第20話 月夜 名乗らぬ女


 紅天狗は驚いた顔をしている僕の顔を見ながら笑い、夜空に浮かぶ月を眺めながら「共に過ごした日々」を語り始めた。それは数百年前の事であったが、まるで昨日の事のように語られるのであった。



 満月が煌々と輝く夜だった。

 静かな風が吹き、木々の枝がそよぎ、清らかな水の流れる音が響いている。

 その山の中を、女がひとりで歩いていた。

 手には風呂敷を持ち、綺麗に結い上げられた黒い髪には豪華な髪飾りが輝いている。白地の着物には真っ赤な牡丹が描かれ、月の糸でつくられたような銀色の帯が美しく、その後ろ姿はまるで天女のようであった。


 しかし女は疲れ切っていて、何度も木の幹に手をつきながら息を吐いていた。時折、何かを探すかのように辺りを見渡していたが、その顔には不安の色がありありと浮かんでいた。探してはいるが、見つけたくはないのかもしれない。或いは、見つけられたくないのかもしれない。

 風で揺れる草木の音にすら怯え、鳥か獣の鳴く声が聞こえてくると、ひどく体を震わせていた。


 一方、そんな女の姿を上空から眺めている男がいた。

 ヨナラヌコトヲしようと企む輩であれば既に殺していたのだが、その女はあまりに無防備で何の力も無い者として銀色の瞳には映っていた。

 同じところをグルグルと回っているだけの女を見ながら退屈を紛らわせていたのだが、背後へと忍び寄る不穏な影と音に気づくと、男は音もなくその影の上に降り立った。


「おい。

 俺の山に無断で入り、何をしている?」 

 と、男は言った。


 女は小さな悲鳴を漏らし、男に踏まれている影はもがき苦しみ出した。

 男は刀を鞘から抜き、そのまま地面に突き刺すと、影は痙攣を起こしながら小さくなっていった。影が薄くなっていくと、その場を凍らせるほどに空気が冷たくなった。影は男にしか聞こえない声で断末魔の叫びを上げた。

 その死の煙が漂い、満月の光が遮られると、男は女の肩を乱暴に掴んだ。鋭い刀を今度は細くて白い首筋へと向けると、女は凍りつきそうなほどの恐怖を覚えた。

 月の光は遮られ、今や氷の世界にいるように空気は冷たくなっているというのに、その大きな手から伝わる温もりで女の体は不思議と温かかった。


 女は死を覚悟しながら、薄気味悪く光る刃をちらりと見た。男の手の動き一つで首が斬り裂かれてしまうのだと分かると、女は小さく口を開いた。

 

「お許し…ください。

 あの…わたくし……親戚を頼ろうと…何日も…かけて…遠い村から…歩いて来ました。

 ですが…道に迷い…いつの間にか…山に入ってしまったのです。喉が渇いてしまい…水を探して…いました。

 あの…どうか…お許しください」

 女は途切れ途切れにそう言った。その女の声は消え入りそうな声ではあったが、この山に流れる神がつくりし滝の水のように澄んでいた。


 男は首を斬ることが出来なくなった。

 だが無断で山に入った女を見逃すことも出来ず、刀は鞘に納められることなく首筋に向けられたままであった。


「勝手に山に入っておきながら許せとはな。

 女だったら殺されないとでも思ったか?」

 背後に立つ男は、女の耳元でそう囁いた。


「あの…何でも…いたします。

 どうか…命だけは…」

 女がおどおどしながら言うと、上空を旋回している鴉が山中に響き渡るような大きな鳴き声を上げた。


 男は顔を上げ、女は目線だけを動かした。

 女の目には鴉は闇に溶け込んで見えなかったが、男の目にははっきりと見えているのだろう。鋭い鳴き声を上げ続ける鴉をじっと見つめると、その声に従うかのように刀を鞘に納めた。


「あぁ…」

 女は向けられていた刀の恐怖から解かれはしたが、耳に残る男の声はとても恐ろしかったのだろう。立っている力もなくなりヨロヨロと崩れ落ちていった。


「おっ…と危ない。

 崩れ落ちるとは…それほど俺が怖いか?」

 男は崩れ落ちていく女の体を支えようと細い腰に腕を回した。女の体はたやすく男に抱き止められ、逞しい腕一本で男の体へと抱き寄せられていった。

 女の力では到底敵わぬ男の力強さを感じると、女は縮こまり風呂敷を両手で握り締めるだけだった。


「怖がんなよ。何にもしてないだろ?」

 男が女を後ろから抱き締めるようにして言うと、木々の隙間から満月の光が射し込み、その場を明るく照らした。女の目には揺れ動く翼のようなものが見え、自らを抱く腕のあまりの逞しさに言葉を失った。


 その男が「人間の男ではない」と、この瞬間はっきりと分かったのだった。


「おい、なんか言えよ」

 と、男は低い声で言った。

 

「すみません…あの…わたくし…」

 女は小さく声を漏らした。


 男の腕の中から逃げようともがいたが、慣れない山道を歩き続けたせいもあってか鼻緒が切れてしまった。

 さらに結い上げられた髪もほどけ、艶のある長くて美しい髪が両肩に流れて綺麗に波打った。豪華な髪飾りは地面に落ち、大きな石に当たって粉々に砕け散った。


 それを見た男は、小さく笑った。

 今度は穏やかな口調で「おい、暴れるな。危ないぞ」と言った。


 下駄は壊れてしまっている。

 地面に散らばっている髪飾りの破片がギラギラと光ると、もう歩けもしない女は腕の中で静かになった。

 さらに恐ろしいモノが、女の目に入った。

 死の煙が消えていき月の光で見えるようになった地面には、得体の知れないグチャグチャしたモノが転がっていた。それは命あったモノの死骸のようだった。


 女がガタガタと震えると、抱き締める男の腕の力がとても優しくなったのだった。


「大丈夫だ。

 しばらくすれば土に還っていく。

 それまでは…俺にこうして抱かれていろ」

 と、男は囁くように言った。


 女は、その言葉に従うしかなかった。土に還っていくさまは恐ろしくて、女は目を閉じた。すると背中から感じる男の鼓動と自らの鼓動とが合わさっていくように感じるようになった。その音は心を落ち着かせ、穏やかな月の光と逞しい腕に抱かれているうちに不安を感じなくなっていった。


