第21話 月夜 桔梗


 それから数ヶ月が過ぎていた。その日は、陽の光に照らされた木々の葉がキラキラと光る日であった。美しい光で溢れ、優しい笛の音が山中に響き渡ると、紅天狗は軒下で笛を吹いている桔梗の前に現れた。


「俺と山を歩いてみないか?」

 紅天狗がそう言うと、桔梗は笛を吹くのをやめた。


「はい。もちろんです。

 散歩なんて…久しぶりです。楽しみです」

 と、桔梗は嬉しそうに笑った。


 本当に久しぶりなのだろう。

「日が昇っている間は、自由に外に出てもいい」と紅天狗は言ったのだが、桔梗はいつも軒下で笛を吹いているか、お堂の前を少し歩くぐらいで、ほとんど縁側に座って過ごしていた。


「そうか。良かった。

 以前は、村のいろんな場所を歩いていたのか?」

 と、紅天狗は言った。


「いえ…あの…散歩といっても…庭ぐらいです。

 庭に咲く花や木々を見るのが…とても好きで…季節の花を見るのを楽しみにしていました」

 桔梗が俯きながら言うと、紅天狗は桔梗の頭をそっと撫でた。


「そうか。花はないが、お前に俺の山を見せたいんだ。

 俺は、桔梗と歩くのが楽しみだ」

 紅天狗がそう言うと、桔梗は顔を上げて笑顔を見せた。


「笛をしまってきます」

 桔梗は立ち上がると、部屋へと戻って行った。


 紅天狗は縁側に座りながら桔梗を待っていた。笛の音を聞いた鴉達は、とても穏やかな目をしているように男の目には映った。


「お待たせいたしました」

 そう言って桔梗が現れると、その髪は紅天狗が贈った鼈甲の簪で綺麗に束ねられていた。束ねられた髪を飾る簪は、陽の光のように輝いていた。


「綺麗だよ」

 紅天狗がそう言うと、桔梗は恥ずかしそうに笑ったのだった。


 眩しい太陽の光は木々の緑をより鮮やかにし、美しい青い空が木々の隙間から見えていた。吹く風は穏やかで踏みしめる草の感触は柔らかく、紅天狗と話をしながら歩く道を桔梗は辛く感じることはなかった。

 紅天狗は桔梗に合わせるように歩き、その後ろ姿を鴉達は静かに見守っていた。

 目に映る景色はどれも素晴らしく、桔梗は心から散歩を楽しんでいたのだが、ふと紅天狗に目を向けた。真っ直ぐに前を見つめる銀色の瞳は、何処かを目指しているようだった。


「どちらに向かわれるのですか?」

 と、桔梗は言った。


「見せておきたいと思ってな。

 お前が歩いた道と、俺が歩く道の両方をな」

 と、紅天狗は言った。


 しばらく歩き続けてから細長い木の橋を渡ると、桔梗の背丈よりも随分と高い草が鬱蒼と生えている場所へと辿り着いた。桔梗一人では道を引き返していたところだが、紅天狗は真っ直ぐに進んで行った。すると草の方が音もなく道を開けていき、緑のトンネルとなったのだった。

 緑のトンネルは芳しい香りが漂い、隙間からこぼれ落ちてくる光で溢れ金色に輝き出した。言葉では言い尽くせない光で満ち溢れていった。心に抱く不安すらも忘れさせてしまうような幻想的な空間に、桔梗は感嘆の声を上げたのだった。


 光に満ちた美しい緑のトンネルを抜けると、石畳の道となっていた。石畳の道では、紅天狗の下駄の音が大きく聞こえるようになった。桔梗は下を見ながら慎重に歩いていたのだがコツコツという音が止まると、目の前には闇の入り口のような黒い門が佇んでいた。

 夜であれば月明かりがあったとしても、その存在に気付くことは難しいだろう。黒い門の周りには石垣が城壁のように連なっていて、垂れ下がるような木々も立っていた。ボウボウとした草も生えていて、木と草が襲いかかってくるような恐ろしさがあった。


「なんだか…とても…怖いです」

 と、桔梗は小さな声で言った。


「大丈夫だ。

 天狗にとっての悪でなければ死ぬことはない」

 と、紅天狗は言った。


 桔梗の透き通るような黒い瞳は大きく見開かれていき、体はガタガタと震え出した。


「俺は桔梗を守りたい。

 その思いは、日に日に強くなるばかりだ。

 だから、見せたかったんだ。

 お前が、どういう場所にいるのかを。

 それから…話をしようと思っていた」

 紅天狗はそう言うと、桔梗の頬に優しく触れた。自分だけを見つめさせ、その黒い瞳に他のものが映らなくなると、紅天狗は重々しい口調で口を開いた。


「そうだ…結界門の向こうにいる妖怪の話だ。知りたいだろう?」

 と、紅天狗は言った。


 桔梗は真っ青な顔をしながら紅天狗を見つめた。

 隠し通せるものではないと思っていたが、もうすっかり見抜かれているのかもしれない。この日々を失ってしまうと思うと怖くなったが、紅天狗は桔梗に優しく微笑みかけた。

 

「妖怪が山を下りるのは、俺が扇を掲げる「その時」だけでなければならぬ。

 あの満月の夜に桔梗を襲ったのは、結界門の僅かな隙間を通り抜けた呪詛だ。呪詛は空気と混ざり合い山の中を漂っているが、太陽が出ている間はソレは力を持たない。なぜなら陽の光の下を、奴等は闊歩してはならない。

