第16話 黒天狗 


 アーチの向こう側が少し騒々しくなってくると、紅天狗は僕を抱き寄せたまま頭をクシャクシャと撫でた。


「帰るぞ、昌景」

 紅天狗はそう言うと天狗のお面を取り出し、まだ膝が揺れている僕の手を握った。その手は力強くて温かかった。

 ふと足元の萎んでしまった黄色い花が目に飛び込んでくると、ようやく今しなければならない事を思い出した。


「ありがとう。

 あの…今日は…自分の足で歩いて帰りたいんだ。

 白大蛇の煙で眠ってしまうだろうけど目を覚ますから…その…待っていて欲しい」

 僕はそう思いを伝えた。

 僕が目を覚ますのはいつもお堂近くになってからだった。今日はなんとしても自分の足で歩いて帰らなければならない。


「あぁ、分かった。

 木橋の先、松の木の下で、お前が目を開けるのを待っている」

 紅天狗は僕の目を見ながらゆっくりとそう言った。

 それから天狗のお面を被り空を見上げてから言葉を発すると、上空は青と白の渦を巻き始めた。ゴロゴロと雷に似た音が鳴り響くと、翼がバサバサと動き出し、体が宙に浮いていった。

 相変わらず怖さは感じたが、視界からアーチが消え去り青い世界が広がってくると、自由に空を飛べる鳥にでもなったかのように感じ始めた。


 地上では、何やら鵺達が騒いでいる声がする。

 この領域に来ることは2度とないが、生涯忘れることはないだろう。

 そう思うと、鵺の腕がぶち当たった頭がズキズキと痛み出した。痛みは、死に際の鵺の声を蘇らせた。ソレを振り払うように頭を振ってから翼の音に意識を集中させた。

 青と白の渦を巻く世界が眩ゆい光の世界へと変わっていくと、明滅する光の粒のようなものが降ってきた。

 その光は、あらゆる痛みを忘れさせてくれるほどの心地よさがあり、僕の瞼は急に重たくなっていった。


「まだ寝るなよ。

 こっからだ、昌景」

 紅天狗の声でハッと目を開けると、赤く爛れた結界門の扉が見えた。


「さぁ、開くぞ」

 紅天狗は大きな声を出した。

 その声は、少し笑っているかのようだった。


 紅天狗は結界門の扉に手を触れると、僕には分からない言葉で何かを叫んだ。太い腕に力が入ると血管が浮き上がり、凄まじい音を上げながら結界門が開いた。

 僕達が通り抜けると、結界門は凄まじい音を上げながらすぐに閉まっていった。

 門の先には白大蛇が待ち受けていて、赤い瞳は侵入者を睨め付けていた。大きな口が開くと赤くて細い舌がチロチロと動き出し、吐き出される煙が僕に襲いかかってきた。

 頭を締め付けるような音が鳴り響くと、いつものように意識を失ったのだった。




 銀色の眩しい光を感じて目を開けると、月ではなく立派な松の木が見え、太陽の光が降り注いでいた。

 僕は起き上がろうとしたが、体はまだ痺れていて動いてはくれなかった。声を出そうとしたが口も上手く動かないので、草の上に寝転がったまま松の枝と流れていく白い雲を眺めていた。

 ここでは、のどかな時間が流れている。

 草が頬を撫で、華やかな蝶がヒラヒラと飛んでいた。コバルトブルーの羽は光を浴びるとより一層輝きを増し、動く宝石のように美しかった。

 その蝶から目が離せなくなり、動きに合わせてゆっくりと顔を横に向けると、隣で同じように紅天狗が寝転がっていた。蝶は柔らかな草の上にとまり、しばし羽を休めると、また彼方へと飛び去っていった。


「昌景、気分はどうだ?

