第1話 有須、ワンダーランドへ(2)
どのくらい進んだのだろうか?
徐々に雑草も減ってきて楽にはなったが、いかんせん光がなくて、手をついて進んでいる状態だった。暗所恐怖症じゃないけれど、ここまで真っ暗な空間には耐性がなくて不安になる。足元もなんだかぬかるんできて、ねっとりと湿気を含んだ空気が俺に絡みついてくる。落としてはいけないと、早々に懐中時計をポケットに突っこんだのは正解だった。
ふと、違和感を抱く。初めは何に違和感を抱いたのか、自分でもわからなかった。手で触れていた土壁に意識がうつったとき、正体がはっきりした。
――木の根がないんだ。
あれだけ巨大な木だ。地下にこう空間があっても可笑しいことはないかもしれない。でも、触れている土壁にもそれらしきものはなく、頭の位置だって一度も変えていない。こんな浅いところであんな立派な神木の根が途絶えているとは思えない。それに一度も曲がっていないのも妙だ。木の下を出てしまえばこの空間が続いているわけがわからない。
あと五分。あと五分歩いて彼女に会えなかったら、無駄足になってもいい、さっさとその辺の交番にでも届けて帰ろう。そう思って歩を踏み出したその時、俺の足が滑った。こんなにぬかるんでいるんだから仕方がないことだ。しかし。
どうやら、滑ったわけではなかったらしい。
「な・・・っ!」
俺の重心が前に移り、そのまま真っ逆さまに落ちていく。思っていたよりもずっと深くて、真っ暗なせいで終わりも見えない。俺は死を覚悟した。だってそうだろ?たとえ落ちて死ななかったとしても、こんな深い穴に落ちちゃ、自力で上がることは不可能だ。しかもこんな辺境地、きっと来てくれないに違いない。
そんな俺の背後から光があふれてきた。まぶしさと落ちていく風圧に耐えながらも、俺は向きを変える。するとそこには。
巨大な青が広がっていた。
あまりに綺麗な空色だったから、一瞬海かと思った。しかし途中で気付く。海じゃない。波打っているのは葉っぱだ。緑色が生い茂っているのが普通の時期だが、木々に付いているのはみな綺麗な水色の葉だった。
あまりにも異様な光景に目を丸くしたが、そこでもう一つ思い出す。
――あれ?今眼下に森が広がってないか?
俺は今落ちている真っ最中で、目の前に森が広がっている。下向きの俺の目の前と言えば、つまりは落下地点ということだ。俺は思わず身を丸めて、痛みを覚悟する。
がさがさがさっ!
予想を上回る痛みが全身を駆け巡る。幸い葉が生い茂っていたため、血が出るほどの怪我はなかった。しかしそれでも痛いものは痛い。しかも多少しか減速していないような状態で、そのまま地面にたたきつけられる。
ドサッ
はずだった。
「いってぇ!」
不幸にも、俺の下敷きになった人がいた。ここで女の子とかだったらドラマチックだっただろう。でも残念ながら、それは男だった。そんな贅沢を言ってられるほど余裕だったわけじゃない。ただ、パニックを起こしている人間ってのは、意外とこういうどうでもいいところに神経が向いたりする。
声に驚いてさっさと退いた俺は、謝ろうと彼を見た。そこで動きが止まってしまう。なぜなら、彼が首輪を付けており、その首輪には立派な鎖が付いていたからだ。ついその先を追うと、きちんと杭に繋がっていた。言っておくが、彼は犬ではない。性質的にはどうか判らないけれど、どこからどう見ようと生物学的には人間である。
俺が落ちた腹部をさすりながら、彼は俺を見てきた。茶髪は珍しかないけど、外人に対して免疫のない俺には、その金色の瞳のインパクトは大だ。彼も驚いているようで、しかし唐突に感動した。
「すげぇ!お前天から降ってきたの?」
「あ、ああ・・・」
てっきり怒られるのかと思ったのに、どうやらかなり温厚な人のようだ。つい助かったと安堵する。彼は鎖をジャラジャラと鳴らして、胡坐をかいた。大学生くらいで、少なくとも座高は俺より高い。服装はそういうものがあるのかわからないが、大層奇抜だ。街中を歩いていたら、人々の視線を集めるだろう。ただ、むき出しになっている肩はきちんと張っていて、たくましさがうかがえた。
俺が無意識とはいえ凝視しているにも関わらず、彼はにこにこと楽しそうに笑っていた。
「お前、どっち?」
何の質問かは解らなかった。ただ、彼の姿から察すると、あまりよろしくない話題な気がする。SMとか性癖とか。
「いや・・・どっちとか自覚ないけど・・・少なくとも俺にそういう趣味は・・・」
「は?」
ぽかんとした顔をされた。彼が求めていた話題はそっちではないらしい。つい恥ずかしくなって、耳まで真っ赤になった。ついうつむくと、雑草が赤色だったことにひそかに驚く。
