第14話 遠吠えみたいに愛してた

 人生のうちで、あれほど身体がすべての要求に答えてくれた日はなかった。

 有象無象たちが最後まで頑張ろう、と口だけでいい続けていた試合の日の朝、起きたときから妙な感じがしていた。あるいはこれは未来に生きる私の感慨で、当時の私はそんなことを思わなかったのかもしれない。ともかく、過去を通過した今の私にとっては特別な朝だった。

 二年生はこれが終われば練習地獄から開放されると、晴れ晴れとした顔つきをしていた。少なくとも私にはそういう顔に見えた。実際、彼女たちは口にしてもいたのだ。

「なんか引退試合みたいな気する」

「まぁ事実上」

「たしかに」

「ともかく出し切ろう」

 正しいことをしよう、と、私は思っていただろう。

 それで現実がどういう風になるのか、どうなる可能性があるのか、ということは一切考えていなかった。なんらの想像もせずに、やるべきことだけをやるというのは、実際はとても危険な行為なのだ。これも、今だからいえることかもしれない。

 一試合目が始まる前、足にテーピングを巻いていると真田先輩が隣に来て、やってやると言って私から私の足を乱暴に奪った。たいした会話はなく、テーピングはさっさと巻かれていった。私がやるよりきつかった。それから先輩は私の足を軽く叩きながら言った。ごく小さな声で。

「ありがとな」

「なにがですか?」

 私はとぼけてそう答えたが、実際にその謝意が何に対してなされているのか、はっきり理解しているわけではなかった。けれど、どういう感慨のもとで、どういう意味の謝意を伝えようとしているのかは分かっていた。

 そういうものを正面から渡されるのは恥ずかしかったので、うやむやにしたのだ。

「加賀! パス練しよ!」

 未だに何も知らされていないサキマリはいつもどおり明るかった。

「先輩もやりましょ!」

「おお」

 手招きされて、三人でパスをして、試合の時間が来て、試合が始まった。

 私以上に、その日のサキマリは絶好調だった。本人も自覚はないし、他人から見てもよくわからないが、サキマリは身体的に人見知りなのだ。たった半年で新しいチームに慣れるはずがなかった。だから夏の試合だけを見てサキマリの実力を判断した二年生たちのことを、私は心底軽蔑していたし、憎んでもいた。

 私たちはみるみる点数を上げて、どんどん勝ち進んだ。サキマリが点数を上げるたび、先輩たちが悲鳴に似た歓声をあげるので、私はざまあみろ、というような気持ちになった。お前たちが勝手に期待して勝手に失望して勝手に離れようとしていることなんて関係なく、本当になんの関係なく、サキマリの跳躍はいつだって圧倒的に美しいのだ。今更気づいたってもう遅い

 けれどそれは、さほど重要な試合ではなかった。ただの予選。いつも勝ち進んできた道。

 そうして最後の試合が終盤にさしかかったとき、はたと真田先輩と目があった。

 相手がサーブを打つ前の少しの隙間で、我慢できずに私は言った。

「見ましたか? あれがサキマリの実力です」

「おお」

「ぎゃふんと言わせてやりましたよ」

 先輩は、はは、といつもと違う笑い方をした。

「お前だってあれくらいできるよ」

 私は首をかしげたと思う。先輩が背中をぽんと叩いて、前に出た。サーブがまっすぐこちらへ飛んでくるのが分かった。馬鹿にはっきりとした軌道で、ボールが私の手に吸いつくように寄ってきていた。

「もってこい!」

 先輩の声が聞こえて、私はなにか、とてつもなく強い感慨を抱いたのだった。

 眼前に明確な印象が生まれていて、その印象にならって私はボールを上げた。勢いの殺されたボールが、美しい軌道を描いて先輩のもとへ飛んでいく。足を踏み込むと、描かれた印象に寄り添ってすべらかに身体が動きだした。体が飛ぶ。早く飛ぶ。ボールが先輩の手に触れる。ほんの少しの誤差もなく、ボールがすでにそこにある。振りかぶる。美しい軌道。