 白大蛇様の煙に勝てる日も、そう遠くはなさそうだな。良かった良かった。

 昌景は、人間だからな」

 紅天狗はそう言うと、目を開けてチラリと僕を見た。


「大丈夫だよ。

 ありがとう、待っててくれて」

 僕はかすれながらも声を発することが出来た。右肘をつきながら起きあがろうとしたが鋭い痛みが走り、思わず声を漏らした。


「そう慌てんなよ。

 もう少しゆっくりしてろ」

 紅天狗は欠伸をすると、また瞼を閉じた。


 僕はそのまま青い空を泳ぐ白い雲を眺めていた。草の芳しい香りに包まれながら心地よい風に吹かれていると、痛みが徐々に引いていくように思えた。


 やがて風が静かになると、紅天狗は起き上がり僕に手を差し伸べた。


 老杉に囲まれた長い階段に向かうと、木々の隙間をぬうように光が放射状に降り注いでいた。光は風の音に合わせて踊るように変化し、幻想的な景色を作り出していた。

 そよぐ風によって木々のいい香りがすると、体に染み付いた異界のあらゆるニオイが薄らいでいくように感じた。

 慎重に一歩一歩階段を降り、ゆっくりながらも歩き続けていると、激しく流れ落ちる水の音が聞こえ出し、ひんやりとした空気を感じるようになった。

 すると手の平に染み込ませた滝の水が、僕を助けてくれたように思えて「ありがとう」と口にしていた。


 滝は大きな音を上げながら僕を迎えてくれた。

 飛沫が激しく全身にかかり、時折滑りそうになりながら滝の裏側を慎重に歩いていると、苔むした大きめの石の上に蛙の親子が並んでいるのが目に入った。

 蛙の親子は嬉しそうに滝を見つめていた。

 僕も同じように滝を見ると、七色の綺麗な虹がかかっていた。キラキラとした輝きに溢れる世界を見ていると、先ほどの出来事が恐ろしい夢のように思えてきた。

 大きく息を吸い込んで吐き出すと、体から漂っていた鵺の血のニオイは全くしなくなっていた。

 被ったままの鴉のお面を手に取ると、鵺の腕がぶち当たった時についたはずの血も滝の水によって流れ落ちていた。


 驚いて前を見ると、紅天狗の着物には鵺の血がこびりついたままだった。男の体から漂う血のニオイも消えることはない。

 美しい世界では、紅天狗が背負う真っ赤な色は少し異様に感じ、血のニオイもより強烈に感じるのだった。

 そしてニオイは、その時を思い出させる。死にたくないと蠢く指先と生から切り離されて燃えていく肉塊を思い出させた。



「どうした?昌景」

 紅天狗は振り返り、歩き出そうとしない僕にそう問いかけた。


「鴉のお面に鵺の血がこびりついていたはずなんだけど、飛沫によって綺麗になった…のかな。

 僕からも…血のニオイがしなくなった。

 河童の領域から帰ってきた時には、お面にしっかりと泥がこびりついていたのに。

 滝の水で血は洗い流され、泥は消えない。

 どうしてなんだろう?」

 僕がそう言うと、きらめく陽の光を受けて滝の水はきらきらと輝いた。


「滝の水は、穢れを洗い流してくれる。昌景は血を背負って生きていくことはない。

 だが、泥はちがう。

 それぞれ、背負っているものが違うんだ。

 俺は血を背負って生きなければならない。当然だ。俺が、殺したんだから消えることはない。

 俺とお前は、背負っているものが違うんだ。

 同じになることはないし、同じになってはならない」

 紅天狗は僕の目を見ながらそう言った。


 ー同じになってはならないー

 その言葉は、水がどれほど激しく流れ落ちようとも消えることはなかった。鋭い銀色の光と共に、その後も歩き続ける僕の心に何度も響き渡ったのだった。



 お堂まで戻って来ると心からホッとして、そのまま軒下に腰を下ろした。気が抜けて紅葉をぼんやりと見ていると、紅天狗も隣に座り紅葉を眺め始めた。

 柔らかな風と共に鴉達がやって来ると、地面に降り立って僕達の方を見ながら鳴き声を上げた。その声は「おかえりなさい」と言っているかのようだった。


「ただいま」

 紅天狗はそう言ってから、僕の方を向いた。


「昌景、右腕は痛むか?」

 と、紅天狗は言った。


 僕が袖をまくると、鵺に抑えつけられていた右腕の跡はアザのように赤黒く残っていた。

 それは、鵺の手の形をしていた。

 腕の痛みと血のニオイは消えたが、アザまでは消えることはなかったのだった。しばらく見つめていると、アザは僕の心臓を掴み取ろうとするかのように広がり始めた。

 すると紅天狗は僕の右腕を掴み、刻まれたモノの深さを探るような目で見つめてから、赤黒いアザに触れた。

 紅天狗が静かな声で妖術を唱えると肉を焼く時のような音と煙が上がり、跡形もなく消えて綺麗になったのだった。


「よく走り抜けたな、昌景。

 今日はゆっくり風呂に入って、休め」

 紅天狗はそう言うと、それ以上は何も言わずに背中を向けて歩いて行った。

 


 紅天狗の姿が見えなくなると、僕は部屋へと戻って行った。鴉のお面をテーブルに置くと、無性に顔を洗いたくなり洗面所に向かった。

 冷たい水で顔を洗うと、濡れた前髪からは雫がポトッポトッという音を立てて落ちた。

 とたんに鵺の血に濡れた襟巻きを思い出した。

 無惨に殺された者達と矢を引き抜いた瞬間に噴き出した血を思い出すと、急に溜まっていたモノがこみあげてきた。


 それらを吐き出すと、鵺の領域での出来事の全てがスローモーションで思い出された。鏡に映る薄暗い影の部分から1人になった僕を捕まえて引き摺り込もうと蠢く指先の幻を見た。肉を焼くような悪臭がすると、僕は恐ろしくなり外へと走り出した。

 外に出ても、心臓は飛び出してきそうなほどに激しく動いていた。

 しばらくの間、地面にうずくまったままじっとしていたのだが、散った赤い紅葉が目に入ると立ち上がって運動を始めた。

 この時の僕はまともな精神状態ではなかったのだろう。

 嘔吐したことで気持ちが悪くてたまらないのに「何か」をしていないと、中身が丸見えになった腕のことばかり考えてしまう。


 クタクタになるまで運動をしていると、空にはやがて赤い光が広がり始めた。夕暮れを知らせる鴉の声が聞こえてくると、僕はすごすごと風呂場へと向かった。

 風呂から出ると、体からは檜のいい香りがした。


 部屋に戻ると、テーブルの上には温かな食事が置かれていた。食事なんて喉を通らないはずなのに「食べる」という作業にいそしんだ。味も何を食べているのかすらも分からないまま口に運び続けた。皿が空っぽになると立ち上がり、蛇口から流れる水を見つめながら食器をもくもくと洗い続けたのだった。