 やがて影は土に還っていったが、風の音ではない不穏な音までは消えていかず、ずっと機会を伺っているようだった。

 男が女からそっと手を離し、忽然と姿を消すと、シューシューという音を上げながら嫌なニオイのする蔦が垂れ下がってきた。蔦が迷うことなく女の首に巻きつこうとすると、男はまた何処からともなく現れて、風のように刀を抜いて蔦を切った。

 蔦は耳を塞ぎたくなるような音を発しながら地面に落ち、女は悲鳴を上げた。


 地面に落ちた蔦は、蒸気のようなものを上げながら跡形もなく消えていった。 


「何でもするなどと、軽々しく弱い言葉を口にするからだ。

 お前を弄んでやろうとするヨカラヌモノが寄ってくるだけだぞ」


「申し訳…ございません…」

 と、女は震えながら言った。


 女を付け狙っていた怪しげなモノ達がいなくなると、風に吹かれて綺麗に波打っている黒い髪に触れた。


 男は、微笑んだ。

 女のいい香りが、今も鼻には残っている。

 ソレに付き合ってやるのも悪くないと男は思った。


「いい香りだな。それに、綺麗な髪だ。

 で、何をしてもらおうか。

 お前が俺にする事といえば…」

 男はそう言うと、女の顔を見ようと前へと回った。


 女は俯いたまましばらく黙っていたが、唇を噛みしめると慣れない動きで体を男へと寄せていった。

 髪が美しく波打ち、柔らかな体が男の体に重なった。

 時は、夜である。

 それが何を意味しているか、分からない男はいないだろう。


 しかし男は着物越しに柔肌を感じても、眉間に皺を寄せるだけだった。


「おい!なんだ?!それは?!

 俺が無理強いするような男に見えるか?」

 男が荒々しい声で言うと、女はビクッと震えた。さっと離れたが、俯いたまま黙っているだけだった。

 男が何を求めてるのか分からず、吹き込まれた事をした自分にも恥じているかのようだった。


「おい!お前!失礼な女だな!」

 男は苛立った声で言うと、蔦が消えていった地面を指差した。


「アレに首を締められそうになっていたのを助けてやったんだぞ!

 お前が俺にする事といえば、俺の目を見て、礼の言葉を言うことだろうが!「ありがとう」ぐらい言ったらどうなんだ?!

 おい!下ばかり見ていないので、こっちを見ろ!」

 粗野な男の声は大きく響き渡り、木々が驚いて枝を揺らすほどだった。


 すると、女はゆっくりと顔を上げた。

 満月の月明かりの下で、はじめて女の顔を見た男は息を呑んだ。

 その女は、夜空に輝く星のようだった。遠く輝き、手を触れることすら出来ない星を思わせる、夢のような美しさ。

 透き通る黒い瞳に、綺麗なカーブを描く眉は知性を感じさせ、瞬きをする度に長い睫毛が揺れ動いた。

 紅が塗られた口元は上品で、微笑みを浮かべれば綺麗な花のようだろう。紡ぎ出される言葉は、さぞ美しい言葉であるだろう。


 遠い村から来たというのに派手な化粧はいささかの乱れもなかったが、豪華なばかりの髪飾りから解き放たれ風で波打つ黒い髪からは本来の清楚さが感じられたのだった。


「ありがとう…ございます」

 風の音で消されそうなほどに小さな声ではあったが、女は男の瞳を見ながら言った。


 その澄んだ瞳の輝きは、男の心を貫いた。

 夜空を自由に飛ぶことが出来る男ですら、どれほど手を伸ばしても掴むことが出来ぬ星。

 その美しさは、粗野な男すらも魅了したのだった。


 夜風が男の頬を撫でると、ようやく我に返り、美しい瞳を見つめながら口を開いた。


「お前…名は?」


 その言葉を聞いた女の表情はかげった。

 女はまた俯いてしまい、その美しい瞳に自分の姿が映らなくなると男は妙な苛立ちを感じるようになった。


「お前、自分の名も言えぬのか?」

 その苛立ちからか男は吐き捨てるように言った。


 だが男の乱暴な言葉遣いは、女に恐怖を与えるだけだった。女の体は震えるばかりで、その口から名前が語られることはなかった。


 風の音で木々の葉が揺れる音だけが響いた。

 男はほとほと困り果てながら、苛立ちの感情を追い出すかのように咳払いをした。


「もう、いい。

 ならば、俺の名を聞かせてやろう。

 俺の名は、紅天狗だ」

 紅天狗がそう言うと、女はようやく顔を上げた。


「あっ…あっ…紅天狗様…本当に…」

 女は目を大きく見開いて、何度も「紅天狗」という言葉を繰り返した。

 

「人間の男に翼は生えていないだろう?」

 紅天狗は立派な両翼を広げながら言った。翼を見た女は驚きのあまりに風呂敷から手を離してしまった。

 真っ逆さまに地面に落ちようとした瞬間、大きな手が風呂敷を掴み上げた。その瞬間、男は眉をぴくりと動かし、口元には笑みを浮かべた。


「ほら、落とすなよ。 

 お前の大事な物だろう?

