第10話 名前の間に☆は一度も流行ってないよ

 角煮クッキングから何日か過ぎたその日、私は朝の十一時に目を覚まし、背中がブリキになってしまっていることを確認して、たっぷり一時間半くらい起き上がろうという努力を続けていた。

 前日に朝の五時から夜の十二時までという異常に拘束時間の長いバイトをしていたせいで、全身が重力に負けていたのだ。ほとんどが待機時間で、実働にしてみればさほど長くないのだけれど、外に出るには短すぎ中で過ごすには手持ち無沙汰な中空き時間は、却って疲労を貯めていった。

 そのころ始めたホテルでの配膳仕事は、手足が動けば誰でも働けるというおおらかさを報酬に、人間的な配慮を犠牲にしてなりたっていた。誰がどこで倒れていようが大して気にされないので、神経衰弱で度々倒れる私には合っていた。

 もう今日は起き上がることは諦めようか、と考えた矢先、電話が鳴った。サキマリからだ。

「おう。今何してんの」

「んー。起き上がろうとしてる」

「えらいじゃん。起き上がったら立ち上がるんでしょ?」

「たぶん」

「そんで顔洗って支度するんだよね?」

「なんかあんの?」

「サキマリちゃんと遊びに行く!」

 明るい声にふっと息が漏れて、体が軽くなった。

「何時集合?」

「うどん屋に三時九分」

「十分でよくない?」

 あはは、という笑い声がして、しくよろーという声と共に電話は切れた。

 何も食べずに顔だけ洗って、高校の頃から着ているパーカーと、中学の頃からはいているジーパンを着てうどん屋に走った。サキマリの車はマトペの車のように馬鹿みたいな大きさでも、車内に過度な飾りがほどこされているわけでもない一般的な軽自動車なので、似ている車がいっぱいある。

 でも私はサキマリの車を見つけるのは得意だった。

「早いじゃん」

「変な刻み方するから焦った」

 助手席に乗ってシートベルトを締めると、化粧をしていないと怒られた。

「私と遊ぶだけだから気ぃ抜いてるのか? 今日運命のメンズに会うかもしれないのに」

「どこいくの?」

「アウトレット」

 思ったよりも遠出だった。山を一つ越えなければいけない。

 国道に向かって軽快に車を走らせながら、信号待ちのたびにサキマリはバックミラーで自分の目の仕上がりを確認していた。いつものように国道前の脇道に入る。

「コンビニ寄ってから行くべ」

「うん。お腹空いた」

 そうだろうと思ってね、とサキマリは笑った。

「でもおやつは一人五百円までね。そんでバナナはおやつに入るからね」

「バナナはいらないけど。飲みものは?」

「飲み物もおやつじゃない」

「ココアでも?」

「ココアはさすがにおやつかな」

「ミルクティーは?」

「それは飲み物」

「ロイヤルミルクティーでも?」

「ロイヤルミルクティーでも」

「なるほど」

 そう相槌を打ったが、ココアとロイヤルミルクティーを分かつものが私には分からなかった。

「どういう線引き?」

「甘酒以上はおやつ。甘酒以下は飲み物。なお麹と酒粕は問わないこととする」

「思ったよりちゃんとしてる」

「そうだよ。いつも私は思ったよりちゃんとしてるんだよ」

 そうはどうだろう。

 サキマリと話すうちに、ブリキになっていた背中が完全に溶けて人間の肉になっていた。窓から日が差して左腕だけがじりじり焼けている。昼間に見る道路はいつもより色彩が多く、普段ならば気が滅入るけれど、ここにいるとそうでもない。

 サキマリは上機嫌に流行りの歌をうろおぼえのまま歌った。

「そういえば昨日の合コンどうだったの?」

「面白かったよ。また今度遊ぶっていうから加賀も一緒に行こう」

 知らない人間と話をするのは好きではないが、サキマリはいつも自分の知り合いを私に引き合わせる。けれどサキマリと一緒であれば、私はさほど初対面の人間と話すのも苦ではない。むしろ得意なのではないかと思うことすらある。

「ほら加賀、コンビニついた。光合成光合成」

 サキマリの横はいつでも明るい。

 はじめて話した時からそうだった。もう何年も経っているのに、今でもその時のことは色彩まではっきりと覚えている。死ぬまで覚えているような気がする。特に感動的な出会いでもなかったのに。

 中学のバレー部で経験者でなかったのは私とマトペの二人だけだったのに、マトペは最初のころ、塾だとか家の手伝いだとかいう理由を付けて、部活に顔を出さなかった。

 同じ学年でバレー部に入った人間が他に三人いたが、三人とも中学に入学する以前からここの部活に参加していたらしく、すでに先輩たちと和気あいあいとしていた。私には知る由もなかったが、彼女たちの小学校のクラブチームは全国大会で優勝するくらいの名門で、中学の部活の構成員もほとんどがそのクラブチームの出身だったのだ。