 その夜、僕はなかなか眠ることができずに布団に入ったまま目を開けていた。暗闇の中では、自分の息すらも大きく聞こえるような気がした。

 静けさを恐ろしく感じ始めると、得体の知れない音が聞こえてきた。それは吹き荒れる風のいたずらだったのだろうが、鵺の不気味な鳴き声を思い出すようになった。

 何度も寝返りを打ち、暴れ回る肉塊を忘れようとすればするほどに心に強く思い浮かぶのだった。


 しかし午前2時を過ぎた頃、その音をかき消す美しい音色が聞こえてきた。


 立ち上がってはめ殺しの窓から外を見ると、白の羽織を着た紅天狗が色鮮やかな紅葉の絨毯の上で笛を吹いていた。

 紅天狗は僕に気づいているだろうが、その瞳は開けられることなく笛を吹き続けた。踊るように軽やかに動き回るたびに、きらきらと輝く空のあらゆる光が男を照らした。

 恐ろしい幻は、その景色と音色によって小さくなっていった。


 僕はまた横になって目を閉じると、笛の音を聞きながら深い眠りに落ちていったのだった。




 次の日は、太陽が眩しいぐらいに輝いていた。

 空には雲一つなく沢山の鴉が空を飛び交い、紅葉はすっかり元気を取り戻し、地面の水たまりは姿を消していた。


 大きく伸びをしてから布団を片付けると、部屋の片隅にある鏡の前へと向かった。

 紫色の美しい布をとると、昨日と同じように上品な香りが漂った。

 鏡には、怪訝な顔をした僕が映っていた。一歩近づいてみると、鏡の中の僕と目が合った。

 その目を見ていると、昨日この目で見た鵺の恐ろしい言動と悲しい襟巻きをまた思い出した。


「鵺は…妖怪は…恐ろしい。

 あんな酷い事をしていながら、平気でいられるなんて。

 やっぱり僕達人間とは…違うんだ。

 妖怪は…恐ろしい」

 僕がそう言うと、鏡の中の僕が僕のことをじっと見つめてきた。鏡の中の僕はゆっくりと微笑みを浮かべたが、口元は笑っているのにその瞳はとても冷たかった。


 背中にゾクリとした震えが走ると、床の間の掛け軸もカタカタと動き出し、黒い霧はよりいっそう濃くなっていった。


 びっくりしてもう一度鏡を見ると、鏡の中の僕は目を丸くしていた。そこにいたのは、いつもの僕だった。


 鏡を奇妙に思うと急いで布をかけ、足早に部屋を出て外へと向かった。

 気持ちを切り替えようと運動を始め、それから落ちた紅葉を箒で拾い集めて袋にいれた。地面が綺麗になると、疲れがみせた幻だったのだろうと思いながら美しい空を見上げた。

 見上げた空には、鴉が群れとなっていた。

 数羽の鴉が群れから離れて舞い降りてくると、さっと袋を掴んで素早く飛び立っていき、また群れへと戻っていった。

 鴉の群れは何かを伝え合うと、同じ方角に動き出した。不思議な群れを追いかけるように箒を置いて歩き出すと、辿り着いた先には巨大な杉のような木が立っていた。

 漆黒の影のような木の周りを鴉達が飛び交うと、どこか別の世界へと通じる黒い穴が空中に出現したかのようだった。

 その杉のような木の下には、腰の辺りまで着物を脱いでいる紅天狗が立っていた。

 刀の稽古をしていたのだろう。

 漆黒の中では、銀色の刃が恐ろしく光っていた。

 紅天狗が首を縦に振ると、鴉達は黒い嵐のように飛び去っていった。


 紅天狗は刀を鞘に納めると後ろを振り返り、僕の立っているところまで歩いてきた。男の僕でも見惚れてしまうほどの鍛え上げられた体だ。どんなに恐ろしい妖怪であっても、それを上回る力で捩じ伏せていくのだろう。先程鏡に映っていた姿が浮かぶと、自分がひどくちっぽけに思えた。


「よぉ、昌景。

 ここに来るなんて珍しいな。

 よく眠れたか?」

 と、紅天狗は言った。 


「おはよう。よく眠れたよ。

 飛んでいる鴉を見ながら歩いていたら、たまたまここに着いたんだ。

 鴉達の様子が、いつもと違うね」

 と、僕は言った。


「あ?あぁ、そうだな」

 紅天狗は鴉達が飛んでいった方向を見ながら嬉しそうに笑った。


「今日はな、いつもと違うんだ。

 すぐに分かるさ。

 異界に行くのは、それからだ。

 それまで、ゆっくりしてろ」

 紅天狗は愉快そうにそう言うと、僕の肩をポンポンと叩いた。厚い胸板には汗が滲んでいた。それでも匂い立つのは爽やかな香りだった。男の逞しい胸の上では、紫色の宝石がついたネックレスがキラキラと輝いていた。


「あんなに強いのに…稽古をかかさないんだね」

 僕は紅天狗の筋肉で盛り上がった太くて逞しい腕を見ながら言った。自分の腕をさすってみると、筋肉はあるはずなのにとても細く感じた。

 

