08-3
スポットライトが点灯する。
わたしの勉強机。見慣れた場所。特に何の思い出もない。ただ、過ごす時間は一番長かった。
「お母さんは、わたしにちゃんとした子供になって欲しかったんだろうな。わざわざ怒らなくても、ちゃんと勉強できて、家事も手伝えて、お友達とも仲良しで、無駄なことなんてしない。だめじゃない。お母さんを助けられる……せめて、お母さんみたいに、何でもできるような」
公立の中学校には不満があったらしい。けれど仕方無いことなんだと言っていた。良い未来を目指せるように、今からちゃんと頑張りなさいって。わたしは人一倍、頑張らなきゃだめだって。
わたしは母の顔を、まともに見ることができなくなっていた。どんな表情でわたしを見ているのかを想像すると不安でたまらなかったし、わたしの顔を見られるのも嫌だった。家の中で顔を合わせる時間もずいぶん減っていたけれど、それには多少救われた。母が誇れるような成果を、わたしは何も出せていなかったから。合わせる顔なんてなかった。
「でも、頑張っても頑張っても、勉強で一番にはなれなかった。いつまで経っても鈍臭いままで、他の人より秀でてる才能なんてものもなかった。地味で目立たなくて、当たり障りない関係しか築けない。お母さんみたいな人には、なれなかった」
中学校に上がってから、とんと思い出がない。色がない。授業を受けて、行事はそれなりに真面目に取り組んで、クラスメイトと何でもないことを話す。目立ちも悪目立ちもしないよう、好きな教科は楽しまず、苦手な教科は欠点を補うために努力した。成績が上がっても、一番にはなれなかった。部活にも入っていない、大して遊んだりもしていないはずのに、費やした時間に見合った結果が出ているとは思えなかった。わたしは他人よりも、馬鹿でだめだからなのだろう。
「わかってるよ、言い訳だよね。頑張るなんて誰だって言えるもん。ちゃんとできる人の頑張るとできない人の頑張るじゃ、スタート地点も速度も到達点も何もかもが違うよね。わたしは、頑張れてなかったんだ。何もできないのに、頑張ることすら満足にできなくて。足りなくて。お母さんは、きっと頑張れる人だったんだね。でも、わたしはそうじゃなかった。お母さんの言う通り、だめな子供だった」
スポットライトが点灯する。
ハンガーラックに、ワンピースが吊るされている。
珍しく母が早くに帰って来て、一緒にごはんを食べようと言ってくれた。何が食べたいかと訊かれたけれど、今家に何があるのかわからなかったので「何でもいい」と答えたら、母は少し不満そうな顔をしていた。出来上がったオムライスはつやつやでほかほかで、とてもきれいだった。母の手料理は久々だ。緊張してあんまり味はわからなかったけれど、きっと美味しかった。湯気が立つ、あたたかいごはんが嬉しかった。
母は食べ終わっても席を立たなかった。ぼんやりと不思議に思ったところでようやく、わたしが食べ終わるのを待っていることに気付いてペースを上げる。ようやく最後の一口を詰め込んだところで、母が口火を切った。
「お母さんね、再婚しようと思ってるの。今度の日曜日、お相手の方と会ってくれる?」
新しいお父さんができるのか、と思った。
なんだ、いい話だ。不安がない訳ではないけれど、母がこれ以上しんどい思いをしないのならばいいことだと思った。お父さんと離れてから、見るからに母は疲弊していたし不安定になっている。もしかしたら、今より余裕が出来て、あの頃のお母さんに戻ってくれるかもしれない。何より、母がこうして久しぶりに笑顔を浮かべているのだから、きっといいことに違いない。そう思って、頷いた。
ろくな外出着を持っていなかったから、前日にお母さんとお出掛け用のワンピースを買いに行った。靴も通学用の運動靴しかなかったから、大人っぽくて可愛いローファーも一緒に買ってくれた。
「どんな人だろうとか、お父さんって呼べるかなとか。わたしにとってのお父さんは一人だけだから別の呼び方を考えなくちゃいけないかなとか、そんなことばっかり考えてたな。失礼がないように、わたしのせいでだめにならないように頑張らなきゃって。……緊張なのか期待なのかわからないけど、あんまり眠れなかった」
当日連れられた場所は、ホテルの高層階にある見るからに高級そうなお店だった。席に着く前から、大きなガラス窓越しに煌々と輝く夜景が見える。初めて入るきちんとしたレストランに、楽しみよりも緊張がどっと噴き出したことを思い出す。もちろんコース料理も初めてだし、テーブルマナーなんて聞きかじった程度のことしか知らない。期待と不安で心臓に過重労働させながら席に案内されると、母よりも年上に見える男性と、もう一人。有名な進学校の制服を着た男の子が、立っていた。
頭の中で、鉢が割れる。
「それで、わかったんだ。ああ、お母さんはもう、要らなくなっちゃったんだって。わたしが、お母さんの望んでいたことを何一つ叶えられなかったから、要らなくなっちゃったんだって。もっとちゃんと叶えてくれる人が出来たから、要らなくなっちゃったんだって」
食事中、母はとても楽しそうだった。男性にも男の子にも、どちらにも楽しそうに笑いかけていた。こんな楽しそうに話をする人だったんだ、と思った。味がわからない。喉が通らない。目も耳もぐにゃぐにゃしていて、ただただ気持ち悪かった。
食べる速度を合わせなくちゃと思い、料理を無理矢理口に、喉に、ねじ込んでいく。顔色でも悪かったのだろうか、それとも挙動が変だったのだろうか。男性が気遣ったような言葉を掛けてくれたけれど、「大丈夫です」と答えるだけで精一杯だった。母が男性に何か言う。もう何も聞こえなかった。鼓膜が何重にも増えてしまったみたいに、くぐもった音がぼよんぼよんと跳ねては頭を刺すだけだった。愛想良く笑えていただろうか。自信がない。
帰りはタクシーだった。母は終始上機嫌で、お酒が入っているせいかいつもよりかなり饒舌だった。幸い、食事中のわたしの様子を咎めることはなかった。取り返しのつかなかいような粗相はしていないことに安堵しながらも、胃が、胸が、ずっと重くて不快だった。今日会った男性がどういう人なのか、男の子がどういう子なのか、そんなことを話していた気がするが、何も頭に入ってこない。わたしの受け答えが下手で弾まない会話が途切れ、通り過ぎるネオンが暗い車内を時折眩しく色付けていく。そうして少しの沈黙の後、母が静かに呟いた。
「今まで、◼︎◼︎には、無理させちゃったよね。ごめんなさい。これからは──」
「『これからは、好きなことしていいからね』だって」
あまりにも、あまりにもびっくりして、思わず母の顔を見た。ネオンに照らされている、化粧した肌。満足そうな唇。酔った目。交わらない視線。膝の上で握っていた指を折ってしまいそうなほど、力がこもっていた。
その時と同じくらいの力で、自分の手首を握り込んでいることに気が付く。力を緩めて、手元を眺める。自覚してはいけない感情を押し込める。胸に迫り上がるもやもやとした不快な気配を心の中で咎める度に、重く冷たい鉛になってどんどん嵩を増していく。気を紛らわせるように、ただ空気を押し出すためだけの笑いがこぼれた。
「笑っちゃうよね。好きなこともしたいことも、もう、何もないのに。なんにも、思いつかないのに」
目の前には、扉があった。
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