 それとも、俺が持っててやろうか?」 

 紅天狗は笑いながら言った。女は何度も首を横に振ったので、紅天狗は風呂敷を女の手に返した。


「さて…こっからどうするか。

 喉が渇いたと言っていたな。

 ついて来るか?水を飲ましてやろう」


 その言葉に女は頷こうとしたが、逞しい男の腕と自らの首を斬ろうとしていた腰の刀が不意に目に入った。

 女が固まったまま腰の刀を見つめていると、その視線に気付いた紅天狗は少し肩をすくめた。


「すまん。もうお前に刀を向けはせん。

 来るなら、俺がお前を守ってやる。  

 俺は、気が短いんだ。そう長くは待ってやれない。

 さぁ、どうする?来るか?」

 と、紅天狗は言った。


 女は少し戸惑いの色を浮かべていたが、得体の知れない鳴き声が山奥から聞こえてくるとコクリと頷いた。紅天狗は口元に笑みを浮かべると「すまんな」と言ってから、女を軽々と抱き上げた。


「きゃあ!」

 女は叫び声を上げ、横抱きにされたまま男の腕の中で小さく縮こまった。


「お前、もう歩けやしないだろう。

 怖ければ、目を閉じて、俺にしがみついてろ。

 このまま一気に駆け上がる」

 紅天狗はそう言うと、疾風のように山道を駆け上がって行った。

 

 女は目を閉じて逞しい腕の中で小さくなっていたが、冷たい風を感じると、紅天狗の襟元に恐る恐る手を伸ばしてキュッと握り締めた。

 高く伸びている草は男に道を開け、足を取るかのように地面から浮き上がっていた根が沈んでいく音がした。

 恐ろしいと聞かされていた天狗に抱きかかえられている。

 もっと残酷な者を想像していたのだが「守ってやる」と言った紅天狗の言葉は力強く、信頼できる響きがあった。

 物凄い速さであるのに男の腕の中は妙に心地よく、ゆりかごにいるような心地になっていくと、女はゆっくりと男の胸に顔を埋めていったのだった。


 朱色の門と黒門を女を抱き抱えた紅天狗が通る時、鴉達は腕の中にいる女を不思議そうな目で見ていた。

 風は止むことなく吹き続け、木々の葉を大きく揺らしたが、女を男の腕の中から攫っていくことはなかった。満月の光も、2人を優しく照らし続けた。

 すると鴉達は音もなく、一羽また一羽と、2人の前から飛び去っていったのだった。


 紅天狗は黙ったまま歩き続け、女もまた何も口にはしなかった。

 鴉達がいなくなると、男と女の息遣いだけが夜の静けさの中で響き、溶け合っていった。

 木々の葉が大きく垂れ下がるお堂が見えてくると、紅天狗は真っ直ぐにお堂の中へと向かって行った。紅天狗は女を抱えたままお堂の中に入ると、薄暗い部屋へと連れて行き、そこで女をゆっくりとおろした。

 

 そして黙ったまま、女の顔を見つめた。

 はめ殺しの窓から満月の光が射し込むと、乱れた女の着物からのぞく柔らかな脹脛が男の目に留まった。なめらかな肌には少し汗もにじんでいる。

 女は男の視線に気付くと、体をこわばらせた。

 男が吸い寄せられるように手を伸ばすと、女は体を震わせながら顔を背けた。


 しかし、男は乱れた着物をなおしただけだった。


「水と食い物を持ってくる。ここにいれば安全だ。

 日が昇るまで、ここから絶対に出るな。

 日が昇っている間は、自由に外に出てもいい。

 だが日が沈む前に、この部屋に入れ」  

 紅天狗はそう言うと、女を見つめながら微笑んだ。

 その微笑みからは先程までの乱暴さはなくなり、不思議なほど穏やかに見えた。


 女は、その微笑みを見つめた。

 自分を見つめる男の銀色の瞳は、空に浮かぶ月のように麗しい。


 男の目には美しい女が映り、女の目には麗しい男が映っていた。

 2人の静かな息遣いが部屋の中に響くと、ただの男と女であると感じさせた。今宵の美しい満月の光に照らされながら体を重ねたとしても、それすらも一夜の夢のように思わせてくれるような光だった。



 だが男は静かに立ち上がると、自分を見つめる女を残して部屋から出て行った。後ろ手で襖を閉めると、男は息を吐きながら片手で顔を覆った。

 人間の女を抱いたことなど何度もあったが、顔は真っ赤になり、女の美しい身体を初めて見た男のように興奮していた。

 冷静に振る舞ってはいたが体は徐々に熱を帯び始め、暴れ出しそうになった欲望を鎮めようとするかのように息を吐き目を閉じた。

 しかし瞼に浮かぶのは、女の美しい眼差しだけだった。

 この感情が何であるのかは男には分からなかったが、初めて味わう甘くて優しい感情に動揺せずにはいられなかった。


 部屋に残された女も、どうしてこれほどまでに男に魅せられたのか分からなかった。

 天狗に恐ろしい目にあわされることを覚悟していた。男が一瞬見せた視線は、時折遠くから自分を見る村の男達と同じものであった。男達は風習を信じて近づこうとはしなかったが、女はいつも恐怖を感じていた。女に優しく微笑みかけたのは、姉だけだった。

 紅天狗はそんな事など知らず、知っていたとしても恐れはしないだろう。欲望のままに動くことなど出来ただろうに。

 女は様々な戸惑いと、その銀色の真っ直ぐな瞳に不思議な感情を抱いてしまったのだった。


(紅天狗様が戻って来るまでに…)

 女は着物をきちんとなおすと、乱れた髪を手櫛でなおした。

 紅がまだひかれているのを確かめるように、唇に手を伸ばすと女は頬を赤らめた。


(わたくしは…何を…)

 恐怖が溶けていくと、ある感情だけが残ったのだった。

 女は頬を赤く染めながら、自らを抱き上げた男の逞しい腕の感触を思い出し、吐息を漏らしたのだった。




 そうして女は、山で暮らすことになった。

 日が昇ると、女は髪を綺麗にとかし薄らと化粧をしてから、早くから軒下に座るようになった。何をするということもなく、風で揺れる木々の葉と空を眺めては、流れていく雲を目で追っていた。