「あぁ。

 俺が、俺で、いる為にな」

 と、紅天狗は言った。


「じゃあ…僕も…頑張らないと」

 僕がそう言うと、紅天狗は僕の頭をクシャクシャと撫でた。


「なんだよ?えらく深刻な顔してるな。

 昌景は、十分頑張っている。

 昨日も、アーチをくぐりぬけたんだ。

 昌景は昌景のやるべき事を、ちゃんとやってのけた。

 刀を握り最強であり続けることが、俺のやるべきことだ。その為の訓練だ。

 ちゃんと自分を褒めてやったのか」

 紅天狗は明るい笑顔を僕に向けると、丸まっていた僕の背中を軽く叩いたのだった。


 紅天狗はまた稽古を始めたので、僕はその場を後にした。

 あてもなく歩いていると、美しい桔梗が咲く庭園に辿り着いた。桔梗もはじめて見た時と何も変わらない。否、眩しい陽の光が降り注いでいるからか、その美しさは増したかのようだった。

 今日も見上げた空のように美しい青を地上に作り出していた。一点の曇りもない青を見渡していると、一輪だけ咲いている白い桔梗が目にとまった。風が吹くたびに、桔梗は美しく揺れ動いた。

 床の間の花瓶に飾ってある桔梗を思い出すと、僕はしゃがみ込んで桔梗に話しかけた。


「松の枝葉と一緒にいるから嬉しそうだよ。

 笛の音がよく聞こえるからなのか、枯れることなく元気にしているよ」


 もちろん桔梗は何も答えることはなかったが、僕はそれで満足だった。

 日差しは温かく柔らかな風を感じながら揺れている桔梗を見ていると、僕の心も軽やかになっていった。


 だが聞き慣れない足音が聞こえてくると、危険を知らせるかのように動きが止まった。

 誰かが僕の肩をぐいと掴んだ。その力たるや恐るべきもので、肩に鋭い痛みが走った。


 

「貴様は、何者だ」

 そう問いかける低い男の声がした。

 その声には温かさはなく、血が通っていないと感じるほどの冷酷な響きがあった。

 恐る恐る声のする方に顔を向けると、男は僕から手を離した。男を見た僕は驚き、思わず「あっ」と声を出していた。


 紅天狗を思わせる背の高い美しい男が立っていた。

 切れ長の瞳は青く澄んでいてとても美しく、黄金色の髪は夜の海が月の光を浴びてキラキラと輝く海面を思わせた。

 その中性的な美しさは見る者の目を奪うほどなのに、見つめるほどに体が凍っていくような恐ろしさがあった。体は筋骨隆々で凄まじく、丸太のような太い腕には武蔵坊弁慶が握るような薙刀が握られていた。


 青い瞳をした男は、紅天狗の話にでてくる「天狗」で間違いないだろう。


「答えろ」

 僕が何も答えないでいると、青い瞳をした男はそう言った。

 青い瞳が冬の海を感じさせるほどに冷たくなると、感じていた温かな日差しを感じなくなった。柔らかな風すらも氷のように冷たく感じると、僕は身を震わせた。


「僕は…選ばれし者として…ここに来ました」

 僕はそう言ったが、相手には聞こえていなかったかもしれない。そう思わせるほどにか細く震えていた。

 妖怪と戦ったことすらも無かったことになるほどの恐怖が、僕の全身を駆け巡っていた。


 青い瞳をした男は、真偽を確かめるかのように僕の目を見据えた。

 その威力は、凄まじかった。

 あまりの恐ろしさに声を発することが出来なくなり目を逸らしたくなったが、不思議と右手に力が入り、青い瞳を見つめ続けた。


 静けさの中で、桔梗が揺れ動く音だけが響いた。


「貴様は、選ばれし者ではない」

 青い瞳をした男はたしかにそう言った。その色は、全てを見透かしているかのようだった。

 

 その言葉と眼差しに、僕の心臓が締め付けられた。

 目の前の男は僕のことなど何も知らないはずなのに「男が天狗である」という事実が全てに勝っていた。他を圧倒する迫力に今まで積み重ねたものは呆気なく飲み込まれ、僕の目の前は真っ白になった。


「答えろ」

 青い瞳をした男は、またそう言った。

 

 しかし、僕の唇は震えているだけだった。

 青い瞳をした男の眉間には皺が寄っていき、天狗の問いに答えられぬ男の体は硬直していった。

 もし鴉のお面を被っていたら強く締めつけていただろう。短刀は「戦え!鞘から抜け!」と熱を発したかもしれない。


 だが、相手は「天狗」である。

 そして、僕は天狗の強さを知っている。

 見えざる刃はこぼれ、鴉のお面は真っ二つに割れてしまったかのように望みらしいものはもてなかった。


「この意味が、分からぬか?」

 男の青い瞳には激しい光が走った。

 荒れ狂う海の上空で閃くような稲妻が僕の体に落ち、残されていた僅かな勇気も跡形もなく消え失せた。

 上空では鴉のつんざくような鳴き声が上がり、桔梗の花がさらに烈しく揺れ動く音がした。

  

 その時だった。


「よう、もう着いてたのか」

 いつの間にか、その場には紅天狗が立っていた。


「あぁ、とうに着いてたさ」

 と、青い瞳をした男は答えた。

 

 紅天狗が愉快そうに笑うと、鴉が静かになり桔梗も安心したかのようにユラユラと揺れた。

 

