第13話 同じ色の海を見ていたはず

 中学と高校の大きな違いは合宿があるかないかだ。

 二年生がひっぱってきた外部コーチは、県の内外にツテがあり、長い休みと言わず土日で遠征に出掛けることもあった。保護者の車で二手に分かれ、目的地に向かい、一日中練習試合をしてさびれた宿舎で眠って、また一日練習試合をする。

 宿泊ということがまだ新鮮な興奮を孕んでいた時代、眠らずに遅くまで話し続け、寝不足のまま体を動かし続けることは、疲労と充足の区別を難しくさせた。眠るときにはいつも、幸福に近い場所で倒れるような不思議な心持ちで意識を失う。

 けれどこの「私たち」というのは、もしかすると中学時代も同じくらい忙しくしていた私とサキマリだけだったのかもしれない。実際、移動の車の中でいつまでも話し続けているのは私たちばかりだった。

「イントロクイズしよう」

「カセットでやるの難しくない?」

「じゃラジオでやる?」

「なお難しいと思う」

 車の中ではサキマリがお気に入りの曲を編集したカセットが、延々とリピートし続けていた。A面に飽きたらB面、B面に飽きたらまたA面。窓の横を流れる海の様子と曲が脳にこびりつく。松本先輩のお母さんの車は天井が窓になっていてそこが開くので、私たちはいつでも松本先輩のお母さんの車に乗った。

 真田先輩もいつも同じ車にいて、私たちを引率していた。

「先輩! 海ですよ、海」

「毎日見てるだろ。何がそんなにめずらしいんだよ」

「嘘じゃん、先輩あの海とこの海を同じものと捉えてるんすか? 色がぜんぜん違うじゃないですか」

「サキマリ、真田先輩美術の成績2だよ」

「うるせえな、お前だって2だろ」

「ほら、先輩見てみて!」

「あぶねえっつうの!」

 サキマリが真田先輩になついたのは意外だった。

 中学時代からサキマリは先輩という所属の人間とことごとく折り合いが悪かったのだ。わきまえのない体育会系人間に特有の開かれている陰湿さは、どんな人間にもいいことはないだろうが、サキマリのような純度の高い才能に対しては特によくない働きをする。

 どのような実力があっても、先輩に対しての非礼は許されないというのが、中学時代の部活の不文律だった。どこの部活でも同じようなものはあっただろうが、私たちの先輩たちはとくに頭がよくなかった。指摘と批判の違いが分からないため、サキマリがチームのためを思って提案したことも、ことごとく生意気という言葉で却下されていた。

 それが相当に嫌だったらしく、私たちが三年になった時には、先輩に対しての敬語禁止という謎のルールをサキマリが作った。怒られるので、顧問の前でだけ敬語を使う、というルールもあったので後輩たちは大変そうだったが、それこそ大エースのいうことを破るなんていう後輩は一人もいなかった。その点、高校の先輩たちは、弱小校特有のゆるさと朗らかさで、むしろ後輩をことごとく甘やかすほうだった。

 真田先輩は少し異質で、ちゃんと上下関係を気にするタイプだった。中学のころの先輩たちのように悪い性質のものではなかったが、人間を上下に分けるということ自体をサキマリは嫌っていたので懐いているのは不思議だった。

 一度、教室で早弁をしているときに聞いたことがある。

「意外だよね」

「んん?」

「サキマリ、真田先輩みたいなタイプ苦手そうなのに」

「んー? ほーね。れもへんぱいはとふがふはい」

「食べてからしゃべっていいよ」

 ごくん、と本当にサキマリの喉から音がした。それから「たしかに!」と元気な声出て言ってから、サキマリはぱっと笑った。

「でも先輩はトスがうまい!」

「へー」

 私の口からは無感慨な相槌しか出なかったが、たしかに高校に入ってから、サキマリの跳躍はより一層美しくなった。どうもそれはセッターである真田先輩のおかげらしい。中学時代から真田先輩はセッターとしてそれなりに有名だったのだという。アタックをほとんど打ったことのない私には、体感としての良い悪いは分からなかったが、確かに外から見る先輩のトスは綺麗だった。