彼は「何の趣味かはわからないけど」と切り出した。
「オレが聞きたいのは、『赤』か『白』かってことなんだけど」
今度は俺が「は?」と聞き返してしまった。けれどもその質問はどうも常識的な話だったらしく、相手にぽかんとされる。初対面の相手にいきなり説明を求めるほど図太くなれず、俺は「赤」と「白」が何の隠語なのか頭をフル回転させた。
結果が出る前に、彼が笑いだした。
「今時『赤』『白』を知らないとかッ!」
「悪かったな!どういう意味かわかんねぇけど、そういうのとは無縁で生きてきたんだよ!」
馬鹿にされて不機嫌になって怒鳴り返した言葉は、ただの火に油を注いだだけだった。彼の笑いの勢いは増す一方で、俺の不快感をよりあおる。
もうこの場を後にしようと立とうとしたとき、彼の笑いが唐突に止んだ。あまりに妙だったため、俺は手をついて体重を足に移動しようとした妙な恰好のまま止まってしまう。彼はぶつぶつと一人で何かを言い、いきなり俺の腕を掴んだ。
「お前、もしかしてアリスか!」
「そうだけど・・・アクセントが違う。俺の名前はAliceじゃなくて、有須」
こう文にしてしまうと解りづらいことこの上ないけど、要は「ア」じゃなくて「ス」にアクセントを置いてほしいのだ。アからスに向かって、下っていくのではなく、上っていってほしい。言ってて自分でもよくわからなくなってきた。それでも俺のあだ名は女性の名で知られるあの「Alice」だけど。
人の話を聞いていたのか、興味すら抱く話題ではなかったのか、彼はすぐさま近くにある木の枝を拾った。
「名前じゃない。能力の話だ」
木の枝で地面に「外来者」と書いた。その上に「アリス」と付け足す。俺はその様子を見て、思わず安堵した。変な空間ではあるが、日本語も通じているし、文字も読めるので一応日本ではあるらしい。
文字を書き終わった彼が顔をあげた。その顔はいたずらに笑っている。その説明をしてくれるのかと思ったが、彼が言ったのは予想外の言葉だった。
「あんた、よその世界から来ただろ」
ヨソノセカイ?俺の頭がフリーズした。どういう意味だ?だってこいつが書いたのは日本語で、話しているのも訛りすら見られない日本語の標準語で、日本じゃない要素なんてどこにもない。俺を騙そうとしてるのか?いや、騙そうとするメリットがない。鎖はしっかりと繋がれていて、逃げられないのだから。
俺はじろりと彼を睨んだ。
「・・・イタイのは格好と趣味だけにしとけ?」
そう、こいつの頭がちょっとアレだとしか思い至れない。頭までワンダーな人だったら、この言葉すら通じないかもしれないとも考えられるけど。
怒られるか傷つかれるかの二択だと思ったのだが、彼の反応は違った。大仰に笑い出して、それから俺の頭をぼすぼすと叩くように撫でたのだ。
「今回のアリスは面白いなぁ。いや、馬鹿なのかな?」
「馬・・・ッ!」
いらっときたが、馬鹿なのは確かなので、悲しいかな言い返せない。下唇を噛みながら怒りにこらえていると、彼は先ほど使った枝をパキリと折った。年輪は見えず、まるでチョークのようだ。俺の意識を自分に向けるための行為だったらしく、彼は小さい子に諭すように優しく言った。
「君は、何処から来たのかな?」
「何処ってだから日本から・・・」
「そうじゃなくて。日本とか言われても解らないし」
「じゃあ、なんて答えれば・・・」
かなり感情的になっている俺に対し、それを受け流すように空を指差した。追って空を見上げて、空が黄色であることに気付く。なんだかやっぱり気持ち悪い。空を見た俺を不思議そうに見て、彼は飄々と口を開いた。
「空から来たでしょ、羽もないのに」
自分でもすっかりと忘れていた。そうだ、俺は『空から』落ちたんだ。ハッとする俺をよそに、彼は枝をどんどん折りながら話し続ける。もう特に目的もないようだ。
「君の世界じゃ、人が空から降ってくるのは茶飯事かもしれないけど、こっちは異質なもんでね」
「いや、それは確かに、日本であっても異質だ」
思わず納得してしまった。つまり異質なのは、こいつじゃなくて俺の方。ってことは・・・
「ここ、マジで異世界なのか・・・?」
「お、やっと認めた?」
もう折れなくなるほどに小さくなった枝を、彼は立ち上がって踏みつけた。枝なのにそれはパキパキと乾いた音を立てて、粉々に砕け散る。水色の葉と言い、赤色の草と言い、冷静になれば日本であるわけがないものばかりで溢れていた。
ここを異世界だと認めると、今度は一つの問題が浮かび上がってくる。
――どうやって帰ればいいんだ?
