02-1 《 180 raw umber 》
「いってきます」
「おう、気ィ付けてな」
早いもので、あれから七日経っていた。ここにはカレンダーがないから七回夜が来たと言う方が正しいかもしれない。
落ちてきたときに負った怪我はすっかり良くなっていて、海亀さんが処置してくれていた紙のような物を剥がすと、傷なんて初めからなかったみたいに綺麗さっぱり治っていた。少しくらい痕になったりかさぶたができるものだとばかり思っていたから、ラッキーだと思うよりも不思議な気分だった。
海亀さんとの生活は快適で、寝床はもちろん食事に困ることもない。最初こそ一応の警戒心も頭の隅にあったものの、会ったときから変わらない優しい気遣いにそんなことも思わなくなっていた。流石に何もしないで居座ることはできなかったので、今はお店の掃除をしたり荷物の整理を手伝っている。それでもひと段落ごとに海亀さんがお茶を用意してくれるから、文字通り休み休み仕事をしているような状態だ。つい先日まで勉強漬けだったことを考えると、むしろ楽をし過ぎているようで心配になる。
「こんにちは、お薬の配達です」
海亀さんのお店は、大通りから外れた静かな場所にある。薬屋兼診療所兼簡単な日用品を取り扱う商店でもあり、毎日のんびりしているけれど常連さんが長居をしていくようなあたたかいお店だった。海亀さんの人柄も相まって、田舎のおじいちゃんの家みたいだ。基本はカウンターや診察室で応対するのだけれど、たまに頼まれて荷物の配達をすることもある。が、どうやらこの街では配達のヒトを呼んでもすぐ来てくれるというものではないらしい。海亀さんが直接出向くこともあるにはあるものの、なにせあの脚だ。一軒訪ねるだけで日が暮れてしまうのだというのだから、手伝いに名乗り出ないわけがない。少しは役に立てることがあってよかった。
「ここにサインを……はい、ありがとうございます」
街は大通りを挟むように路地が巡っていて、派手な通りとは違い土壁でできた簡素な家が所狭しと立ち並んでいる。空き家も多いみたいなのに栄えている印象を受けるのは、やっぱりあの大通りがあるからだろう。わたしが初日にキャパオーバーした大通りはこの街唯一の屋台街で、昼夜を問わずよく賑わっている。初めて訪れたときはとにかく恐かったし、臭いも耐えられるものじゃないさえと思っていたのに、どちらにも随分と慣れて来た。
異様に見えた街の風景も、日が高い内に見ると印象が全く違う。頭の部分が影のように見えなかったヒトたちの姿も今は普通に見えているし、一部のお客さんとは海亀さんのように話すこともできた。もちろん、無口なヒトやそもそも口がどこにあるのかわからないようなヒトもいるのだが。この街に住むヒトたちの姿は独特で、動物のような形のヒトもいれば、植物のような形のヒトもいる。服を着ているヒトもいれば、着ていないヒトもいる。二足で歩いているヒトが多いようだが、たくさん足があるヒトもいる。夜中に見れば悪夢間違いなしの造形ばかりなのにも関わらず、恐怖心が妙に薄れているのは、言葉が伝わることと、こちらに害がないことを実感していることが大きい。必要以上に絡まれることもなければ、じろじろと見られることもなかった。お店の常連さんなんかは、彼らとは造形が違うわたしにも気さくに話しかけてくれたりする。訳がわからなかったはずの言葉が、今では普通に理解できていることも不思議だ。が、不便はないため深く考えないようにした。ただ、文字はあまりよくわからない。土地勘もなければ知らない単語も多いため、おつかいのときは自分でメモを取ったり海亀さんに先方さん向けのメモを書いてもらったりしている。意思疎通はそれで充分だった。
『人間』の姿形をしたヒトは、一人も見かけなかった。あの少女以外には。
《アリス》と呼ばれた少女は、あれから姿を見せていない。
「元々気分屋な奴だからなァ。ここを離れるときにはまた寄ると思うし、気長に待っててやってくれ」
そう海亀さんは言っていたが、それがいつになるかは見当もつかないようだった。
この世界を旅して巡っているという彼女がこの場所に滞在する理由のひとつが、この屋台街のご飯らしい。おつかいの途中でばったり出会すのでは、という淡い期待もあったけれど彼女を見つけることはできていない。それだけ、この屋台街と付随する飲食店はたくさんあり、そのどれもこれもが美味しそうなのだ。
「だめだめ。あと一軒の配達を終わらせてから……」
ちょうど昼時なこともあり、途中横切ったお店から立ち上る香りに思わずよだれが出そうになる。大通りを満たす様々なにおいの中には、美味しそうなものもたくさんある。においに対する抵抗感がなくなったのは、街並みや食べ物がいつか家族で訪れた中華街のようだとも感じたからかもしれなかった。
とにかく仕事を終わらせないと。本日最後の配達を終えるため、白茶けた石壁の路地裏を歩いて行った。
***
「はい、おまち。熱いから気をつけな」
目の前にはつやつやのたれに絡まったお肉、そしてふかふか柔らかそうな生地。食欲を唆る香り……。
ついに…! 角煮まん!