 私は跳躍の中にいた。

 あの、美しい跳躍の中に。

 短くて鈍くて鋭いあのボールの叩きつけられる音が響いて、一瞬の間がひどく長く続いた。もしかしたら、多くの人間が一生のうちに一度くらいは、こんな風な永遠に似た一瞬を過ごすのかもしれない。人生を決定してしまうその瞬間を、あるいは忘れ、あるいは忘れられずに、ずっと生きていくのかもしれない。

 歓声があがるほんの一呼吸前に、先輩は私の頭に手を伸ばした。

「ほらな!」

 ぐしゃぐしゃと犬のように撫で回されて脳がゆれる。

「お前はちゃんとすごい!」

 すぐあとに起きたあちこちからの歓声にまざって、先輩の声はまぼろしみたいに聞こえた。

「わー、加賀、加賀!」

 後ろからやってきたサキマリが背中に飛び乗って、まだ勝ったわけでもないのに、チームメイトみんなにもみくちゃにされた。声がわんわんしていて、一人一人の言葉の意味は頭に入ってこなかった。

 高揚はいつまでも続いて、試合が終わっても、着替えが終わっても、片付けでモップを取り出したときも、私はふわふわとした体でぼんやりしていた。

「おい、しゃきっとしろ!」

 後ろから尻を蹴り上げられて、振り向くと真田先輩がモップを握りしめて私を見上げている。初めて会ったときのことを思い出した。

「先輩はあまり背が大きくありませんね」

「なんだ喧嘩売ってんのか?」

「いや、小さいのに文句言わずに上手くてすごいと思って」

「お前だってでかいのに文句言わずに上手いじゃねえか」

 文句は言っているだろう、と思ったが、もしかしたら頭の中で言っているだけで、私の文句は外に出ていないのかもしれなかった。だから先輩たちは引き続きのほほんとした馬鹿面を続けているのに違いない。

 そんなことより。

「今、上手いって言いました?」

「上手いよ。お前は普通にバレーがうまい」

 うまい、と口の中で転がしたら、体が浮いていきそうになった。

 一体どうしたものだろう。血中の毒素がすべて消失してしまったような気がする。私のアイデンティティがなくなってしまう。ぼうっとしたままモップの端と端をくっつけて、私と先輩はもうほとんど人がいなくなった体育館の上に、線を書いた。もう何度もやっている作業だから、これが特別な一回という気がしなかった。

「先輩、本当に辞めちゃうんですか?」

 私たちはこのままだと、もうあと一本しか線が書けない。

「辞めないでほしいです」

 先輩はなんとも答えずに、私のモップの端に自分のモップの端をくっつけて歩いていた。

「私、バレー好きですよ」

 ものすごく真剣に、心を込めて言ったのに、先輩は笑った。いつもの、けはっ、というよく分からない笑い方だった。

「知ってるよ。知らないのお前だけだよ」

「そんなはずはない」

 本当の本当に嫌いだった。今だって気を抜けば嫌いになれる。だって本当に楽しくなかったのだ。ずっとずっと苦しかったし悲しかった。

 けれど先輩は楽しそうに笑っている。

「根性ひん曲がってるから自分で気づかなかったんだろ」

「じゃあ根性叩き直したからもう終わりですか」

 最後の線を書き終わった先輩は、間近で私を見上げた。近すぎるからいけないのだ、とは思わなかった。もうこの距離に慣れてしまった。

 でも私はいつも先輩を見下げているのに、ときどき見上げているような気持ちになるのだ。

「もっと先輩と一緒にいたいんですけど」

 先輩は目の悪い人が遠くを見るような顔つきで私を見た。

「なんだよ急に」

「なんか言えって言ったじゃないですか」

「いつの話してんだよ」

 でも私はずっとその地点にいる。先輩が辞めると言って、やっと幸せじゃなくなるのだと少しだけ安心した。幸福は長くは続かないし、続かないものならは、できるだけ短くすませて欲しかった。長ければ長いだけ、未練がましくなりそうで嫌だった。それなのに、実際に終わりが見えてくると空恐ろしかった。息が詰まるほど淋しかった。