「そうか。昌景、コイツが黒天狗だ。

 まぁ、見たら分かるか。

 来いよ。茶でも飲もう。

 これ以上、桔梗を驚かせるな」

 紅天狗はそう言うと、桔梗をチラリと見てから歩き出した。


 紅天狗が先に立って歩き出すと、黒天狗はもう僕のことを見ようともしなかった。紅葉のトンネルを抜けると、黒天狗の薙刀が光を受けて鋭く輝いた。

 紅天狗と黒天狗は同じ背丈で、どちらも力に満ち溢れていたが、一つだけ違うことがあった。黒天狗の翼は白く、紅天狗の翼は黒みがかかった灰色ということだった。




 いつもの軒下まで戻って来ると、数羽の大きな鴉達が円になっていた。僕達の足音を聞いた彼等は一斉に顔を上げ、艶々とした羽を広げると同じ木にとまった。大きな鴉達の目には不思議な光があり、紅天狗と黒天狗が前を通り過ぎていくのをじっと見つめていた。

 美しい紅葉に彼等の色が混ざり合うと、不思議と色がより鮮やかに見えた。紅葉を散らすように風が吹くと、木の根元に置かれている白い袋がガサっと大きな音を上げた。


「昌景、すまんが茶をいれてきてくれないか?

 湯呑みは、4個で頼む」

 紅天狗は不思議な鴉達を見つめている僕に向かって大きな声でそう言った。声のした方を見ると、紅天狗と黒天狗はもう座っていて、黒天狗は僕のことをじっと見つめていた。

 僕はコクリと頷くと、青い瞳から逃げるようにその場を離れた。




 人数分のお茶を用意して軒下へと戻って行くと、紅天狗と黒天狗の話し声が聞こえてきた。男達の声は低く、その内容はよく聞こえなかったが、黒天狗が急に立ち上がったので僕は思わず足を引っ込めて身を隠した。


「断る。

 急に呼び出したかと思うと、そんな話か?

 私は忙しいんだ。もう帰るぞ」

 黒天狗が歩き出そうとすると、紅天狗はその腕を掴んだ。


「まぁ、そう急ぐな。お前、特に用事もないだろう。やけに来るのが早かったじゃないか。

 なぁ?退屈してるんだろう?

 断れば、後悔するぞ。

 面白いものを見せてやる」


「面白いもの?」


「あぁ、もう一度座れ」

 紅天狗がそう言うと、黒天狗はしぶしぶながらも腰を下ろした。


「鬼に盃を盗まれたと話しただろう。

 俺は盃を取り戻す為に、昌景を連れて、鬼の領域に行くことにしたんだ」

 と、紅天狗は言った。


「貴様、正気か!?

 人間を連れて鬼の領域に行くなど不可能だ。人間が鬼を前にして立っていられると思うのか?」

 黒天狗がそう言うと、紅天狗は笑みを浮かべた。


「立ってるんじゃない。

 昌景は、走るんだ。

 奪われたものを取り戻す為に、鬼がひしめく恐怖の領域をな。

 その道を、天狗が開けてやるんだ」

 紅天狗が楽しそうにそう言うと、黒天狗は呆れた表情を浮かべた。


「何を言ってるのか理解できん。

 貴様だけで鬼の領域に行き、妖術でも使って棚ごと持って帰り、あの男に開けさせろ。

 その方が、簡単だ。 

 何故、そうせん!?」

 黒天狗が声を荒げると、僕は驚いてお盆ごと落としそうになった。


「あの男?男の名は、刈谷昌景だ。よく覚えておけ。

 それは出来んな。

 鬼がココに来たのだから、俺達もソコに行かねばならない。

 棚には、いつの間にか黒堂の力が宿っていた。

 俺の妖術ですら力を持たん。

 そういうことだ」

 と、紅天狗は言った。

 枝にとまっている大きな鴉達が一斉に鳴き声を上げ、風で赤い紅葉が散り落ちた。


「あぁ…そういうことか。いつの間にか…か。

 貴様の妖術をはじき飛ばすか。

 全てが、そういうことか」

 黒天狗は生を狩りとる鎌のような嘴を持つ大きな鴉を見ながら呟くように言った。


「そういうことだ。

 俺は従うしかない。なさることに、狗がどうこう言うことは出来ない。その道の上で、戦わなければならない。

 さすれば、愉しんでいただけるだろう」

 紅天狗は力強い声で言った。


「それが、あの男が、ここに来た意味か?」


「そうだ。

 今回は、今までとは違う。何もかもな。

 今までの選ばれし者は、黒堂に入って棚から盃を取り出して、俺が酒を飲んでから札を貼るだけだった。

 妖怪を見ることも戦うこともなかった。

 矢が放たれたのだよ。

 奪われたものを取り戻す為に戦うんだ。

 止まってしまった時が、動き出そうとしている。

 ついに、その時がきたんだ」

 紅天狗は右手を見つめてから力強く握り締めた。


「その時か終幕か、分からんがな。

 すっかり飽きてしまい、全てを終わらせようとされているだけかもしれんぞ。

 そして終わらせるのは、貴様とあの男だ」

 黒天狗がそう言うと、大きな鴉達は静かになり風もピタリと止んで辺りは静まり返った。


「ならば、ひっくり返してみせようぞ。

 その方が、愉しいだろう」


「愉しい?それは可能性があるのならばの話だ。

 貴様達の場合は無きに等しい。

 妖怪共にとっても、いい笑いの種だな」

 黒天狗がそう言うと、紅天狗は咲き誇る真っ赤な紅葉を見ながら笑い声を上げた。


「無に等しい?!種か?!

