第19話 友と 



 しとしとと降り続く雪が止んでから、僕達は異界を後にした。松の木の下で目を覚ますと、太陽が燦々と輝き、美しい青い空が広がっていた。

 体に触れる草の感触は心地よく、背中から感じる土の感触が「帰ってきた」ことを実感させてくれた。


 流れていく雲を見ていると、雲を追うように飛ぶ鴉が目に入った。

(黒い鴉にしか見えないが、恐るべき力を持っているのだろう。

 あの鴉は、いつか雲をも掴むのだろう)

 そんな事を考えているうちに体が温かくなってきて、立ち上がって動き出せるほどに体力が回復したのだった。


 紅天狗は僕に合わせるように、ゆっくりと歩いてくれた。

 陽の光を浴びてキラキラと輝く滝が見えてくると、重かった足が少し軽く感じるようになった。滝の裏側へと入って行くと、体にまとわりついている血を洗い流そうとするかのように飛沫がかかってきた。

 血のニオイが薄れていくと、吸い込んだ煙を吐き出すように大きく息を吐いた。体の中に溜まっていた、いやなモノも薄らいでいくようだった。

 立ち止まって手の平を見つめると、無数の線にこびりついている血すらも洗い落とすように滝の水がかかってくる。やがて手の平の水が溢れかえって腕を伝っていき、切られた傷口へと染み込んでいった。痛みはなかった。むしろザラザラした舌の嫌な感触が消えていくようだった。

 その傷口を見ていると、この体に流れる血を思わずにはいられなかった。


「この体には…白の陰陽師の血が…流れている」

 僕はそう口にすると、紅天狗の顔をじっと見た。


「そうだ」

 紅天狗もまた僕に目を注いだ。

 銀色の瞳が目の前の人間の男を飲み込むように大きくなると、僕の体が痙攣し心臓がドクンと震えた。


 長い長い沈黙の後に、紅天狗は口を開いた。

 

「その血が、流れている。 

 だが、お前は白の陰陽師ではない。

 お前は、刈谷昌景だ」

 と、紅天狗は言った。


 僕は右手をギュッと握り締めると、この山で過ごした日々を思いながら口を開いた。


「この瞬間を生きるのが、精一杯だった。

 いつだってそうだった。ソコにあるものについて、僕は深く考えようとはしないんだろう。

 何の関係もないのに、僕達一族の中から選ばれるはずなんてないんだ。

 全てに、理由があるんだ。

 偶然なんて…そうあることじゃない。

 紅天狗は何度も…言動には責任が伴うと言ってくれていたのに」

 僕がそう言うと、紅天狗は僕の頭をクシャクシャと撫でた。


「訳の分からん無茶苦茶な異界で妖怪と懸命に戦い続け、自らの考えを持つようになり、主張できるようになった。

 それはな、深く考えるようになったということだ。

 なぁ?そうだろう?

 そうして、お前は答えに辿り着いたんだ」


「そう…なのかな。そうであってくれたら…嬉しい。

 あの鎌鼬は…どこまで知っていたのだろう?

 僕達一族は…あの…当主は…深く話してくれなかったけれど、全てを知っていたのかな?」

 僕は心に重くのしかかっていた問いを発した。鎌鼬は死に、異界から離れても、発せられた言葉は生き続けていた。


「さぁな。

 知っていなくても、実際に見聞きしたように話すことが出来る連中なんて、幾らでもいる。話を大きく捻じ曲げて、相手を陥れようとする連中もな、幾らでもいる。

 俺が知っているのは、あの鎌鼬は白の陰陽師を見たことなどない。それだけだ。

 誰が何を言おうとも、お前は自らの決めた事をやるだけだ」

 と、紅天狗は言った。

 その銀色の瞳には、よく見ていないと分からないぐらいの凄まじい光が走った。当主に対して、烈しい怒りを感じているようにも思えた。これ以上目の前の男に当主の話をすることは恐ろしく思えたが、どうしても確かめておきたいことがあった。


「あの…扇は…11枚の羽で出来ているんだよね?

 11人の人間を殺し終えたら、翼は白くなるって言っていたけど、その中に…当主は入っているのかな?」

 と、僕は言った。


 すると紅天狗がゾッとするような笑みを浮かべたので、僕は雷にでも打たれたような衝撃を受けた。


「そうだ。 

 最後の一人が、一族の当主だ。

 その時の俺は、本来の俺だ。

 天狗が、殺しにいく」

 紅天狗は恐ろしい声で言うと、僕の肩に右手を置いた。その手は重たく、体が地面にめりめりと沈んでいくかのようだった。


「盃で酒を飲まねばならない時が近づいてきたら、俺の翼の羽の色が一枚だけ黒に変わるんだ。

 その羽を、黒羽の矢とする。

 あれは、俺の羽だ」

 紅天狗からは一切の表情が消えた。いつだったか…白の桔梗に触れようとした時と同じ恐ろしさがあった。


「しかし、そうはならない。

 俺に炎の舞を舞わせないんだろう?」

 紅天狗は赤い髪を左手でかき上げてから軽く笑うと、僕の肩に置いていた右手をどけた。


 僕の唇は微かに震えただけで「はい」とは答えずに、コクリと頷くだけで精一杯だった。

 すると流れ落ちる滝の音が大きく耳に聞こえるようになり、滝の音と心臓の音が重なっていくと、真っ二つに切り裂かれた鎌鼬に当主の姿が重なっていった。


 紅天狗は頷いただけの僕の顔をしばらく見ていたが、また口を開いた。


「鎌鼬の領域で、よく戦い抜いた。

 これで…扇を握らずにすみそうだ。

 昌景、鎌鼬の領域で何を思った?」

 紅天狗がそう言うと、僕の脳裏から当主の姿が消えていき雪の山が浮かんできた。

 

「ひどいと…思った。あんな風には…なりたくないと思った。

 あの雪の下には…沢山の鎌鼬や妖怪の死体が埋まっているんだ。あんなに…恐ろしいことをしている妖怪なのに…それでも…ああやって好き勝手に生きている。

 殺した者達が、生き続けている。

 僕は…許せないよ。あんな間違った思想で…区別されることも。あの鎌鼬の頭が…悪いんだろう。頭が…いなくなれば…もしかしたら…よくなるかもしれない…」

 僕はそう言った瞬間、慌てて口を押さえた。どうしてそんな事を言ったのか分からなかった。



「昌景、その考え方は危険だよ。

 それは奴等の頭と、同じ考え方だ。自らにとって要らないのなら排除するというのであればな。

 頭はたしかにクソだが、頭がいなくなったところで、根底が変わらないのであれば、また同じような頭が現れる。

 クルクル回っているだけだ」

 紅天狗がそう言うと、僕は黙り込んだ。僕の目には、男が腰に差している立派な刀が映っていた。


「俺は、天狗だ。 

 神ではない。

 刀を握っているとはいえ、それを振り下ろしていいわけではない。ルールは守らねばならない。

 死の決定を下すことが出来るのは、神だけだ。

 俺は、山の神様の名の下に殺している。

 気に食わない奴を、誰かれ構わず殺しているわけじゃない。

 それをしているのは鬼であり、妖怪だ」

 紅天狗は静かな声で言うと、僕を見下ろした。その言葉を聞いた僕は、自分が少し恐ろしくなった。

 僕は誰かを裁く立場にはない。

 僕は人間であり、誰かの命を奪う権利はないというのに、考えはいつしか安直で恐ろしい方向に傾きつつあった。僕が考えた正義の名の下に、同じ道を辿ろうとしていたのだった。