 先輩はしばらく私の顔を見ていて、ふいに口を開いた。

「お前犬みたいだよな」

「言われたことないです」

「懐くと思わなかった」

「無責任に餌付けするから」

「無責任じゃねえ」

「無責任ですよ」

 本当に犬のような気持ちになってきて、遠吠えがしたくなった。

「吠えてもいいですか」

「だめに決まってるだろ」

 辞めるのならちょっとの後輩の奇行くらい許すべきだと思ったけれど、ちゃんと黙っていた。先輩はいつものようにモップを大げさに揺らして埃をこぼし、いつものように私に寄越してきた。モップは重い。重いのはいやだ。でも私はちゃんと黙っていた。

 ガチャガチャとモップの振るわれる音がする。あのつるつるとした床のどこにこんなに存在しているのかわからないけれど、モップからはいつまでも埃が落ち続ける。このままずっと振り続けていようかと思ったところで、もういいと先輩に止められた。

 そうしてちりとりで埃を全部取りきると、先輩はふいに呟いた。

「わかったよ」

 続ける、と確かに先輩はその時言ったのだ。私には聞こえた。

 実際には階上からこぼれ落ちてきた歓声のようなもので、かき消されてしまっていた。はっとして、私はその声の方を見た。実際には壁しか見えなかった。よく知った声の集まりだ。何が起きているのか、何一つ予想出来ないのに、ただ嫌な気持ちがした。

 得体の知れない未来の声がしている。

「なんか嫌だ」

「おい加賀」

 煩わしくて耳を塞ごうとしたら、モップが手から溢れて、ゆっくり倒れていった。柄が床にぶつかって大きな音を立てる。

 背後から走ってやってきたのはサキマリだった。

「あの、先輩たちが辞めるのやめるとかよくわかんないこと言ってるんですけど」

 予想がついていなかったはずなのに、聞いてしまってからはもうずっと前から分かっていたような気になった。

「なんで?」

 棘のある声で先輩が聞くと、サキマリは戸惑った声を漏らした。

「え、なんか、楽しい? とかなんとか」

「はは」

 声が漏れた。

 困惑した様子のサキマリがさらに不安そうな顔をしたのが分かったが、私にはどうすることも出来なかった。急激に色彩が奪われていく感覚がした。でも、いつでも明るい救済の声の持ち主を、こんな風な顔にさせたのは私だ。

 今日はサキマリだけじゃなく、私と先輩だけでなく、全員の調子がよかった。チームとしてこれ以上なく何もかもがぴったりとはまって、これまでやってきたことがすべて報われたような感覚があった。私と先輩が抱いたあの感覚を、彼女たちの方でも感じていたとしても不思議ではない。ただ、私には許せなかった。

 私たちの美しい世界は汚されてしまった。

「加賀」

「はい」

「大丈夫か?」

「無理ですね」

 もうなにも美しくなかった。

 サキマリはあとからやってきた一年に事情を聞いたらしく、悲しい顔をした。私にはそれが耐えられなかった。自分がいない間に辞めるだの辞めないだのという話し合いがあったと知って、それを誰も教えてくれなかったと知って、一体どんな気持ちがしただろう。どれだけ口止めされようと、私はサキマリにそれを言うべきだったのだ。

 世界に美しさと醜さの違いなんてないのかもしれない。それなのに私たちは、目に見えるものへ美醜や善悪の境目をつけ続けている。確固たる信念を持たず、若さと才能を削ってまで、ただの雰囲気で。

 でも、美しいとか醜いとか良いとか悪いとかが、あの頃の私たちには絶対的な価値だったのだ。

 階上に行くと先輩たちは嬉しそうに辞めることは辞めにした、と私に告げた。

「そうですか。私は辞めます」

 サキマリは運転席で明るい歌のあいまいな歌詞を口ずさみ続けている。

 まぶしい。

 山道を越え、長く緩い一本の道が遠くまで続いて見えた。けれどこの、道が続いているという感覚を、私は一人では絶対に感じることがない。道があること自体が終わりの証のように感じる。それがサキマリの横では、いつまでも道が続くような気になるのだった。もう、あれから何年経ったのだろう。私があの場所と先輩の元を離れてから。十年以上は経っている。

