10-2
ドッ、と鈍く響く音。暗転。沈黙。
目を閉じた覚えもないのにそうと錯覚するほどの暗闇が広がった瞬間、わたしは知らない部屋に立っていた。中世ヨーロッパの貴族風とでも言うべきだろうか、様々な調度品で溢れたクラシカルな一室。ただ黒く塗り潰され濃淡も奥行きもなかった屋上に比べ、この部屋には質量がある。窓もある。シャンデリアも、壁掛けの灯りもあるのに、やはり異質に感じるのは色という色がほとんどないからだろう。まるでバロック絵画の中にでも入り込んだみたいだ。暖炉の火だけが、赤々と揺らめいている。
『ようこそ、ぼくの城へ』
彼が振り返り、わたしに笑い掛ける。鎧や額縁、装飾の金属、艶々に磨き上げられたテーブルやキャビネット。白黒の中でも輝くものが多くあるこの部屋で、彼の姿だけがくっきりと浮かび上がっている。黒も白も一際に濃い。この「城」という絵画の主役に据えられているのは、間違いなく彼だろう。
呆けて立っているわたしの手を引き、暖炉にほど近い一人掛けの椅子へと案内する。促されるままベルベットの滑らかな生地に包まれた椅子に腰掛けると、まるで誂えたかのように座面や肘掛け、背もたれの角度までぴったりだった。彼はティーテーブルを挟んで対面に座り、慣れた仕草で足を組む。その主人然とした動きを盗み見ていたつもりが、目が合ってしまった。彼はその双眸をゆっくりと細め、『どうぞ』と発する。言葉の意味を捉えかねていると、唐突に甘い香りが鼻腔を掠めて視線を下げる。先程まで何もなかったティーテーブルの上に、いつの間にか華奢で美しい意匠のティーセットが用意されていた。わたしの前に置かれた一客から、まるで今注いだと言わんばかりに香りの良い湯気が立ち上っている。
ふと、青アリスの屋敷での出来事が頭を過ぎる。動かないわたしを見て、湯気の向こう側で白い顔が少し傾いた。かと思えば、目の前にどこからともなくクッキーやスコーン、アイシングがかかったパウンドケーキなどのお茶菓子がいくつも現れる。『どうぞ』と、もう一度言う。その声に促されてカップのハンドルに指を掛けるものの、抵抗感が拭えない。そこで彼は納得したような声を上げた。
『ああ、心配しないで。何も入っていないよ』
心を読まれたのか、記憶を読まれたのか。それとも単なる予想なのか、言葉通りに信用して良いのだろうか──そんな疑念が顔に出ていたのかもしれない。けれども彼は気を悪くした様子もなく、もう一度『どうぞ』と言って微笑んだ。ここまで着いて来ておいて、今更何を恐がっている。わたしはハンドルを持ち上げ、良い匂いのする紅茶の湯気を何度か吹いて表面を冷ましてからぐっと一口で飲めるだけ飲み込んだ。
びっくりした。今まで飲んだ、どんなお茶よりも美味しい。
ふんわりと花の香りの奥に、甘酸っぱいベリーと、ほんの少しスパイスの香りがする。それでいて渋過ぎず柔らかな甘みは、出されているお菓子たちと非常に合いそうだった。
「美味しい……!」
『それは良かった。お菓子もどうぞ』
勧められるままに、クッキーを一枚つまむ。さっくりとした歯当たりに、ほろほろと崩れる食感。この一枚だけでもバターの味をしっかり感じられるほどの濃厚さを下支えするふくよかで香ばしい小麦の風味に、トッピングのジャムが爽やかなアクセントを加えている。こんなに美味しいクッキーを食べたのは、生まれて初めてかもしれない──死んでから生まれて初めてと言うのもおかしな話だけれど──つい一枚、二枚と手が伸びてしまう。ココアマーブル、チョコチップ、ナッツや刻んだドライフルーツ、ざくざくとしたオーツ麦……。そのどれもが、信じられないくらい美味しくて、紅茶にぴったりだった。
『気に入ったなら毎日用意しよう。もちろん、違う味もね』
無心で食べていたことに気付き、途端に恥ずかしくなる。しかし行儀の悪さを咎めることもなく、目の前のひとは上品に微笑んでいる。ティーカップを持ち上げ紅茶を嗜む所作は、まるで生まれついてから高貴たるべく教育を施されてきたひとのようだった。
見れば見るほど、《彼》という存在がわからなくなる。ついさっきまで、これは黒い泥の塊だった。それが人の形を模って人間らしく振る舞うどころか、いまや気品のようなものまで醸し出している。彼は自分をアリスではないと言ったが、アリスが持つらしい特殊な力──「見たいものを見たり、欲しいものをつくる力」は確実に持っているだろう。その力は美術館でのことやこの部屋の精巧さを見るに、恐らく赤アリスや青アリスよりも強いはずだ。そんな存在がなぜ、わたしに興味を持っているのだろう。考えるほどに不可解で、答えが出ない。