「妖怪とはな、頭を潰せば、その種は滅んでいく。

 俺は、それをする事が出来る」

 紅天狗はそう言うと、苔むした大きめの石に視線を向けた。そのすぐ側には、小さな石の山があった。行きの時にはなかった石の山だ。いつ出来たのかは分からないが、絶妙なバランスで積み上げられていた。


 苔むした大きめの石の上には、鵺の領域から帰った時と同じように蛙の親子が並んで座っていた。蛙の親子は鳴き声を上げながら、キラキラとした光りを放つ滝を見つめていた。 


 紅天狗は黙ったまま石の山の前でしゃがみ込むと、人差し指を伸ばして真ん中よりも下にある石を押した。

 すると石の山はバランスを崩して、脆くも崩れ落ちていった。

 だが、それだけでは終わらなかった。崩れた石がバラバラと滝壺に落ちていくと驚いたことに地面がグラグラと揺れて、苔むした大きめの石も大きく傾いたのだった。


「あっ!」と僕が声を上げる前に、紅天狗は苔むした大きめの石を掴んでいた。

 蛙の親子は驚き慌てながら、この場所を離れて行った。もう戻って来ることはないだろう。

 僕は胸を撫で下ろしたが、流れる滝は怒りを含んだように荒々しくなった。小さな石は底に沈んでいき、舞い散る木の葉も乱暴に巻き込んでいった。


「俺はな、壊すだけだ。

 その後のことなど、これっぽっちも考えない。

 俺には何の影響もないからだ。

 なぜなら俺は天狗であり、用が済んだら、山へと帰っていく。

 破壊され秩序のない世界に生まれるのは、次なる混沌だけだ。混沌は、何の罪もない者達を飲み込んでいくだろう。

 殺してしまうのは簡単だが、その後はないんだよ。

 あの鎌鼬でさえ、なんらかの役割があり、理由があって、そこにいる。

 そして石の山ですら、絶妙なバランスで出来ている」

 紅天狗はそう言うと、苔むした大きめの石を元のように戻した。

 だが大きくヒビが入り音を立てて粉々になると、次なる小石の山となったのだった。


「あと数年もすれば、鎌鼬はいなくなる。 

 好き勝手に生き、歴史を学ぼうともしない者達は、いずれは滅びいく。

 もう奴等は、そこで生きる資格はない。

 知っているということは、完全に無罪ではないのだから。

 鎌鼬は自らを問い直し、頭を退け、現実をたてなおさなければならなかったのに、それをしなかった。

 上空を飛んでいた様々な色をした鳥達が、鎌鼬にとって変わるだろう。無惨に殺された鎌鼬の死骸を喰らいながら、その力を鳥達は吸収していっているのだから。殺しているつもりだろうが、自らを殺し、破滅の道に進んでいるんだ。

 いずれは鎌以上に嘴が発達していき、あの鳥の中で頭となる者が現れる。そいつが鎌鼬の頭を殺し、鎌鼬は絶滅し、無数の色をした鳥達の新たな領域となる。

 鎌鼬はいなくなり、別の妖怪が住みつくんだ。

 女神の慈悲に気付いていれば、鎌鼬は死に絶えることはなかっただろうな」

 紅天狗はそう言うと、全てを飲み込んだ滝壺を見下ろした。滝壺は白い泡で溢れながら、激しい渦を巻いていた。

 

「神は、何の意味もない命など生み出しはせぬ。

 全ての者に、生まれてきた意味があるのだよ」

 と、紅天狗は低い声で言った。

 

 心の奥底では、あの鎌鼬だけでなく、鎌鼬の頭も殺してくれたらいいのにと思っていたのかもしれない。紅天狗に人間を殺して欲しくはないと言いながら、妖怪ならいくらでも殺していいと。誰も殺さないと言いながら、僕は紅天狗にソレを押し付け、世界を救った気になっていたのだろう。 

 以前は…あんなに紅天狗が妖怪を殺すことを恐れていたのに。

 憎しみと血のニオイはあたまをオカシクさせる。その考えは、すっかり紅天狗に見透かされていたのだろう。


 しょげかえりすっかり丸まっていた僕の背中を紅天狗は軽く叩くと、顔を上げた僕をじっと見た。


「学ばない者は滅んでいく。

 歴史を知らぬ者に、新たな道は開けない。

 そこにあるモノを、簡単に真実とは思ってはいけない。真実とは、力のある者によって、いくらでも塗り替えられる。

 考える力がなければ騙されて現実を見失い、利用され支配されるだけだ。

 力があるのならば、自らの手で変えていけばいい。

 だが力がなければ、変えようとしても食い潰される。綺麗事や正しいだけでは、成し遂げられない。力がないのならば「誰を」動かさねばならないのかを知ることだ。それも、力だ。そして動かす為には、自らが価値のある者だと示さなければならない。

 どうやっても、力がいるんだよ。

 さぁ、帰るか。

 昌景、よく頑張ったな」

 紅天狗はそう言うと、僕の手を掴んで手の平を広げた。

 こびりついていた血が綺麗になったのを確認すると、満足そうに頷いてから歩き出した。


 滝の裏側を出ると、全身が濡れているので風が吹く度に体がブルッと震えた。クネクネとした道を歩きながら、木々の隙間から降り注いでくる光を浴びているうちに服は少しずつ乾いてきたが、柔らかい土が濡れた靴に泥のようにこびりついていった。

 鬱蒼とした黒い木々を抜けると、色鮮やかな紅葉が僕を迎えてくれた。その色鮮やかさは、僕が帰るべきお堂が近づいてきたのだと教えてくれた。

 いつもとは違って青い空には沢山の鴉が飛んでいて、軒下では黒天狗と楓さんが楽しそうに話をしていた。咲き誇る紅葉の中にあっても、楓さんは綺麗で、隣に座る男の黄金色の髪も優雅な輝きを放っていた。2人は、あまりにも美しかった。


 2人の姿が見えると、空を飛んでいた鴉達が舞い降りてきて、紅天狗に羽織を渡した。紅天狗は血に濡れた着物の血を隠そうするかのように羽織を羽織り、頬についた血も拭った。