「犬」

 斜め前を指してサキマリは言った。

 指の先を見ると、ささやかな赤い屋根の中に黒い鼻先が見える。

「犬だね」

 私は、あの日のサキマリの顔を絶対に忘れるべきでない。

 辞めると言って、私はそのまま黙った。どうして辞めるのか、なぜ急にそんなことを言いはじめたのか、先輩たちはまたお得意の会議をはじめたが私は一言も口にしなかった。すべては終わったのだ。もう二度と、私は誰かと分かりあえるなどという夢は見られないだろう。

 この世界が生きるに値するとかしないとか、そんなことを考えるのは傲慢だったのだ。価値があろうがなかろうか、私たちはもう生きてしまっているし、外の世界が変わることはない。絶対に。分かり合えない。

 私が会議で二年生たちに取り込まれている間、サキマリは不安そうに私の顔を見ていて、先輩はただ沈黙していて、私は部室の汚れた床についた小さな傷を見ながら、小さい頃のことを思い出していた。親戚一同で海に行って、砂浜の上で、大人も子供も誰もかもが笑っていた。けれど私には笑うということがどういうことかわからなかったのだ。楽しいということがなんなのかまだ知らなかった。うっすらとした汗にぬるい砂が張り付いていて、ただ嫌だと思ったのだ。

「何か言いなよ」

「加賀は何がいやなの?」

「黙ってても解決しないよ」

 何か一言でも本心めいたものを口にしてしまったら、美しいと思ったあの瞬間でさえ、醜い、忘れるべきものに変わってしまうような気がした。

「子供じゃないんだから!いつまでも閉じこもってないで何か言え!」

 結局、辞めたのは私一人で、あとは全員が部活に残った。

「犬」

 窓の横を散歩をしている犬が通り過ぎていく。大きな黒い犬。

「犬だね」

 サキマリは犬を見るとすぐに犬と言う。

 真田先輩の子供はどのような人間に育つのだろう。それを考えると吐き気に似た、閉塞感に似た、目眩に似た何かが体の中に訪れた。先輩ばかりでなく、多くの他人が自らの成長を次の世代に受け渡している。けれど私は、自分より他者の健やかさを願うような人間には生涯ならないだろう。死ぬまで自らの成長と衰退を追いかけ続けていくに違いない。

 その覚悟があるわけでもないのに。

「そういや、篠田さんがまたママさんバレー手伝ってほしいって」

 ハンドルの横に適切に設置されたドリンクホルダーからココアを吸い込み、安全運転を続けながらサキマリは言った。サキマリやマトペが自分の車を買ってから、もう五年以上は経っているのに、今でもふとした瞬間そのことにちいさな震えを感じた。

「試合?」

「そーそー。出てくれたらめっちゃいい肉おごってくれるらしい」

 サキマリの声はいつでも明るくて軽い。それでもこの頃はもう、声の内に微かな落ち着きがただよい初めていた。

「加賀は引退してからの方がうまくなったね」

「そうかな」

「絶対にそう」

 ならばサキマリはもう忘れてしまったのだ。

 私の絶頂は誰がなんと言おうと辞める前のあの最後の試合だった。いや、あの時を知っている人間ならばこぞってそう言うはずだ。だから、みんな忘れてしまったのだ。誰だって他人の人生なんてそう覚えていない。私だって。

「加賀! 富士山!」

 急に大きな声がして、脳が過去から完全に現在に切り替わった。富士山は富士山なのだろうが、近すぎて何がなんだかよくわからない。

「でかくない?」

「でかい!」

「もう雪降ってる」

 先輩の子供も、生まれたからには成長して、あの異臭の中を過ごすことになるのだろうか。無分別を分別だと思い込んで、やみくもに不幸になったり幸福になったりする春とかいわれる時期を。出来ることなら、長引かずに健やかに成長してほしいと思うし、同じような苦しみを味わってほしいとも思う。

 サキマリはまた曖昧な歌詞を口付さみはじめ、そうかと思うと、あ、と声を漏らした。

「加賀も今年スノボ行く?」

「あのださいレンタルウエアのとこ?」

「そう! あのださいレンタルウェアのとこ!」

 でも今日も、なんとか私の視界は明るい。

「うん。行こうかな」

 顔が笑っているのを感じながら、私はまっすぐな道の終わり始めを眺めていた。

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