 紅天狗は女の食事を決まった時間に持ってくるので、女と毎日顔を合わせるようになった。


「ほら、食えよ」

 紅天狗は食事がのったお盆を渡すと、女は御礼を言って受け取りはするが話をすることはなかった。紅天狗も女が箸を取るのを見ると、隣に座ることもなく去って行くのだった。


 女は空が赤く染まり出すと部屋へと戻って行き、ここから逃げ出す様子もなかった。

 

 そうして1ヶ月が過ぎようとしていた。

 朝の光に照らされながら、女はいつものように揺れる木々の葉を見ていると、木の枝にとまっている鴉が舞い降りてきた。

 女は足元に近づいてくる鴉をじっと見ていたが、叫んだり不快な表情を浮かべることはなかった。


「どうしたの?」

 と、女は問いかけた。


 鴉が透き通った鳴き声を上げながら羽を軽やかに動かすと、女は明るい笑い声を上げた。離れた場所から見ていた紅天狗は足音を立てることなく近づいていき、お盆を縁側に置くと、女の隣にはじめて腰を下ろした。


「ここで暮らすつもりか?」

 紅天狗はそう言うと、女の顔を横目で見た。


 女の顔からは微笑みがみるみる消えていき体が微かに震えたが、女はゆっくりと紅天狗の方を向いた。あの夜に感じた穏やかさはとうに消えていて、何の感情も持たないような天狗が自分を見つめていた。


「おい、どうする気だ?

 答えろ」

 紅天狗は構うことなく乱暴な口調で言った。


 2人の間に吹く風は冷たく、女は体をビクッと震わせた。

 声を絞りだそうとするかのように、太腿の上においている手をキュッと握り締めた。


「他に…行くところが…ありません」

 と、女は弱々しい声で言った。


「おい。親戚はどうなった?」

 紅天狗がそう言うと、女はハッとした顔になった。

 女がオロオロし始めると、足元にいる鴉が心配そうに女を見つめた。


「あっ…あの…」

 女は白い顔をますます白くさせていった。

 見かねた鴉が紅天狗に向かって鳴き声を上げると、紅天狗は空を仰ぎ見ながら顔を押さえた。


「もういい。すきにしろ。

 ここにいたいのなら、いればいい。

 今まで渡した物以外に、必要な物があるのなら言え。

 ここで毎日こうしていてもつまらんだろう」

 紅天狗がそう言うと、女はしばらく考え込んでからコクリと頷いた。


「あ?何だ?何がしたいんだ?

 黙っていたら、俺には分からん。

 それとも天狗に心を読まれたいのか?考えている事の全てをな」

 紅天狗はそう言うと、ジロリと女を見た。女は少し唇を震わせてから、躊躇いがちに口を開いた。


「あの…以前はよく…笛を吹いて…おりました。

 ここでも笛を吹いて…よろしいでしょうか?風呂敷に包んで…持ってきております」


「あぁ、すきにしろ」

 紅天狗がそう言うと、女は嬉しそうに微笑んだ。



 次の日になると、美しい笛の音が聞こえるようになった。

 その美しい音色は、様々に変化しながら風に乗り山中を駆け抜けていく。喜びも、悲しみも、見事に表現していた。

 その音色を楽しみに、鴉達は女のもとに集まるようになった。

 沢山の鴉達に囲まれようとも女は嫌がる様子をみせることもなく、ただ静かに目を閉じて笛を吹き続けた。笛を吹き終わると、鴉達は拍手の代わりに鳴き声を上げ、女もまた笑顔でそれに応えるのだった。

 紅天狗はそのやり取りを黙って見ているだけだった。女に話しかけることも、側で耳を傾けることもなかった。鴉達が女に近づいていくほどに、紅天狗は女から離れていった。

 いつしか食事は縁側にそっと置かれ、女と顔を合わせることはなくなっていったのだった。


 そうして時が流れていった。

 やがて女にも慣れがうまれたのか笛を吹くことに夢中になっているのか、暗くなっても笛の音が響くようになった。青から赤に色を変える空を悲しむように、切ない音色が響いていく。

 時間が経つにつれて、物憂げな表情となっていく女の顔を鴉達は見つめ、女が部屋に戻るまで静かに側にいるのだった。


 そんなある日、いつものように鴉達は静かに笛の音を聞いていたのだが、その中の一羽が突然羽を動かして大きな鳴き声を上げた。それにつられるように他の鴉達も羽を動かして大きな鳴き声を上げると、バサバサと羽音を上げながら一斉に空へと飛び去っていった。

 音に驚いた女が目を開けて空を見上げると、赤かった空には黒い色が広がっていた。黒は、瞬く間に赤い色を飲み込んでいく。


 鴉達がいなくなると、急に辺りは寒くなった。

 女が体を震わせながら目線をゆっくりと下ろしていくと、そこには怖い顔をした紅天狗が立っていた。


「お前、ここで何をしている?」 

 紅天狗は苛立った声で問いかけた。

 異界から戻ってきた男の体には、夥しいほどの妖怪の血がついていた。男の頬についている赤い血は、妖怪の苦しみによるものなのか毒々しい色をしていた。


 女の目は大きく見開かれ、手から笛を滑り落とした。笛は紅天狗の足元へとコロコロと転がっていった。

 女はヨロヨロとした動きで笛を拾い上げ、血にまみれた男から逃げようとしたが、男は女を逃さなかった。


「おい!答えろ!