 黒天狗が僕達の方に顔を向けると、楓さんも僕達が帰ってきたことに気付いて立ち上がってくれた。


「おかえりなさい」

 楓さんは柔らかな微笑みを浮かべながら言った。

 その笑みは、異界で荒廃した心を救ってくれた。柔らかな表情をした誰かが帰りを待ってくれていることが、これほど嬉しいことだとは知らなかった。

 楓さんは何があったか知らないはずがない。

 彼女は異界に行ったことなどないが、異界の恐ろしさをよく知っている。羽織を着たとしても紅天狗の体からは血のニオイがしていて、僕はどこか疲れた表情をしているのだから。

 しかし彼女が柔らかい表情で迎えてくれたことで、ここは僕にとって安心でき守らねばならない場所だと心から思わせてくれたのだった。


「ただいま」

 と、紅天狗は言った。


「ご無事で何よりです、主人様。

 昌景さ…ま…」

 彼女の黒い瞳が、僕の右腕に注がれた。血は滝の水で洗い流されて綺麗になっていたが、鎌で切られた傷はしっかりと残っていた。


「大丈夫だよ。

 ちょっと切られただけだよ。もう痛みはないから」

 僕はそう言ったが、楓さんは心配そうな目で傷口を見つめるばかりだった。


「そうです…か。

 何か出来ると良いのですが…ワタシの妖術で治せたらいいのですが…」

 楓さんが困った顔で言うと、紅天狗が僕の右腕を掴んだ。


「楓が妖術を使えば、傷口を治す前に倒れるぞ。

 これは鎌鼬に切られた傷だ。俺の妖術でなければ治らんさ。

 それに憎しみの念も染み込んでいる。術者が弱ければ、手痛いしっぺ返しをくらうぞ。

 茶でも飲んでから、治すとするか」

 紅天狗はそう言うと、黒天狗の隣にどさりと座り込んだ。


 黒天狗は黙ったままお茶を注ぐと、何も言わずに紅天狗に湯呑みを渡した。


「おぅ、ありがとな」

 と、紅天狗は言った。


 黒天狗は頷くと、もう一つの湯呑みにもお茶を注ぎ、立ったままの僕にも手渡してくれた。


「ありがとう…ございます」

 僕は少し驚きながら受け取った。


 青い瞳が湯呑みを握る僕の右腕の傷口をじっくり見てから、足のつま先まで向けられた。


 僕は途端に気持ちが落ち着かなくなり、その視線から逃れるように紅天狗の隣に座った。心を落ち着かせようとしてお茶を飲むと、冷めてはいたが優しい香りが体の中に広がっていった。青い視線はゾクリとしたが、恐ろしい天狗が淹れてくれたお茶とは到底思えなかった。


 僕がお茶を飲み終えると、紅天狗は右腕の傷口を治してくれた。鵺の時のように綺麗に治っていった。


「ありがとう」

 僕は元通りになった右腕をさすりながら言った。


「どういたしまして。明日は、休みにしよう。黒天狗と話があるからさ。

 おっ、そうだ。忘れるところだった。

 これ、土産だ」

 紅天狗はそう言うと、黒天狗に白い袋を渡した。黒天狗は白い袋の紐を緩めると、中の物を大きな手の平の上に出した。コロコロと転がり出てきたのは、沢山の木の実だった。

 

「この木の実は、どうされるのですか?」

 と、楓さんが言った。


「ある部分をくり抜いてから、木に下げるんだよ。

 数日間太陽の光に当てておけば、独特の臭いを発する。人間にしか分からない臭いだ。

 そうすれば「秘境だ」と言って、勝手に入り込んでくる人間共がいなくなる」

 と、黒天狗は答えた。




 

 その夜、僕はよく眠れなかった。

 灯りをつけたまま天井板を見ていると、這っている蜘蛛が落ちてきた。びっくりして起き上がると、腹の上は降ってきた蜘蛛が流す真っ赤な血で染まっていた。布団も、真っ赤な血で染まっている。

 めくれあがった服から臍が見えると、蜘蛛が臍に顔を突っ込んで体の中に入ろうとしていた。

 声にならない叫び声を上げながら、蜘蛛を掴んで壁に向かって放り投げた。急いで短刀を握り締め、血溜まりの布団から抜け出した。


 だが、全ては、幻だった。

 蜘蛛もいなければ、布団も真っ白で綺麗だった。

 

 僕は背中を壁につけながら、よろよろと崩れ落ちていった。

 鵺の時も、そうだった。

 1人になれば、死が、僕を追いかけてくる。

 荒い息を吐きながら額の汗を拭っていると、床の間に置かれている箱の中から、その存在を知らしめるような奇妙な音が聞こえてきた。その音は様々に変化し、やがては琵琶のようなとても心地よい音色になった。

 僕は夢見心地になり、何もかもを忘れてフラフラと近づいて行った。木箱の蓋を開けて、鈴を取り出したくなったが、黒い霧のようになった掛け軸が目に入ると、僕の手がピタリと止まった。


 目を覚ませとばかりに頬をパンッと叩くと、僕は鈴に背を向けて布団へと戻った。妙な幻を見た布団で寝ることは嫌な感じがしたが、畳の上で寝るわけにもいかない。

 何度か大きく息を吐きながら、心が決まるまで布団の上で座っていた。

「よしっ!」と声を出してから布団の中に入ると、優しげな笛の音が聞こえてきて、僕の恐怖は静まっていった。

 目を閉じて笛の音に一心に耳を傾けていると、僕は夢一つ見ない眠りに落ちていったのだった。



 

 

 次の日、僕は鴉の鳴き声で目を覚ました。

 はめ殺しの窓からは、明るい陽の光が射し込んでいた。大きく伸びをしてから、外に布団を干そうと支度を始めた。

 姿見を見るのを忘れてしまいそうになったが、陽の光で紫色の布が煌めいた。布を取り払って右腕と足首を見ると、傷と紐はなくとも鎌鼬を思い出してしまい、僕はするすると布をかけた。

 自分の全身が映し出されるせいか、嫌でも思い出してしまう。鎌鼬だけでなく、今までに対峙した様々な妖怪とその所業が頭の中を駆け巡っていった。

 気持ちが暗くなってきたので、僕は明るい光を求めるように布団を持って外へと出て行った。


 よく陽の当たる場所を選んで、布団を干した。

 紅葉は今日も美しく咲いていたが、地面には枯れた紅葉の絨毯が出来ていた。それはくすんだ茶色の色をしていた。咲き誇る色と地面に落ちた色は対照的だった。

 僕は紅葉を掃き終えてから、日課となった運動を始めた。日差しを浴びながら体を動かすのは気持ちが良くて、少し気持ちがスッキリすると、軒下に座って燃え上がるような紅葉を眺めることにした。


(この情熱的な紅葉は…いつまで咲き続けるのだろうか?