 どおりで一年が入らないわけだ。

 これだけの内輪ノリを見せられて、初心者が入ろうと思うはずがない。部活見学会であれだけ私やマトペをちやほやしたのには、こういうわけがあったのだ。

 木の棒を投げながら、私は早くも入部を後悔していた。もう二週間近く木の棒を投げ続けている。木の棒の実情は新聞紙をガムテープでぐるぐる巻きにしたもので、奇妙に重く、ぬめぬめしていた。汗で粘着剤が溶けているのだ。コートの中で経験者たちが和気あいあいと練習をしている間、私は体育館の端に立ってその木の棒を投げ、落ちたものを拾い、また投げるということを厳命されていた。ひたすら。

 ぬめぬめを握りこみ、遠くに投げると、木の棒は間抜けな音を立てて落ちる。それを取りに走り、拾う。拾ったら体育館の端まで下がり、ぬめぬめを握る。投げる。落ちていく。ぽとん。走る。拾う。ぬめぬめ。下がる。投げる。落ちる。ぽこん。走る。ぬめぬめ。ひたすら。

 どう考えても何らかの罰だ。

 こんな風に謎の処罰を受けている人間の横で、どうして平然と練習を続けていられるのだろう。こいつらには人の心がないのだろうか。せめてどこを鍛える何の練習なのかくらい教えるべきだ。そもそもこれは練習なのか? 罰じゃなくて?

「休憩!」

 休憩でーす、と一同が復唱する。

 この復唱システムも教えられてない。なぜそんな簡単なことを復唱する必要があるのだろう。返事をするだけじゃだめなのか。頭が悪いのか。マトペが勉強をしたことがないくせに塾に通っていることも憎かった。マトペがいてもどうにもならないだろうが、一人でやらされるよりはまだ増しだ。そもそもマトペが来てもこの練習を続けるのかは疑問だった。これだけ図体の大きい人間を二体用意して、同じように棒を投げ、拾わせ続けるのか。

 正気の沙汰じゃない。

 休憩の間、木の棒を所持したまま体育館の隅に立って、私は全員の頭を後ろから殴り飛ばす想像をした。連中には私が見えないのか、かなり離れた場所にいて、また内輪にしか分からない話題で盛り上がっている。

 まずあのスポーツ刈りからやろう。私の木の棒の第一投を笑いやがった。無表情でロボットみたいだとか感情が見えないとか言っていたが、木の棒を投げる作業のどこに感情が動く余地があるというのだろう。頭が悪いのか。

 木の棒の戦闘力は意外にも高く、脳内でスポーツ刈りが息をしなくなったので、次にキャプテンだとかいうタレ目に目標を定めた。さも無害な優等生ですみたいな顔をしているが、こんな風に休憩中に一人で木の棒を持って突っ立っている新人を可哀想だと思わない時点でどうかしている。お前が処理するべき案件じゃないのか。そもそもなんで木の棒だ。頭が悪いのか。

「ねぇ」

「あ?」

 だいぶ感じの悪い声が口から漏れて、意識を現実に戻すと、同じ一年のなんとかいう女が目の前に立っていた。名前は分からない。なぜ誰も名を名乗らないのだろう。そっちは知っているのかもしれないが、こっちは全員紹介されていない。

「こっち来て」

 そう言って彼女はくるりと向きを変えた。

 また何か新しい処罰が始まるのだろうか。木の棒を投げるよりはましな作業であることを願いながら、私はその後ろについていった。よく見ると彼女は外で見ているほど背が高くないようだった。

 素人目で見ても、彼女の運動能力は他の有象無象とは別格だった。一人だけ別の生き物が紛れ込んでいるみたいで、スポーツ刈りもキャプテンのタレ目も、もちろん他の一年も、彼女と比べると何の役にも立っていないように見えた。

 体育館の重たい扉の前で足を止め、彼女はこの世で体育館でしか見たことのない両開きの固い扉をざりざりと少し開けた。一人が通れるくらいの隙間が出来る。

「早く」

 扉の向こうに踏み出しながら、彼女が素早く手招きをする。拒否する理由もないので外に出ると、またざりざりと扉をしめて、彼女は大げさに、ふう、と息をついた。

「あぶなかったー」

「なにが?」

「ほら、ここ」

 と、彼女は地面へ降りるための三段くらいしかない階段の二段目を指した。なにが危なかったのかは説明がなかった。

「座って」

「はぁ」

 座った。

 コンクリートだ。何の練習だろう。

「ここが一番涼しいんだよ」

 そう言いながら彼女が横に座ってくる。涼しいというよりは寒かった。なにせ私は木の棒を投げ、たらたら走って拾うだけの運動しかしていない。

「いい場所でしょ」

 彼女の声の色調が明るくてめまいがした。私の感慨としては別に良い場所ではなかったが、悪気はないのだろうから一応うんとかすんとかいう返事をした。するとまた一段と明るい色調の声が飛んできた。

