第7話 輪飾りはちぎる時の方が楽しい

 いくら親同士の仲が良かったとしても、マトペと仲良くなることはないだろうと思われた。実際、私たちはこれまで一度だって、仲良くなりはしなかったのだ。それぞれに仲の良い子がいて、たまたま一緒のグループで遊んでいることはあっても、互いに特別な感情は持っていなかった。それが一年、二年、と年を経るごとに、同じグループにいる時間が長くなった。

 もちろん単なる偶然で、そこには小学校の六年間私たちが同じクラスだったという事実があるだけだ。出席番号も近かったので、遊びだけでなく、実験やら課外学習やらでも一緒の班になることが多かった。

「きよちゃんのせいだよ」

「りかちゃんが最初にやった!」

 気がつくと、私たちは大した事件もなく、盛んに取っ組み合いの喧嘩をするようになっていた。互いを嫌い合っているというわけではなく、蹴り合ったり、突き飛ばしたりという私たちにぴったりの遊び発見したのだ。取っ組み合いをしている間だけ、私はマトペに妙な親近感や、連帯感をもった。たぶん、背格好が似ていたからだろう。

 他と比べて、頭ひとつ背が高いということは、私にとっては大変な苦痛だった。心底自分の存在が恥ずかしかった。けれどマトペの横にいると、どうも私の方が小さく見えるらしいのだ。実際には常に三センチ私の方が高かったのだが、マトペはそのころから恰幅がよかった。そういった意味で、私はマトペを非常に頼りにしていた。

「生理になったって本当?」

 けれどやはり時々は本当に頭に来るので、脛を力いっぱい蹴り上げた。今考えると、内向的な人間に特有の激情にかられ、いつも手を出すのが早いのは私の方だった。やり口も、やはり私のほうが汚かったかもしれない。

 マトペはよく脛を抱えて苦しんでいた。けれど自業自得なので、私はもう一方の脛も機会があればねらうつもりだった。たしか小学校四年の秋だ。

「どうしてそういうことを大声で言うの。頭おかしいんじゃないの」

「えー、意味分かんない! ただ聞いただけじゃん」

 生理が来て、私の人生は狂ってしまった。常に体が重く、今までのように自由に走り回ることが出来なくなった。真冬でも半袖で走り回ることが、その時までの私の、唯一にして絶対のアイデンティティだったが、突然それが奪われてしまった。

「無神経っていうんだよ。あんたみたいな人間のこと」

「え? そうなの?」

「そうなの。だから気をつけて」

「どうやって気をつければいいの?」

「喋るのやめれば?」

「そんなのむりに決まってんじゃん!」

 マトペの笑い声が腹に響いて疎ましかったが、脛を蹴り上げる気力がもう私にはなかった。自分は絶対に女にはならないという根拠のない自信が私には常にあり、生理という現象についても、自分には考える必要はないと信じていたのだ。自らの身にそれが起きるかもしれない、なんてことは想像したことがなかったのだ。

 昔から女という生き物が苦手だった。女はかしましく、何かと感情を優先させ、自分のことをしか考えていない生き物に見えた。どうしてあんな風に自分勝手に生きられるのかが分からなかった。けれど女のことを考えると、怒りと共に悲しい気持ちになることがあった。あの人たちは哀れな生き物なのだ。かわいそうだから優しくしてあげなければ、などと。

「由実ちゃんもきたんだって」

「ひろこちゃんも体大きいし、なってるんじゃない?」

「私も早くなりたいなー」

「えー、絶対やだ」

 高学年にもなると、クラスの一部の女子たちの間でそういう話が出るようになった。

 その単語を聞くだけで私は吐き気がした。生理ナプキンをつけることが嫌で、洋服を何度も汚した。胸が膨らんで肌に当たって痛いことも苦痛だったが、ブラジャーをつけることも拒否していた。拒否している限り、完全に女になることはないと、まだ信じていたのだ。

 戦いはどれもそう長く続かず、私はじきに第二次性徴に屈した。

「加賀! 漢字テストどうだった!」

「うるさい、声がでかい」

 りかちゃん、きよちゃん、と呼び合っていた私たちは、その頃から加賀、マトペ、と互いを呼ぶようになっていた。マトペというのは学年全体が使っていたあだ名で、ある日の国語の授業を発端にそう呼ばれるようになったのだ。

 オノマトペという語感は小学生にとっては実に愉快な響きをもっていて、小野間という苗字を持っていたきよちゃんは、あっと言う間にマトペという名前で学年全体に知られるようになった。