 落ちた紅葉は、すっかり色を失っている。

 雪が降れば、この景色は一体どうなっていくのだろう…)

 そんな事を考えていると、静かな足音が聞こえてきた。

 

「おはようございます、昌景様」


 声のした方を見ると、そこには楓さんが立っていた。


「おはよう、楓さん」

 僕がそう言うと、楓さんはニコッと微笑んでくれた。

 朝の涼しげな風が濡羽色の髪をそよそよと揺らし、とても綺麗だった。楓さんは僕の右腕をチラリと見てから、両手を僕の前に差し出した。


「あの…御守りです。

 ワタシは異界に行って、一緒に戦ったりすることは出来ません。強力な妖術は体力を消耗するので、ほとんど使えません。

 なので主人様にご相談して、ワタシにも出来る妖術を教えていただき…御守りを作りました。

 昌景様の無事をお祈りしています。

 あの…よろしければ…」

 楓さんは顔を少し赤くしながら言った。


「ありがとう」

 僕は綺麗な赤い布で作られた、首から下げられる御守りを受け取った。それは一生懸命に作られたもので、扇と思われる模様も縫われていた。友を思う温かい気持ちが込められているような気がして、とても嬉しくなった。


 僕は彼女から勇気をもらったことを伝えたくなった。

 あの瞬間、僕は兄と紅天狗、それから楓さんのことを思い、立ち上がることが出来たのだから。


「すごい…嬉しいよ。

 ありがとう。

 あの…、君も…戦ってるから、僕も頑張れる。

 君は黒い翼を掲げることで、戦ってるんだ。戦う場所も相手も違うけど、これからも共に戦い、一緒に頑張ろう」

 僕がそう言うと、楓さんの瞳が明るく輝いた。


「紅葉を見たら…ホッとするね。

 僕は…少し…オカシクなろうとしていたんだ。

 僕は…同じ不道徳な者には堕ちたくない。

 この情熱的な色を見ていると、僕も花も実もある男になりたいと思う。この紅葉を、直視出来なくなるようなことはしたくない。

 また次も…僕として頑張ろうと思えてくるよ」

 僕がそう言うと、彼女は大きく頷いて笑ってくれた。


 楓さんが僕の隣にちょこんと座ると、鴉達が迎えに来るまでいろいろな話をした。頷いたり笑ったりしてくれる横顔を見ていると、僕も幸せな気持ちになっていった。

 紅天狗とはまた違った安らぎが、僕の中で生まれていくようだった。兄と紅天狗は眩しい太陽のようだが、楓さんは何処か近く感じてしまう。守りたい存在でありながら、僕を守ってくれる存在でもあった。


 やがて風の音と共に数羽の鴉がやって来て鳴き声を上げると、楓さんは立ち上がった。僕はもう一度御守りの礼を言い、歩いて行く姿を見送ってから首から下げると、伽羅のような香りがした。

 青い空に大きな鴉となった楓さんの姿を見ると、僕も立ち上がって歩き出した。



 当てもなく歩き続けていると、男達の激しい声が聞こえてきた。その声に引き寄せられるように歩いて行くと、紅天狗と黒天狗が一緒に訓練をしていた。

 紅天狗は刀を抜き、黒天狗は薙刀を振るっていた。

 巨大な杉のような神木は、天狗の力を見下ろし、どちらの力が優っているのかを競わせて愉しんでいるかのようだった。恐ろしい金属音が鳴るたびに、漆黒の葉が笑うように揺れ動き、巨大な影はより一層大きくなっていった。この地を飲み込もうとするかのように、大地は黒く染まっていく。

 鋭い刀が黒天狗の喉元を突き刺そうとし、光る薙刀が紅天狗に振り下ろされそうになった瞬間、漆黒の中から一羽の鴉が姿を現した。面白いものを見せた天狗を褒め称えるかのように鋭い鳴き声を上げると、紅天狗は刀を鞘に納めた。


「よぉ、昌景。

 今の勝負は、どっちが勝ったと思う?」

 

 真剣に訓練をしていたので、僕の存在など気付いていないと思っていた。僕が驚き慌てていると、紅天狗は笑顔を見せた。


「あの…分からない。同時に、見えたから…」

 僕がドギマギしながら言うと、紅天狗は上半身裸のまま僕の方に近づいて来た。

 厚い胸板には汗が滲み、その雫が鍛え抜かれた体の上を流れ落ちていくのを目で追っていると、下腹部の変色がまた目に留まった。近くで見ると、さらに毒々しく、屈強な男の体に深く刻み込まれた強力な呪いのようでもあった。

 黒天狗をチラリと見ると、薙刀を握る太い腕は血管が浮き出ていて、太い首には宝石がついたネックレスを下げていた。腹の筋肉はいくつにも割れていたが、何処にも目立った変色はなかった。天狗特有のものではないようだった。


「ちゃんと眠れたようだな。良かった。

 顔色も、思っていたよりいいな。

 そうだ、昌景。

 今宵も美しい月が見えるだろう。

 夜は少し冷えるが、軒下で酒を飲まないか?」

 紅天狗はそう言うと、黒天狗にも顔を向けた。3人で飲むということだろう。


 僕がいていいのだろうかと少し不安になったが、黒天狗は黙ったまま汗を拭っていた。昨日もあのまま4人で食事をしたし、黒天狗は今回も承知しているということだろう。

 少し緊張はするが断る理由もないので、僕はコクリと頷いた。


「準備が出来たら部屋に行く。肴もたんまり用意するから、晩飯とするか。暖かくして待ってろ」

 紅天狗は嬉しそうな顔で言ったのだった。


 

 それから僕は部屋へと戻ると、はめ殺しの窓から空が徐々に赤く染まっていくのを眺めていた。赤い空を飛ぶ鴉の鳴き声はどこか物悲しく、紅葉が風に吹かれて静かに飛んでいく。その行方を目で追おうとしたが、すぐに遠くへと攫われていった。

 赤い空が少し黒くなると、僕は部屋の明かりをつけて、鞄の中から適当に本を取り出すと「竜と少年の物語」が出てきた。

 内気な少年が勇敢な青年となり伝説の剣を手にして世界を救うのだが、それは自らの命と引き換えだった。持ってきた他の物語とは違い悲しい気持ちになるのに、不思議と何度も読んでしまう。

