01-1 《 125 middle purple pink 》

 一体どのくらいの間、落ち続けているのだろう。

 五十分経ったようにも、五分しか経っていないようにも思える。


 穴に落ち続けているわたしの目には、すでに丸く切り抜かれた空は見えなくなっていた。かろうじて、頬や髪がなびいているから落ちているとわかるものの、何も見えない真っ黒な暗闇の中では自分が落ちているのか登っているのか、目を開けているのか開けていないのかも不確かだ。


 さっき、確かにわたしは学校の屋上にいた。そして、落ちた。はずだ。背中から、真っ逆さまに。

 なのにどうして、地面と衝突することもなく、落ち続けているのだろう。


 考えようとしても頭がぼうっとして、思考がすぐに止まってしまう。現実感があまりにもなかったので、一種の走馬灯かとも思ったが味気がなさ過ぎやしないだろうか。もしかしたら、もうわたしは死んでいて、魂がさまよっているとかそういう状態なのかもしれない。果てしなく続く闇、と言えばそれっぽくて納得できる気もする。納得したところで何も変わりはしないのだけれど。


 眠りに落ちる直前のような、断続的で無意味な思考が続く。

 浮遊感だけを知覚していた意識は、突如全身を覆った『違和感』によって覚醒した。弾力のある膜に飲み込まれて、身体中の鳥肌がめくれ上がってばらばらに四散するような、奇妙な感覚。不快感とも言えない不可思議な感覚が全身を包み抜けてから、驚く間もなく一瞬で網膜に光を受け、吹き上げる強風に煽られる。突然の発光に思わず庇った腕の隙間から、目を細めて覗いた外は見覚えがある景色だった。青から紫のグラデーション。日が沈んだ直後の空の色。


──空?


 おかしい。どうしてに空があるのだろう。風の抵抗を受けることで、まだ落下中であることは確認できた。身体をひねって落ちている先を確認する。地面までは遠い。パラシュートもなしでスカイダイビングをしているようなものなのに、いまだに現実感がない。そうして、そこに広がる点々とした、星のような、光の粒、のような……


 街の明かり。


 息を飲んだ。まさか地球の反対側に突き抜けた、なんてことが起こるわけがない。でも、起こるわけがないと言うのなら、この景色を一体どう説明すればいいのだろう。そもそも地球の反対側に突き抜けるのならせめて地面から生えてくるのが妥当じゃないかと思うし、おむすびが落ちた先ですら地底みたいなところだったのに。こんなことを考えている場合じゃない。


 このまま行くと、100%、間違いなく──


 スピードはどんどん上がっている。それはついさっき──もうずいぶん前のことのようにも感じるけれど──屋上から落ちたときよりも数十倍以上鮮明に感じる、恐怖だった。


「う、うそ、どうし……!」


 反応は咄嗟のことだった。

 自覚すればするほど、みるみるうちに迫ってくる地上と建物。回避する方法がない。考えるよりも意識するよりも速く、わたしは《想像》した。

 それは小さい頃に見た映画の一場面で、落ちてきた青年を受け止める窓際のテントや洗濯物。それを広げて、大きな大きな布が受け止めるイメージ。一枚じゃ突き破ってしまうかもしれない。でも何層も重ねれば、きっとどこかの層に受け止められるだろう。ミルフィーユを突き刺す、フォークの先みたいに。


 視線は下降する先に固定されていた。本能的な恐怖を感じているはずなのに、フィルターが掛かったように布が張られる光景を思い描く。


 そうすると、とても不思議なことが起こった。

 本当にそうだったのかはわからない。けれど、そうとしか見えなかった。



 想像した通りの、何層もの布が、目の前に《現れた》のだ。



 運動会に使うテントのような分厚い布を何枚かぶち抜いて、残った布地の上でわたしの身体はトランポリンのようにバウンドした。あんなに高いところから──と言うより、空から落ちたにも関わらず、予想していたよりずっと衝撃は軽かった。打ち付けたり擦り剥いた箇所は痛かったけれど、どこも折れた様子はないし捻挫した様子もない。それよりも落ちる前から手首についていた傷の方が、余程痛く感じた。奇跡的な軽傷だ。


 ぼよんぼよんと上下していた布が落ち着いて少しの間を経て、どっと汗が噴き出した。ようやく実感が追い付いて、心臓がばくばくと跳ねている。肺に深く酸素を入れて、出して、安堵している。『』。さっきまで死ぬことを覚悟していたのに、おかしな話だ。

 そう、おかしな話。


「……死んでない?」


 自分でもびっくりするくらい突然、身体が震えた。すぐに冷や汗に変わり、頭の先から急激に冷えていく感覚を抱く。生きている。まだここに居る。誰かに見られていないだろうか。布を何枚もダメにしてしまった。目だけを動かして周囲を窺う。なるべく音を立てないように、布の隙間を縫うように下りて行く。しかし、そこは電灯すらほとんどないような人気のない路地で、テントの存在も何の意味があるのかわからないような建物のつくりをしていた。地面に降り立ち、自分が立っていることを確認する。感覚があり、自覚がある。


 死んでいないのだ。


 とてつもない罪悪感のようなものに襲われた気がする。表現が曖昧なのは、すぐに考えることをやめたからだ。だから代わりに、こう思うことにした。


「こんな、……こんなよくわからない場所に来たなんて、おかしい。わたしがどうなったのか、ここが何なのか、調べなきゃ……」


 日が落ちたのか、建物の狭間にある現在地が急に暗くなった。きっと、わたしが落ちて来たときには大きな音がしただろう。いつまでもここにいたら人が来るかもしれない。こんな異様な場所で誰かに見つかって、無事で居られるかもわからない。テントをめちゃくちゃにして申し訳ない気持ちがないわけではなかったが、一刻も早くここから離れたかった。


 身体はまだ震えている。

 到底理解できなさそうな場所に迷い込んでしまったせいなのか、死ねなかったせいなのか、それとも何かもっと別の理由のせいなのか。わたしにはわからない。

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