 だが日が沈めば、ソレが動き出す。『人間を食いたい』という呪詛が強く働き、この山にいる人間を捕えようとする。あらゆる者に寄生して、人間を殺そうとするだろう。血肉を食らうことが出来ないとしても、ソレを感じることが出来れば奴等は興奮し力をますますつけていく。

 しかし呪詛ではなく、結界門を何らかの方法で通り抜けた妖怪がいるとしよう。結界橋を渡り、山を下りるつもりだから、大軍を率いて侵攻する。

 そうなれば、この山を守る俺は、妖怪が山から下りるのを何としても防がねばならない。

 だが、俺はいつも山にいるとは限らない。だから、さまざまな砦がある。この黒門も、そうだ。

 山を下りる道は、一つしかない。必ず、この黒門を通らねばならない。

 この黒門に来るまでに半数は死んでいるだろうが、この黒門一帯には俺の妖術がかかっている。石垣が飛び出して妖怪を踏み潰し、木々と草が伸びて妖怪を絞め殺す。妖怪が黒門に触れれば、触れた妖怪は燃え上がり真っ黒な灰となっていく」

 紅天狗はそう言うと、黒門の扉に触れた。桔梗もその扉に目を向けると、その瞳に映るのは黒一色となった。


 黒門が地響きのような音を上げながら開くと、眩しい光が一気に射し込んできて、桔梗は目が眩んで何も見えなくなった。さらに吹き込んできた風で足元がふらついたが、それは一瞬だった。


「桔梗、足元に気をつけろ。

 ゆっくり歩くんだ」

 と、紅天狗は桔梗を見ながら言った。

 

 地面の砂利は、黒い色をしていた。

 結界門を通り抜けた妖怪が今までいたのかは分からないが、黒門に手を触れた妖怪が燃え上がり、その黒い灰が蓄積していった色かもしれないと思うと恐ろしくなった。

 桔梗はおずおずと足を踏み出した。恐ろしい妖怪であれ死の灰を踏みつけにしていると思うと、足が上手く動かなくなった。黒い灰が足にまとわりついてくる恐ろしい幻を見たが、地響きのような音を上げて黒門が閉まると、幻も消えていった。


「風も、そうだ。

 天狗にとっての悪であれば吹き飛ばされる。

 そう…それ以外にも…悪い事を考えていたり、天狗を騙そうとしたり、その力を利用しようとする者もな。

 山から下りる者、山に入ろうとする者の両方を裁くんだ。

 俺がどれほど思い入れをしていようが、風はその者を簡単に攫っていくだろう」

 紅天狗はそう言うと、怯えた顔をしている桔梗の少し乱れた黒い髪を撫で付けた。


「そう…風に巻かれて、この階段を真っ逆さまに転げ落ちていくことになる。それは、一瞬だ」

 と、紅天狗は言った。


 桔梗が目を下に向けると、そこには数百段もあるような長い階段があった。風で巻かれなくても足が少しでもよろめいたら、コロコロと転がり落ちてしまうだろう。

 桔梗が少し足を動かすと、足に当たった丸い石がコロコロと転がっていった。嫌な音を上げながら転がっていき、やがて粉々になり、その破片は風に攫われていった。

 

 あの満月の夜、桔梗は紅天狗に抱きかかえられたまま目を閉じていたので、このような長い階段を上っていたとは夢にも思わなかった。男の腕の中はゆりかごを感じさせるほどに穏やかだったので、桔梗は下を見ながら驚くばかりだった。


「道は、まだまだ続く。

 歩き続けるか?戻るか?」

 と、紅天狗は言った。


 歩む道は、普通の道ではない。少し怖く感じたが、桔梗は顔を上げると、紅天狗の瞳をしばらく見つめてから強い眼差しを向けた。


「歩き続けます。1人では不安ですが、紅天狗様と一緒ならば…どこまでも」

 桔梗がそう言うと、紅天狗は愉快そうに笑った。


「それでこそ、今日まで待った意味がある。

 桔梗、俺と共に」 

 紅天狗はそう言うと、手を差し出した。桔梗は紅天狗の手を握るだけで不安が和らいでいくのを感じた。


「行こう」

 と、紅天狗は言った。


 桔梗は紅天狗の手を握りながら、階段を一歩一歩ゆっくりと下りて行った。途中、紅天狗は一言も話さなかった。階段を下りることに意識を集中させ、その一歩一歩を強く感じさせようとしているかのようだった。最後の一段を下りると、桔梗は紅天狗の手を両手で包み込んだ。


「ありがとうございます、紅天狗様」

 桔梗がそう言うと、紅天狗はその柔らかな手に口付けをした。


「あっ、あの…」

 桔梗が慌てふためくと、紅天狗は大きな声を上げながら笑ったのだった。


 すると紅天狗の笑い声に合わせるように、鴉達の鳴き声が上がった。桔梗がその声のする方に目を向けると、朱色の門が立っているのが見え、そこには数羽の鴉達がとまっていた。