今日のお目当ては、この角煮まんだったのだ。
配達の駄賃として、海亀さんは仕事が終わったら屋台で好きなおやつを交換──ここは基本物々交換らしい──していいと言われている。どうしてこの角煮まんがお目当てだったかと言うと、この角煮まんは区画で結構な人気を誇る店の名物商品だったからだ。
大通りの屋台の中でも、ここまで広い店はなかなかない。それに、奥には広い飲食スペースもあった。軒先ではいくつかの点心が売られているのだけれど、そこで一番人気なのがこのふっかふかの白い生地に包まれた大きな角煮の割包である。
じっくり煮込んで味を染み込ませた角煮の味付けは、真っ黒で濃く見えるのに独特の香辛料使いで爽やかにまとまっている。煮詰めたたれをつやつやとまとい、ほろほろと崩れる柔らかい肉質が、ほんのりと甘い生地によく合う。白地に小さな焼印が何とも食欲をそそる粋な演出……なのだそうだ。
実際に食べたことはなく、常連の一人である頭が鳥のようなおじさんが教えてくれた。その語り口がいかにも美味しそうだったので、おつかいの度に前を通っていたのだけれど、完売前に買えたのは今日が初めてだ。ものすごくツイている。
売り切れる前に二人分を包んでもらい、ついでにちまきを二つ頼む。この栗とうずらの卵のような物が入ったちまきは、海亀さんのお気に入りだ。紙袋に入れてもらって、足早に軽快に帰路につく。配達も順調に終わったし、ラッキーなことこの上ない。あとはこれを昼食とおやつの代わりにして、午後は大きな箱の荷物をやっつけよう。手に持った温かい袋から漏れ出す香りに思わず口角が緩んだ。
正直、これらの食材がわたしの知っている豚肉や栗やうずらの卵なのかはわからないが、これまでここで食事した物の中で大きな違いを感じることはなかった。びっくりしたのが、タピオカドリンクのようなものまで売っているお店があったことだ。いよいよ中華街然としている。こんなに魅力的な屋台ばかりなのだから、旅慣れしているらしいあの少女が滞在するというのも納得だ。
見慣れた通りと路地を過ぎ、少し開けた静かな場所に出る。最初はどうなることかと思ったけれど、こんなおかしな場所であっても意外と環境になじむのは早かった。むしろ、誰も自分を知らないという状況に居心地のよさすら感じている。
このまま何も知らず、何も考えず、平和に暮らすのも、それはそれで悪くないかのかも。なんて、そんな風にも思い始めていた。
「ただい──」
店の扉のドアノッカーに手を掛けたところで、目を見開いた。
「行かねえって言ってんだろ。何が楽しくてガキのお守りなんざしなきゃなんねえんだ」
「そうは言っても、女王様のお呼び出しじゃ行かねえわけにもいかんだろ。召集掛かってんならせめて顔くらい見せに行けよ」
「いい、いい。どうせ雁首揃えてテーブル囲んで茶ァ飲んで終わりなんだぜ。行かなかったから何があるって訳でもねえし、絡まれたら面倒くせえやつばっかだし。こうしておっさんと話してる方が何倍もマシだっての」
「そうは言ってもなァ…」
「それよりさ、ここいらででっけえ湖ができたって噂聞いたんだけど、どの辺か知ってる?」
輪を押して、扉を開ける。古びた木製のドアが軋んで開いた先には、カウンターに足を組んで座る少女の姿。しなやかな野生の猫科動物のようにわたしを一瞥した目は、悪戯っぽく眇められていた。
「よう、メアリアン。元気そうじゃん」
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