 多くがマトペと呼んでいる中で、自分だけがきよちゃんと呼びかけることで、他人がそこに特別な関係を読み取るのではないか、と懸念して、私はすぐにマトペというあだ名に飛び乗った。マトペは何も言わなかったが、じきに私のことを苗字で呼ぶようになった。

 取っ組み合いの喧嘩もほどんどしなくなった。

 生理が始まってから私には未来が見えなくなり、代わりに将来というようなものがぼんやり浮かびはじめていた。未来は常に無責任な明るさを孕んでいたが、将来というものは絶えず無秩序に濁っていた。同じクラスの中で生理になっている女子はまだおらず。私は、なぜ自分だけがこのような濁りの中に放り込まれなければならなかったのか、ということを考え続けていた。

 そうしてそんな煩悶にはお構いなしに、外の世界はただ存在し続けているのだった。

「加賀ちゃん、マトペ知らない?」

 産休で次の学期から休みに入る西田先生のため、その日、私たちのクラスは全員で教室を飾り付けるという仕事を命じられていた。冬で、ほとんど雪が降りそうなほど寒く、生理になってから初めて冷えというものを知った私は、その教師から新しく生まれてくるらしい生命が女でないことを祈りながら、輪飾りを量産していた。

 苛立ちを外に出す女という生き物が嫌い、という過去の自分に苛まれ、どのような状態であっても朗らかに話さなければならないという強迫観念を持っていた私は、神聖な輪飾り作りを邪魔したたいして仲のよくないクラスメイトへ笑顔を向けた。

「ううん。知らないよ。どうしたの?」

「ずっといないんだよねー」

「そうなんだ? 気づかなかったな」

「加賀ちゃんなら知ってると思ったんだけど」

 体つきが似ていて互いに無遠慮な会話をしているというだけで、同学年ばかりか大人たちまで、私たちがいつも一緒にいると思い込んでいる。私はマトペがどこで何をしていようが知ったことじゃないし、むしろどこかに行ってほしいのに。

 何もかもが疎ましく、闇雲に苛立たしかった。

「ちょっと探してくるね!」

 寒さで凝り固まった下半身に鞭をうち、私はストーブのない廊下へ出た。感情を優先させてはいけない。自分のことだけを考えてはいけない。女みたいになってはいけない。

 そうした呪いはいつでも、的確に自分へ返ってきた。

 探すといっても、思い当たる場所はそうない。他の教室かトイレか、お得意の空気の読まなさと現状把握能力の欠如のため帰った、ということも考えられる。飾り付けの準備はほぼ強制だが、ほぼ、という部分には人心の機微を察知する力が求められる。そしてマトペは人心の機微を察知したことが多分人生で一度もない。

 結果的にはどの予想もはずれていて、他の教室にもトイレにもマトペはおらず、下駄箱では運動靴がちゃんと待機していた。かかとが潰れている。

「汚ねえな」

 音を立てて下駄箱を締めたら、その音が癪に障って余計苛々した。

 何もかもどうでもいい。ほとんど死んでもいいくらいだ。

 やけになって私は絶対に誰もいないだろうという場所ばかりを探した。空き教室の掃除用具入れとか、教壇の下、体育館に体育用具室、外にまで足を伸ばして、焼却炉の中、その横に転がったゴミ箱の中、隅にまとまっている枯葉の中、飼育小屋の中。

 動物はもうみんな生物室に移されているのに、檻の中には獣の残り香とキャベツの匂いが充満していた。探せばネズミの一匹くらい住んでいそうな気配があった。

 こんな所に人間のいるはずがない。

 探すつもりなど毛頭ない。

 どうせ今ごろちゃっかり教室に帰っているのだろう。そう考えると戻る気が失せて、より確率のひくい場所を目指したくなり、職員室の奥のトイレへ向かった。そこだけ唯一便座が温かいが、侵入するとこっぴどく怒られるので誰も近寄らなかった。せっかくだし便座で温まってから帰ろうとサンダルを履こうとした瞬間、引き返そうか、と思った。

 マトペの上履きがある。二足でこれほどまでに乱雑さを表せるなんて、かえって何かの才能があるに違いない。まだマトペが私に気がついた気配はなかったが、もう半分うわばきを脱いでいたので、仕方がなくサンダルに履き替え、中に入った。

「うお!」

 すぐ目の前に背中が出現して、危うく鼻を潰すところだった。一歩引くと、マトペが手洗い場の前に突っ立っている。

「何してんの」

「あ、りかちゃん」

 ひどく久しぶりに名前を呼ばれたような気がしたが、呼ばれてみると、やはりまだそちらのほうが馴染みがあった。私はその時すでにマトペの手に握られている白い物体に気づいていたが、言及を避けた。

