10-1

『ぼくの《花嫁》になってくれないか』


 《これ》は一体、何を言っているのだろう。

 あまりに突拍子も脈絡もない言葉に、思考も動きも止まってしまった。およそこんなところで聞くような単語ではない。わたしが沈黙している間にも彼は『それがいい、そうしよう』などと呟いて、勝手に納得している。もしかしたら、わたしの知らないこの世界のシステムのようなものだろうか。アリスとか、メアリアンとか、そういう比喩的な。


「《花嫁》って何?」

『生涯を共にする伴侶のことだよ』


 どうやら比喩ではないようだ。


「あの、……どういう流れでそうなったの?」

『きみを好ましく思った。きみのことが必要で、もっと一緒に居たいと思った。他に理由が必要?』


 あまりに事も無げに言うものだから、疑問を持つこちらがおかしい気がしてくる。そもそも《何》なのかもはっきりしないものが、突然浮ついた話を持ち出してきたことに理解が追い付かない。傍観者の立場から嫌なところをつついてくる、嫌味な《もの》だと思っていたのに。一体何が琴線に触れてそういう考えに至ったのか、さっぱりわからない。


「ごめん、ちょっと意味が──」

『ぼくは《アリス》の次に《花嫁》が好きだ。だから大切にするよ。きみのすべてを受け入れて、きみの好きなものを与えてあげる。きみが望むことなら、ぼくが何だって叶えてあげる』

「アリスなら、他に沢山居るんじゃないの。わざわざわたしみたいな、メアリアンじゃなくたって……」

『おかしなことを言うね、《アリス》は一人だけだ。それに、ぼくはきみがいいと思った。ならばきみを選ぶのは自然なことだと思うのだけれど』


 相変わらず、会話になっているのかいないのかわからない。この《人間もどき》の表情や声色を窺って意味があるのかは甚だ疑問だが、少なくとも敵意や害意は感じなかった。からかっている訳ではなく、純粋にわたしを気に入っているのだろうことは伝わってくる。何のてらいもない好意に困惑と警戒を抱く反面、どこかでそれを好ましく感じている自分がいた。


「それってあなたもわたしを食べようとか、そういう話?」

『食べてしまったらきみはなくなってしまうじゃないか。ぼくはきみがいいのだから、きみ自身が動いてくれなくては意味がない』


 青アリスのような目的とも違うらしい。彼の口振りでは言葉の通り「わたし」を求めているように聞こえてしまう。しかし、そんなことがあるだろうか。大した才能も知性も経験も魅力も面白味もない人間に、何を見出すというのだろう。わたしが何かを持っていると思っているのであれば、どう考えても買い被りだ。そんな思いを見透かしたように、彼はわたしの顔を覗き込んで付け加える。その一言一言は、まるで言い聞かせるように、諭すように、嘆願するように、丁寧で切実なものだった。


『ぼくはね、きみが楽しいときには笑って、怒ったときには泣いて欲しい。きみの思うままに、色々なことを感じてくれるだけでいい。ぼくはきみの楽しみの邪魔はしない。ただ、それを一番近くで見ていたいし、同じ感情を共にしたい。それだけなんだよ』

「……わたし、もうなんにもしたいことなんてないよ。何もしたくない。感じたくない」

『なら、「何もしない」をしたらいい。きみがそれをしたいなら。きみはきみの思う通りにしたらいいんだ。ぼくはそれを受け入れる。だから何も隠さないで、恐がらないで欲しい』


 何を返せばいいのかわからず、言葉に詰まる。そんなわたしを見て、彼は微笑む。柔らかくて優しくて、慈しみでわたしの心を包むような笑みだった。あるいは──わたしがそうだけなのだろうか。


『でもね。きっと、きみは何かを感じずには居られなくなるだろう。きみは、そういうひとだから』


 自分のことを、さもわかったように言われるのは好きじゃなかった。大抵外に見せられている上澄みだけをすくって、その人が見たいように解釈しているだけだから。それなのに、なぜなのだろう。彼にそう言われるのは、あまり嫌な気持ちにはならない。自分の隠していた部分を晒してしまったからか、その上で好意的に接してくれているからだろうか。彼がそのように言うのであればそうなのかもしれない、とすら思う。

 ぱん、と彼が手を叩いた。その身体に質量があることに、わたしはようやく気が付いた。


『ここで話すのもいいけれど、いささか殺伐としているね。ぼくの城に招待しよう。続きはお茶を飲みながら、ゆっくり話そうか』


 黒い塊と同化していた人間の部分が、ひとりでに動き始める。名案だと言わんばかりに声色をわずかに弾ませ、細くしなやかな手をこちらへ優雅に差し出した。


 わたしは、頭のどこかでわかっていた。彼は決してわたしを急かさず、いくら時間が経とうともこの穏やかな表情を崩しはしないだろう。彼はきっと、確信しているはずだ。この真っ黒な空間に逃げ場はなく、仮に逃げられたとしてもわたしに行くところはない。断って取り残されたところで、あの圏谷に戻ることも海亀さんのところに帰ることもできないだろう。旅の途中で赤アリスと青アリス以外のアリスに出会うこともなかった。黒羊だって、彼が連れて行ってしまう。メアリアンがいずれ消えると言ったって、それがアリスに比べて早いと言ったって、それはいつ? それまで、どれだけの時間を一人で過ごさなくてはならないの?


 唐突な不安で頭の中がいっぱいになる。

 わたしは、このわけのわからない世界で誰かと居ることに慣れ過ぎた。


 わかっていた。彼は何の選択肢も与えていない。わたしが選べないことを、彼は知っている。流される方が楽であることを、彼は知っている。この手を取る以外ないのだと、彼は知っていて、選ばせようとしているのだ。



 手を差し出す白面は、微動だにせず穏やかな三日月を湛えている。

 わたしは、その手を取った。

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