アリス・イン・アンダーグラウンド 《 199 》
尚生
00
空がひっくり返った。
鈍い色の雲の向こうにある太陽は、丸く白く透けている。ハレの日には似付かわしくない、淀んだ天候。こんな鈍色も、もう少しすればこの強い風がさらっていくのだろう。胸に花を咲かせた卒業生たちが、別れを惜しんでそこかしこで笑い合ったり泣き合ったりする頃には、春風も清々しいものになっているのかもしれない。
たかだか三年ばかり。それでも青春だとか呼ばれる時間を過ごした場所や人間関係を惜しんで、学内の至るところで喋り回り、次に始まる新しい学校生活までのわずかな日々を、不安と期待を抱いて過ごすのだろう。
羨ましくはなかった。
だからわたしの身体は今、身一つで宙に放り出されているんだ。
***
屋上の鍵は開いていた。在校生たちはすでに体育館へと集まっている時間帯。教師も来賓や保護者たちの対応で忙しい。わたしはと言えば、人気のない校舎内の階段を上っている。廊下はがらんとしていて静かだ。休日でさえ、部活動やら何やらで人気があることを考えるとこんなに音のしない校内は数日もないかもしれない。
規律に反している。
サボりは初めてだ。けれどどうしても、卒業式に参列する気分にはなれなかった。
そもそも在校生なんて、居ても居なくても変わらない。なぜ在校生が全員参加するかも正直よくわからない。主役はあくまで卒業生と、その保護者たちだ。わたし一人サボったとして、誰にも迷惑をかけない。そんな日だ。そんな日しか選べなかった事実が、ひどく憂鬱な気分にさせた。
なぜ屋上に行こうと思ったのかも、上手く説明できない。屋上はいつも施錠されていて、鍵庫のある職員室にはいつも人が居たから、鍵に触ったことはない。出入りしたのも、美化委員会の仕事で一度きり。
着慣れた制服が重く感じる。息苦しくて踊り場の窓を開けると、体育館から漏れているマイクの残響が響いていた。余計に息苦しさが増したので閉める。そうだ、少しは清々しい気分になるのではないかと思って、わたしは屋上への階段を上っていたのだった。
屋上へ続く金属の重い扉。ドアノブがひんやりとして少し気持ちよく感じた。卒業式が終わるまでの二時間、それまでの間だけ。
そのときに考えていたのはそんなことばかりで、ああ、だから、そうだ。
多分、ばちが当たったんだ。
世界がひどくゆっくりと進んで見える。空がどんどん遠ざかっている。
下に落ちるまで、あと何秒くらいあるんだろう。
ずっと意識があるままだと、痛いかな。
骨が折れる音とか聞くのは流石に嫌だなあ。
落下している恐怖は不鮮明なのに、手首に残った引っ掻き傷だけが生々しい疼きを残していた。
何も思わなかった。もう考える必要もないと思っていた。
けれど、わたしの頭はいつまで経っても気を失うことはなかったし、わたしの身体が地面に叩きつけられることもなかった。
あまりにも長過ぎる停滞に急に違和感を感じて、思わず顔の向きを変えた。夢だと気付いたその瞬間に、現状を確かめるように。
だけどこれがむしろ夢の始まりだったのだろう。
夢であったのなら良かったのか、夢でなくて良かったのか。
どちらにせよ、もうすでにわたしは戻れないところにまで迷い込んでいたのだ。
いつの間にか校舎の窓ガラスや植え込みの木々が見えなくなっていた。と言うよりも、景色自体が無くなっている。暗くて、黒くて、何も見えない。もう一度上を見上げると、遠ざかる空はまるく切り取られていた。ゆっくりだが確実にその輪郭は狭くなっていて、ようやく気付く。
穴だ。
わたしが、穴に落ちている。
そう気付いてからもわたしの身体は、下へ下へと、真っ逆さまに落ち続けていた。
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