02-3 《 121 pale geranium lake 》
ある夜 ぽっかり 木板の下
落ちる 落ちる 真っ逆さま
真っ暗天井 真っ青お空
あべこべかがやく 金曜日
おしゃべりパンジー 顔なしパンサー
木の幹踊る おかしな世界!
ひとりぼっち だけど平気よ
ここならみんな 仲良くできる
わたしが言葉を 教えてあげる
わたしがお歌を 歌ってあげる
見たいものぜんぶ この目から
欲しいものぜんぶ この指から
わたしの名前 あらなんだっけ?
迷い込んだ女の子 そうね
「アリス」よ!
ひとりぼっち だけど安心
ここならだれも 傷つかない
わたしがみんな 守ってあげる
だからみんなで 仲良くしましょ
大きなお城に 薔薇の迷路
きれいなテラスを飾り付け
わたしがアリス わたしがつくる
おともだちとお茶会するわ
わたしが女王 わたしがルール
邪魔するひとはお呼びじゃないわ
せかいはわたし わたしのせかい
ここはわたしのハートの王国
「……」
「……なんだよ」
「………えっと……」
気まずい沈黙に、少女が舌打ちする。突然始まった子供向けのミュージカルみたいな歌に困惑するわたしに気付いた海亀さんから、「歌詞間違えてたぞ」とフォローが入るが多分そこじゃない。
語り聞かせのマザーグースのような、不思議な歌だった。驚いたことに海亀さんまで鼻歌で参加していたことだ。この世界では有名な曲なのかもしれない。動揺のせいで歌詞がほとんど右から左へすり抜けたものの、アリスの世界をつくったアリス(女王)の話なのだということは何となく理解できた。
落ちてきたアリス、バラとお城、ハートの王国……。ますます『不思議の国のアリス』みたいだが、物語の中の──あるいはモデルになった『アリス』でも『ワンダーランド』そのものでもないということは決定的だった。少女が言った通りここは、誰かにつくられた世界なのだ。
「だから、アリスってのは穴から落ちてきたやつのこと。おれもアリスだし、おまえもアリス」
口の端を曲げた少女が、吐き捨てるように雑に言葉を発した。少し恥ずかしがっているようにも見え、不謹慎なのだろうが可愛らしくも見えた。
「でも、わたしのことはメアリ……アン? だって言ってましたよね」
「穴から落ちてきたやつにも二通りいるんだよ。おまえはできなかったろ、これ」
彼女がすい、と動かした指の先でぐしゃぐしゃに丸められていた包み紙が広がった。と思えば、ひとりでにぱたぱたと畳まれて行く。辺が折られ続けて小さな三角形の塊になった包み紙はふよふよとその場に浮いて、海亀さんの前にぽてりと落下──する寸前で、消えてしまった。
「魔法……」
「違う」
「超能力?」
「違うって言ってんだろ。アリスなら誰でもできる。まあ、逆に言えばアリスにしかできねえって話」
「えっと……見たいものを見たり、欲しいものをつくる力?」
先ほどの歌の一節を思い出す。それが本当なのだとしたら、それこそ魔法や超能力以外の何だと言うのだろう。
「そ。落ちて来たアリスなら程度の差はあれ大抵使えるんだが、たまーにおまえみたいにほとんどなんにもできないやつがいる。それがアリスの間で《メアリアン》って呼ばれてんだよ。つっても見た目で見分けがつくわけでもねえし、イジンにとっちゃみーんなアリスになるんだろうけど」
「イジン」
「アリス以外のやつのことだ。このおっさんみてえなのも含め、ここに元々住んでるやつとか。どっちかっつうとおれたちのが異人だろってのはおれもそう思う」
親指で海亀さんを指しながら、少女は次から次へと知らない単語を積み重ねていく。それでも、彼女を始めとして複数人 《アリス》 という存在がいるらしいことはわかった。恐らく、わたしのように落ちてきたのが《アリス》と呼ばれる人間で、元々この世界に住んでいるのが海亀さんをはじめとした《イジン》と呼ばれるヒトたちなのだろう。
他にも人間がいる。会ってみたいと思う反面、胸のなかが少し重くなった。
