め込もうとしたが、サキマリはまったく諦めなかった。
「先生!」
普段息を潜めてまったく発言しない私が立ち上がったので、国語教師は、うぉう、と妙な声を出した。
「トイレに行ってきてもいいですか」
おお、とまた教師は声を漏らした。
「どうぞ」
「こっちこっち」
向かいの校舎に行くと、サキマリがさも私がくるのが当然という様子で手招いている。
「なにしてんの。三組今体育でしょ」
「いいからいいから」
そのままトイレに連れ込まれ、何かと思うと、一番端のトイレに入り、汚物入れの隅を指差した。
「あそこ」
黒いうごめくものが見えた。
「は?」
私が声を上げると、サキマリは満足そうに笑った。
「マトペとなっちゃん今、習字やってるからさ」
「え。だからなに。いやキモい、触覚!」
「加賀ちゃん声がでかいよ」
「あなたに言われたくない!」
「いいから見てて」
何をするのかと思うと、サキマリは片手にトイレットペーパーをこれでもかというほどぐるぐる巻きにして、すばやく黒い影に手を伸ばした。
「うわ! は? なにしてんの? なにしてんの!」
「わ!」
「いえあ!」
「まじで加賀ちゃん声でかいって」
「誰だって顔に害虫寄せられたら声を上げると思いますが!」
何が面白いのかサキマリはしばらく害虫を持ったまま笑い続けた。かと思うと、そのままトイレの外に出る。
「はやくはやく」
「なに? どこ行くつもり?」
答えはなく、そのままサキマリは階段を降りて、マトペとなっちゃんのクラスである一年六組のドアの横にしゃがみこんだ。
「ちょっと待って、なにしようとしてる?」
ごく小声でそう問うと、サキマリはジェスチャーで教室の中を指差した。まさか、と思った瞬間勢いよくドアを開ける。ぎゃ、と一番近くの女子が突然開いたドアに声を上げた。
そうして私の視界の端では、やはりサキマリが大きく振りかぶっているのだった。
「うわ、ばか!」
声を上げた瞬間、黒いものがサキマリの手の中から離れた。
「ぎゃあ!」
マトペが聞いたことのない声を上げ、墨のたっぷりついた筆が教室に転がった。なっちゃんはどこにいるのか分からなかった。唖然としていると、ばっと手首を掴まれる。
「逃げろ!」
ぐっと体が予期せぬ方向に引っ張られて、背後から習字の先生の大声がした。
「こらあ!」
「えっすごい古典的な怒られ方してるんだけど!」
私が叫ぶとサキマリの笑い声が前から飛んできた。それはきらきらとか、ちらちらとかいう繊細な光ではなく、ぎらぎらとかびかびかとかいう、うるさい光だった。
「大成功!」
「いやなにが? めっちゃ怒られてるじゃん!」
言いながら、私は自分の頬が皺を寄せているのを感じていた。
その時は――そのあとの日々も、自分の状態を省みる余裕などなかったから、それが笑いだという認識はしていなかった。サキマリの横ではいつもそうだ。振り返る時間がないほど、つぎつぎと色んなことが起きる。だから写真もあまり残っていない。
数枚残っているものは、みんながみんなぐちゃぐちゃの表情をしていて、一切まとまりがないが、種類としては全員笑顔なのだった。特に私の表情は、破顔といってもいい。私のアルバムの中では、この時期が一番人間らしい顔をしている。
中学でバレーを心底憎むようになっていた私が、高校でもまたバレー部に入ったのはサキマリがいたからだ。いなかったら絶対に入っていないし、なんならバレー部のない学校を探して選んだだろう。それくらい入りたくなかった。
けれど、それはサキマリも一緒だったのだ。高校受験をするにあたって、サキマリには有名校からいくつかスカウトが来ていたが、気分がいいという理由で面談だけは受けて、全部断っていた。それで進学した先は、運動部も文化部も何一つぱっとせず、進学校を自称してはいるが入ると頭が悪くなると噂の、自由な校風だけが取り柄の中途半端な高校だった。
私たちはそこで、あたらしい生活を始めた。
「どうする? 弓道部行く?」
「あなた黙って待ってられなくない?」
「弓道ってそういう競技だっけ?」
「道のつく競技ってだいたい待て的な作法あるイメージだけど」
「二秒くらいなら待ってもいいかな」
「道のない競技にしなよ」
私は家が近いという理由と、サキマリが行くからという理由だけでその高校に決めたが、サキマリはその高校唯一の特徴である自由な校風に強く心を惹かれていた。
「高校では遊ぶって決めてるから」