 ならば、俺の勝ちだ。ゼロでないのならば。

 誰が何を言おうとも、昌景が己を信ずれば道は開ける。

 種はやがて実り、ソイツらをあっと言わせる。美しい花に群がる愚か共のようにな。

 面白いほどの手のひら返しをしてくるさ。

 けれど、もう花は高いところにあり触れることは出来ない。花はソイツらを見下ろしながら、咲き誇り続ける」

 紅天狗がそう言うと、赤い紅葉が烈しく揺れ動きガサガサと音を上げた。


「そうか。

 だが、あの男、自らを信じることが出来るのか?

 先程の姿を見ただろう?

 私の前で震えているだけだっだ。あの男は、何も出来ない。歩んできた道が、真っ白だからだ。何もない男が道を開くことなど不可能だ。

 そもそも人間が異界に行って帰ってこれるはずがない。あの男からも妖怪共が喜ぶニオイがしているはずだ。人間の世界で暮らしてきたのだから欲にまみれている。

 そして甘言に惑わされ、自らを見失い、禁を犯すだろう。

 選ばれし者が禁を犯せば、全てが終わる。

 思い出を抱きすぎて、夢の中にでもいるのか?」

 と、黒天狗は言った。


「俺は夢に溺れるつもりはない。

 昌景の色は、美しい。だからこそ昌景はな、座敷童子の姿を見て、幸運を授けられた。

 俺が与えた試練も、昌景は乗り越えた。何を思ったのかは知らんが小さく笑っていたよ。己の戦い方を昌景は知っている。

 よって、禁を犯すはずがない。

 昌景なら、やるさ。

 もうすぐだ…もうすぐ現実にしてみせる」

 紅天狗は青い空を見上げた。見上げた空は雲一つなく青く青く澄み渡っていた。


「座敷童子がか?!あの男に、幸運を与えたのか?!」 

 黒天狗は驚きの声を上げた。


「あぁ、そうだ。あれほど人間に失望していた座敷童子がな。

 無垢な瞳は騙せん。

 昌景も掴んだ幸運を逃さなかった。座敷童子の授けた幸運が、これから先も昌景にはあり続ける。

 やがて昌景は光も手にするだろう。与えられるんじゃない、自らが生み出す光だ。その身が燃え続ける限り、消えることはない。

 昌景は戦い、取り戻すだろう。

 なぁ、お前も手を貸せ」

 紅天狗は嬉しそうな声を上げながら黒天狗の肩に手を置いたが、黒天狗はすげなく払いのけた。


「座敷童子が手を貸したからといって、私が手を貸すとでも思ったのか?

 私は、海の神様の狗だ。

 海の神様は、お許しにはならないだろう。

 幸運を上手く使い、貴様達でどうにかしろ」

 黒天狗は強い口調でそう言うと、紅天狗をジロリと睨んだ。


「待ってろ」

 紅天狗は木の下まで歩いて行き、そこに置いてある白い袋を持って戻って来た。


「それならば安心しろ。

 鵺の領域に行く前に、山の神様にお会いしてきた。

 偶然だが、その時に、海の神様もいらっしゃってな。

 あとは、お前が首を縦に振るだけだ」 

 紅天狗は腰を下ろすと、その白い袋をドサリと縁側に置いた。


「偶然…か。私に会う前に海の神様にもお会いしていたとはな。よく出来たものだな。

 決断が私に委ねられたのならば首を横に振っておこう。貴様の思い通りに事が運ぶのは面白くない。

 それに何故、私が人間の為にタダで動いてやらねばならない?

 タダ働きは、性に合わん」


「なぁに、タダとは言わんさ。

 お前がタダで引き受けるはずもないしな」

 紅天狗はそう言うと、黒天狗に白い袋を押し付けた。黒天狗は白い袋の中を見た途端に顔を顰め、紅天狗を睨みつけた。


「なんだ?これは?