 鴉達は2人の姿を見つめていたのだが、一羽一羽と飛び去っていった。


「門が…沢山あるのですね」

 と、桔梗は小さな声で言った。


「あぁ。黒門だけで全てが終わればいいが、そうもいかない。妖怪という化け物は平気な顔で誰かを踏みつけにする。

 黒門で死ぬのは、門を開けろと命令された者達だ。後ろにいる強者は、安全な場所でソレを見ている。

 門を開ける同胞が苦しもうが泣き叫ぼうが、胸を痛めることは決してない。死んでいく姿を、ニヤニヤしながら見て楽しんでいるだけだ。

 朱色の門にも、妖術を施している。ここでも多くの妖怪が死んでいくだろう」

 と、紅天狗は言った。


 紅天狗が朱色の門を押すと、また大きな音を立てながら門が開いた。桔梗は門を見上げながらゆっくりと通ったのだが、朱が血のようにポタポタと落ちてくる恐ろしい幻を見た。その色があまりに毒毒しく、紅天狗の頬についた妖怪の血を思い出したからなのかもしれない。

 桔梗の目には門を通ろうとした妖怪が流した血、そのものの色をしているように思えた。全身に寒気を感じ、耳元で聞こえる風の音が悲鳴のように聞こえると、思わず両手で耳を塞いだのだった。

 紅天狗が朱色の門を閉めると、桔梗はドクドクと鳴る心臓に手を当てながら息を吐いたのだった。


 真っ赤な階段を下りて、ゆるやかな坂道をしばらく下りて行くと、やがて大きく曲がった。曲がりくねる坂道をトコトコと下りて行くと、今度は大きな松の木が立っているのが見えた。

 その松の木の下までやって来ると、あまりの荘厳さに桔梗は立ち止まり息を呑みながら見つめていた。

 幹囲は3メートルほどあり傘状に枝を広げ、松の葉は青い空に映える美しい緑色をしていたが、風でも吹くと針のような葉が飛んでくるような鋭さもあった。


「この松の木にも…何か…秘密があるのでしょうか?」

 と、桔梗は言った。


「あぁ、あるさ」

 紅天狗が右手を上げると、松の枝葉が黒く変わっていった。


「この山に誰かが入ってくれば、松の枝葉が黒く変わる。

 その者がヨカラヌモノを抱えているものならば、枝葉が針となって体中に突き刺さる。

 朱色の門を通過した妖怪が、この松の木の前を通る時には、松の枝葉が奴等に突き刺さるだろう。その体がどれほど強くとも、枝葉を弾き飛ばすことは出来ない。

 それでも奴等は針が刺さった者達を盾のようにして走り続ける。同胞だろうが何だろうが、自分以外の命などどうとも思っていないような連中だ。

 この松の木の前を通り過ぎれば使い捨ての駒のように、針が刺さった死骸を放り投げていくさ」

 紅天狗がそう言うと、桔梗は真っ青な顔になった。


「桔梗、怖いか?」

 

「は…い。妖怪が…恐ろしくてなりません」

 桔梗がそう言うと、紅天狗は小さく笑った。紅天狗が右手を下ろすと、松の枝葉はまた美しい緑色に戻っていった。


「妖怪とはな、そんなもんだ。自分以外の者を踏みつけにしながら生きているんだから。

 欲望のままに生きる、本当にどうしようもない連中だよ。

 そうやって今まで生きてきたのだから、奴等にはそもそも罪の意識がない。弱い奴が、悪い。その程度にしか、思っていないさ。そう…それこそが、妖怪だ。

 俺は、そんな妖怪を逃しはしない。

 この先では、さらなる罰が待っている。ここで死んでおいた方が良かったと…思うほどにな」

 紅天狗はそう言うと、針のような松の枝葉をじっと見つめたのだった。

 

 それからまた坂道を下りて行くと、道は狭くなり立派な杉の木が両側に立ち並んでいるのが見えた。

 杉の木の道を歩くと身に迫ってくるような迫力を感じたが、高く聳え立つ杉の木の隙間からは神々しい光が射し込んで、道をキラキラと明るく照らしていた。踊るような美しい光の筋の道を桔梗は目を輝かせながら歩いたが、道の途中で突然立ち止まると、ゆっくりと深呼吸をした。