「なんか皆が探してたよ」

 私は探していないけれど、ということを暗に伝えて、さっさとトイレに逃げ込む算段だった。

「ねえこれどうやってつければいいの?」

 けれどマトペはいつでも私の暗黙をぶちこわす。手のひらに乗せられたナプキンを見て、私はまた吐き気を催した。

「知らないよ。だいたい分かるでしょ」

「先生が説明してくれたけど分からなかった」

 察するに、急に初潮がきて誰かに相談をしたのだろう。誰だか知らないが、最後まで責任を持って教えてほしい。普通につけるだけだと、嫌々ながら曖昧な説明すると、その場でスカートを脱ぎ始めようとしたので急いでトイレのドアを開けた。

「中でやって」

「りかちゃんも一緒に入ってよ」

「なんでよ、やだよ」

 自分の汚れたパンツだって耐えられないのに、人のものなんて見たら死ぬ。その後も何度か入れと言われたが断固拒否した。マトペはしぶしぶ一人で個室に入り、鍵を締めた。ごそごそと物音がする。

「スカート脱いだよ」

「わざわざ言わなくていい」

 しばらく物音だけが続いた。洋服の音と、からんからんという紙を取る盛大な音。いつも思うがマトペは紙を取りすぎだ。それから、ぺりぺりという何かを剥がすような音。

 声がないと、それはそれで落ち着かなかった。

「どう?」

 聞いたが答えがない。また何事か物音がする。急に無言になるのはマトペの癖だ。自分からはいつもいつまでもしつこく話しかけ続けるくせに、ときどき周りを無視してなにかに没頭しはじめることがある。

 今、何にそんなに没頭する必要があるだろう。

「ねえ」

 やはり答えがない。

「きよちゃん?」

 不安そうな自分の声が響いて、焦りと苛立ちが同時に湧いてきた。しかし、ドアの向こうからは間の抜けな声が飛んできた。

「これってブルマにつければいいの?」

「は?」

「べたべたしてる」

 そこまでいってなぜ分からないのだろう。どういう想像力だ。

「なんでブルマにつけるの馬鹿じゃないの」

「だって他につけるとこない」

「ないわけないでしょ。ちょっとは頭使って」

「わかんない」

 もはや私は下半身にまつわるすべての言葉を口にしたくなかったが、それより苛立ちが勝った。

「パンツだよ。パンツにつけるの」

「うそだあ」

「だってブルマにつけたらパンツは? 汚れたままじゃん!」

「えー?」

 今の会話のどこに納得のいかない部分があるのだろう。渋々といった様子で――見えなかったがきっとそうだ――マトペはパンツにナプキンを装着した。なぜトイレの前でこんな風に人の物音をに耳をそばだてないといけないのだろう。

「つけたよ」

「あっそう」

 ならば早く出てきて欲しい。けれど、マトペはなかなか出てこなかった。

「なに」

 声を掛けても、また物音しか返ってこない。

「寒いから先戻っていい?」

「きもちわるい」

「は?」

 私はそれまで、マトペが具合の悪いところを見たことがなかった。健康だけが取り柄という言葉を、これほど体現して生きている人類はそういない。

「なに、吐きそうなの?」

「そういうんじゃない」

「どういうのよ」

「わかんない」

「保健室いけば」

「いかない。なんか、ごわごわするし」

 その二つは関係がないと思ったが、なんとなく分かるような気もした。

「ごわごわするのは仕方ないでしょ。私だってごわごわしてるし」

「りかちゃんも今生理なの?」

「――そうだけど」

 ふうん、と言ってしばらくしてマトペは外に出てきた。言われてみると、確かに顔色が悪いような気もしないでもなかった。けれど、マトペの顔色なんて気にして見たことがないので、普段とどう違うのかはっきりと分からない。

 背中を擦る、ということ以外、具合の悪い人間にしていいことが思いつかなかったので、私はマトペの背中を少しだけ触った。でも決まりが悪くなって、すぐにやめた。

 マトペは笑っていた。

「生理おそろいだね」

 よくよく見ると、目が赤くなっているような気がしないでもなかった。でもやっぱり、私はマトペの目なんて気にして見たことがないから、本当は毎日こんな風に充血していたのかもしれない。

「きよちゃんとお揃いとか、ぜんぜん嬉しくないんだけど」

 そう答えながら、私は喜んでいないふりをした。けれど今や、未来を奪われ、見通しの悪い濁りの中に放りこまれたのは、私だけではないのだ。

 ざまぁみろ、という気持ちで満たされ、久しぶりに気分がよかった。

 今考えてみると、あの時以来、私たちは互いを下の名前で呼び合っていないかもしれない。そうしてこれからも、永遠に呼び合わないだろう。

 だからなんだという話ではある。

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