第9話 まだ生きている歌本の頁の端がめくれてる

 ドンキのあとのゲーセンという最終手段のエンタメが終わってしまうと、ファミレスで茶と煙をしばく以外、もう私たちには時間の過ごし方がない。もはや烏龍で酔うというような気概はなく、ひたすら時間は空費されるが、この空費にはなかなか終わりが訪れない。なぜならもう何もかもが終わっているから。

「角煮つくろうと思うんだけど」

 突然、横に座っているマトペが言った。

 私は向かいにいるサキマリを見たが、サキマリはマンゴーパフェを食べるのに忙しそうだった。いつの間にマンゴーはこんなに市民権を得たのだろう、そんなにメジャーになるような味の果物ではない。そう考えながら、私は仕方なく声帯を振動させた。

「作れば?」

 マトペはとっくに食べ終わったフォンダンショコラの、皿についたチョコレートをフォークで弄っている。

「どうやって作んの?」

「知らね。ていうか角煮が何肉かも知らない」

「牛ヒレじゃん?」

「牛ヒレってどこの肉?」

「分かんない。胸?」

「魚のヒレとか言うじゃん。あれって胸け?」

「あれはせなきんじゃん?」

「せなきん?」

「背中の筋肉」

「背筋のこと?」

「あ、牛ヒレもせなきんかも」

「いやせなきんてなに? 背筋でしょ?」

「はいきんって肺の筋肉じゃないの?」

「肺に筋肉なんてねぇだろ」

「でも学校ではいきん測ったじゃん」

「は?」

「ふーってやるやつ」

「ああ、測ったわ」

 サキマリが急に顔を上げた。

「宇宙みたいな会話すんのやめてくんない?」

 角煮は豚だ、と言ってサキマリは最後のマンゴーを口にした。

「ていうかマトペ料理できないじゃん」

 たしかに。調理実習でもいつも同じ班だったが、あまりに包丁の持ち方が恐ろしいので全部私がやっていた。実家の馬鹿みたいに大きなシステムキッチンでも、カップラーメン以外、作っている所を見たことがない。

「なんかママがゴルフで手首痛めたらしくて」

 そう言って、マトペはもうほとんど何も付いていないフォークを舐めた。マトペは母親のことをクソババアと呼んでいるのでこれは実母のことではない。職場の上長のことだ。マトペは今、客にお酌をしたり笑って話を聞いたり、適宜テーブルの雫を拭いたりする仕事についている。

「ママが店に圧力鍋あるから角煮作れって言うんだよね」

 いつからこういうことになったのかはっきりとは覚えていないが、こうなってしまった後となっては、マトペの天職はこれしか思いつかない。つまり、キャバクラでもガールズバーでも、ましてやピンクサロンでもない、スナックの従業員という。きっとゆくゆくはママになるのだろう。

 実に似合う。

 でもなぜか、ときどき、震えに似た違和感を持つことがあった。マトペが何を生涯の仕事にしようが、どうでもいいが、変わってしまったという事実におののくのだ。昔のマトペは色恋というものを一切理解しなかった。

「一緒に作ってよ」

 マトペが皿にフォークを投げ出して言うと、サキマリもスプーンをパフェグラスの中に放った。

「よし! 作るべ」

「え、今から?」

 マトペの提案にサキマリが安請け合いをして、私の感情を置いて二人が立ち上がる。こういった予期せぬできごとも、展開としてはいつもどおりで、まったく新味はない。無秩序も続いてしまえばまったき秩序だ。私たちはその足で業務スーパーに寄り、肉の塊と生姜と卵と酒と醤油と砂糖を買って、マトペの働くスナックへ向かった。

 看板にスロットめいた7の文字が踊り、セブンという桃色の文字が大きく書かれている。私はマトペが度々言う「セブン」という名を店名の略語だと思っていたが、正式名称らしい。実家のコンビニと名前が被っていて紛らわしい。

 セブンは駅前にあり、駅前というのは私たちの中では、最寄りの駅ではなく、そこから二駅離れた場所のことを指す。駅前には、ショッピングモールという概念が私たちに根付くまで、ほとんど全てのエンターテイメントを背負っていた商店街がある。

 セブンは商店街の通りから二つはずれた納言通りにあり、それは子供のころ誰もが近寄るなと注意されていた路地だった。四六時中黒服が屯している。彼らは道端にガムを吐き出し、吐き出すと煙草を咥え、煙草を吸い終わるとまたガムを噛みだすというルーティン地獄に陥っている流浪の民たちだ。

 昔は歩けばあたるほどいたのに、今ではわずかに二人しかいない。

「あそこの店、定休日守らねえんだよ」

 マトペはそう吐き捨てながら、ボロアパートから盗ってきてつけたような階段を登りはじめた。日曜日は定休という取り決めがこのあたり一帯の決まりごととしてあるらしい。

 裏口から店の中に入ると、懐かしい匂いがした。煙草のヤニが壁に張り付いていて、排水溝から強い漂白剤の匂いと生臭さが香った。床が油のようなものでぬめついていて、歩く度きぴきぴ音がする。