「ちょっとよすぎて緊張するけど」

 なっちゃんのぐにゃぐにゃのトスがときどき恋しい、とまたサキマリは笑った。どうもサキマリは純粋に先輩の技術を尊敬しているらしい。

「おい、加賀! 速攻練習するぞ」

 一方で真田先輩はいつまでも私につきっきりで練習をしている。現時点ではどう考えても私の速攻は試合で使えるレベルではない。自主練とはいえ、サキマリや他のアタッカーにトスを上げて練習するほうが、チームのためにいいのではないだろうか。

 そう言うと、尻のあたりを軽く蹴り飛ばされた。

 真田先輩は空手全国三位というよく分からない経歴を持っている。

「格闘家が素人に手出さないでくださいよ」

「格闘家じゃねえ。お前、あんなに舐められて悔しくないのか」

「あんなに、というのは聞き捨てなりませんが」

「打てないだとかなんだとか言われてる」

「実際打てませんからね」

 真田先輩にとっては、敵方より味方に舐められていることのほうが気に食わないらしい。中学時代に培った一種の様式美としての「打てない・取れない・動かない」という所作も手伝って、私は高校でも引き続きポンコツ扱いをされていた。けれど彼女たちの軽口など中学の顧問の言葉に比べれば、無音にも等しい。

 真田先輩はむすっとした顔をしていた。

「お前はそんなに下手じゃない」

「上手になっても扱いは変わらないと思いますよ」

 誰もそんなことで態度を決めていない。私が舐められるのは私が舐められるような人格だからで、全国トップレベルの技術を持っていたとしても、きっと舐められるだろう。

「絶対にあいつらぎゃふんといわせてやるぞ」

「ぎゃふん」

「お前がいうなよ」

「今どき漫画でも言わないですよ。ぎゃふんて」

「うるせえ、やるぞ」

 そんなような流れがあって、あの頃の私は、時間の空いている時にはずっと真田先輩の特訓を受けていた。今思えば練習中も練習後も、移動車の中も合宿の自由時間も、何かと一緒にいたような気がする。夏休みに入って、本格的な合宿と遠征が続くようになると、ほぼ四六時中だった。

 二人でいて、特に話が盛り上がるということはない。

 私たちはただなんでもない話だけをしていた。道に生えている草の形が天狗の持っているやつに似ているとか、他校の生徒のうわばきの色が銀色をしていたとか、ゆで卵にはしょうゆ以外かける気がしないとか、本当に何でもない話ばかりだった。

 地方都市である私たちの地元よりもう一段階田舎である県外の合宿所は、冷房がないので窓を開けて眠るしかなく、窓を開けていると無限に虫が入ってきて、虫が入ってくると誰も彼もがぎゃあぎゃあとうるさいので眠れなかった。

 あまりにうるさいので、その日も私は先輩に誘われ、見知らぬ土地の暗闇と雑草しかない道を散歩していた。足元にはざらざらした土の感触しかないのに、鼻先にコンクリートの匂いがしているのが妙な気持ちだった。雨上がりだったから、遠くから匂いが流れてきたのかもしれない。

 盛夏という言葉から、ほんの少しずれた夜中だった。

「先輩、銭湯にプリクラあったの見ました?」

「あったかそんなの」

「サキマリと撮ったんですけど、おどろくべき画素数で。これ」

「見えねえ」

「そこに街灯ありますよ」

「なんだこれ。ほぼモザイクじゃねえか」

「誰が撮るんでしょうね」

「お前らみたいなのだろうな」

 何かが起きているのだろう、というような予想はしていた。

 ここのところ、二年だけで集まって何事か話し合いをしている。その代わり、定期的に開催されていた夢を語る会はもうずっと催されていなかった。私にとっては嬉しいことだったが、もっと煩わしいことが起きていることは間違いがなかった。

