06-3 《 157 dark indigo 》
「消えるって、……わたしが?」
訊き返すわたしに、青アリスが目を瞬いた。
「そんなことも教えてもらえなかったの。まったくもう……、……いえ、でもそうね。あの子が迷ったのも少し理解できますわ」
青アリスは片手で肘を押さえ、他方の手指を頬に添えて溜息を吐いた。何とも言えなげな表情で一呼吸置いたあと、言葉を繰り出す。
「アリスではない以上、ここに長く留まることはできませんわ。あなたも不思議だと思ったのではなくて? エースちゃんやわたくしにできることが、簡単にはできないでしょう」
赤アリスと最初に出会った夜のことを思い出す。アリスが持つ不思議な力。わたしにはない魔法の力。
「それはわたしが、平凡だから……あなたたちが特別で、わたしは違うから、でしょ」
「わたくしたちがこの国において特別なこと自体は否定いたしません。けれど、それはあなたがそうでないという意味ではないのよ。この場所に出自の差などないのです。それよりもっと大切なことがあるのですわ」
「……それとわたしが消えることに、何の関係があるの。イジンさんたちだってそんな力ないじゃない」
「ここはどこまでいっても、アリスのための場所なのよ。だからあなたのような……アリスになれない子は、遅かれ早かれ居なくなってしまうのですわ。エースちゃんがわざわざ『うなぞこ』に連れて行くことを承諾したのだって、あなたが途中で消えることを見越してのことでしょうね。あの子は面倒事を嫌いますから、上手く行けばお茶会に遅れる口実くらいにはなったはずですもの」
その言葉に、いささかならず傷付いた。ことを恥じる。
赤アリスが100%善意で案内を承諾してくれたとは思っていない。わたしが無理矢理頼み込んだことなのはわかっている。けれど、わたしよりも確実に彼女をよく知っているだろう人からはっきり言われたことで、自分という存在の小ささをまざまざと突き付けられた気がした。そもそも、可愛らしくて強くて能力も自信もある赤アリスとわたしは根本から相容れない。そんな相容れない他人なのに、かけてくれていた優しさを理解している。それなのに、首筋に刺された針よりも内側の方がじぐじぐと痛むなんておかしな話だ。その痛みに呼応して、久しく忘れていた手首の傷が疼いている。
「どうしてあなたは、エースちゃんに『うなぞこ』に連れて行ってもらおうとしていたの?」
先ほどから彼女が言っている『うなぞこ』というのは、恐らく赤アリスが言っていた『出口』のことだろう。傷付いたことを悟られないようにするため、思考を通さない言葉を吐き出してかろうじて会話の体裁を保つ。
「それは……赤アリスが、そこなら外につながっているからって……」
一層不思議そうに、青アリスは首をかしげた。
「わたくしたちがここに存在できるのは、女王さまのお力のおかげなのよ。その力が及ばない場所へ行って、あなたはどうしたかったの。消えたかった? それとも、これもご存じないのかしら」
確かに、赤アリスはそんなことを言っていたように思う。だけどわたしに答えられるはずがない。だってわたしは、そこまで考えていないのだ。
青白い鱗の縁に視線を向け、言葉を繰り出せずに沈黙する。少しの間を置いたのち、覗き込むように影を落としてきた少女は、それはそれは優しい声色で言った。
「ねえ、メアリアン。あなたにはもう、『こうしたい』なんて思いはないのでしょう。それも仕方のないこと。恥じることではありませんわ。だってあなたは、メアリアン──アリスのそっくりさんなのですから」
「……なんで」
「なんでと問うのは、何に対してかしら。
「だからって、それがわたしを食べることには」
「だからこそよ。だからこそ、わたくしだけがあなたを救ってあげられる」
人ではない姿になって尚、柔らかな睫毛に縁取られた青色の瞳。その真ん中に底知れない孔を開けた両の目を細めて、人魚は微笑んでいる。抵抗できないわたしの頬へとおもむろに伸ばされた細い指は、ひどく冷たい。
「ねえ、ひとりぼっちは寂しいわね。ひとりで消えてしまうのは悲しいわ。誰にも知られず、愛されているかもわからないまま、自分が失われてしまうのは虚しいでしょう。でも、大丈夫よ。わたくしが全部食べてさしあげます。そうすれば、わたくしの中で、わたくしと共に生きていける。わたくしがここから居なくなる、そのときまで」
「そんなこと……本気で言ってるの」
「ええ、これまでもそうしてきたの。あなたのような子を救ってきたわ、何人も、何人も。だから安心して、メアリアン。あなたはひとりぼっちじゃない。みんなみんな、一緒ですわ」
指の腹が頬を撫でる度、硬く鋭い爪が皮膚に食い込む。穏やかな微笑みの下に、冷たい嘲りを感じずにはいられない。今、わたしに触れている手も、鱗だらけの身体も、柔らかくて白いおなかも、それをつくるのはたくさんのわたしのような──特別になれなかった人間なのか。その言葉を聞いたとき、嫌悪感以上にこう思った。
ああ、本当に、無駄なんだ。対話も、理解も、何もかも。
その瞬間、どうでも良くなってしまった。
頬を撫でる青アリスの手首をおもむろに掴む。華奢な手首はひんやりして、若干ぬめりを帯びていた。
「……あなたのような子ってなに。あなたこそ、あなたが一番、わたしをわたしとして見てないじゃない」
握った手に力を込め、剥がして突き放す。その反動で青アリスが少しだけ後ずさった。まるで自分の力じゃないみたい。突然の反抗に目の色を変えてこちらを見ている彼女にも、不思議と罪悪感を感じなかった。下敷きになっていた脚を折り畳んで、身体を起こす。動きを邪魔する煩わしい針を掴んで、首筋からゆっくりと引き抜いていく。痛覚はない。抜き去るときの擽ったさや脳が揺れる感触には、ぞわぞわとした不快感といっしょに若干の快感が付随していた。青アリスが刃物の柄を握り直すが、わたしが立ち上がる方が速い。台の上で足を踏み直し、館の主人を見下ろす。強い光でわたしを照らしていた明かりが逆光になり、彼女の上に大きな影を落としている。
「自分の意見を通すために目の前の人間を好き勝手に捻じ曲げるようなあなたに、救うだとかご大層なことを言う権利なんかない。わたしは、《メアリアン》って名前の生き物じゃない!」
先ほどまでわたしを拘束していた長い針を振りかぶる。それをわたしは彼女に突き立てようと──
その瞬間、視界が黒く染まった。
突然暗転した世界に、思わず動きを止める。興奮で視野が狭くなったのかと思ったが、違う。台から──むしろわたし自身から、黒い何かが湧き上がるような風圧とうねりを生み出している。まるで怒りが物質化したみたいだった。風に耳と視界を塞がれて圧倒されていると、金色に光る二つの球体が勢い良く迫って、消えた。いつの間にか、わたしの手に握られていたのは針ではなくかばんになっている。黒い風の濁流の中で、その見慣れたかばんの中に手を突っ込み、勢いのままにわたしは手榴弾の安全ピンを引き抜いた。赤アリスはどう使えと言ったけ。こんな風の中で投げても自爆するんじゃないの。でももう、いいや。
わたしは丸いピンに手をかけて思い切り引き抜き、青アリスがいた位置の上を狙って投げ付けた。
「そう、あなた──《クロツキ》なのね」
爆発の向こう側で、そんな風に呟く青アリスの声を聞いた。たとえ言ったとしても耳に届くはずがないのに、少しばかり残念そうな、けれど柔らかい笑い声がずっと静かに木霊していた。
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