 こんな時間まで、ここで何をしている!?」

 紅天狗はそう言うと、女をまた縁側に座らせ、隣にドサリと座り込んだ。


「日が沈めば、この山に漂う恐怖が動き出すぞ

 お前、満月の夜に味わった恐怖を忘れたのか?」

 紅天狗がそう言うと、女は首を横に振った。


「すみ…ません。すぐに…部屋に戻ります。

 でも…あの…お着物に…血がついております。恐ろしい血のニオイも…。どうなさったのですか…?」

 と、女は真っ青な顔で言った。


「あ?異界に行き、妖怪を殺してたんだから当たり前だろう。

 血もニオイも、妖怪のモノだ。

 今回のは、わりとデカかったからな」

 紅天狗が淡々と答えると、女はますます震え上がり笛が激しく揺れ動いた。


「なんだ?怖いのか?」

 紅天狗がそう言うと、女はコクリと頷いた。


 紅天狗は自らの手の平にこびりついた血を見ながら首を傾げるばかりだった。血もニオイも妖怪を殺したことを誇らせてくれるものであり、血にまみれた日々を送る男には女の言葉の意味が全く分からなかった。

 しばらくそのまま横目で女を見ていたが、風で木々の葉がガサガサと揺れ動くと、ゆっくりと口を開いた。


「ならば、こうしよう。

 お前の目に血が映らぬように、お前に会う前には羽織を羽織り、顔についた血も拭おう。

 怖い思いをさせて…すまなかったな。

 俺は戻るから、お前も部屋に入れ」

 紅天狗はたどたどしい口調で言い立ち上がったが、女はまだ何か言いたげな瞳で男を見つめていた。


「なんだ?言いたいことがあるなら、言えよ。

 お前が部屋に行かねば、俺はいつまでも戻れん」

 紅天狗がそう言うと、女は躊躇いがちに口を開いた。


「あの…申し訳ございませんでした。

 笛を吹くようになってから…以前のようには…紅天狗様が来てくださらなくなりましたので…」


「妖怪共が騒がしいからな。

 俺は、殺しに行かねばならない。

 飯なら、ちゃんと渡してるだろう?

 何か不満があるのか?」

 紅天狗がそう言うと、女の頬は少し赤くなった。


「いえ…不満などありません。とても親切にしていただいて…本当に…嬉しいです。ありがとうございます。

 ただ…今日こそは来てくださるかと思い…ずっと待っておりました。

 笛の音に気づいた紅天狗様が…来てくださらないかと…」

 女が小さな声でそう言うと、紅天狗は女の顔をまじまじと見つめた。頬を染める女が言わんとしていることを分からないほど、女を知らぬ男でもなかった。


「すまん…わるかった」 

 男はそう言うと、女の隣にまた腰を下ろした。


「待ってたのか…俺が来るのを」

 紅天狗がそう言うと、女はコクリと頷いた。

 女は男の視線を感じると、自らの言葉の意味を今になって理解したのか、袖で顔を隠した。

 紅天狗はそんな女を黙ったまま見つめていた。風が静かに袖を揺らし、陶器のような白い肌が見え隠れした。


 ただ静かに時が流れ、空にはいつの間にか月が見えるようになった。


「困ったな…。

 だから…近づかぬようにしていたのに…」

 と、紅天狗が小さな声で呟いた。女が袖を下ろし顔を出すと、紅天狗は頬についた血を袖で拭った。


「見ろ。月が輝き出したぞ」

 紅天狗がそう言うと、女はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、輝く月の光が映った。


「本当に…美しい月でございます。

 月の光は穏やかで…優しい。

 また…こうして…ここで…月を見とうございます」


「この山は、異界と繋がっている。

 結界門の僅かな隙間をすり抜けた呪詛が、夜になれば色濃くなる。あの時にはいった亀裂だ。俺には、なおせん。

 漂うニオイが濃くなれば、呪詛もまた強力となる。

 俺が側にいなければ、お前はすぐに捕らえられる。あの夜のようにな。

 だから、部屋の窓から月を見ろ。窓から見える月も、十分に美しい」

 紅天狗は空に輝く月を見上げながら言った。


「部屋ならば…安全ということですか?」


「そうだ。生い茂る木々の葉が、そこにいる者を妖怪の目から隠し、建物自体にも俺の力が働いている。

 部屋の窓からでも、月が見れる。はめ殺しの窓だ。奴等には決して開けることが出来ん。

 そこから月を眺めておけ。

 さぁ、部屋に戻れ」

 紅天狗がそう言うと、女の口が微かに動いた。女は慌てて口元をしなやかな手で隠したが、男は見逃さなかった。


「なんだ?

 気持ちを汲んでくれとか、そんな面倒くさいことは俺には出来んぞ」


「あの…では…紅天狗様も…ご一緒に…」


「俺と?」

 紅天狗はびっくりして、女を見つめた。


「その…部屋の窓から1人で見るのではなく…今宵のように…こうして…紅天狗様と…月が見たいのでございます」

 女が真っ赤な顔をしながら小さな小さな声で言うと、男は笑い声を上げた。


「血にまみれた俺が怖いと震えていながら、俺と共に月を見たいということか?」

 紅天狗がそう言うと、女の顔はさらに真っ赤になった。


「人間の女が天狗を誘うとはな…これは面白い。ならば付き合ってやろう。毎夜は出来ぬが、異界に行かぬ時ならいいだろう。だが、ここで俺を待つな。

 俺がお前を迎えに行く。20時までに俺が姿を見せなければ、もう寝てろ。

 それに…そう緊張するな。もっと楽にしてろ。

 いいな?」

 紅天狗がそう言うと、真っ赤な顔をしたまま女はコクリと頷いた。それから言葉を交わすことはなかったが、女が夜風で体を震わせるまで共に月を眺めていたのだった。



 その言葉通り、紅天狗は異界に行かない夜は、女が待つ部屋に度々迎えに行くようになった。迎えに行くとはいっても襖の向こうから声をかけて女を待ち、部屋の中までは入ろうとはしなかった。