 異界の物などもらって私が喜ぶとでも思ったのか?」


「あぁ、喜ぶさ。

 それは、昌景からだ」

 紅天狗がそう言うと、黒天狗の目は険しくなった。


「これは貴様が異界で取ってきたものだろう。

 あの男は、ここにいただけだ。

 人間とは、何もせずに、祈り続けるだけの連中だ。運を天に任せ、自らは何もせずに、誰かが何とかしてくれると思っている。

 あの時から、何も変わっていない。

 いや、時が止まってしまっているからか」


「取ってきたんじゃねぇよ。砂金を置いてきている。

 何もせずに山にいるだけの男を、俺がこうまで守ってやると思うのか?そこにいるだけで大切にされるなど、ありえない。

 お前は無理だと言ったが、昌景はもう何度も異界に行き戻ってきている。俺がソレを取りに行っている間、昌景は異界で1人だった。 

 背中に隠れるどころか、俺は側にもいないんだ。

 昌景はな、異界で妖怪と戦ったんだ」

 紅天狗がそう言うと、黒天狗の白い翼がピクピクと動いた。


「貴様が、妖術でも施してやったんだろう」


「俺が妖術を施したのは、河童と猫又の領域だけだ。

 それに、どうして欲しいかは伝えたが、そこまでの道を考えたのは昌景だ。

 その道を歩く時、昌景は妖怪に襲われたが立派に戦った。戦いの最中、昌景は天狗の力をあてにしてはいない。もし、あてにしていたならば昌景はとっくに死んでいる。

 俺に刀を抜かせたのは、昌景の力だ。

 選ばれし者の名に相応しい戦いを、昌景はしてくれた。

 昌景は、考え戦うことが出来る男だ」

 と、紅天狗は言った。


 黒天狗は袋の中に手を入れ、果実と干物の匂いを嗅いでから卵を取り出した。卵を縁側に置くとコロコロと転がり、天狗の手から逃れようとした。

 だが、簡単に天狗に捕えられた。

 黒天狗が卵を大きな手の平にのせて何かを呟くと、卵は不気味な音を上げてから深いヒビが入っていった。


「確かに、鵺だった。

 鵺は、妖怪の中でも仲間意識がある。貴様とあの男への恨みを吐いて死んでいったぞ。

 貴様、わざわざ腕を斬り落としてから焼き尽くしたな。

 あの男に死を見せるためか?」

 と、黒天狗は言った。


「そうだ。昌景は死とは遠い世界で暮らしてきたからな。

 なんだ?お前、もしや疑ってたのか?

 鶏の卵とでも思ったか?」


「あぁ、貴様がまた怪しげな術でも使ったのではないかとな。

 親のもとにいなければ鵺の卵は孵ることはない。

 今夜にでも死んでいたが、私が殺したのだから海にかえしてやるとしよう。

 今度は、自由な鳥になれるように」

 黒天狗は卵を白い袋に戻し、絹織物を取り出して手触りを確認した。


「この絹織物はいいとして、果実と干物はすかんな。

 どうするか…」


「お前のところに遊びにやって来る一つ目小僧にでもやっておけ。小僧は食わんが、欲しがっていた。きっと喜ぶぞ」

 紅天狗がそう言うと、黒天狗は笑って頷いた。


「しかし、そんな悠長にやっている間に、貴様の翼は真っ黒になるぞ。

 時間は、もうない。

 秋が終わるまでになんとかせねばならない。秋が終われば冬がやって来る。風が唸りを上げ、雪が降り積もり、凍てつくような冬がな」

 と、黒天狗は言った。

 

「いいや。時間なら、まだ十分あるさ。

 なぁに、大丈夫だ。

 急いだところで何も変わらんよ。 

 それにな、一歩一歩着実に進んでいくことが大事だからな」

 紅天狗は腕を伸ばして友の肩を抱いた。


「なぁ、友よ」

 紅天狗がそう言うと、黒天狗は手で顔を覆った。


 紅天狗はその様子を見ながらしばらく笑っていたが、大きな鴉達が鳴き声を上げると笑うのを止め、真剣な表情になった。


「お前だって、そろそろ妖怪を殺したいはずだ。

 俺達の本来の存在理由は、殺すことだからな。

 薙刀も、妖怪を食いたくてウズウズしているぞ」

 と、紅天狗は低い声で言った。


「存在理由など、いくらでも変わるさ。

 貴様自身が本来の存在理由に抗おうとしている。

 そして、私は薙刀の振り方も忘れてしまった。

 海を眺めながら、夕陽が沈んでいくのを見るとしよう」


「まだまだ沈まんさ。

 お前の薙刀は錆び付いてはいない」

 紅天狗がそう言うと、降り注ぐ光で薙刀が輝いた。

 大きな鴉達がとまっている紅葉がザワザワと揺れ動くと、その音はまるで笑っているかのようだった。


 黒天狗が黙り込んでいると、大きな鴉達が次々と飛んでいった。どんどん寂しくなっていき、たった一羽だけになると太陽が流れてきた雲に隠れた。一羽の鴉は、鎌のような嘴を持つ鴉だった。

 その鴉が勝利を告げるかのように大きな鳴き声を上げると、辺りはどんよりとして寒々しくなり、紅葉が火の粉のようにザワザワと動き出した。


「沈めぬか。

 ならば、他にも注文するとしよう」

 黒天狗はそう言うと、友の耳元に口を近づけて何かを囁いた。


「奴等は、おしゃべりだからな。

 聞いてもいない事までベラベラと喋ってくれる。その相手が、あの男ならばなおさらだ。

 それでも自分の足で歩いて帰ってこれるのならば、ちゃんと話を聞こう。

 今、それが出来ぬのなら、あの男はこの先鬼の領域に行けたとしても食われるだけだ。

 何も学んでいなかったということだ。

 そして貴様は扇を掲げることになる。

 炎の舞を舞い、あの男のこともあの人のことも忘れて、世界の果てまで走ることになる。

 あの男は月の光に照らされながら皮をゆっくりと剥がれ、何日も何日も嬲りつくされた後に、生きたまま食らわれるだろう」

 黒天狗がそう言うと、紅天狗は小さく笑った。


「なんだ?貴様」


「いや、なかなか面白いことを言うなと思ってな」

 紅天狗がそう言うと、黒天狗は顔を顰めてから絹織物を白い袋の中にいれた。


「で、これらを誰にやるつもりなんだ?

 私にではない。

 一体、誰の為に用意した?もう一袋あるのだろう」

 黒天狗がそう言うと、白い袋はガサリと音を立てた。


「分かるか?

