07-4 《 》

 目の前には、音を立てて流れる川。一度入れば足が着いていようと簡単に流されてしまうだろう。


 一歩、足を引きずって踏み出す。

 全身が鉛にでもなったみたいに重い。五感がひどく曖昧になっている。足の下にある砂利の感覚すら、意識しないとわからないほどだった。ぐわんぐわんと耳鳴りがして、何度瞬きしても視野が狭まったまま戻らない。


 もう一歩、足を出す。

 決めること、終わることを求めていたのは、自分なのに。どうしてこんなにも、身体が強張ってしまうのだろう。ここに居る意味なんてないって、わかっているはずなのに。消えてしまえたらと、何度も思ったはずなのに。


 一歩、一歩と進む度に、ここまで来ても尚、中途半端で、無力で、惨めで、浅ましい『わたし』という存在を、軽蔑した。もう何も考えたくない。感じたくない。評価したくない。されたくない。聞きたくない。知りたくない。何も、何も、何も。


 ぱしゃ、とくぐもった音が遅れて聞こえる。首を動かすと、靴の先が水に触れていた。脱がないと、と思った。脱がないと、濡れてしまう。靴の中で靴下が濡れたら、気持ち悪いから。自分の影が落ちている目の前の水面が、透明で綺麗だった。良かった。汚いよりもずっといい。すべてが億劫で、そのまま倒れ込んでしまいたかった。そうするにはまだ、水位が低過ぎる。重い足を持ち上げられずに引きずった足が、今度は足首まで水に浸かった。冷たい。このまま、前に進めばいい。どうせ立っていられなくなる。何も考えず、流されれば、それで──


 身体が傾いて水面が目前まで迫る中、何かがわたしの背中を引っ張った。一歩踏み込んで体勢を戻しながら、首を軋ませて振り返る。黒い羊が、わたしのブレザーを噛んでいる。捻った首を維持するほどの気力もなく、わたしの目はまた水面に戻る。どうして止めるのだろう。ひどく眠い。もう一度引っ張られる感覚がして、わたしの視界はどこまでも透き通った水面から、真っ黒な暗闇に変わった。それはとてもあたたかく、安心した。そうしてゆっくりと、意識は遠のいていった。



***



 いつまでそうしていたのだろう。

 寝過ごした昼過ぎのような気怠さの中で、重い瞼を持ち上げる。どうやら、河原で座っていたときと同じ場所に戻っている。川は相変わらずごおごおと音を立てて流れ、紫色の霞がかった景色は時間の経過をまるで意味のないものにしていた。


 半身に、あたたかい感触を感じる。どうやらわたしはそれにもたれかかっていたらしい。もやもやと輪郭が曖昧な黒い塊が、寝息でも立てているように規則的に上下していた。そのまま、まだ重い頭を預けるように寄りかかると、どんどんと身体が沈み込んでいく。次第に景色が暗転して、暗くなる。優しく抱きしめられているようなあたたかさが、ひどく心地好い。

 再び眠気に身を委ねそうになっていると、ずぶずぶと流動する感触から突然ずるりと抜けてしまい、岩に倒れ込みそうになった。とっさに手を着くと、目の前の黒い塊が落ち着きなくからだを揺らしている。目が覚めたのだろうか。ぷるぷると全身を震わせる様子が、気のせいかもしれないけれど──わたしを気遣ってくれているように感じた。倒れそうになったことに、わたし自身よりも顔も実体もあるのかわからない黒羊の方が焦っているように見えたのが可愛らしくて、少し笑えた。大丈夫だよ、と言いながら、恐らく鼻筋付近であろう位置に手の平を置いてわしわしと撫でてあげた。耳のような黒いパーツが、ぱたぱたとはためいた気がした。


 川にもう一度、目を向ける。あんなに苦しい思いをして、重い体を引きずって行ったというのに。今はもう、何も感じなかった。ただ流れているだけの川をぼうっと眺めていると、黒羊が立ち上がる。もはや見上げるほどに大きくなったもやの塊が、少し進んでは振り返り、また進んでは振り返る。

 どうやらわたしに着いて来て欲しいみたいだ。それも、都合のいい解釈なのかもしれない。そんな考えをはたき落とすように、呟いた。


「うん、行こう……」


 結局ここでもわたしは、何も選べず、決められず、自分の意思で行動することはできなかった。


 ここまで先延ばしにしてしまったんだ。

 どうせもう変わらない。今までと何も変わらない。


 こうやってまた、何ひとつ上手くできないまま、全てを中途半端にするんだな。


 ぼんやりとそう思いながら、そんな言い訳でまた逃げ出そうとしている自分への嫌悪感を、見て見ぬ振りをしてやり過ごした。

 ゆっくりと歩く黒羊に寄り添って歩きながら、振り返ることもせずに、わたしは《出口》を後にした。



***



 耳慣れない言葉が、機械越しに聞こえてくる。ふと気が付くと、わたしは駅のホームに居た。


 いつの間に、あの果てしなく深い圏谷を登り切ったのだろう。見渡すと、そこは比較的現代風な広い駅だった。日本の駅には見えなかったが、外国の駅をそんなに知らないのでどこっぽいというのもわからない。半円の天井を支える細い鉄筋がいくつも重なって、美しい陰影を作っている。電光掲示板には、色んな言語の表記が一定の速度で流れ続けていた。恐らく、聞こえているアナウンスも同じような内容なのだろう。わたしが見ている間に日本語は流れてこなかったので、なんと書いてあるのかはわからなかった。

 ざわざわとしているのだが、アリスはもちろんイジンの姿もそんなに見かけない。気配だけが、ただ気忙しく、賑やかに動いている。駅の中央部から離れるように、ホームが伸びている先へと移動する。喧騒は次第に遠のき、急にがらんとした印象になった。音の外れたチャイムが鳴って、電車がやって来る。何も考えず、それに乗った。どこに行くかなんてわからなかった。どこにでも連れて行って欲しいと思った。


 中に入ると、車両はどこかレトロな印象で、向かい合わせのボックス席ばかりが並んでいる。お客さんはわたし以外に──正確には、乗車口がいっぱいいっぱいになるほど巨大化している黒羊とわたし以外には、数人のイジンしか居なかった。適当な座席に腰掛ける。黒羊はなぜか向かいではなくわたしの隣に座る。狭い。物理的にはもやもやしているものが触れているだけなので問題ないのだが、何とも言えない圧迫感がある。ちょっと息苦しいので向かいの席に移動しても、黒羊はやはり隣に座りに来たので仕方なくそのままにしておくことにした。


 程なく出発し、動き出した景色を窓越しに眺める。これは、実際の景色なのだろうか。それとも、どこかのアリスが描いた景色なのだろうか。ただ流れていく、見慣れない風景をぼんやりと眺めながら、座席にもたれかかった。

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