 男は女の歩幅に合わせながら月を見る為に軒下へと向かい、共に月を見ながら語り合い、笛の音に耳を傾けるのであった。


 そんなある夜のことであった。軒下で、共に半月を見ていた女が口を開いた。


「紅天狗様、今宵の半月も…本当に綺麗です。

 ただ…半月を見ていると…いろんな事を考えてしまいます。見えなくなった半分の月を思うと…悲しい気持ちにもなるのです」


「何を考えるんだ?」

 と、紅天狗は言った。


「ここから見ることができない月は、今、何を思っているのだろう…何を見ているのだろうか…と。

 新月ともなれば、もうその目にも映ることはない。もうわたくしを見ようともなさらずに…手の届かないところにいってしまったのだろうと…怖くなります。

 その光が…いつか…わたくしに向けられなくなると思うと悲しくて堪らない。

 そんな風に考えてしまうほどに…この場所から見る月は…あまりにも綺麗なのです」

 女の瞳には銀色に輝く半月が映り、紅天狗は黙ったまま女の横顔を見つめていた。月の光に照らされながら物憂げな表情を浮かべる女もまた美しかった。

 女は恥ずかしそうに笑うと、紅天狗の方を向いて微笑んだ。


「あぁ…たしかに…綺麗だな」

 紅天狗もまた女を見つめながら言った。


「紅天狗様?」


「いや…何でもない。

 今宵も…綺麗な月だな」

 紅天狗は言葉を濁すと、女の手元にある笛を指差した。


「笛を吹いてくれないか?

 今宵はまだ…お前が奏でる笛を聞いていない。

 月の形は変えることは出来ぬが、空にあり続け、お前のことを見続けている。夜を重ねれば、また満月になるだろう。

 そう…次の満月の夜も…こうして…お前の笛を聞きながら共に眺められるように」

 紅天狗がそう言うと、女は微笑みを浮かべた。


 女は笛を口元に寄せ、目を閉じると、笛を吹き始めた。今宵の笛の音は、全てを包み込む優しい風のようだった。荒々しい男をも優しく包み込むと、男は心地よい気持ちになり、目を閉じて笛の音が止まるまで耳を傾け続けた。


「あぁ…いい音色だ。その笛をとても大事にしているようだが、誰かの贈り物か?」

 紅天狗がそう言うと、女は優しく笛を撫でた。


「ありがとうございます。

 この笛は貰ったものではなく…外を歩いていた時に井戸の側で偶然見つけました。何日も放置されていたことと、その井戸は、わたくししか使いませんので…持ち帰ることにしました。

 笛など吹いたこともなかったのに、笛の名手のように美しい音色を奏でることが出来ました。

 本当に嬉しくて…いつも笛を吹くようになりました。

 そうしているうちに…いつも一緒にいてくれる…わたくしの友達のような存在となりました。

 それに嬉しいことに、友達が、あらたな友達を連れてきてくれました。笛の音が、沢山の鴉達を連れてきてくれたのです。鴉達はとても嬉しそうに笛を聞いてくれるので、わたくしも嬉しくなります」

 女はそう言うと、木々の枝にとまっている鴉達を見渡した。


「鴉でも、かまわんか?」

 紅天狗がそう言うと、女はキョトンとした顔をした。


「はい。もちろんです。

 それに時折、わたくしの笛の音に合わせるように踊ったり声を出したりもしてくれます」

 女が嬉しそうに答えると、紅天狗はその笑顔をしばらく見つめてから美しい布をそっと手渡した。


 女が布を受け取ると、何か固いものが包まれているような感触がした。布を広げると、女は驚いた目で男を見つめた。布の中には、赤い花の美しい髪飾りが入っていたのだった。


「まぁ、きれい。

 これを…わたくしに?」


「そうだ。お前にだ。

 あの夜、お前がつけていた髪飾りを壊してしまったからな。

 つけてみろ」

 と、紅天狗は言った。


 壊れた豪華な髪飾りとは違い、一輪の花であったが、椿を思わせる上品さがあった。女は流れるような美しい髪を束ねて刺すと、心から嬉しそうに笑ったのだった。


「紅天狗様、ありがとうございます」

 その女の表情を見た男は思わず手を伸ばしそうになったが、ぐっと堪えると女の髪を飾る赤い花に優しく触れた。


「思った通りだ。お前に、似合うよ。

 綺麗だ。

 新しい着物と帯も用意した。それを着ている姿も…俺に見せてくれないか?」

 男は女をまっすぐに見ながらそう言った。

 女はその言葉を聞くと、その髪飾りのように頬を赤らめながらコクリと頷いたのだった。



 それから紅天狗は月が昇る前にも姿を見せるようになり、2人で過ごす時間はますます増えていった。軒下で女が笛を吹いている時に現れて隣に座ると、そのまま月が昇っていくのを2人で眺めることもあった。


 女は男に笑顔を見せ、男もまたぎこちない微笑みを浮かべるようになった。

 やがて女の目に映る男が「天狗」ではなくなると、女は声を上げて笑うようになった。

 男もまた口には出さずとも、そんな女の嬉しそうな顔を見るのが楽しみになっていた。女の笑顔と笛の音が、男に穏やかさをもたらしていき、妖怪を斬り殺すだけの荒々しい日々を送ってきた男の心に変化をもたらしていくのだった。


 ある日、女は笛を吹き終わると膝の上に笛を吹いて、風に吹かれている男の横顔を見つめた。男は女の方を向くと、自分が選んだ着物と簪をつけている女を見て嬉しそうに微笑んだ。


「綺麗だ。よく似合っている」

 紅天狗がそう言うと、簪の藤の花がサラサラと揺れ動いた。


 共に時を過ごし、軒下に座って微笑み合う男女の姿を、夜空に浮かぶ月は優しく照らし続けたのだった。




 そうして数週間が経った、ある夜のことであった。

 2人は軒下で共に食事をとるようになっていたのだが、以前から女は誰が食事を作っているのだろうかと不思議に思っていた。

 食事の彩りは美しく、体に染み渡る温かさもあり、手間暇をかけて作られたように思えてならなかったが、紅天狗は異界と山を忙しく往復していて、そのような時間はないように思えた。

 山には他に誰かがいるような気配はなかったが、女は少し緊張しながら口を開いた。


「紅天狗様、この食事は誰が作っているのですか?」

 

「誰って…?俺だよ。

 不味かったか?」

 と、紅天狗は言った。


「え?紅天狗様が、食事を…」

 女がそう言うと、紅天狗は不思議そうな顔で女を見た。


「食事ぐらい作れるだろう?

