07-3 《 101 white 》

「自分がどんな《かたち》なのかすら、わかってねえんだろ」


 ──かたち。かたちだって。一体何を言っているのだろう。今、わたしの目には自分の運動靴が、ショルダーを握る手が、ちゃんと見えているのに。


「とにかく、おれはもう関係ねぇ。こっから先はおまえが自分で決めるんだ。そのためにここに来たんだろ」


 返答しようと唇を開いても、言葉が何も出てこない。取り込むだけ取り込んだ空気がちっとも肺に送られず、息苦しい。注がれる視線がちくちくと痛い。彼女の棒きれのような脚すら眺められず、くたびれたブーツの表面へ、更にその下の淡い影へと視線を落とす。呼吸が浅くなって、小さく震えているのが恥ずかしい。二の腕を強く掴んで何とか身体を抑え込もうとしたけれど、きっと気付かれているだろう。


「別におれは、おまえが何をしようとどうなろうと知ったこっちゃねえし、自分で選んだことなら好きなようにすればいいって思ってる。でもさ」


 言いにくそうな言葉の詰まりを舌打ちに変えて、赤アリスはがしがしと髪を掻き回した。


「おまえ、このままでいいのかよ。せっかく誰からも強制されねえ場所に来たってのに。このままじゃおまえ、流されて飲み込まれて終わるんだぞ。そんなのつまんねえって思わねえの。自分の意思次第でどうにでもできるところなんだ。自分の──『おまえ』の、したいようにしろよ」


 強い口調だったけれど、端々に困惑と心配が、ともすれば懇願のような響きさえ滲んでいるように感じた。この、目の前にいる女の子は、何の関係もないわたしとの約束のために、わざわざこんな深い谷底まで一緒に着いて来てくれたのだ。きっと乗り気ではなかっただろう。旅を邪魔したのかもしれない。それなのに、彼女の言葉には、最後まで嘘がない。だから、今の言葉もわたしを案じて言ってくれているのはわかる。彼女に突き放す意図はない。それでも、ここに置いて行かれると思ったら、同じことだった。


 次の言葉が頭の中で見つからなくなって、思考が完全に停止してしまった。言葉をせき止めるつかえが失われた喉から、ずるりと声が漏れ出る。


「……あ、あなたに何がわかるの」


 緊張や不安から止まらなかったはずの震えが、どうしようもない怒りの感情になり変わる。


「自分で決めろだなんて言われても、それができない人間だっているの。何を選べばいいかわからない人間だっているの。したいことがない人間だっているの。わ、わ、わたしが流されて、他のひとが満足するなら、それは正しいことなんじゃないの? それの何が悪いって言うの。だって──」



 だって、意思なんて、誰も望んでいないのに!



 最後の言葉はかろうじて呑み込んだ。吐き出し切れない怒りが息切れになり、呼応してずくずくと痛む手首を二の腕に押し付ける。シャツの下で血が滲んでいるのがわかった。不快だ。

 言い返してくれればいいと思った。彼女も同じだけの怒りを見せてくれればいいのに、と思った。けれど、聞こえて来たのは怒声とは真逆の、とても静かで穏やかなものだった。


「……そうかもな」


 はっ、と瞬間我に返り、そこでようやくわたしは顔を上げた。赤アリスがこちらを見ている。静かな諦めや虚しさが、そこにあった。



「おまえが間違ってるって言ってるんじゃねえよ。ただ、おれとおまえじゃ話にならない。忠告はしたぜ。あとは好きにしろ」



 同じ言葉を繰り返して、そのまま赤アリスは坂を登り始めた。その姿が見えなくなるまで、立ち尽くすことしかできなかった。川と風のごおごおと唸る音だけが、胸の空洞にいつまでも響いていた。



***



 ぼうっと、川を眺める。

 時間が止まったように立ち尽くした後、わたしはよろよろしながら河岸に下りる小径を歩いた。疲労感でどうにか座りたくて、砂利と削れた石で足場の悪い川岸の、適当な岩に腰掛けて膝を抱えていた。その間も止まることなく川は流れ続ける。この川は、一体どこにつながっているのだろう。



「なんで、あんなこと言っちゃったんだろ…」


 最悪だった。あんなのは八つ当たりだ。彼女がわたしを知らないことと同じように、わたしも彼女のことを何も知らないのに。

 このところ、自分の感情を上手くコントロールできない。頭がぼうっとして、内側から無理矢理怒りを引きずり出されるみたいだった。こんなことは今までほとんど経験がない。を上手く保つことが難しい。関わる人が少ないからだろうか。監視する目がないからだろうか。あるいは、あの自由奔放な少女に知らず知らず影響されていたのだろうか。


 でも、そんなことが問題なんじゃない。謝罪も、弁解も、もうできない。その機会が与えられないことが、一層気分を憂鬱にさせた。


『せっかく自分の意思次第でどうにかできる場所なんだ、自分のしたいようにしろよ』


 それはきっと誰が聞いたって正論で、赤アリスはあの真っ直ぐな眼差しと同様の実直な優しさや信念から言ってくれたのだろうと思う。けれど、それができるわたしならば、今、この場所にいないのだ。


 結局、わたしはわたしのままだったな。


 自分のことを誰も知らないところで呼吸したいと思っていたのに。それであの屋上の扉を開けたはずのに、このざまだ。与えられていたのかも知れない最後の機会すら棒に振って、醜く他人に縋ろうとして。これ以上どこにも居ても仕方ない。そう思うのに、わたしは靴を脱ぐことすらしていない。なんて中途半端なんだろう。


 鼓膜が麻痺したように、くぐもった音しか聞こえない。耳の奥で、声が反響する。



──あんたは、



 耳鳴りがうるさい。不快だ。その後ろで、今度はいやに生々しく声が聞こえた。



『あんたは本当に、自分じゃなんにも決められないんだから』



 重い身体を、何とか立ち上がらせる。いつの間にか、黒羊がわたしの横に座っていた。

 

 

 今、ここで、決めなければ。

 決めなければ。決めなければ。



 どくどくと、有りもしない心臓が激しく脈を打つ。目の前でごうごうと音を立てて流れる川。冷や汗が噴き出て、力の抜けた身体がまた震え出す。視野が狭くなり、冷たくなった胃から吐き気が込み上げる。変だな、わたしにはもう肉体なんてないはずなのに。

 赤アリスはわたしを《出口》に案内してくれると言った。《出口》はこの世界から唯一外側へ出られる場所だと言った。ここがわたしの求めていた場所だと言った。そしてここには、《川》しかない。


 どうせ待っていたって消えるんだ。なら、最後の最後くらい、自分の意思で、足で、ここから出るって決めなければ。

 決めなければ。決めなければ。決めたら、



「全部、終わりにできる──」

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