 畳の上に寝転がりながら読み耽っていると、紅天狗の声が聞こえて襖が開いた。


 はめ殺しの窓から見える空は真っ黒になっていて、とても長い時間が過ぎていた。

 紅天狗は白の羽織を着て、手には笛を持っていた。僕は本を閉じて起き上がると、上着を手にしてから部屋を後にした。


「何を読んでたんだ?」

 と、紅天狗は言った。


 僕は簡単に本の内容を伝えてから、少し間をおいて付け加えた。


「世界を救おうと燃え盛る炎の中に飛び込んだ、あの主人公を思うと悲しい気持ちになるのに、何故か好きで…おいてくる気になれなかったんだ」


 だが紅天狗は何も言うことなく、赤い髪が風で静かに揺れるだけだった。


 黒天狗は既に軒下で月を眺めていた。雲ひとつない夜空に浮かぶのは、弓を張ったような月だった。 

 銀色に輝く月は、今宵も美しい。

 月に照らされた紅葉は、また格別だった。

 色は失いつつあったが、黄色は月の光を吸収したかのように荘厳な輝きを放ち、赤は情熱的で、橙色は寒さを忘れさせてくれるかのような温かい色を発していた。

 この場所で見る月と紅葉は、本当に綺麗だった。


「ほら、昌景」

 紅天狗は立ったまま月に見惚れている僕にそう言った。


 僕が座ると、青い瞳がチラと僕の方を見た。


「あの…こんばんは」

 と、僕は言った。

 何を言っていいのか分からず、咄嗟に出たのがその言葉だった。もっと気の利いた言葉もあったのかもしれないが、黒天狗も低い声で返してくれた。


「美味いぞ、昌景」

 紅天狗はそう言うと、ガラスの酒器を渡してくれた。酒器は月の光を浴びて美しく輝き、注がれた酒に映るのは色鮮やかな紅葉だった。

 風が吹くと品のある香りがして、男を心地よい酔いへと誘ってくれるだろう。さらに揺れる紅葉が、美しい音色を奏でていた。肴として刺身と肉も用意されていて、それらも美しいお皿に盛り付けられていた。


 僕は満たされながら夜空を見上げた。

 宝石のように流れていく星を見ていると夢見心地になり、あらゆる怖さを忘れてしまったのか僕は口を開いた。


「あの…黒天狗さんは…何処からいらしたんですか?」

 

 黒天狗はすぐに答えようとはしなかった。青い瞳は、月に向けられたままだった。

 紅葉の揺れる音が、その問いをかき消してしまったのではないかと思えた頃に、黒天狗は口を開いた。


「さんは、いらぬ。黒天狗で、よい。

 遠いところだ」

 黒天狗は素っ気なく答えた。

 何も答えてくれないのではないかと思っていたので、僕は少し嬉しくなった。


 それから言葉はなく、3人で静かに酒を飲み肴を食しながら、美しい夜空を楽しみ、揺れる紅葉の音に耳を傾けていた。

 満月とはまた違う表情を見せる月の美しさに酔いしれていると、優しい笛の音が葉音に合わさっていった。

 銀色の瞳を閉じて笛を吹く男の横顔は、刀を握る際に見せる荒々しさはなく心を奪われるほどに麗しかった。男が何を思い、毎夜のように笛を吹き、紅葉を咲き誇らせ続けるのか…僕はたまらなく知りたくなった。

 だが、この優しい笛の音を止めることはしたくなかった。瞳を閉じながら隣で奏でられる笛の音に聞き惚れているうちに、僕は眠りに襲われて柱に寄りかかった。


(これは…きっと…夢なのだろう。

 いつものように…布団の中から笛の音を聞いている。

 黒天狗と一緒に酒を飲んでいるなど…あるはずもない)

 僕は深い眠りに落ちていったのだが、心は響き渡る笛の音と月の光に向けられていた。それは男達の話し声が合わさって笛の音のようになったとしても、同じであった。




 青い瞳は笛の音に耳を傾けながら月と色を取り戻した紅葉を見つめていたが、鴉が空を飛び半月を横切っていくと、柱に寄りかかりながら寝ている人間の男を見た。


「この男、眠ったようだな。

 腕は切られ、足にも妙な泥がこびりついていたが、自らの足で歩いて帰ってくるとは思わなかった。

 それに、貴様が刀を渡していたとはな。

 この男は、選ばれし者のみが登れる階段を登った。穢れを洗い流し、自らが歩んできた道を回顧し、何らかの力を得たのではなかったのか?