「……あなたは、わたしに何を求めてるの」
『言った通りだよ。ぼくの《花嫁》になって、きみがしたいように過ごしてもらいたい。ぼくは一番近くで、きみの感情を共有したい。それだけだ』
「でも、おかしいよ。見合ってない」
『どうして?』
「だって……わたしにはアリスみたいな力も無いし、性格も見た目も頭の良さも、何ひとつ秀でたものはない。それに、人間としても『出来た人』じゃないってこと、あなたが一番わかってるでしょ。返せるものもないのに、選ぶ理由なんて……」
言っていて虚しくなってきた。こんな卑屈な言葉を吐いて、否定されたくて言っているのか恥ずかしい、などとうるさく口を出してくる声がする。本当にそう思っているから言っているに決まっている。むしろ自覚しているから言わないでくれ、と牽制しているだけだ。彼はそんなことを気にもしないだろうとわかっていても──わかっているからこそ口に出してしまったのかもしれないが、染み付いた癖はそう簡単に抜けない。
彼の言う通りだ。わたしは誰も自分を知らないような、逆に知られたくないところまでよく知っている相手が居るような状況でも、「誰か」を気にして、顔色を窺って、自分を守って、生きようとする。そんな自分に嫌気が差し、言葉の途中で後悔し始めているところで、彼が言う。
『何に価値を見出すかは人それぞれだ。ぼくはきみがいい。それでは不足かな』
「それはそうかもしれないけど……。……あのね。わたしは正直、あなたがどうしてそんなにわたしを気に入っているのかがわからない。理由はあなたなりに伝えてくれているんだと思うけど、さっぱりわからないの。それくらい、あなたの好意はわたしにとって都合が良過ぎる」
『都合が良過ぎる?』
「わたしは《出口》からも逃げて、どこにも行くところがない。何もできないし、やりたいこともないし……でも、出口に飛び込む勇気もないし。これからどうすればいいのかなんにもわからない。そんなところに、強い力を持ったあなたが現れて、わたしに居場所を与えようとしてる。望みがあるなら叶えると言ってくれている。その代わりに求めているのは、あなたの傍で好きにしてることだけ。好きに、っていうのは、わたしが望むようにってことでしょ?」
『そうだよ』
「どこかに閉じ込めるわけでも、何かを強制するわけでもない?」
『もちろん』
「わたしが嫌がることはしないし、無理矢理恐がらせたりもしないってことだよね」
『そのつもりだ』
「わたしのデメリットは、……『得体の知れないあなたと一緒に居る』ってことくらい。でも、こうして言葉は通じるし、意思疎通もできる。敵意も悪意も感じない。わたしにとって都合が良過ぎる。でしょ?」
そう言ったわたしに、彼は肘掛けに立てた手指に自分の頬を押し当てた。思案するような素振りだった。
『都合が良いことは、都合が悪い?』
「なんて言うか……後から何か言われたとき、断れなさそうで」
『そもそも、ここ自体が都合の良い世界だと考えたことは? 自分が思った通りに何かをつくり出せるなんて、きみが知る「普通」ではないはずだ。でも、ここではそれが出来る。ならばきみにとって都合が良いことが起こっても、何ら不思議ではないだろう。もしかしたら都合が良いぼくのことを、きみがつくり出したのかもしれない』
「そんなわけ……」
『ないとは言い切れないはずだよ。ここはそういう場所だから』
そうなのだろうか。わたしはどこかで、ここは「《アリス》にとって都合が良い世界」なんだと思っていた。そこにメアリアンは──わたしは、含まれていないのだと。もしかしたらそれも、思い込みだったのだろうか。彼女たちの、わたしの、勘違いだったのだろうか。わたしにも、何かをつくる力が、あるのだろうか。都合良く、書き換える力が──。
淡い期待のようなものが、わずかにわたしを高揚させた。彼は変わらず、蜂蜜のように黄色い瞳を細めて微笑んでいる。
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