05-1 《 163 emerald green 》

 ホテルを後にしてからも口をもごもごさせているわたしに、赤アリスが口直しの板ガムをくれた。強烈なミントの風味に鼻をやられそうになったが、そのお陰でホテルの朝食の味はどこかに吹っ飛んでくれた。


「ほら見ろ。言った通りだろ」

「美味しい……とは……言えない。流石に」


 そんなことを話しながら、くすんだオレンジと青い影の間を縫って、わたしたちは街の出口へと向かった。連れられるままに辿り着いたのは、入って来たときと同じような関所だった。方角は反対のはずなのだけれど、設備や見た目は全く一緒だ。入って来たときとは逆に、出るためだけに列に並んで関所を通過する。外に出ると、今度の景色はのどかな丘だった。


 緑色の斜面は所々盛り上がり、青空とのコントラストが美しい。久々の晴れやかな空の色がひどく眩しくて、くすんだオレンジに慣れた目をしっかり閉じてまた開く。爽やかな風に乗って、愛らしい鳥のさえずりが聞こえてくる。見晴らしの良い場所だ。澄んだ空気を肺の中いっぱいに取り込んで、胸を撫で下ろした。景色のめまぐるしい変化も楽しめるくらいには、この場所にも慣れて来た気がする。

 隣にいる赤アリスは双眼鏡で何かを探している風だったが、程なくバイクに乗るように指示された。爽やかな朝の高原にはまるで似つかわしくない音をふかして、無骨で大きなバイクが発進する。また地獄のツーリングが……と覚悟していたが、今回は比較的安全運転だった。お尻も痛くない。なんと言っても口を開く余裕がある。


「いいところだね」

 前方の赤アリスに聞こえるように、少しだけ声を大きくして話しかけた。

「あー……まあな」

 不明瞭な返事に首を傾げる。一緒に過ごした時間は短いが、彼女が自分の意見を濁すような物言いをすることはまれなことだった。


──そう言えば、あの街に入る前もこんな反応してたな。


 荒野を走る前、地図を見て何かを気にかけていた。もしかしてこの牧歌的という言葉を絵に描いたような丘が、地図の上で見ていたやばそうなところなんだろうか。探りを入れる言葉を考えていたところで、赤アリスが口を開く。


「おまえ、こっからあんまり喋んなよ」

「……何かあるの?」


 赤アリスは答えない。後ろからでは彼女がどんな表情をしているのかもわからない。


「理由もわからないのに喋るなって言われても……」

「だから黙っとけって」


 説明不足だと抗議してみるが、赤アリスは苛々した様子で語気を強めるだけだった。不満に眉間に皺を寄せたものの、反論のセリフも出て来ない上にこれ以上怒らせるのも嫌だったので結果的に指示通り黙ることになった。

 のどかな下り道を走り、徐々に道は平坦な森の中に入っていく。湖の森と違うのは、バイクでも走りやすい広さに整備されていることだろうか。スピードが上がる。が、あの荒野を走り抜けたような爽快な走りではない。雰囲気も若干ピリピリしている。


 一体何にそんな警戒しているのかさっぱりだ。そう思った瞬間。


「あ」


 突如、目の前がなった。視界全体が青くなり、何かが横切ったのだと頭ではなくその後ろの方で理解していた。

 とても大きい、鮫のような形のがいる。



「おい!」



 景色がぐるんと動いたから、バイクが横転したのかと思った。が、恐らく青い塊にしまったのだろうと理解した。

 投げ出されたわたしの身体は、赤アリスが叫ぶ声と同時に地面から遠ざかる。そのまま、叩き付けられることもなく打ち上がった身体は、ゆらゆら揺れる感覚と肌に食い込む感覚から網に捕らえられたのだとわかった。漁網のように目が細かく、ちくちくと痛い。どういう状況か飲み込み切れず目を白黒させている間、地上では赤アリスが青い塊と彼女を捉えようとする網を躱して樹に枝に飛び付いているところだった。素早い身のこなしだったが、わたしが捕まった網に飛びついたところでとうとう片足に縄のように細くしなった網が巻き付き、宙ぶらりんになってしまった。盛大な舌打ちとげんなりした悪態が聞こえる。


「あーーくそ、最悪だ」


 明らかに人為的な罠だ。としか思えない。この世界に来てから初めての危機に、心臓がばくばくしているように感じた。かばんの紐を握る。



「折角ここまでいらっしゃったのに挨拶もなしだなんて……おともだちに無視されてしまって、わたくしとっても悲しいですわ。ねえ《エース》ちゃん?」



 ひんやりとした声だった。

 道の後ろからゆっくり歩いて来るのは、日傘を差して柔らかなドレスを身に纏った女の子。身体を無理矢理折り曲げながら足に巻き付く縄にナイフをかけていた赤アリスが、その声を聞いた瞬間諦めたように宙ぶらりんにぶらぶらと金色の髪と共に揺れた。


「てめえこそ自慢のお屋敷からずいぶん離れたところまでご苦労なこった。招待状は届いてんだろ、のお守りはしなくていいのかよ」

「あら、エースちゃんたら……相変わらずせっかちさんね。お招きは明後日の昼下がりですから、あまりに早くお訪ねするのはマナー違反ですわ。それに……」


 そう言って、ひどく少女はわたしを見上げた。


「わたくし、あなたと是非おしゃべりしたいと思っておりましたのよ、《メアリアン》。どうぞわたくしのお屋敷に遊びにいらっしゃって。ご一緒に美味しい紅茶とタルトタタンはいかがかしら」


 うなぞこまで引き摺り込まれそうな深い青色が、きゅうっと細まる。その動きに伴って、身体の芯から粟立つようなぞっとした気分が背中を駆け上がった。

 吊るされた少女からは、心の底から面倒臭そうな溜息が聞こえる。

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