 何故、刀まで渡した?」

 黒天狗は咎めるような口調で言うと、酒を口に含んだ。


「あぁ。力は得たさ。

 歩んできた道に、相応しい力をな。

 ここで生き抜く為に、本来以上に視覚以外の感覚が発達した。昌景が目を閉じれば、鋭くなる。

 だが、超えた力の代償は大きい」

 紅天狗はそう言うと、笛を膝の上に置いた。


「いつも嫌なことから目を逸らしてきたと、昌景は言っていたよ。

 力は昌景を守るだろうが、音とニオイに過敏に反応し、見つけられやすくもなった。力が倍増したことで、抱く恐怖も大きくなった。

 力を得たといえども、それは弱点にもなってしまった。

 だから刀という道具を与えた。道具は主人が扱うモノだ。昌景が戦わぬのなら、それはなんの意味も持ちはしない。心の臓を握られるようなことは、してないさ。

 昌景は刀を使い、妖怪と懸命に戦っている。その姿は、見ていて楽しい。数週間のうちに、驚くほど成長した」

 紅天狗は酒を口に含むと、自らの羽織を脱いで夜風に吹かれながら柱に寄りかかっている人間の男にかけた。


「そうか。だが、焦りの色が見えているぞ。

 急げ。時間は、もうないのだろう。

 だから、私を呼んだ」

 黒天狗がそう言うと、紅天狗はただ口元に笑みを浮かべるだけだった。

 月の光に照らされて、お堂に覆い被さっている紅葉が輝きを放つと、黒天狗は空っぽになった酒器を置いた。


「貴様は、嘘をつけぬ男だからな。

 異界のものなどでは騙されぬぞ。

 今回ばかりは、高くつくぞ」

 鋭い口調で黒天狗は言うと、自らの手で酒を継ぎ足した。


「ならば、天狗の面といこうではないか」

 紅天狗が空を仰ぎ見ながら言うと、黒天狗の酒を注ぐ手が止まった。


「それほどの覚悟か」


「あぁ、もとよりそのつもりよ。

 盃を取り戻す為に、鬼の領域に連れて行くと決めた時から、その覚悟があってのことよ。

 昌景一人に荷は負わせんさ。

 俺はなんとしても昌景を生きて還す。

 その命と引き換えに世界を救うなど、昌景の読んでいる物語だけで十分だ。 

 昌景には、昌景の物語がある。

 物語は、盃を手にしてからも続いていかねばならん」

 紅天狗が険しい表情で言うと、黒天狗は酒器から溢れそうになるほどに酒を注いだ。


「取り戻す…か。

 鬼も夜毎人間の肉を食らう時を取り戻したいと思っている。

 どちらが、先に取り戻すか。

 私には鬼が一斉に飛びかかり、この男を助けようとして、貴様が扇を掲げる姿しか思い浮かばんぞ」


「ならば、お前に思い描かせるまでよ。

 鬼に、その時はやってこない。永遠にな。

 俺が掲げるのは刀だ。

 次に扇を掲げれば、最後だ。俺は、俺ではなくなる。抑え続けた欲望が爆発するからだ。

 ニオイは濃くなった。一部は、全てになろうとしている。ニオイを発していないのは、ヨチヨチ歩きの幼子ぐらいだ。焼土の地で、幼子だけでは生きられん。

 それはつまり、人間の世界の終わりを意味する

 奴等の狙いは、ソレだ。狙い通りになど、させはせぬ。

 勝つのは、俺でなければならぬ」

 紅天狗は溢れ出そうになっていた友の酒器を手にし、一気に飲み干した。自らの手で酒を注いでから、友にその酒器を渡し、美しく輝く星を眺め始めた。

 その瞳には、きらめく星の光を見ることができた。


「そうか…奴等、喰らうて、そこまでになったか」

 と、黒天狗は低い声で言った。友が注いだ酒を飲むと、銀色の瞳をじっと見つめた。


「俺の羽の色が変わり、俺は黒羽の矢を放った。

 もし俺がいない時に「選ばれし者」が来るようなことがあれば、日が暮れるまでに堂の中に案内するようにと楓に頼んでいた。

『人間を食いたい』と吐き続けた呪詛が、結界門の僅かな隙間を通り、この山にも充満しているからな。漂う空気だ。生きている限り、吸い込み続ける。門を閉じたとしても、それは完全ではない。夜になれば、奴等の力が動き出す。呪詛にかかれば、引き摺り込まれる。

 そうそう…俺は矢を誤って放ったらしい。

 そろそろ俺の中の黒い部分が動き出そうとしているのかもしれん。ニオイのもととなる腐肉を殺すことを、心のどこかでは…望んでいるのかもしれんな」

 紅天狗は小さく笑うと、酒の肴の肉を食らった。


「あれは…今宵と同じような下弦の月の夜だった。

 その時、俺は山の神様に呼ばれていた。

『多くの時を与えたが、なかなか変わらぬな。

 よって鬼にも時を与えた。奪われたものがあるのならば、取り返せ。

 勝った方に、望むものを与えようぞ』

 と、仰った。

 時間は、1時間。

 その時間の間は、黒堂の中でなら「何を」してもいい。それを越えれば、鎖で首を絞め上げられる。神の鎖だ。何者にも引きちぎることは出来ぬ。

 御力で結界門が開かれ、白大蛇様は深い眠りにつかれていた。鬼達は首を鎖に繋がれたまま、別の領域で捕らえた妖怪共を放り投げて次々と結界橋を渡り、黒堂へと辿り着いた。

 棚には神聖なる力が宿り直接触ることが出来ぬから、アノヤロウは配下の鬼を使い棚ごと持って帰った。滅茶苦茶に殺すことで、鬼の血のニオイを充満させていきやがった。鼻がもげるほどのな。

 床も壁も天井も、俺が一枚ずつ磨いて綺麗にしたつもりだったが、板と板との僅かな隙間に土産を置いていきやがった。

 糸のような月の夜に、人間である昌景は黒堂に引き摺り込まれ、楓は吹き飛ばされた。

 アノヤロウ…許さねぇ。

 ここは俺が守らねばならない場所だ。天狗の領域だ。

 俺の山で好き勝手やっていきやがって」

 紅天狗の口調が荒々しくなると、咲き誇る紅葉が揺れる炎のように烈しく揺れ動いた。落ちた紅葉が風で巻き上がると、それは火柱のようだった。

 火柱は怒り狂ったように高くなり、紅天狗が酒を飲むまで爛々と燃え上がり続けた。


「黒は、血を覆い隠す。それ故の黒堂だ。

 鬼は天狗を恐れることはなく、好き勝手にやっていくさ。

 狗もまた主人の手を噛むことは出来ない。首輪をつけられ、背けば簡単に握り潰される」

 黒天狗はそう言うと、自らの厚い胸に右手を置いて何かに触れた。


「山の神様の御考えは、俺には分からぬ。 

 だが俺は、俺の山に、俺に無断で入ったアノヤロウを許すわけにはいかん。

 報復はせねばならぬ。

 首を切り落とすことが許されないのならば、腕か足ぐらいはもぎ取ってくれようぞ。

 さすれば、存分に愉しんでいただけるだろう」


「ならば、もぎ取った部位を結界門にぶら下げておけばいい。鬼頭おにがしらの部位だ。さすれば妖怪共も、大人しくなるだろう。

 で、この男は黒堂に引き摺り込まれて、どうなったのだ?」

 と、黒天狗は言った。


「昌景の右腕に、強烈な血の呪いを施していった。

 アノヤロウの血だ。

 俺が昌景に触れたことで取り除いたが…な。

 あれは恐怖と憎悪の塊だ」

 紅天狗は苦々しげに言った。


「鬼頭の血か…厄介だな。

 それに右腕とはな…鎌鼬に切り付けられたのも右腕だったな。 

 偶然ならばよいが、鬼は異界の頂点に立つ妖怪だ。

 貴様が扇を掲げるのを耐えぬいたとしても、鬼はなんとしても、この男に禁を犯させようとしてくるぞ。

 取り除いたとしても、この男が己に負ければ終わりよ。

 何かのきっかけで思い出し、それと結びつけば動き出す。恐怖とは自らの心から生まれるものだ。あと、いくつの領域を乗り越えれば、恐怖を克服することが出来るのか。

 盃を取り戻さねば終わり、貴様が扇を掲げれば終わり、この男が禁を犯せば終わり。

 なんと終わりの多いことよ。

 そして終わりとは、突然やってくるものだ」

 黒天狗は低い声で言った。酒を一口飲んでから白い息を吐くと、足元に舞い落ちた輝かしい紅葉に目を向けた。


「この男の足にこびりついていた泥はなんだったんだ?

 まるで生きているかのように、執拗な泥であったぞ」

 と、黒天狗は言った。


「異界へと繋がる道で、昌景は結界門をすり抜けた妖怪と妖術を捕らえる為の水たまりにはまった。

 そして水ではなく、泥が足にこびりついた」

 紅天狗の言葉に、黒天狗は顔を顰めた。


「何故、人間の男がはまったのか…もしや…妖怪に魂を食らわれた白の陰陽師の血を引く者だからか…?

 泥ともなれば動きを鈍くさせるだけでなく歩みを困難にさせる。

 あの男に、何があった?」

 と、黒天狗は言った。


「同じだよ。

 根幹は揺るがされ、足元は泥で出来ている。

 昌景を見ようともしない奴等に育てられ、自らの力を信じられぬほどに全てを歪めさせられた。比べられ、苦しめられ、自分はダメだと何度も口にし、下を向いていたよ。

 その大地には、長きに渡り、ひどい雨が降っていたのさ。

 だが雨は必ず上がる。その後は虹が架かり、陽の光が降り注ぐだろう。長い間だったからこそ、綺麗な虹と眩しい光がな。上を向けば、昌景にしか見えぬ美しい空を見ることが出来る。