「アリスはみんな、同じところから落ちてきたんですか。えっと、同じ世界と言うか……地球と言うか」
まだ異世界の線もある。かろうじて夢の世界説も残っている。
「判断材料になんのかは微妙だけど、『不思議の国のアリス』って話が実在するとか言ってたやつはけっこういたぜ。こうやって街みたいになってる場所はアリスのつくった残留物ってのがほとんどだし、見覚えがあるとか元いた場所と似てるって言うやつもそこそこ。ってことは、同じようなとこから落っこちて来てるって考えるのが妥当なんじゃねえの」
「良かった。なんだかちょっと安心しました」
怪訝そうな眼差しが、真横から注がれる。急いで付け加える。
「あなたはやっぱり、人間ってことですよね?」
「……どう見える」
「えっ」
当然、肯定するだろうと思っていた。期待していた答えが霧散して、どきりとする。不安感が急速に胸を更に重くしたけれど、そのまま答えた。
「人間に、見えます」
「じゃあそうなんだろ。お前が見てるもんが全てだよ」
「……」
からかわれたのだと思った。
そんな意地悪を言わなくてもいいじゃないか。動揺してしまった自分が恥ずかしい。
胸の内でそう悪態を吐いても、鉛が落ちてしまっては言葉はもう外に出せない。
「そんで、おまえは何が訊きたい。こんな話が聞きたいわけじゃねえんだろ」
鉛にぎゅうぎゅう邪魔されている心臓が、狭い場所でどくりと鳴った。
窓から滑るように射した夕暮れの光に透かされた赤い瞳が、一層透明度を上げて輝いている。すべてを見透かして嘘偽りを許さない、真っ赤な宝石。その中に映り込んでしまった自分を見て、急に恐ろしくなる。目を逸らしたい。逸らせない。せめて、何か答えないと。今、なにか、
わたしが尋ねるに相応しい言葉を。
「わたし、元いた場所に戻れるんでしょうか」
少女はその赤色を半分細めるようにして片方の眉を顰めたけれど、少しの間を置いたあとにきっぱり答えを告げた。
「戻れないと思った方がいいな」
その言葉に、詰めていた息を細く吐き出した。
いつの間にか、煙管からぷかぷかと煙を浮かべていた海亀さんが思い出したように問いかける。
「そんならアレはどうだ、前に何か言ってたろ。山だか谷だか」
「あー……いや、アレも元のところに戻るとかそういうんじゃねえはずだけど」
アレが指すものがわからずに、不思議そうにしていると少女が首を傾けて答える。
「何て言えばいいんだかな。何つーか……《出口》? みたいな」
今度は海亀さんとわたしが首を傾げた。
「わかりやすく言えば国境……って言うのも違うのか。とにかく、
「どうしてそんなところがあるの?」
「それは女王にしかわかんねえよ。少なくとも、あそこは女王の
「自分でつくった国なのに……」
わざわざ逃げ道を用意しておくなんて、ずいぶんと優しい女王様だ。それか、あまり関心がないのだろうか。支配権を持つ人というのは、もっと雁字搦めに囲い込んで他人を動けなくするものだと思っていた。
そんな思考を巡らしている間に、少女はすでに立ち上がっている。
「質問終わったろ、そろそろ帰るぞ」
「あ……」
行ってしまう。初めて見つけた、同じ人間の女の子。
「あの」
何かを言わなければいけない、そんな気がしたというだけの理由で呼び止めた。
すっかり飲み干したあとの茶碗を海亀さんに差し出して、おかわりをせがんでいた少女がわたしを見る。こちらに目を遣りながら、呷って飲み干した茶器をカウンターに置いた。入り日によって彫像のような陰影を付ける肌は、光の乗った部分だけが生気を宿しているみたいだ。
「わたし、……これからどうすればいいですか?」
陽が落ちて、陰る。灯った火が揺れて、ふつりと絶えるように、輝きを失った緋色を逸らして、少女はつまらなさそうに手を振った。
「他人に訊くことじゃねえだろ。じゃあな」
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