「私たちの秘密の場所ね。特別に仲間にいれてあげるから」

 小学生か? と思ってその顔を見たら、実に小学生のような顔つきをしていた。コートの中にいる人物と同じ人間には思えない。けれど彼女の言うように私たちの座っている場所は、あたりを野生の雑草だか生け垣だかが取り囲んでいて、秘密基地めいた雰囲気があった。扉一枚分しか防御がないのは心もとないが。

 彼女は横から私の所持している木の棒を覗き込んだ。

「それってなんの練習なの?」

「わかんない」

「ちょっと貸して」

 彼女はめずらしそうに木の棒をくるくる回して観察しはじめた。これで木の棒投げが正規の練習ではないことがはっきりした。少なくとも、この部活で一番バレーのうまい彼女が通ってきた道でないことだけはたしかだ。

 私がまたスポーツ刈りへの怒りを溜め込んでいると、視界の端で木の棒が激しく動いた。

「え?」

 顔を上げた時にはすでに彼女は振りかぶっていて、そのまま木の棒は目の前の茂みにものすごい速さで吸い込まれていた。木々の大騒ぎする音が一瞬してすぐ静かになった。もはやどこにも木の棒はない。今まで別になんとも思っていなかったが、目の前から消えてしまうと、急激にさみしくなった。

「面白いね!」

 そう言って、ぴょーん、と彼女は飛んだ。こんな風に擬音のつく動き方をする人間を見たのは生まれて初めてだった。滞空時間というのだろうか。鹿みたいな飛び方をする。がさがさと茂みに頭を突っ込んで、彼女は木の棒を取り出した。返してもらえるのかと、私は手をやわらかく開いて彼女の方へ寄せていた。しかし、彼女はぱっと笑った。

「見てて!」

「え?」

 気がつくとまた彼女は木の棒を持って振りかぶっている。しかし、今度はさきほどとは違い助走が着いている。

「えっ!」

 声を上げたときには、木の棒は軽やかに果てしなく遠くまで飛んでいってしまっていた。生け垣を越えて向こうにあるグラウンドのたぶん半分くらいまで。まるでブーメランのようだったが、当然こちらに折り返してくるということはなく、美しい放物線を描いて木の棒は落下していった。

 あいつ、あんなに飛べる棒だったのか。

「いや!」

 木の棒の真価など今はどうでもいい。私はここ数年で一番の大声を上げた。

「私の木の棒なんですけど! なにしてくれてんの」

 しかし彼女はげらげら笑っている。

「木の棒って!」

「木の棒じゃん。木の棒以外の何者でもない!」

「あはは! 加賀ちゃん面白いね!」

「面白くないから。あれないと私戦えないから」

 取りに行こうとすると背後から「休憩終わり」という号令が聞こえ、復唱がすぐに続いた。

「最悪だ」

 走って取りに行こうとすると、横から腕を掴まれる。

「ねえ、私のことサキマリって呼んでいいよ」

「なんで今!」

 世界で一番今が自己紹介のタイミングじゃない。今は木の棒を助ける時間だ。

 しかし彼女は腕を離さなかった。

「さんはい!」

「は?」

「呼んでみて!」

「いやだから今それどころじゃ」

「さんはい!」

 仕方ないので小声でサキマリと呼んだ。

 しかし彼女は首をかしげた。

「んー。ちょっと違うな。サキとマリの間に星つけてみてくれない?」

「何言ってんの?」

「さんはい!」

「サキ☆マリ」

「そう!」

 そのままぐいぐいと体育館に引っ張られ、サキマリは大声で私が木の棒をなくしたことを有象無象に伝えた。無実の罪でスポーツ刈りに怒られ、大変に不愉快だったが、仕方がないという体で、その日私ははじめてバレーボールに触らせてもらった。

「こうして、こうするでしょ、で、ここが三角ビーフね!」

 サキマリの言うことは、教わらずとも運動が出来てしまう人間の説明という感じで、まったく意味が分からなかったが、木の棒を投げる作業より、格段に人間らしい時間をすごせた。

「もっと楽しそうにして! 笑って!」

 それがサキマリの口癖だった。だから私は、彼女の横にいるといつも楽しいような気になるのかもしれない。どんな日々でも、彼女の横だけは明るく、楽しかった。

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