 遠くでなんの種類か分からない蝉が、機械の悲鳴みたいな鳴き声をあげている。

「蝉って夜行性でしたっけ」

 先輩は、ああ、とかなんとか言ってしばらく黙って歩いていた。やっと蝉が鳴きやんだような気がして耳を澄ますと、蝉ではなく先輩の声がぽんと耳に飛び込んできた。

「部活辞めるわ」

 蝉はまだ鳴いているようだった。

 街灯が少なすぎる、と私は思った。川かドブかわからないがささいな水の音がする、とも思った。暗い中では清流と濁流の違いが分からないな、とも思った。

「なんか言えよ」

 先輩は振り返った。

 背が低いな、と私は思った。

「蝉って夜行性でしたっけ?」

「それはさっき聞いた」

「だって先輩が答えないから」

「知らねえよ。蝉の生態なんて」

「生物で習わなかったんですか?」

「お前はどうなんだよ」

「身に覚えがない」

 先輩は歩きだした。私はその後に着いていった。

 かみきり虫の話をした。なぜかみきり虫の話をしたのか分からない。見たのか、思い出したのか、あるいはその時見た何かがかみきり虫に似ていたのかもしれない。そのあとにカマドウマの話をした。別に虫の話でなくてもよかったけれど、蝉がうるさかったので虫の話をしたのだろう。

「びっしり洞窟に張りついてるんですよ。カマドウマが」

「きもいな」

「きもいです」

「つうか洞窟なんかどこにあんの?」

「わかんないです。テレビで見ただけなんで」

「テレビかよ」

 けはっ、と先輩は笑った。

「お前の話かと思った」

 私の世界には美しいものが増えていた。

 もう息が出来ないくらいに運動したあとの床に寝転がったときの肺の呼吸とか。練習終わりの体育館に開け放した鉄扉から入ってくる風とか。雨の日の踊り場の湿気と笑い声。乗り慣れた他人の車から見る海。擦り切れそうなカセットの音楽。綺麗にあがったボール。放物線。

 先輩の上げるトス。

 この世界が生きるに値するのかどうかなんて、そんなことは考えなくなった。生きていることに忙しかったから。私は生きるのが好きなのだと思った。

 こんな日々はもう訪れないのかもしれない、とも毎日考えた。幸せであることに慣れていないからそう考えるのかもしれない。絶対にいつか終わるのだから、こういうことを信じてはいけないと、言い聞かせていないと恐ろしいことが起こるような気がしていた。

「もう耐えられない」

 夏は完全に終わっていたし、なんなら秋も終わりそうな気配がしていた。

 私たちは夢を語る会と同じ場所、同じ座り方で、辞めるだの辞めないだのという会議を続けるようになっていた。夢を語るのと同じように、中央にいるのは二年生たちだった。夏の大会で思ったほどの成果がでなかったことが、彼女たちの意識を変えたらしい。

 たったひとつの才能で行ける場所には限りがあるということを、彼女たちは理解していなかったのだ。

「練習ばっかで勉強できないし」

「全国はむりだよ」

「まだ始まったばっかじゃん」

「お母さんにもいわれたから。このままなら辞める」

「コーチには? なんて言うの?」

 真田先輩が辞める腹積もりを決めたのは、この二年の意見の不一致が原因らしい。幾人かは、これほどまでに部活漬けになる想定はしていなかったと言うが、本当かどうか知らない。想定はしていたけれど、やってみたら辛かったので辞めたくなった、というのが正しいのではないだろうか。