 父母は敬わなければならないが、アレは親とは呼べん。奴等も息子のことを息子とも思っておらん」

 紅天狗が険しい表情で言うと、目の前の紅葉は烈しく揺れ動いた。辺りの枝にも広がっていき、男の怒りが山中に広がっていくようだった。


「あの人も苦しめられたのは、人間が勝手に作り出した悪しき風習であったな。子は誰しも、神の祝福を受けて生まれてくるというのに。

 この男にも、そのような理由があるのか?」

 黒天狗は深い溜息をついた。


「理由?理由など、ないさ。

 あったとしても、それは理由にはならん。

 奴等の心が腐っているからだ。

 それが、たった一つの理由だろう」

 と、紅天狗は言った。


「自分をダメだというのならば、出来の悪い子供とでも思わされていたということか?」

 黒天狗は自らが作った美しいガラスの酒器を見つめながら言った。


「出来の悪い子供なんていない。子供の可能性を摘む親がいるだけだ」

 紅天狗はそう言うと、美しい酒器を高く掲げて見せた。月の光を浴びたガラスは美しい光に溢れ、見る者を幸せな気持ちにさせた。


「俺は、本来の昌景を取り戻して欲しい。

 いや、なんとしても取り戻させる。

 あんな奴等のクソみたいな言葉と日々に囚われたまま、昌景がこれ以上苦しい思いをする必要はない。

 俺は、昌景に自らの人生を生きて欲しい。

 恐怖にも、終わりがやってくる。

 それも、突然だ」


「貴様は盃を取り戻し、あの男も本来の自分を取り戻すか。

 だが、泥は実に厄介だ。 

 雨が降れば元に戻り、ぐちゃぐちゃになった地を歩むことになる。全てを飲み込み、泥はこねれば人形にもなる。這いあがろうとする男を、羽交締めにするだろう。

 貴様が苦手とする領域に行く時に、ヨコラヌモノを背負わされなければいいがな」

 と、黒天狗は言った。


「大丈夫だ。

 昌景は、自ら光を生み出せるようになった。下を向いていた昌景が、上を見るようになった。俺の目を見て、考えを言えるようになった。飯も、ちゃんと食えている。

 どうだ?そろそろやる気になったか?」

 と、紅天狗は言った。


 黒天狗は呆れたような表情で紅天狗の顔を見ていたが、青い瞳に奇妙な色が走ると背後を振り返り目を細めた。


「それは、これまでの話だ。

 そうそう獲物を逃しはせんぞ」

 黒天狗は友に鋭い視線を向けながら言うと、友の酒器に酒を注いだ。


「おい、やけに否定的だな。

 応援しろよ」


「私は貴様のように楽観的ではない。

 それにな、この堂から恐ろしい力を感じるんだ。

 生い茂る紅葉ですらも一瞬で枯らし、あの男に枯れ葉として覆い被さろうとしている。

 輝いていた紅葉ですら、すっかり色を失ったな。もう、限界が近づいてきている」

 黒天狗は足元の枯れた紅葉を手に取った。


「山の神様の御力だ。 

 異界から何度も戻った勇気を讃えて、昌景に贈り物を下さったのだ。鈴と姿見をな」

 紅天狗はそう言うと、注がれた酒を一気に飲み干した。


「鈴?何の為にだ?」


「盃を取り戻す前に、昌景が「終わり」を選んだ時に鳴らす鈴だ。鈴を持ったまま山を降りれば、昌景に寄ってくる妖怪は祓われる。俺の扇の力も及ばない。

 あらゆる禍を寄せ付けぬだろう」

 と、紅天狗は言った。


 黒天狗は黙ったまま、紅天狗の顔を見つめた。


「いや、昌景は受け取ろうとはしなかった。

 だが、今、昌景の部屋にある」


「そうか。

 そして、姿見か。

 なかなか険しい道だな」

 黒天狗は枯れた紅葉を友の手に渡しながら言った。


 男の手の平の上でクシャクシャになって丸まっていくと、銀色の瞳に悲しみの色が浮かんだ。

 だが丸くなった紅葉は炎のような形になって空高く舞い上がっていくと、大きな笑い声を上げた。


「平坦な道では、つまらんからな。

 昌景は鳴らすことはないと信じている。 

 それにな、一つ願いを聞いて下さった。

 鈴を捨て去り、姿見の真の意味を知ることが出来たのならば、盃を手にした時に、御力で山へと還して下さるとな」

 紅天狗がそう言うと、黒天狗は酒を飲むのを止めて友の顔をじっと見た。


「ソレで、よかったのか?」

 と、黒天狗は言った。


「あぁ、もちろんだ」

 紅天狗は膝の上に置いていた笛を優しく抱き寄せてから、愛おしそうに見つめた。


「守り抜けるのか?」

 黒天狗は静かに問いかけた。


「守り抜くさ。

 この胸に誓ったモノの全てを、守り抜いてみせる。

 そうでなければ、俺が俺ではなくなってしまう。

 交わした約束は、決して違えてはならぬのだ」

 銀色の瞳には誠実さが浮かんでいた。いかなる困難な状況にあっても約束を守り抜くという覚悟の念も認められたのだった。


「もう…いいだろう。貴様は、十分に約束を守った。

 もとの天狗に戻ったところで、あの人も貴様を恨んだりはしない。

 それこそ呪詛だ。

 何百年という間、守り抗い続けてきたのだ。もともとの存在理由にそろそろ戻る時だ。そのような感情は、貴様の炎で燃やし尽くせばいい」

 黒天狗がそう言うと、紅天狗は笑った。


「存在理由などいくらでも変わるさ。だろう?

 守り抜くと約束したのだ。途中で、投げ出すわけにもいかぬ。惚れた男で、あり続けねばならぬ。 

 俺は、紅天狗だ。心配するな」

 紅天狗がそう言うと、色鮮やかな紅葉がザワザワと烈しく揺れ動いた。紅葉を見つめる銀色の瞳は挑戦的で、その胸に引き寄せた笛を夜風に攫われぬようにと今度は強く抱き締めた。


「なぁ、友よ。心配もするさ。

 黒を全て白に、白を全て黒に塗り替えることができる御方だ」

 と、黒天狗は言った。

 

「ありがとな。

 しかし俺は感じてしまったんだ。全身で…あの燃えるような感情を。

 覚えている。忘れることなど出来やしない。

 感情とは複雑だ。

 どうしても感情が邪魔をする。

 感情を殺してしまえば終わるのに、殺せない。全ての感情を燃やし尽くして殺してしまえば、こんなにも…苦しまずにすむのにな」

 紅天狗は笛を大切に仕舞い込んでから、夜空に輝く星を見上げた。


「夜毎…この腕の中にいる幻を抱いて…眠ることもない。

 朝…目覚めて隣を見ると、そこには…いないんだ」

 男は切なげな瞳で言うと、そこにはいない幻を掴むように空に輝く星に向かって手を伸ばしてから小さく笑った。

 

「お前と酒を飲むと、どうも調子が狂う」

 紅天狗は白い息を吐いてから、伸ばした手を見つめてから赤い髪をかき上げた。


「そうだろう。

 持ってきた酒に、何かよからぬモノでも入っていたのかもしれぬな」

 黒天狗がそう言うと、紅天狗は笑った。


「いい男だな、お前は」


「そうだろう。

 私以上に、いい男はいないからな」

 黒天狗も笑いながら言うと、跳ね上がっている友の赤い髪を撫で付けた。

 