「紅天狗様、この道は清らかな空気で満ちています。射す光が…あまりに美しいからでしょうか。

 わたくしには翼は生えていませんが、この光に導かれるように空へと飛んでいけそうです」

 桔梗はそう言うと、両手を空に向かって掲げてみせた。


「黒い門と朱色の門は本当に恐ろしかったのに…それすらも忘れてしまいそうです。あまりにも美しいので…ここまで来て良かったと心から思えました。

 はじめて来たというのに…この道がとても好きになりました。神の力のようなものを感じるからでしょうか。

 見るほどに…射す光が七色に輝いているように見えます。幹に触れてもよろしいでしょうか?」

 桔梗は少し興奮しながら言った。


 紅天狗が頷くと、桔梗は杉の木へと静かに近づいて行き、幹にそっと手を触れてから瞳を閉じた。

 木と太陽の光が混ざり合った香りは心を癒し、幹に触れた手の平から生命の鼓動を感じると、桔梗は幹に顔を寄せていった。


「こうしているだけで…わたくしも…杉の木のように永い時を生きられる…夢を見ることが出来ました。

 それはとても穏やかで、満ち足りた…幸せな時間なのです」

 桔梗は幹からそっと離れると、香りと鼓動が残り続ける手を胸の前で握り締めた。

 瞳をゆっくりと開けて、眩しい杉の木を仰ぎ見てから視線を地面に向けると、桔梗はしゃがみ込んだ。


「まぁ…こんなところに…」

 と、桔梗は嬉しそうな声を上げた。


 その瞳に映ったのは、可愛らしい小さな花だった。一輪だけではあったがピンク色の優しい色は、彼女に笑顔をもたらしたのだった。

 紅天狗も一輪の花を見た。確かに綺麗だとは思ったが、花を見てそれほど笑顔になる理由はよく分からなかった。


「思い出深い花なのか?」

 と、紅天狗は言った。


「ここに来る前は笛を吹いているか、庭に咲いている花を座って眺めるだけの日々でした。花を見ることで…四季を感じていました。

 この花は、わたくしの好きなコスモスに似ています。

 こんなに小さいのに、一生懸命に咲いている。それを見てわたくしも…勇気づけられたのです。

 花を贈ってもらうことが…わたくしの…夢でした」

 桔梗は遠い目をしながらポツリポツリと語ってから、ゆっくりと立ち上がった。


「紅天狗様、ありがとうございます。

 ここに来て…本当に良かったです」

 桔梗が微笑みかけると、紅天狗は黙ったままその花をしばらく眺めていた。


 それからも杉の木が聳え立つ坂道を下り続けたが、狭かった道は少しずつ広くなっていった。木々の隙間から降り注ぐ光だけしか目に入らなかったのだが、突然前方に翼を生やした何者かが光の中で浮かんでいるのが見えた。


「紅天狗様、あれは…何でしょうか?

 何かが…浮かんでいるようです」

 と、桔梗は不安そうな声を出した。


「もう少し近づけば分かるさ」

 と、紅天狗は言った。


 その者に近づいて行くほどに、空から降り注いでいる光がだんだんと薄くなり、はっきりと見えるようになった。

 翼を生やした者は浮かんでいるのではなく、大きな岩にのっていたのだった。その者は背中を向けていたのだが、地響きを立てながらこちらを向き、力強い手に握る棍棒をグルングルンと動かした。

 それは、大きな岩の上に立つ像であった。

 鴉のような嘴をもち、大きな翼を広げながら、山伏の格好で棍棒を持つ天狗の像であった。

 太い眉のしたのギョロギョロとした厳しい瞳が、こちらを見据えていた。さらに天狗の像の後ろに見える杉の木は、数多の血を浴びたかのような赤茶色をしていた。

 その色は、朱色の門を思い出させた。ここで残りの妖怪が死んだのではないか思うと、桔梗は体の力が抜けてその場にペタリと座り込んだ。


「桔梗、大丈夫か?」

 紅天狗はそう言って、手を差し伸べた。桔梗は震えながら紅天狗の手を掴んだが、こちらを見据える天狗の瞳があまりに恐ろしかったからか腰が抜けたようだった。


「桔梗、すまんな。

 しっかり、つかまってろ」

 紅天狗はそう言うと、桔梗を軽々と抱きかかえた。


「ありがとう…ございます。

 あの…像が動きました。棍棒も…動いたように見えました。この像にも…妖術が施されているのでしょうか?」

 と、桔梗が震えた声で言った。


「あぁ、俺の妖術を施している。棍棒が動いたのは、俺に挨拶したからだろう。

 杉の木には神の力が宿っていて、奴等は近づくことも出来ないから、木々の間をすり抜けることは不可能だ。

 さらに杉の木の隙間から射す光は特別なものだ。桔梗が感じたように…な。邪悪な者やヨカラヌモノを抱く者は、あの光には耐えられん。光を浴びた奴等は、干からびて死んでいく。後ろを走る妖怪は、その死骸すらも利用するだろう。死骸を笠のように被りながら、坂道を下りて行く。