 お前の口に合わないのなら、味付けをかえるが…」


「いえ…そうではありません。

 あの…もしよろしければ…わたくしが作りましょうか?」

 女はおずおずと言った。その目には、紅天狗から贈られた着物の柄の青い花が映っていた。その花の凛とした美しさが、女に勇気を与えたのかもしれない。


「あ?なんでだ?

 俺は、俺が、食いたいものを作っている。

 それなのに、なぜお前が作る?」


「ずっと…客人のように…何もしないのが…申し訳なくて…。

 何もかもをしていただいていますので…わたくしも何かしたいのです。

 料理は…自信があります。洗濯も…身の回りの事でしたら…出来ます。あの…得意です」

 女がそう言うと、紅天狗は静かに箸を置いた。


「俺は、そんな事は望まない。

 人間の世界では、男は女にソレを望むのか?」

 紅天狗はそう言うと、女の顔を見た。その眼差しに以前のような鋭さを感じると、女は怖くなった。


「人間の世界ではソレが必要とされるのかは知らんが、幸せになりたいのならば、身の回りの事が得意などと男に言わぬことだ。

 ソレを望むような男の側にいても幸せにはなれない。

 自らの事をやりたくないから、家庭的な女が好みだと言って、女に押し付けようとしているだけにしか俺には聞こえない。最初はいいかもしれぬが、いつかは夢から醒める。夢から醒めれば、現実が待っている。委ねてしまえば、自らの時間だけでなく、やがては全てを奪われるぞ」


「でも…わたくしは…」

 と、女は顔を赤らめながら言った。


「でも?なんだ?

 天狗という男にあったのならば、そう言えと吹き込まれたか?」

 紅天狗が低い声で尋ねると、女はビクリと震えた。


「無理にそんな事はせずとも、すきなだけここにいればいい。

 俺は、お前の言葉が、聞きたいだけだ」

 紅天狗がそう言うと、女は黙り込んだ。


 紅天狗は女のその横顔を見つめていた。

 女が「誰か」から吹き込まれた事を言うのもするのも、男は気に入らなかった。ただ…女の望むように生きて欲しいと思っているだけだったが、天狗は言葉なぞ選べなかった。


「すまん…少々言い過ぎたか。それを、否定したわけではない。

 俺は誰かと共に過ごしたことはないから、人間のそういう気持ちが分からんだけだ。

 それに俺は…お前にそんな事をさせようと思って、側においているんじゃない。自分の事は、自分でやる。

 だからお前も、お前が望む事をするんだ。

 全てを委ねるな。選択する力は、持ち続けろ」

 紅天狗はそう言うと、赤焼けに染まる空を見上げた。赤い空には黒い鴉がウヨウヨと飛んでいる。

 鴉と友と過ごし、一夜限りの関係を結ぶことは多々あったが、男はあまりに長い間ひとりで全てをなしてきた。あの夜に触れた風呂敷に包まれたモノから伝わる人間の醜悪さを思い出すと、男はまたもや苛立ちを感じるようになった。女から多くの自由を奪ったのだと思うと、漂うニオイが鼻につくようになった。


 男が眉間に皺を寄せていると、女はもう一度青い花を瞳に映してから顔を上げ、ゆっくりと口を開いた。

 

「無理に…ではありません。言われたかも…しれません。けれど、言われたから口にしたのでは…ありません。

 わたくしも…何かしたいと思ったのです。

 ここで笛を吹いているだけではなく。 

 紅天狗様と助け合いながら、日々の生活を送れるのなら、わたくしも嬉しいと思ったからです」

 と、女は言った。体は震え瞳には不安の色が残っていたが、真っ直ぐに紅天狗を見つめていた。


 助け合うなど、知らない。

 超えた力をもつ天狗には必要ないだろう。

 だが目の前の女となら「助け合い」ながら過ごす日々を、紅天狗は感じてみたくなった。

 口にした言葉は女の心から出た言葉であったので、1人で生きてきた天狗の心にも届いたのだった。


「分かった。お前が心から言ってくれた言葉ならば、俺は喜んで受け取ろう。

 明日、台所に案内しよう。食材は自由に使ってくれ。

 ありがとな」

 紅天狗は女の瞳を見ながら言うと、女の瞳からようやく不安の色が消えていった。


「何かお好きな物がありましたら…仰って下さい。

 心を込めて作ります」

 女が微笑みを浮かべながら言うと、男はその笑顔を心から大切に思うようになった。


「お前が料理をしてくれるのならば、俺も何か礼をせねばならんな。何か欲しいものはあるか?」

 紅天狗がそう言うと、女は静かに首を横に振った。


「着物も帯も簪も、沢山いただきました。

 これ以上…欲しいものはありません。

 わたくしは、とても幸せです」

 女は幸せそうに微笑みながら言った。


 女にとって、ここで過ごす時間の多くは穏やかであった。

 緑豊かな自然は美しく、心のままに笛を吐き、紅天狗と鴉達と過ごす時間は幸せだった。悪意に満ちた心無い言葉で苦しめられることもなく、体を凍りつかせるような嫌な視線に怯えることもない。