「愛しくてたまらんか?」

 と、黒天狗は言った。


「あぁ…」

 男は共に過ごした日々に想いを馳せながら吐息を漏らした。

 

「貴様が愛した唯一の人だからな」

 と、黒天狗は言った。


 すると、紅天狗は微かに笑ったようだった。


「何が可笑しい?」

 と、黒天狗は言った。


「違う、友よ。

 俺が愛している唯一の女だ。愛しているからこそ、紅天狗の妻にしたのだ。

 今も、愛してやまない」


「どれほど月日が過ぎようとも、過去にはならんのか?他の女に心は動かんか?」


「ならん。

 他の女に心が動くことはないし、情欲を抱いて他の女を見ることすらもない。

 俺にとっての女は、たった1人だけだ。

 俺の心を掴んで離さぬ。

 愛している。

 神に誓ったのだ。

 俺の唯一の神、山の神様の前で誓いを立てた。妻を裏切ることはあってはならぬ。そういう輩は、俺は、嫌いだ」


「羨ましいな。

 それほどまでに女を愛せるなど」


「あぁ…愛している。 

 数百年経っても、美しい妻の温もりが忘れられない。

 愛しているんだ。今も…この身を焦がすほどに。

 星のように輝く笑顔を、もう一度見たいのだ。

 だから探している」

 男は微笑を浮かべた。


「人間の女は星の数ほどいるぞ。その中から、たった一人の女を見つけ出す気か?

 もう何度繰り返したのだ?

 あの人への「思い」の多くも消されているのだろう?」

 黒天狗は美しく散らばる星々を眺めながら言った。


「消されたものもあるが、消せないものもあるのだよ。

 あの言葉を、必ず言ってくれるだろう。

 俺は必ず探し出してみせる」

 銀色の瞳には些かの迷いもなかった。愛する人を思い、幸せそうな微笑みを浮かべるばかりだった。


「探し出したところで、生まれ変われば別の人間だ。

 あの人には、貴様の記憶はないぞ」


「山の神様は、こう仰った。

 魂の奥底に、俺との日々を刻み込んでやろうとな。

 深く愛し合ったのだから」

 男は愛おしそうに空に浮かぶ美しい星を見つめながら言った。


「それを…信じているのか?」


「あぁ…」


「貴様も…愚かな男になったな。

 山の神様のことは、よく分かっているはずだ。

 出会った時に、独り身でいるとは限らんぞ。他に男がいるかもしれん。子供をもうけているかもしれん。

 だとしたらどうする?女の男と子を殺す気か?

 幸せに生きていたとしたら、その幸せを踏み躙る気か?」

 黒天狗は鋭い青い瞳を向けながら言った。


「何度生まれ変わろうとも、俺と同様に探し続けると仰った。一目見ただけで、俺に焦がれるだろうとも。

 俺が…そうさせてしまった。

 俺が見つけ出さぬ限り…永遠に俺を求めて、この地を1人で彷徨い続けると…」

 紅天狗からは笑みが消え、銀色の瞳には悲しみの色が浮かんだ。


「契りを、交わしたからか?」


「あぁ…そうだ。

 俺が、体の組織を作り変えようとした。

 なんとしても…死なせたくなかったからだ。

 死すべき運命の人の子にな」

 紅天狗はヒラヒラと舞い落ちていく赤い紅葉を見つめながら言った。


「願いが、呪いに変わったか?」


「あぁ…俺の我儘のせいでな。

 もっと側にいて欲しかった。もっと笑って欲しかった。もっと抱き締めたかった。もっと愛したかった。

 我儘だ…失いたくなかったんだ。

 ずっと側にいてくれることを…願ったのだ」

 紅天狗が目を伏せながら言うと、黒天狗は立ち上がった。

 地面に落ちる前に赤い紅葉を掴むと縁側に腰掛け、赤い紅葉を友の手の平にのせた。 

 男の手の中で、赤い紅葉は美しく輝いた。その輝きを目に焼き付けると、男は赤い髪をかき上げた。

 男の表情は、いつもの恐れを知らぬ逞しい天狗へと戻っていた。


「山の神様は、邪神だ。

 それすらも運命かもしれぬ。

 そうまで自分を責めるな。

 ならば今度こそ見つけ出し、強く抱き締めたまま、絶対に離すな」

 黒天狗が強い口調で言うと、紅天狗は大きな声で笑った。


「あぁ。もちろんだ。

 今度こそ、離すまい。

 その為に、俺は全てに勝ってみせる。

 全てにだ!

 俺は最強で最高で、特別な存在だからな」

 紅天狗は空を仰ぎ見ながら、轟くような声で言った。


「神への挑戦か。

 いいだろう。

 愚かな友に付き合ってやるのも、悪くない。

 貴様は全てを守り抜いて、全てを取り戻せ。この男…刈谷昌景は自らを取り戻せばいい。

 妖怪共が恐れる天狗と泥がまとわりつく人間が抗う姿を近くで見れるというのならば、これほど面白いこともないだろう」

 と、黒天狗は言った。

 薙刀を握り締め、月の光にかざした。薙刀は美しく光り輝き、その刃は鬼をもつらぬくほどの輝きを放った。


「あぁ、面白いものを見せてやる」

 紅天狗は力強い声で言うと、左膝を立てながら手にした酒を口に含んだ。友の肩に手を伸ばすと、挑戦的な目で空を仰ぎ見たのだった。

 

「全てを、守り抜いてみせようぞ。

 そして俺は、必ず、見つけ出してみせる。

 俺が愛している桔梗をな」

 紅天狗は一際輝く星を見つけると、その星を掴み取ろうと逞しい腕を伸ばしたのだった。


 その名は、眠りに落ちていた男の耳にも強く響いた。

 そう…僕の夢の中でも「桔梗」という名が響き渡り、僕は目を覚ました。

 燃え盛り塵となったはずの夢の記憶が戻ってきて、どうしてこんなに大切な事を忘れていたのか、自分が信じられなくなった。僕は、今になってようやく思い出したのだった。

 山に来る前に夢の中で見た、軒下での男女の姿を。男は隣に座る人をとても愛おしく思っていた。

 目に映る男の顔には、生涯をかけて1人の女性を愛し抜くという深い愛に満ち、その想いのような美しい月の光に照らされていた。

 僕は柱から体を起こすと、夜風の冷たさに身震いしながら、僕の方を見ながら笑っている紅天狗に問いかけた。


「き…きょう。

 桔梗って、あの…庭園に咲いている花じゃなくて…紅天狗の大切な人…?」


「あぁ、そうだ」

 紅天狗は優しく笑いながら言った。


「桔梗

 俺の愛する妻の名だ」

 と、男は幸せそうな顔で言ったのだった。



 

 

 

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