 店内はカウンターに四席と、ホールに小さなガラスのテーブルが二つあり、その二辺に臙脂色の別珍のソファーが置いてあるだけで、思ったよりこぢんまりとしていた。カウンターの上に最近あまり見なくなったカラオケの歌本が積み上がっている。

 がちゃがちゃと大きな音を立てて、マトぺとサキマリがカウンターの中で何ごとかを準備しはじめた。私が入っても物理的に邪魔なのでソファーに座る。かなり硬い。

 しばらくすると、ごん、とガラステーブルの上にまな板と肉の塊が運ばれてきた。

「加賀、肉切って」

 顔を上げるとサキマリが包丁の先をこちらに向けて立っている。

「え、こわ」

「あなたのこと信じてたのに!」

 と、サキマリは急に迫真の演技がはじめた。

「えっと」

「あの女とどういう関係なの?」

「ご、誤解だ」

「これぜんぶ角煮っぽい感じの大きさに切って」

「え? ああ、うん」

 こちらが精一杯乗ろうとしたことなどお構いなしに、包丁を雑にまな板の上に置いて、さっさとカウンターに戻っていってしまった。サキマリはすぐ遊びに飽きる。私は一人で角煮らしい大きさに肉を切るという仕事に従事することになった。肉に興味がないので角煮の具体的なビジョンが思い浮かばないが、角煮というからには角なのだろう。

 肉の色はソファーの別珍に比べると、ずいぶん鮮やかだった。

 ぎゃあぎゃあと二人がカウンターで何事か騒いでいる。あれじゃないとか、これじゃないとか、はたして本当に角煮など出来るのだろうか。あのマトペが料理をしようとしているというだけで、損をした気分だ。大人になればみんな同じように料理をしたり、掃除をしたり、あるいは車を運転したりするものだ。ところが私はそのどれもが出来ない。

 小さい頃には人並み以上くらいには出来たのに、大人になったら人並み以下にできなくなってしまった。調理実習も家庭科のエプロン作りも理科の実験も、最初にうまく為果せたのは私だったのに、時間が過ぎれば過ぎるほど私には出来ることがなくなり、周りの出来ることが増えた。

 結局、子供のころにどれだけいい人間でも、意味がないのだ。大人になってちゃんと結婚して子供を産んで家族と生きられれば、小さい頃にどんな罪を犯していたって、ちゃんとした人間とみなされる。

 肉はむにむにとしていて、切りづらかった。

 あるいは、包丁が切りづらいのかもしれない。どちらなのかは判断がつきかねた。透明のテーブルの下に自分の靴が見えるのが面白くて、しばらく足をくにくに動かした。でも私にはそれの何が面白いのかはわからなかった。ちゃんとした人間はこんなことを面白いとは思わないし、思っても立ち止まって観察したりしないのだろう。そんな気がする。

 カウンターでは、サキマリとマトペが男の話をしていた。

「客ってこと?」

「お客さんの部下かな」

「じゃそのメンズ自体は客じゃないんだ?」

「私が知ってるのは一人。その友達も連れてきて紹介してくれるって」

「いつ?」

「いつでもいいよ。サキマリの行ける日で」

 そんなに端から男と出会っていたら、そのうち誰も彼も知り合いになりそうだ。考えるだにぞっとする。二人は盛んに出会いを求める割に、付き合うということにはなかなか至らないようだった。面食いなのか、そもそも付き合うことを目標にはしていないのか。

「加賀も行く?」

 カウンターからマトペの声が飛んでくる。

「合コン?」

「食事会」

「合コンだろ」

「いいもの食わせてくれるって」

「バイトがなければ行く」

 どうもその頃、サキマリとマトペはしょっちゅう結婚という言葉を口にしていた。田舎の人間は結婚が早いので、周りは既にもうほとんど結婚していて子供もいて、そうでない人間は仕事や趣味に人生を費やすことを決めたという顔つきで暮らしていた。

 私たちだけが、そのどちらでもなく停滞して生きていた。

 と、私は思っていた。

 そう考えていたのは私だけだったのかもしれない。あの頃二人がなぜ急に結婚などということを言い出したのかというと、子供を伴った家庭を望むのならば、相手を探しはじめなければならないほとんど最後のときだったからだ。よくよく振り返ってみれば、サキマリもマトペも学生のころから、いつか自分たちも結婚するのだというビジョンを持っていた。私が本気にしていなかっただけで、二人ともずっと真剣に相手を探していた可能性はある。

 結局バイトがあって私はその会合には行けなかった。豚の角煮も寝かせる必要があるとかないとかで、味見さえ出来なかった。美味しいものが食べられないのなら、あれらの時間は全部無駄だった。

 けれど私は今でも、ときどきあのうっすらと血のついたまな板のことを思い出すのだ。

 近くから二人の騒がしい声がしていて、その声はまったくいつもと同じ響きで姦しく響いていて、それなのに、私はたった一人でその事態と対峙しているような気になったのだった。鮮やかな生肉はもはや目の前になく、汚れたまな板だけが存在している。

 私に分かるのは、かつてそこに生肉があった、ということだけだ。

 それ以外、なにひとつ分かることがない。

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