 やっとの思いで、ここに辿り着くのだが、辿り着いた先には天狗の像が待ち構えている。

 妖怪やヨカラヌモノを抱く者を見つけた天狗の像は、この大きな岩から降りるだろう。奴等を、殺す為に」

 紅天狗がそう言うと、陽の光を浴びた天狗の像が光り輝いた。光を浴びた天狗の像は、さらに大きく見えた。


「この天狗の像は、俺そのものだ。刀こそ握っていないが、棍棒を持たせている。

 この像が暴れ回るから、道を少し広くしたんだ。

 刀で斬り殺すように、棍棒で殴り殺していく。殴られた妖怪は、炎に巻かれながら死んでいく。

 俺が刀で斬り殺す時のように、何も残すことはないだろう」

 と、紅天狗は低い声で言った。


「何も…残さないのですか…。それほどまでに…紅天狗様の炎は強烈であると…。

 人間は死んでも…骨や灰が残ると聞いたことがあります。妖怪は…ちがうのですか…」


「俺の炎は、生きている」

 紅天狗はそう言うと、怯え切った桔梗を見つめた。


「その者が、生きた証を残してはならない。

 天狗に斬られる者は、その身に深い罪があるものだ。

 死んで焼かれれば灰となるが、灰のいくつかは風にのり、空へと昇っていく。空へと昇れば、また新たな者へと生まれ変わり、命を繋いでいく。

 しかし俺が斬る者には、次の命を与えてはならない。散々、多くの者を苦しめたんだ。地獄の炎に焼かれ悶え苦しみながら、何も残すことなく地へと堕ちねばならない。

 深い深い闇の中で永遠に焼かれ続け、飢えと渇きに苦しみ続けなければならない」

 紅天狗はそう言うと、腕の中にいる桔梗を見下ろした。


「妖怪だけとは限らんさ。

 俺は、人間も、殺すからな」

 紅天狗がそう言うと、桔梗の瞳には恐れの色が浮かび、その瞳を逸らしたのだった。


「妖怪が1匹でも山を降りれば、ソレは俺の負けだ。俺は、俺が守らねばならない領域を守れなかった。

 そうなれば…どうなるか…それは俺にも分からない」

 と、紅天狗は言った。


 木の葉がヒラヒラと舞い落ちてきて、地面にぽっかりとあいた穴の中に落ちていった。

 その穴は底なしで、深い深い闇へと続いているようだった。


 桔梗は真っ青な顔をしながら紅天狗の腕の中で小さくなっていたが、体を震わせるとコホコホと咳をし始めた。


「大丈夫か?少し無理をさせたか。

 戻ろうか?」

 紅天狗がそう言うと、桔梗は顔を上げた。


「いえ、大丈夫…です。すぐに…止まります。この山に来るまでは…わたくしは…いつもこうでした。

 山の空気は澄んでいるので…しばらく咳が出ていなかっただけでしょう。

 紅天狗様と山を歩くのは…わたくしは…とても楽しいのです。また…杉の木の道を歩くことが出来たら…嬉しいです。

 それに…もっと…紅天狗様のことが知りたいです。

 もう少し…歩き続けたい。

 わたくしは…まだ…大丈夫です」

 桔梗はそう言うと、紅天狗に向かって微笑んでみせた。とても大丈夫には見えなかったが、桔梗の意思もまた強いようであった。



「そうか。ならば、異界へと繋がる道を見せたい。 

 今度は、俺が歩く道だ。

 ここまで歩いてくれたのだから、もう十分だ。あの満月の夜のように…こうして案内しよう」

 紅天狗が桔梗を抱きかかえたまま言うと、桔梗は顔を赤らめながらコクリと頷いた。


 紅天狗は腕の中で小さくなっている桔梗の顔を見つめた。男が微笑みかけると、桔梗もまた微笑み返した。

 逞しい胸に顔を近づけると、その鼓動を感じるかのように桔梗は瞳を閉じたのだった。

 

 紅天狗は桔梗を抱きかかえたまま坂道を駆け上がって行った。神々しい陽の光を感じ、門が開く音と、階段を駆け上がる軽快な音がした。

 石畳を走る下駄の音を聞く頃には、桔梗の咳は止まっていた。


 桔梗は爽やかな風と木々の香りを紅天狗の腕の中で感じていたのだが、そよぐ風の音と光の温かさを感じなくなると、ゆっくりと目を開けた。

 緑の木々は姿を消していて、黒い木々が鬱蒼と生えている場所に着いていた。

 目に映る葉はギザギザとした黒い刃のようで、妙な動きでもしようものならナイフのように飛んでくるような凄みがあった。山の奥から風が吹いてくると、黒い木の葉がことごとく揺れ動いて、ガサガサと音を立てた。四方八方から黒い葉が音を立てるので、何処にも逃げ場はないように思えた。


「紅天狗様…葉の色が変わりました。

 どうしたというのでしょうか?

 まるで…こちらに向かって…飛んでくるかのようです」

 桔梗は紅天狗の襟元をキュッと掴みながら、小さな声で言った。


「あぁ、そうだな。

 この黒い葉も、松の枝葉のように妖怪に突き刺さる。俺の妖術だ。そして、この先の窪地には水たまりがある。妖怪を捕える為のな」

 紅天狗はそう言うと、また歩き出した。


 黒い木々の群れを通り抜けると窪地へと着いたが、紅天狗は窪地の中までは入ろうとはしなかった。昨日は晴れていたというのに、窪地にはいくつかの水たまりが出来ていた。


「ここが…その場所なのですね。 

 紅天狗様…あの…結界門を何らかの方法で通り抜けた妖怪は…今までいたのでしょうか?

 わたくしが感じた妖怪の死は…真実だったのでしょうか?」

 と、桔梗は言った。


「ソレについては、答えられない。

 桔梗が感じたのならばいたのかもしれないし、それとも幻だったのかもしれない」

 紅天狗はゾッとするような笑みを浮かべながら言った。


「この先には、異界がある。まだまだ先は長いがな。

 しかし、ここまでにしておこう。

 これ以上知る必要はないし、これ以上異界に近づいてはならない。

 この水を、超えてはならないんだ」

 と、紅天狗は言った。


 陽の光を浴びて水たまりはキラキラと輝いていたが、その水からはとても恐ろしい力を感じた。紅天狗の炎のように水も生きていて、妖怪を地の底へと引き摺り込むかのようだった。