中学時代、部活の休みが三が日とお盆しかなかったことを、サキマリは誰より長く悔しがっていた。私はその話が出るたびに曖昧にうなずくしかなかった。私とマトペの怠惰な性格が顧問に火を付けていたことを知っていたからだ。でもそれは、勝手に私たちの図体に期待した顧問が悪い。
とはいえ、私たちは数少ない半休や放課後、あるいは練習中でさえ、ほとんど毎日遊び狂っていた。なっちゃんの家に入り浸ってゲームをし、菓子をせびり、誰も弾けないピアノを弾きまくり、置物のように温厚なおじいちゃんに怒られたくらいだった。
つまり、サキマリのいう遊びというのはそういうことではない。
「マジで彼氏作るから。本当にすぐだから」
「はいはい」
サキマリは中学のころからよく数々の何とかいう先輩に入れあげていて、驚くべき積極性で少しいい関係になることがあった。しかし休日がないので――あっても私たちと遊ぶ約束があったので――お付き合いという所まではなかなか到達しなかったのだ。到達したとしても、忙しいのですぐに破綻してしまっていた。
「私の好きそうな人がいたらちゃんと教えてよ」
「はいはい」
サキマリの好きな男は、髪の毛がさらさらで目が澄んでいてくりくりしていて、笑顔がちょっとぎこちないはにかみ屋の年上だ。入学式とその次の全校集会で、私はそれに近い人物を何人か発見していたが、黙っていた。その方がサキマリのためだろうと思ったのだ。
「あ、先輩! いましたよ、あそこ!」
どこかで聞いたような台詞を聞いたその時、私とサキマリは放課後が始まったばかりの薄ら寒いピロティで、帰るか、それともどこかの部活の見学に行くか、ということを決めあぐねてだらだらしていた。中学の部活は強制参加で誰もがどこかに入らなければいけなかったが、高校はもちろんそんなことはなく、そのころのサキマリは、出会いを求めてアルバイトをするという選択もありうるか、というようなことを言い始めていた。
地元から離れた高校ならばともかく、電車を乗ることなく通える高校で、そんなことが許されるはずはない。
「
走ってきた一団がそう呼ぶ横で、そういえばこの人の苗字は匂坂だった、とぼんやり私は考えた。はじめましての時からしばらくサキマリという音しか知らされていなかったし、その後もサキマリとしか呼んだことがないので、サキマリと匂坂という苗字がつながらない。
もちろんこれは身内の感覚で、あの頃、地元でバレーボールをやっている人間で匂坂という苗字を知らない人間はいなかっただろう。
「え、バレー部入るでしょ? 入るよね?」
「待ってるのに全然来ないから」
「思ってたより小さい!」
「うちの高校来てくれてありがとう」
「あ、加賀さんも!」
とって付けられたように輪の中に加えられたが、誰も私を見てやしなかった。わらわらとサキマリを取り囲む人間たちの目が、物理的に光っているように見える。こういう光のことを人は希望とかいうのだろう。
で、その希望がどういう末路をたどるのか、私はもう知っているはずだった。
団体競技では突出した一つの才能だけでいける場所には限界がある。だからこそ中学の顧問は私とマトペに執拗なまでの叱咤を与え、鼓舞してきたのだ。私はそれがサキマリの才能を生かすためだということを理解していたが、それよりも騒いでいるほうが楽しかったので無視を決め込んでいた部分もある。
有象無象は簡単に天才を殺す。サキマリは私たちと出会ったことで、確実に才能をすり減らしていた。自主練習を抜け出して民家の柿を取ったり、道端の朽ちる寸前のプレハズの屋根に乗ったり、体育館から運び出したマットの上に二階から飛び降りたり、そういう遊びを提案していたのは大抵サキマリ自身だったが、彼女の才能をそういう方向へもっていったのは才能のない私たちだ。才能のある人間たちの中にいれば、サキマリは今頃こんな所にいない。
中3の夏の終わり、背が高いというただその一点を買われ、実は私にも高校のスカウトが一件だけきていた。電話で面談の断りをいれたときに聞いた顧問の言葉を、そのころの私は結構な頻度で思い出していた。
「君たちは若さと才能を無駄にしてる」
くそくらえ、と思った。
私はサキマリが自らの才能を捨ててまで、私たちを選んだことが嬉しかったし、誇らしくもあった。大人たちが躍起になって守ろうとしているその若さだか才能だかを、確固たる信念もなく無駄にするという、これは私たちお得意の無茶だったのだ。あのころは、才能を守ることより、才能を無駄にすることの方がよほど魅力的な無茶に思えた。
