02-2 《 111 cadmium orange 》


「アリス……さん」


 いくら捜しても見つからなかった少女が、まるで実家で寛ぐような気安さでお茶を啜っている。


「だからやめろってその呼び方───お、なんだおまえ。随分美味そうな匂いさせてんじゃねえか」


 気怠げに片眉を上げて嫌そうな顔をする。かと思えば、顔をこちらへ乗り出してきらりと瞳孔をきらめかせた。漂う角煮の香りが彼女の元まで届いたのだろうか。わざとらしい言い方をしているが、恐らく中身もバレているに違いない。

 慌てて紙袋を後ろ手に隠し、捕食者の目で爛々と視線で追ってくる少女に対し無駄な抵抗とは思いつつも背中を見せないようにじりじりと海亀さんの方へ寄って行った。助けを求める視線を送ったのに、海亀さんは首を横に振っている。


「いいよ嬢ちゃん、渡してやれ」

「でも……」

「渡さねえとずっとあのまんまだぞ」


 ちらりと金色へ視線をやる。圧がすごい。夢に出そう。


「俺はたまに客から貰うこともあるからよ、そっちのがあれば充分だ。おつかいありがとうな、お疲れさん」

 カウンターの端まで来てくれた海亀さんの爪が、紙袋を指す。そっちとは多分ちまきのことだろう。せっかく二人で食べようと買ってきたのに、釈然としないような申し訳ないような気分になりながら海亀さんにちまきを渡す。わたしはカウンターのど真ん中を陣取っている少女から、一席離れた端の席へ座った。先日喧嘩腰で終わってしまったこともあり、どういう態度で接すればいいのかわからず沈黙して紙袋をカウンターの上に置くや否や、光のような速さで紙袋が巻き上げられた。


「えっ、ちょっ、ねえ……!」

「さっすがおっさん! 太っ腹だねえ〜。さぞ立派な腹だろうに甲羅で見えねえのが残念だな!」

「それ食ったら、嬢ちゃんの質問にちゃんと答えてやれよ」


 へえへえと生返事をする少女の口にはもう包子が埋まっている。中身の減った紙袋はすでにわたしの前へ戻っていた。言葉にならない内に色々なことが起こって処理が追い付かないが、それよりもお腹が空いている。大口を開けて真っ白な割包と黒々とした角煮にかぶりつく姿に、喉とお腹が鳴っている。

 観念してがさがさと紙袋から取り出すと、雑に包まれて尚美味しそうな、角煮まんの姿。道中で少しは冷めたものの、まだ薄く湯気を立てている。その湯気と一緒に立ち上る香ばしくてスパイシーな香りが何とも食欲をそそるのだ。

 いただきます、と小さく呟いて歯を立てると、ふかりとした柔らかくも弾力のある生地。それに負けないくらい柔らかくて分厚い角煮は見た目に違わず濃厚で、思わず口の端からこぼれそうになるのを何とか押し留める。包子のほんのりとした甘味、分厚いだけじゃなくしっかりと肉の旨味と脂の甘味を活かしたタレがたっぷり絡んだ角煮。それだけでも充分過ぎるほどに満足できるのに、角煮の下に隠れた餡には葱やニラの香味野菜と香辛料が効いていて、ともすれば重くなりそうな角煮まんに爽やかなアクセントを加えていた。空腹で良かった…!と思わず言いたくなる美味しさだ。


「ん〜!」

「美味いだろ?」


 頬張りながら唸っていたところで話しかけられ、全力で頷いた。なぜか少女の方が得意げに見える。そんなわたしたちに海亀さんはお茶を淹れてくれてから、長い爪で器用に竹皮をめくってちまきを口に放り込んでいた。

 誰かと一緒に美味しいものを食べている。その事実に、胸の奥がむずむずする。少女に対してあんなに接し方に困っていたのに、そんなことはもう気にするだけ馬鹿らしいことのように思えていた。



***



「それで、何が聞きたいんだっけおまえ」

「おまえじゃないです」

「じゃあ何て言うんだよ」

「……」


 食事後のまったりとした時間を過ごしていると、少女が手の指を舐めて拭いながら話しかけてきた。一応、少し厳しめのポーズを取ってみたものの、実際その質問は意地悪だった。


 昨夜から、自分の名前が思い出せない。


 黒い羊が出してくれた日記帳はわたしの持っていた日記帳にそっくりだったし、中身の記載まで断片的にだが残ってはいた。だけど、固有名詞の部分はすべて空白か塗りつぶされたようになっていたのだ。そもそも、自分の名前を日記に書いているのかも怪しくはあるのだが。

 恐らく彼女は、わたしが名前を思い出せないことを知っている。


「そう睨むなよ、《メアリアン》ちゃん」


 肩を竦めて、包み紙で指を拭いている表情はこちらをからかっているとしか思えない。粗野だとすら思う仕草なのになぜか目を引くのは、愛らしい容姿と不釣り合いなせいだろうか。それに引き換えわたしは今、どんな風に映っているのだろう。戸惑いを見せる代わりに、むっつりとした表情をつくる。


「そのメアリアンっていうのも、アリスっていうのもよくわからないんですけど」

「ああ、おまえは知らない方なの? なんて言うんだっけ……あれ、『不思議の国のアリス』?」

「えっ」


 まさか、一度頭によぎった名称がこんなところで出てくるなんて。

 わたしの驚きなんてどうでもいいかのように、少女は茶碗の縁を掴み上げて隙間からお茶を啜っている。


「知ってます、ちょっとだけ。……やっぱりここって、そういうところなんですか?」

「そういうところって」

「その……も、物語の中、とか……」


 動揺のままに連想した、安直な発想に我が事ながら恥ずかしくなってくる。言ったそばから笑い飛ばされるんじゃないかと心配したものの、予想していたような嘲笑は聞こえてこなかった。


「んなわけねえだろ、……って言いたいところだけど。多分半分正解で、半分違う」

「多分って…」

「おれにもわかんねえんだよ」


 妙な言い方をする。何となく、彼女に訊けば簡単に答えがわかるのだと思っていたのに。


「ここが何なのかは知らねえ。ただ、ここをこんな風に《つくった》やつなら知ってる」

「《つくった》?」


 どこか遠いところを眺めるような少女の眉間に、ぐっと皺が寄る。眉尻を下げて、浮かべている表情は呆れたような困ったような、ひどく面倒くさそうなものだった。短く吐き出すような言葉と共に、肘を立てて広げた手の平の上に頬を乗せて言った。



「アリスだよ。正確には、この世界をやつだ」

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