 村にいた頃の悲しい記憶が次々と蘇ると、女の口元から微笑みがみるみる消えていった。


「わたくしは…いま…本当に幸せです。

 紅天狗様に大切にしていただいて…紅天狗様の側にいさせていただいて…本当に幸せなのです。

 いつまでも…ここにいたいです。

 この幸せが…いつまでも…続けばいいなと思います」

 女は夜空に輝く月を見上げながら祈るように言った。

 昔の記憶に囚われた顔は悲しみに満ち、村人の顔が瞳には映っているように思われた。

 美しい黒い瞳から涙が流れ落ちるのではないかと思うと、紅天狗は女を堪らなく抱き締めたくなった。



「あぁ、続くさ。

 だから俺を見ろ。お前の瞳に映るのは、俺だけでいい。

 お前は俺の側で幸せを感じてくれているんだろう?お前は俺のことだけを見ていればいい。

 他の事は、何も考えるな」

 紅天狗がそう言うと、女は驚いた顔で紅天狗を見た。そのような言葉をかけられるなど、女は全く予期していなかった。


「紅天狗…さま…?」

 と、女は男の名を口にした。


「もっとお前の為に何かしたくなる。

 お前の喜ぶ顔が見たくなる。

 欲しい物がないのならば、お前の願いでもいい。

 俺に出来ることならば叶えてやる。

 何でもいい、言ってくれ」 

 男が情熱的な声で女の瞳を真っ直ぐに見ながら言うと、女はドクンと心臓が高鳴るのを感じた。


 銀色の瞳に飲み込まれそうになった女は慌てて目を逸らし、着物に描かれた青い花である桔梗を見つめた。


「わたくしは…花が好きです。

 その中でも…桔梗が…一番好きです。

 もう一度…美しい桔梗の花を見てみたい」

 女は少し恥ずかしそうに笑ってから、また言葉を続けた。


「もしも願いが叶うのなら、桔梗のような凛とした美しい花に…なりたいです」

 女がそう言うと、紅天狗は困った顔で腕組みをした。


「花になりたい…か。

 願いを叶えてやるといったが、それは難しいな。

 俺はお前を花にする気はない。花になったら、お前とこうして話が出来なくなる。

 お前の声が聞こえなくなる」

 紅天狗は女を真っ直ぐ見つめながら言うと、女は降り注ぐ言葉に頬を赤らめるばかりだった。


「そうだな…。

 ならばお前のことを、桔梗と呼ぼう。

 ずっと名前で呼びたいと思っていた。

 お前ではなく、お前の名ではな。

 お前のことを「桔梗」と呼ばせてくれないか?」

 紅天狗がそう言うと、女は頬を赤く染めながら嬉しそうな顔をみせた。


「紅天狗様がわたくしを桔梗と呼んでくださるのであれば、これほど嬉しいことはありません」

 女は微笑みを浮かべたが、次の瞬間には少し表情を曇らせた。


「どうした?」

 紅天狗がそう言うと、女はもじもじしながら答えた。


「他の女性にも…こうやって…優しくされているのですか?こうして…名前をつけておられるのですか…?」


「嫌か?」

 紅天狗がそう言うと、女はコクリと頷いた。


「いや、お前が初めてだ。

 そして、最初で最後にしよう。

 お前が嫌に感じる事は、俺はやらない」

 紅天狗は真っ直ぐな瞳でそう言ったが、その口元には笑みが浮かんでいった。


「はじめて嫉妬の感情をみせたな。

 嬉しいぞ」

 と、紅天狗は言った。


「いじわるでございます…紅天狗様」

 女がそう言うと、紅天狗は愉快そうに笑った。


 女が着物の袖で真っ赤になった顔を隠すと、男はまた女を腕の中で抱き締めたくなった。腕を伸ばして抱き締めようとしたが、触れる寸前でピタリと止めた。

 男の手が空中で彷徨っていると、女は不思議そうな顔で紅天狗を見た。


「どうされましたか?紅天狗様」

 と、女は言った。


 紅天狗は引っ込みのつかなくなった手を見つめてから、女を見つめた。美しい長い髪が風に吹かれて、艶やかに揺れている。自分を見つめる女の瞳は美しく、男はゆっくりと口を開いた。


「お前に触れても良いか?」


 柔らかな風が吹き、赤く染まった女の頬を優しく撫でた。


「は…い…」

 と、女は小さな声で答えた。

 男は女の言葉を聞くと、そよぐ髪にそっと触れた。柔らかな感触は心地よく、緊張した女の顔を見ながら頭を優しく撫でた。


「紅天狗様…それでは…子供のようです…」

 女はそう言ったが、その声はどこか嬉しそうでもあった。


「ならば、もっと触れてもいいということか?」

 男が熱のこもった瞳で見つめると、女はその言葉の意味を悟り「あっ…」と小さな声を漏らしたが、女もまた濡れた瞳で男を見つめた。

 

「は…い、紅天狗様。

 でも…その…いえ…なんでもございません」

 女がそう言うと、紅天狗は頭を撫でていた手を下ろしていき細い首筋に触れながら顔をゆっくりと近づけていった。

 

 唇が触れ合いそうになった瞬間、男は女の瞳を見つめ、その瞳にまだ怯えがあることを悟ると、柔らかな髪と艶やかな耳元に顔を寄せていった。


「なんだ?言えよ」

 と、男は女の耳元で囁いた。


「は…い。

 あの…ずっと…こうやって優しくされたかったのです」


「そうか…なら…良かった」

 男がそう囁くと、女は白い息を吐いた。


「わたくしは…何の為に生まれてきたのか…ずっと…分かりませんでした。誰の目にも触れることなく誰にも必要とされずに死んでいくのではないかと考えたこともありました。

 遠く輝く月を眺めながら…誰かに必要とされ、愛し愛されてみたいと…祈りを捧げていたのです。叶うことのない…祈りを…し続けました。名前を呼ばれながら…頭を撫でられて…その腕の中に包み込まれる夢を何度見たことでしょう」

 女が声を震わせながら言うと、紅天狗は女の背中に腕を回してゆっくりと抱き寄せた。

 

「ならば、俺がそうしよう。この腕の中に何度でも包み込もう。俺に出会い、抱き締められる為の祈りだったのだから。

 俺が、何度でも叶えよう。

 なぁ…そうだろう」

 紅天狗はそう言うと、その腕の中に包み込んだ女の頭を優しく撫でた。

 

 女は一雫の涙を流しながらコクリと頷くと、逞しい男の胸に顔を埋めていった。


「桔梗」

 紅天狗は腕の中にそっと包み込みながら、その名を何度も囁いたのだった。





 

 

 

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