 今まで見たどの砦よりも、この水を恐ろしく感じたのだった。水たまりから運良く抜け出たとしても、水は妖怪の足に絡みつき、何処にいるのかを知らせる道標となるのだろう。

 ソレを殺そうと、地の底まで、天狗は追いかけるのだから。

 たしかに…ここに…足を踏み入れてはならないような気がしたのだった。


「俺は、桔梗を守りたい。

 守る為には、俺を信用して欲しい。

 だから、桔梗にこの山を見せたかったんだ」

 紅天狗がそう言うと、桔梗は紅天狗を見つめた。桔梗の唇が微かに震えた。


「この山には、結界門の隙間を通り抜けた妖術が漂っている。

 奴等は、ここに桔梗がいることを感じているだろう。俺が大切に思っている女がいることを。

 そして、俺はルールを守らねばならない」 

 と、紅天狗は言った。


 紅天狗は全てを知りながら、自分をここにおいているのだと桔梗は悟った。

 紅天狗は青い顔をしている桔梗に微笑みかけてから水たまりに背を向けると、桔梗を抱きかかえたまま静かにお堂へと戻って行った。




 それから共に軒下で過ごしていたのだが、桔梗は夜空に満月が輝き出すと静かに口を開いた。


「紅天狗様…空を飛ぶとはどのような気持ちなのでしょうか?きっと素敵なのでしょうね。どこまでも続く青い空に、煌めく星空。

 わたくしに翼があれば、今日の散歩のように、紅天狗様と一緒に空を飛ぶことが出来るのに。

 そうすれば、あの光に…手が届くのでしょうか?」


「なら、俺と空を飛んでみるか?」

 紅天狗がそう言うと、桔梗は少し躊躇ってからコクリと頷いた。


「それ、癖なのか?」

 紅天狗がそう言うと、桔梗は不思議そうな目を向けた。


「そのコクリとやるやつだよ」

 と、紅天狗は言った。


「そう…なのかも…しれません。気がつきませんでした。

 わたくしの癖は…嫌でしょうか…?」


「可愛いよ。俺は、その癖好きだ。

 いや…桔梗だからこそ…可愛く見えるのかもしれんな」

 紅天狗が可愛いと繰り返すと、桔梗の頬が真っ赤に染まっていった。


「あまり…子供扱いなさらないでください。わたくしは…大人の女でございます」

 と、桔梗は言った。


「あぁ…そうだな。可愛いとは、失礼だな。

 そう…お前は、大人の女だ。この腕で抱き締め、誰にも渡したくないと思うほどにな」

 紅天狗がそう言うと、桔梗は驚いた目で男を見つめた。

 男は真っ直ぐな目で、女を見つめていた。愛しい女にだけ向ける優しい微笑みを浮かべてから、ゆっくりと立ち上がった。


 紅天狗は大きな翼を広げてから、座っている桔梗に手を差し出した。

 

「桔梗」

 紅天狗は低い声で、その名を呼んだ。


 桔梗は差し出された大きな手を握ると、緊張した面持ちで紅天狗を見つめた。


「体を寄せろ。左手は、俺の背中にでも回しておけ」

 紅天狗がそう言うと、桔梗はそっと男の背中に手を回した。

 

 紅天狗もまた柳腰を片腕で抱き寄せると、桔梗の体はすっぽりと包み込まれた。男の体は力強く、夜風の冷たささえ感じなくなった。柔らかい自分の体にはない男の逞しさに胸が高鳴った。

 その音を紅天狗に聞かれたのではないかと思うと、桔梗はふと顔を上げた。男の瞳は、自分を見下ろしていた。その眼差しは、桔梗を安心させるかのように穏やかだった。

 翼さえなければ、人間の男と変わらない。胸の奥が、ザワザワと揺れ動いた。


「いくぞ」

 と、紅天狗は言った。


 風が巻きおこり、地面からゆっくりと足が離れていくと、桔梗は男の腕の中でビクリと体を震わせた。


「怖いか?」


「いいえ…大丈夫です」

 桔梗は腕の中で小さくなりながらもそう答えた。


「そうか。ならば、もっと上昇する。

 しっかり掴まってろ」

 と、紅天狗は言った。


 桔梗は自らの心臓の音が聞こえそうなほどに緊張していたが、男の腕の力を感じると不思議と安心することも出来た。

 ゆっくりと顔を上げると、木々よりも高くなっていて空を飛ぶ鴉の姿が目に入った。星が煌めく空にどんどん近づき、何も遮るものがない世界で満月の光を感じるようになった。

 その光は、あまりにも美しい。

 夢を見る少女のような目で月と星の煌めきを見ていたのだが、桔梗は突然目を閉じて下を向いたのだった。


「どうした?大丈夫か?