つまり、若さが過ぎ去ることなどとうの昔に知っていたが、それがどういうことかは分かっていなかったのだ。
「いやあ、高校ではバレーはちょっと」
高校バージョンの有象無象に囲まれながら、サキマリが口元をむにむにと動かすのを私は見ていた。
調子に乗っている。
これは明らかなサキマリの弱点で、試合中でも調子に乗りすぎると、新人でもやらないようなポカをやらかすことがあった。例えばサーブでホームランを打つとか。スパイクでホームランを打つとか。
それを感じ取ったのか、有象無象たちが、押せば簡単にいけそうだ、と思ったのがはっきりと分かった。私としては本当にサキマリが弓道部に入ってもよかったし、帰宅部になってもよかった。どこに行ってもサキマリが私を誘うということは明らかだったし、誘われた暁に私が同じ道を行くことも明らかだったからだ。
いつの間にか輪の中から外されていた私は、足元にあった小石を足の裏でごろごろ転がして暇を潰していた。大した指導者もいないここの部活に入って、サキマリの才能が活きるなどということは金輪際ないが、サキマリはバレーをしているときが一番楽しそうなのだ。本人が楽しいのならば、それが一番に決まっている。
なにより、私はサキマリがバレーをしているのを見るのが好きだった。
「おい」
「あ?」
いきなり背中を強く叩かれて、油断していた私の口からは勝手に育ちのよい声が出ていた。
見ると、随分低い場所に頭がある。ジャージの色から察するに、それがなくとも状況から考えてあきらかに先輩だった。上着に排球部と書いてある。なんでわざわざ漢字で書くのだろう。とりあえず私は会釈のようなものをした。
「お前やっぱりでかいな」
見上げながら先輩は言った。やっぱり、と言うにはこの人も私のことを知っているのだろうが、残念ながら私には見覚えがない。
「首が痛い!」
「はぁ」
ビルじゃあるまいし、そこまで高いはずはない。立っている位置が近いのだ。しかし先輩はそのままの位置で私を見上げ続けた。
「お前どうすんの?」
「何がですか?」
「部活だよ部活。相方は入りそうだぞ」
確かにサキマリはもうほとんど陥落していたが、そんなことより私は相方という響きが気になった。相方呼ばわりされるのはマトペとの方が圧倒的に多かったし、サキマリのような人間の相方に自分が事足りると思われているのがやや不快だった。
「相方じゃないです。でもサキマリが入るなら入りますよ」
「なんじゃそりゃ」
先輩は顔をしかめた。
「お前はどうなんだよ」
「どう、とかいうことはないですけど」
答えながら、面倒そうな先輩だなと思った。相手も同じような気持ちで私を見ていたのかもしれない。ため息のようなものを吐いて、先輩は私を睨みあげた。もしかしたらもともとの目つきが悪いだけかもしれない。
「お前バレー嫌いだろ」
なんで見ず知らずの人間にお前と呼ばれなくてはいけないのだろう。大体、他人の感情を断定するとはどういう了見だ。
「そうですね。嫌いです。何が面白いのか分からないし、根性論みたいなのも気持ち悪いし」
かっとなって答えてしまってから、今後この人とチームメイトになるのかもしれないということに気がついた。こんなことを言って、ぐじぐじといびられたら堪らない。
「いい度胸してんな」
「すみません。嘘です。楽しいですバレーボール」
「もう遅いだろ」
けはっ、とその先輩は奇妙な笑い方をした。ぽん、と弾けて飛ぶタイプの花の種みたいな笑い方だ。
「絶対入れよ。根性叩きなおしてやるから」
「そういうのが嫌なんですけど」
「おーおー。楽しみだな!」
結局サキマリがかなり乗り気になったので、次の日に入部届を取りに行った。またあの日々が始まるのかと思うと、本当にちゃんとした吐き気がしたが、同時にちゃんとした喜びもあった。
サキマリが跳躍するたび、私はこの世がまだ生きるに値するものだという確信に似たものを胸に抱いた。三年間顧問に叱咤され続け、まったく好きではない部活を辞めなかったのは、サキマリが飛ぶのを近くで見ていたかったから、というのが大きい。私はあんなに長いあいだ飛ぶ人間を見たことがなかったし、あんなに楽しそうに飛ぶ人間も見たことがなかった。私にとってサキマリの跳躍は色彩そのものだった。
私は自分が色彩のある世界を生きるのが好きだったことを、あの跳躍を見て初めて知った。
もちろん、今でも好きだ。
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