04-4
「あのとき海亀さんに助けてもらわなかったら、どうなってたんだろう」
ひどく静かで、果てしなく広く感じる街の上の、壁のほとんどが窓になっている落ち着かないホテルの一室で、わたしたちは一泊することになった。
と言っても、ガラス窓の外は相変わらず黄色っぽいオレンジ色のまま、夜に変わる気配は一向にない。
「八時に集合な」
「えっ!」
「なんだよ」
「いや、時間の概念とかないんだとばかり……」
ホテルのロビーに戻ったとき、赤アリスはロビーで首が痛くなるほど高い位置にある時計を指した。言われるまで気が付かなかったが、そう言えば関所にもハンバーガー屋さんにも時計の文字盤があったような気がする。時間の概念がないわけではなく、それも場所によるようだ。この街に関してはオレンジ色からずっと変わらないのなら、時計の意味なんかなさそうではあるが、ここをつくったアリスに何らかの意図があったのかもしれない。
多少どころではない違和感を抜きにすれば、高級ホテルと言っていいと思う。そんな場所に一人で泊まるのはもちろん初めてのことだった。きらびやかな装飾と正装したホテルスタッフ風のイジンさんたちに少々緊張しながらも、預けた荷物を持ってもらい部屋に案内される。当然、ここでもお金は払っていない。物々交換すら発生しない。
ふかふかの絨毯が敷き詰められた廊下を歩き、斜め向かいの部屋に案内された赤アリスに一応就寝の挨拶をする。オートロックを開けてもらい荷物をその場で引き取った後、部屋の中を一通り見て回る。大きなベッドの他にソファやテーブル、広いクローゼット、ガラス張りのお風呂、もちろんベッドルームの一面もガラス張りだ。
全然落ち着かない……。
この街の雰囲気に呑まれているのか心細い気持ちを宥めるために内側から厳重に鍵を掛けることにした。その気持ちを察してか傍らの黒い羊が心配そうに見上げて来たので、頭を撫でてあげるとギュウ、と音がした。この世界の羊はこういう鳴き声なんだろうか。
書き物机をベッドの近くまで引っ張って来る。こんな高層階の窓の近くなどではおちおち日記も書いていられない。日記を広げて、昨日から今日までの出来事を綴る。
その中で、取り止めもない「もしも」を考えてみた。あそこで出会ったのが、あんな親切なイジンじゃなかったら。赤アリスと会えていなかったら。森の中で倒れていたら。赤アリスに案内を断られていたら……。
呟きが聞こえたのか、膝の上に収まっていた黒い塊が鼻先を擦り付けて来たので口元を緩ませる。ふわふわとした、真っ黒い闇を撫でた。
「きみに出会えてなかったら、とも思ってるよ」
そう言うと、羊は一層形がわからなくなるまで丸まった。かすかに毛玉のような輪郭が上下しているので、寝ているのかもしれない。
塊になった羊を起こさないようにだだっ広いベッドに運んで、久々にシャワーを浴びた。ありがたいことに問題なくお湯は出たし、入浴手順や操作の仕方も何となく理解できる仕様なのは助かった。しかし、この世界に来てから汗をかいたり身体が汚れたり、ということが極端に少ない。疲れも感じにくいし、あんなに激しくスケートをしたのにどこも筋肉痛になっていない。匂いも気にならないし、脚や服に泥も傷もついていないのが不思議だった。手首の傷だけが今もまだ赤く残っている。それでも、温かいお湯を浴びるのはやっぱり気持ちいいものだ。
***
翌朝になっても、窓の外は相変わらずオレンジ色のままだった。
意外と言っては失礼なのかもしれないが、十分前にロビーに降りたわたしよりも先に赤アリスはラウンジで珈琲のようなものを飲んでいた。全面ガラス張りなのはここも変わりないようで、窓際の席に掛ける姿は粗野な姿勢以外は絵画のように優雅だった。きっと、夜になることがあれば、相応に綺麗な眺望なのだろう。
──夜でなくて良かった。
朝のような爽やかさはないけれど、ヒトが少ないのもきらきらした夜景が見えるわけでもない光景は少しだけわたしを安心させてくれた。
おはよう、と赤アリスに声をかけるとわたしを一瞥して手を軽く上げて見せた。向かいの席に座る。カップの中身は半分以上なくなっていて、冷めているように見える。手紙のような物を読んでいたみたいだが、わたしが着席する間にしまっていた。ちらりと見えた文面は横書きで、どちらにしろわたしの読めそうな言語ではなかったのだけれど。
その後、なぜか自動的に運ばれて来てしまった食事を断りきれず、固形燃料のような形をしたもそもその栄養食を食べた。
「うっ」
わたしの呻き声と噎せる仕草に、赤アリスが片眉と口端を吊り上げていた。目が合って、二人して静かに笑った。確かにこれは、クソ不味いと言う他ない。
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