 もう少ししたら、慣れるさ」

 と、紅天狗は言った。


「少し…怖くなりました。

 いつか慣れるといいのですが…空を飛ぶのは素敵ですが、わたくしは地に足をつけていないと緊張するようです。

 せっかく空を飛べたのに嬉しいというよりも、恐ろしいという気持ちが大きくなってしまいました」


「大丈夫だ。

 俺は、桔梗を離しはしない」

 紅天狗がそう言うと、桔梗は紅天狗の背中に回していた手に力を込めた。


「ありがとうございます。紅天狗様がこうして守ってくださるので、叫び出さずにすみます。

 あの…月の光が…あまりに美しいので…わたくしは…恐ろしくなったのかもしれません。月は全てを見ていて…知っているからでしょうか。 

 わたくしは…なのに、月の光に魅せられて…幸せになる夢を…見てしまうのです」

 桔梗はひどく混乱した声でそう言うと、逞しい胸に顔を埋めていった。


「桔梗、少し休もう」

 と、紅天狗は言った。


 紅天狗は大きな木の太い枝に腰掛け、桔梗を膝の上で横抱きにして座らせた。


「枝に座らせてもいいが、強い風でも吹いたら落ちてしまう。このほうが、安全だ。

 ここなら、満月もよく見える。空を飛んでいるような気にもなれるだろう。嫌なら降りるが、どうだ?」

 紅天狗がそう言うと、桔梗は首を横に振った。


「もう少し…このままで…。

 紅天狗様…ありがとうございました。とても、楽しかったです」

 桔梗がそう言うと、紅天狗は桔梗の顔を見つめながら頬に触れた。


「あっ…」

 と、桔梗はたまらずに声を漏らした。

 男に口付けをされると思ったのだが、男は月の光に照らされた女の美しい顔を見つめるだけだった。


 あまりに見つめられるので桔梗は恥ずかしくなり、空に浮かぶ満月に目を向けた。


「月の光が…紅天狗様を照らしています。そう…あの夜…初めて紅天狗様にお会いした時も、このような満月でした。

 あの時、わたくしを見つけていただいて、ありがとうございました。

 今宵の満月も、とても美しく輝いています」

 桔梗は美しい声でそう言ったが、紅天狗は何も言わなかった。


「紅天狗様?」

 桔梗は不思議そうな顔で、自分を見つめている紅天狗を見た。


「今宵の月の輝きは、たしかに美しい。

 けれど桔梗の美しさの前には、月の光でさえ霞んでしまう。

 俺が見るお前の輝きは増していくばかりだ。

 桔梗、綺麗だよ」

 と、紅天狗は言った。

 初めて二人を出逢わせた満月の光の下、腕の中にいる女を見つめるその瞳には情熱の色が灯っていた。


「桔梗、何の為に生まれてきたのか分からないと言っていたな。

 その答えを、教えてやろう。

 お前は幸せになる為に生まれてきたんだ。お前が俺といることで幸せを感じてくれているのなら、ずっと俺の側で幸せを感じていればいい。

 俺が桔梗を幸せにしてやる。絶対に離さんぞ」

 紅天狗は桔梗を愛おしそうに見ながら言うと、長くて美しい髪に触れた。その髪には自分が選んだ髪飾りが飾られていて、着物も紅天狗が選んだものであった。


 夜の冷たい風が吹き出すと、立派な両翼で桔梗の体を優しく包み込んだ。

 このまま全てが、自分の色で染まってしまえばいい。

 願わくば、以前の暮らしの何もかもを忘れられるほどに、身体の奥まで染め上げたいと思った。


「桔梗、愛してるよ」

 紅天狗がそう言うと、桔梗は驚いた顔で男を見た。


「俺達を引き合わせた満月の光の下で誓おう。

 俺は桔梗を愛している。

 これからも、この先も、永遠にな。

 桔梗、愛しているよ」 

 紅天狗がそう言うと、桔梗は目を潤ませた。

 自らに愛を誓った男の言葉と真っ直ぐに見つめてくる瞳は、真実の光に照らされているのだから。


「桔梗…いいか?」

 紅天狗はそう言うと、そっと桔梗の唇をなぞった。


 桔梗は頬を染め上げながらコクリと頷くと、紅天狗は柔らかい頬にそっと触れた。女の目には男しか映らない。男もまたそうであった。

 桔梗が目を閉じると、紅天狗はゆっくりと唇を重ね合わせた。溶けてしまいそうなほどの感覚を味わいながら、男は女を強く抱き締めて、互いの熱を長い時をかけて感じ合った。

 そっと唇を離すと、男は何度も情熱的な言葉を女の耳元で囁いた。耳や頬にもキスをすると、冷たくなった肌に熱がともり赤く赤く染まっていく。

 男が低い声で愛を囁く度に、女はその強い思いを感じるのだった。時折、自分に向けられる獣欲に満ちた瞳もたまらない。

 女の情熱にも火をつけるような男の熱を感じながら、逞しい腕に包まれていた。頭の芯まで惚けさせるような快感に体がぞくぞくと痺れていくと、桔梗も吐息を漏らしながら男の首筋に手を回していた。


 離れることを忘れたかのように長い間口付けを交わしていたが、紅天狗は唇をそっと離した。

 惚けたような目をした女の頭を撫でると、何度も名前を呼びながら抱き締め続けた。

 このままでは自制がきかなくなりそうだった。

 愛しい女にする口付けは、この身を焦がすほどに体を熱くさせる。全てを賭けてもいいほどに、何もかもを注ぎ込みたい。


 心から、たった一人だけでいいと思えた。


 一方、桔梗はすっかり無防備となり、我慢している男の気持ちも知らず、自らの柔らかい身体を寄せていくのだった。

 紅天狗は満月の光に照らされながら「愛してる」と囁いたが、山奥から異様な音が聞こえてくると、桔梗を抱きかかえたまま静かに地面へと降りた。

 桔梗を部屋へと送り襖を静かに閉めると、紅天狗は異様な音のする異界へと迎って行ったのだった。






 朝日が昇ると、今までのように時間は穏やかに流れていったが、一つ変わったことがあった。

 天気の良い日は、紅天狗と桔梗は手を取り合って山の中を歩くようになっていた。黒門と朱色の門を通って坂道を下り、松の木を過ぎて杉の木を見に行くのだった。杉の木から降り注ぐ光を見るのを、桔梗はとても楽しみにするようになり、白い肌にもほんのりと赤みがさしていくようになった。


「他にもいろんな場所を見てみたい」と口にするようにもなると、紅天狗は桔梗と共に山を下りて、美しい景色を見に行くようになった。羽織で翼を隠し、髪と瞳の色を隠すために笠を被ると、背は高すぎるが人間の男とそう変わらなかった。