 そうだ、ヤツにやるんだよ」

 と、紅天狗は言った。


「あぁ、なるほどな。

 あれは、貴様の苦手な男だったな。

 それ故か?」


「そうだ。それ故だ。

 鬼の領域の軸が歪んでいる。ヤツが、ソレを知っている。

 鬼の領域に行ったんだが、軸が歪んでいて開かなかった。違う領域に、飛ばされたわ。

 その時にな、白大蛇様に噛みつかれて着物をやられた」


「そうか。白大蛇様に噛みつかれたか。

 しかし、そんな力はない。軸を変える力など、あの男にはない。

 そもそも鬼がこちらに来るなど不可能だ。盃を手にしただけで大人しく帰っていくはずもない。その全て…」


「そうだ」

 紅天狗はそう言うと、一羽の鴉を見つめた。


 すると、鎌のような嘴を持つ鴉が大きな鳴き声を上げた。

 その声は山中を駆け巡り、地面が揺れ動き、散り落ちた赤い紅葉が吹き上がった。冷たい風が吹き荒れると、天狗が見つめる先の景色は赤く赤く染まっていった。


「そこまで分かっていてやるつもりか?

 光を見せてくださるが、その光はやがては闇にのまれる。

 その為の、光だ。

 光が、空虚な幻想だと知るだろう。

 希望を見たからこそ、深い絶望を味わい、出口のない暗闇を永遠に彷徨う。

 貴様自身が、そうだろう」

 黒天狗がそう言うと、紅天狗は大きな声で笑った。


「あぁ、やるさ。

 そもそも、やる以外に選択肢はない。

 絶望ではない。現実に光を見たからこそ、俺はこうして生きていける。

 この永遠にも等しい命を」

 紅天狗の銀色の瞳には、この上なく優しい色が浮かんだ。

 

「愚かだな、お前も」

 黒天狗はそう言うと、ヒラヒラと舞い落ちていく赤い紅葉に目を注いだ。


「愚かではないさ。

 全てを成し遂げるだけだ。

 俺と昌景と、あとお前でな」

 紅天狗がそう言うと、赤い紅葉は地に落ちたが飛び去っていった鴉が全て戻ってきた。

 戻ってきた鴉達が一斉に鳴くと、鎌の嘴をもつ鴉は心底愉快そうに体を震わせてから首を縦に振った。

 その鴉の大いなる力によって、全てが元通りとなった。

 太陽は姿を現して景色は明るさを取り戻し、火の粉のように燃えていた紅葉も鎮まり、全てを取り戻した。


「そうか、それが狙いか」

 黒天狗がそう言うと、紅天狗は笑みを浮かべた。


「ここで、待ってろ。

 刈谷昌景が自らの足で歩いて帰ってくる。

 それに、もうすぐ楓もやってくる。楓のことを頼むな」

 紅天狗がそう言うと、黒天狗は不思議そうな顔をした。


「楓?誰のことだ?」


「カラスだよ。

 カラスの名だ」

 と、紅天狗は言った。


「おい?どうした?

 女に名前をつけないのではなかったのか?

 忘れさせられたか?」

 黒天狗は驚いた顔でそう言うと、友の肩を掴んだ。


「俺がつけたのではないさ。

 昌景がな、カラスにいい名を選んだんだ。

 それに忘れてはいないさ。まだ消されてはいない」

 紅天狗はそう言うと、陽の光を浴びて輝く赤い髪をかき上げた。


「そうか。なら、いい。

 ただ…妙だな」

 黒天狗の目は険しくなり、友の肩を握る手に力が入った。


「妙か?」


「あぁ、妙だ。似たような名前ではないか。

 気をつけろよ、友よ」

 と、黒天狗は声をひそめて言った。紅天狗は友の顔をしばらく見つめてから首を横に振った。


「楓は、鴉だ。

 だから、ソウであるはずがない」


「そうか。

 だが、お前が女と分からずに連れてきたのだからな。そのような事が、あるはずがない。  

 気をつけろ」

 黒天狗はそう言うと、友の肩から手を離した。


「おい、ずっと様子をうかがっているぞ。

 そろそろ、呼んでやれ」


「あぁ、そうだな」

 と、紅天狗は言った。





 結局、僕には何を話しているのかは分からずに、変わっていく景色を眺めているだけだった。

 紅天狗が僕の名を大きな声で呼んだので、僕はのろのろと歩いて行った。黒天狗の鋭い視線を感じるせいなのか、お盆を持つ手が小刻みに震えてしまい、時折前につんのめりそうになった。


「ありがとな」

 紅天狗は湯呑みを取ると、一口飲んでから絵柄をじっと見つめた。ライラックに似た綺麗な花が描かれていた。


「美味いな。

 黒天狗よ、お前も飲めよ。

 次は、共に酒を飲みたいな」

 紅天狗は笑みを浮かべながらそう言ったが、黒天狗はその言葉には答えることなく湯呑みを手に取った。


「ありがとう」

 黒天狗は素っ気なくそう言うと、紅葉を見つめながらお茶を飲み出した。


 そこにとまっていたはずの大きな鴉達は、いつの間にかいなくなっていた。


「昌景、今日は鎌鼬の領域に行くぞ」

 紅天狗はそう言うと、腰に刀を差してから立ち上がった。


「かま…いたち?」

 と、僕は繰り返した。


「そうだ。鎌鼬だ。

 欲しいものがあってな」

 紅天狗はニヤリと笑い、黒天狗の方を見た。


 だが黒天狗はその視線を気にすることなく、空っぽになった湯呑みに自らの手でお茶を注いでいたのだった。

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