 けれど真田先輩は何一つ反論をしなかった。

 ひとりひとりの意見を聞き、ゆるやかに進行を担い、団体から個人に戻り始めた彼女たちを、どうにかまとめ、一つの結論に向かわせようとしていた。

「なら昔みたいな部活に戻そう」

 真田先輩の言葉に、みんなが顔をあげる気配があった。

「ごめん。みんなのこと考えずに突っ走った私が悪い」

 数名がもごもごとそんなことはない、というような言葉だけの援護をしたが、全体として真田先輩の言葉を否定する人間はいなかった。なあなあに意見は統一されていき、次の試合が終わるまではやりきるという結論が生まれた。

「クソが」

 ポールを立てながら私がそう言うと、ネットを持っていた先輩がおどろいた様子で顔を上げた。

「なんだよ」

「先輩よくあんな野郎どもに謝れますね」

「野郎じゃないだろ」

「なら女郎ですか? 下郎? どっちでもいいですけど。下衆に変わりない」

 どいつもこいつも、何かを抱えながら頑張って部活を続けています、というような顔をしている。次の試合まではやり通すという話を実行しているつもりらしいが、練習の雰囲気も、質も、以前とはまったく違うものになっている。そりゃ当たり前だ。私たちの世界はほとんど表に出た言葉だけで出来ている。そうして、表にでた言葉は元に戻してしまうことが出来ない。

「お前って口悪いよな」

「先輩ほどじゃないです」

「んなことねぇよ。お前の方が人間に厳しい」

「厳しくないです普通です。ていうか、あんなやつら放って今まで通りやればいいじゃないですか。辞めたきゃ勝手に辞めりゃいい」

「あいつらいなくなったら人数ぎりぎりになるだろ」

「問題ないでしょ。私たちだって中学のころ6人でしたよ」

 人のせいにして被害者面するような人間より、未経験でも下手でもいいから、もっと道徳を知っている人間と一緒にやりたい。

「先輩が辞める必要ないですよ」

「そんなに怒るなよ」

 先輩がまた私の頭を犬のように撫でくりまわす。むずむずするような、苦しいような気持ちがして、結局居心地が悪い。

「怒ってないですけど」

「いいから速攻練習するぞ。試合までに仕上げるからな」

「はぁ」

 ぼんやりと相槌を打ってから、そうか、とその時私はひらめいた。

 何がどうそうなのか、未だに言葉としては整理出来ないが、すばらしく腑に落ちた。ともかく速攻の練習をして、試合で使えるようすること。それが一番まっとうな道だと思った。誰がどうだとか、どうしてこうだとか、そういうことを考えず体を動かす。ひとつのことを完成させる。そうして結果を残す。そのことだけが、正しいと感じた。

 正しいことを好まないような私が、どうしてそれにこだわったのか、分からない。ある種の醜さには、正しさでしか対抗できないと思ったのかもしれない。

 正しい行い。

 それだけを信じ切って、ともかく練習をした。

「もう一回お願いします」

「おお」

 飛べば飛ぶだけ、体が重くなり、軽さが懐かしくなる。息があがって、流れる汗を袖で拭ったら、先輩が笑った。

「お前がこんなに練習してるの見たら、茉莉が驚くな」

「どうですかね」

 そのころ、県選抜の合宿でもらってきた何らかのウイルスのせいで、もう二週間以上もサキマリは学校を休んでいた。私はエース不在の状態で、このようなチームの方向を決める話し合いが進められたことにも、心底腹を立てていた。けれど同時に、いなくてよかったとも思ったのだった。

「いつ帰ってくるんだ?」

「さあ、まだ熱下がってないみたいです」

 彼女にはこのような醜い状況は似合わない。

 それに、先輩の隣にいるか、サキマリの隣にいるか、私が選択に迷わなくてすむから。

「もう一回」

「おお」

 どれもこれも思春期の異臭の中の出来事だった。

 めまぐるしくて息苦しくて稚拙で汗臭い。当時のことを思い出すと、体の中で胸のあたりだけが沈んでいくような感覚がする。脳が止まる。だから思い出したくない。

 それなのに、私はいつも気がつくと鼻先でその異臭を探しだそうとしているのだった。

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