空高くまで上がる方法はない。なぜなら俺には羽もないし、俺自身が飛行機や気球の免許を持っていないからだ。空から帰る以外に方法も思いつかない。
俺が難しい顔をして悩みこんでいると、彼が胡坐をかいている俺の膝をトントンと突いてきた。顔を上げると、何か含んだ笑顔をこちらに向けてきている。
「お互い、助け合わないか?」
助け合いと聞けば聞こえはいいが、きっと彼が言いたいのは交換条件ということだ。俺を助ける代わりに、自分も助けろということ。これに二つ返事で答える馬鹿はいない。条件を聞こうとすると、彼は首輪に繋がる重たそうな鎖をじゃらりと持ち上げた。
「オレはある理由から捕えられているんだ」
「ある理由って?」伏せるところが怪しいと、俺は警戒心を高める。今まで温厚に話していたが、もし罪を犯して繋がれているのであれば、脱獄の手助けになりかねない。そういう人は脱獄のためなら、どんな皮だって被れるに違いないというのが俺の考えだ。彼はその警戒心を喜ぶように俺を見た。
「友達だよ」
「犯罪絡みか?」
「ははっ、この世界じゃ赤の女王に気に入られないやつはみんな犯罪者だからなぁ。そりゃそうなるのかもしれないけど」
かなり独裁の強い世界のようだ。つまり、その気に入らないやつを捕まえるための囮と言うことなのだろうか?そう尋ねてみると、彼は首を横に振った。
「いや、オレしかそいつがどこにいるのかを知らないんだ。そいつは頭が良くてな、ぜひとも配下にしたいらしい」
三国時代の諸葛孔明っていうところか?俺はその人物をもやもやと想像する。それから彼を見た。どうやら彼は、友達を守りたいようだ。彼の話はまだ続く。
「そこでだ。お前をそいつのところへ案内してやる。あいつなら、きっとそのくらい『記憶』しているはずだし。だからオレを助けてくれ」
「お前が逃げない保証がないだろ」
当然の疑いだと思った。でも、彼にとっては不思議なことだったらしい。
「オレに従属してないだろ?変な奴だな」
どうやらこの世界では、一方的な提供はなく交換の一択らしい。裏切るという考えは毛頭ないようだ。こいつがしらばっくれてるのかもしれないけど。
条件を呑む前に、もう一度念入りに確認した。
「お前の友達は、本当に知ってるんだな?」
「ああ、保証できる」
先ほどまでの笑みが嘘のように、真面目な顔だった。俺は大きく息を吐いて、頭をかく。それから立ち上がって、大きく伸びをした。それから「よし」と声を出す。肩に手を当てて腕を振った。ゴキゴキ鳴っている気もするが、先ほどの怪我は大して酷くないようだ。腰に手を当てて後ろに反りかえってから、視線を彼に向けると、彼は驚いた顔をしていた。
「引き受けた。その代わり、絶対約束破んなよ」
俺の言葉を受けて、彼は好意的な笑いを見せた。
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