 花が綺麗に咲いている場所を見つけると、桔梗はとても嬉しそうな顔をした。

 すると紅天狗も幸せな気持ちになった。桔梗の幸せが、自分の幸せにもなるということに驚かずにはいられなかった。


 時に、人間の子供とすれ違うこともあった。

 人懐っこい子供が桔梗に話しかけると、桔梗も笑顔で言葉を交わし、紅天狗はその様子を黙って見つめていた。

 子供は大男にはじめは驚いていたが桔梗に向けるのと同じ笑顔を向けると、紅天狗もぎこちない笑顔を浮かべるのであった。

 人間を殺しに行くことは何度もあったが、人間と普通に触れ合うことなど、桔梗がいなければ決して経験することはなかっただろう。

 薄汚い人間ばかりを刀で斬ってきた。天狗が姿を見せれば恐れ慄くか、その力を利用せんとして媚びへつらう者ばかりだった。

 紅天狗は目の前にいる子供の無邪気な笑顔に驚くばかりだった。


 桔梗が過ごす日々は明るいものへと変わっていったが、それは紅天狗も同じだった。紅天狗の笑顔は日に日に明るくなっていき、初めからそうであったかのように眩しい笑顔となったのだった。

 それは全て、桔梗という名の人間が、天狗に与えたものであった。



 そうして桔梗は特別な存在になっていき、笛を吹き終えて夕陽を眺めながら軒下で座っている姿を見ると、紅天狗は堪らなくなって後ろから抱き締めた。

  

「どうしたのですか?紅天狗様?」

 桔梗は少し驚いた声を出した。その腕の力はいつもとは違って強くて、少し痛いぐらいだった。


「夕日に照らされた桔梗が、あまりにも美しくてな。 

 そのような姿を他の男に見られて攫われぬように、俺の腕の中に包んでおかねばならないと思ったんだ。

 後ろ姿も美しいな、桔梗」

 紅天狗はそう言うと、優美な首筋に顔を埋めた。男の息遣いを感じると、桔梗は小さく声を漏らした。


 もう何度美しいと言われたのか分からない。

 桔梗はそう言われるたびに、空に広がる夕焼けのように頬を赤く染めるのだった。


「ここには…紅天狗様と鴉達しかおりませぬ。他の男など…どこにもおりませぬよ。そのような事を毎日口にされては…あまりに幸せなので…怖くなります。

 攫われるのではなく…ある日突然…幸せな夢から覚めてしまうような気がします。それに…」

 桔梗はその先の言葉を言おうとしたが、それ以上は言わさぬとばかりに紅天狗は口付けをした。


「そのような事を言ってしまうのは、お前が愛しくて堪らないからだ。言わせてくれ。何度口にしても足りないぐらいだ。

 ひどく嫉妬深く、独占欲の強い男になってしまったな。

 どれほど桔梗を愛しく思っているのか、毎日口にしても伝え切れない」

 紅天狗はそう言うと、真っ赤になっている桔梗の隣に座った。


「あまり上手くは出来なかったけれど…な。

 桔梗の夢を叶えれば、俺の想いがより伝わるのではないかと…思ったんだ」

 紅天狗は照れたような顔をしながら、赤とピンクと白のコスモスで溢れた花束を差し出した。

 ひどく不恰好で茎の長さもまちまちだったが、不器用ながらも愛しい女に捧げる気持ちそのものが込められていた。


「花言葉など俺には分からないが、美しい色を選んでみたよ。

 桔梗、受け取ってくれないか?」

 紅天狗は優しい微笑みを浮かべながら言った。


「は…い。もちろんですわ、紅天狗様。

 ありがとうございます」 

 桔梗は満面の笑みを浮かべながら花束を受け取ると、その溢れんばかりの想いが込められた花束を見つめた。


「桔梗が好きな杉の木の道に、コスモスを咲かせたんだ。

 早咲き…だがな。

 これから忙しくなるから、もう山から下りて花を見に行けなくなるだろう」

 紅天狗がそう言うと、桔梗は不思議そうな顔で紅天狗を見た。


「今まで使ったことのない術だったから、なかなか上手くいかなくて時間がかかってしまった。

 明日にでも、一緒に見に行こう。美しい色のコスモスで溢れている。

 コスモスの季節が終われば、また別の花を咲かせよう。

 桔梗の好きな美しい花を、これからは…いつでも山で見れるように」

 紅天狗がそう言うと、桔梗は微笑みを浮かべた。


「コスモスの散歩道ですね。とても綺麗でしょう。

 明日が楽しみです。

 ありがとうございます…どのように御礼をしたらいいのか分かりません」

 桔梗は嬉しそうにそう言うと、コスモスの香りと男の想いを感じようとするかのように花束を柔らかな胸に抱き寄せた。



「桔梗の喜ぶ顔が、俺を幸せにさせる。 

 これ以上はないほどの礼をしてもらったよ」

 紅天狗は白のコスモスを取ると、愛しい女の髪に飾った。


「こうしてみるのも綺麗だな」

 紅天狗が目を細めると、桔梗も赤のコスモスを取って紅天狗の着物につけた。


「紅天狗様のものでございます」  

 桔梗はそう言うと、初めて自分の方から口づけをした。

 柔らかな女の唇が男の唇と重なり、夕焼けに照らされながらお互いの感情は溶け合っていった。

 男は愛しい女を離すまいと両腕の中に包み込み、優しく抱き締めた。


「俺がお前を幸せにしてやる。

 お前はただ俺の腕の中で幸せを感じていればいい」

 紅天狗がそう言うと、桔梗も逞しい背中に腕を回してぎゅっと強く抱き締めた。


「愛してる。

 お前と出逢えて、本当に良かった。

 お前が側にいてくれるだけで、俺は幸せだ」

 紅天狗は愛する女の耳元で何度も囁いたのだった。


 

 

 

 

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天狗の盃 大林 朔也 @penpen2017

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