第18話 鎌鼬 下
「そういうことだ。
真っ黒になった天狗の翼じゃ。天狗の翼が黒くなれば、どういう事になるか分かるな?
黒くなれば「誰が」殺される?」
鎌鼬が低い声でそう言うと、右腕の傷口が腕を引きちぎらんばかりに痛み出した。
「だから震え上がるのよ。
殺されるのは、人間だ。そして、己が身だ。
その血の責任を、その身で負わねばならない。
当主は、愚か者がどのように妖怪に殺されたのかを知っておる。
今度は、自分の番がやってくる。
当主はな、世界を救うという使命に奮い立ったのではない。地の果てまで追いかけてくる恐ろしい天狗に殺されたくはない。自分が助かりたいだけだ。その羽が、己でなければ何もしない。
ヌシよ、愚かだな。
イイヨウに使われたな。
どうせ「名誉」だ「誇り」だ「英雄だ」などと煽てられて、有頂天になったのだろう?
人間とはな、自分がやりたくない事を誰かにおしつける時には甘い言葉を吐くものよ。その言葉を鵜呑みにした者が、馬鹿を見る。
人間の習性よな…自らの命が助かる為なら何でもする。
何でもだ…何でも…他がどうなろうと知らん。
そうだろう?」
橙色の瞳がじっと僕に注がれると頭がガンガンと鳴り、当主の言葉を思い出した。
(天狗様を怒らせてはならない。
禍が降り注ぐ)
その言葉は、紅天狗の翼が真っ黒になり、己が身に禍が降り注ぐという意味だったのかもしれない。
たしかに…選ばれし者は「誇り」「名誉」という言葉で讃えられ、深く知らされないまま送り出されていく。
そこに不都合な真実があるのならば語りはしない。
さらに僕はリビングでの出来事を思い出していた。あの時の僕は「代わりの者」として送り出されることになった。
もし僕が選ばれし者でなかったのならば、山に無断で入った者として殺されていただろう。僕の命がどうなったとしても、選ばれし者を山に送り出せるのならば良かったのだから。
何もかもを疑わしく思い、何も否定出来ないでいると、鎌鼬はニンマリと笑った。
「よしよし、ヌシもそう思うたんだな。
そろそろ愚か者が誰なのか分かったか?
その血を授かりながら妖怪の側につき、全ての元凶となった男だ。
男は濁った目をし、嫉妬の炎に狂いながら呪詛を吐き、真っ白い髪を振り乱していた。
だからワシらは、ポッカリあいた穴に肉欲をくれてやったんだ。
肉欲に溺れる男は騙しやすく、堕落しやすい。知識欲よりも肉欲に溺れていく姿は、本当に間抜けだった。妖怪とまぐわう姿は滑稽だったぞ。
何もしないまま妬むだけの男に、神は何も与えはしないのに、自らには秘められた力があり、何もせずとも開花したと信じた愚か者だ。
そんな力など、ありはせぬ。
あるのは、破滅だけだ」
と、鎌鼬は言った。
高い木々の枝に積もっていた雪がまた降ってきて、僕の頬へと落ちてきたが、払い落とす力はもうなかった。
何の関係もないと思っていた…否、そんな事すらも考えなかった。
あの男が自らと大いに関係があると思うと、僕は自らに流れる血をとても恐ろしく感じ始めた。
「ヌシも哀れで馬鹿な男だと思っただろう。
愚か者は降ってきたものを、そのまま受け入れたのだ。
だが、ヌシも同じよ。
降ってきた「選ばれし者」を、そのまま受け入れたのだからな。
あの愚か者のように何も考えることなく、イイヨウに使われることを選んだ。選ばれ、自らも選んだのだ。
それとも…あれか…?
選ばれし者という称号を授かれば、ヌシのようなちっぽけな男でも、何かを成し遂げ称賛される男になれるとでも思ったのか?」
鎌鼬がそう言うと、雪にまみれた体が震え出した。
僕の身に何が起こり、ここに来たのかを鎌鼬は知らない。
けれど僕は確かに当初…山に来ただけで何かが変わるかもしれないと期待していたのだ。
その悪意に満ちた瞳は、僕の心をすっかり見透かしたかのようにギラギラとした光を放った。
「愚か者も、その名にすがった。新たな地位を得て富と権力を手にすれば、誰もが、自分を崇拝するとな。
だが愚か者の周りに集まるのは、似たような者達ばかりだった。
真実の光は、まやかしで得られるようなものではない。
真実の光は、遠く、及ばない。
真実の光は眩し過ぎて、あらゆる妖怪を蹴散らしてしまう。まさに陽の光のようにな。
愚か者の光は濁っていて、影ばかりをつくってしまう。妖怪が好む闇に似た暗い影ばかりをな。
そうして、ついに現実を知ったのだ。
自分を見る瞳の違いをな。
ついに憎しみが爆発し、その血を授かりながら魂を売り払い、破滅したのだ。
陽が沈み、長い長い夜がやってきた。人間共も、それを受け入れた。
あの姿は、さぞ楽しまれただろう。
そうか…だから選ばれるのは、こんな失敗作なのか…」
鎌鼬は大きな声で笑い出した。その声のあまりの大きさに空気が震えて、雪がドスンドスンと僕の体の上に落ちてきた。
「ヌシよ、本当に考えたことはなかったのか?
同じモノを自分と愚か者に感じたことはなかったか?
なんせ、ヌシ達はそっくりだからな」
鎌鼬がゆっくり言うと、僕は松の木の下で両親に血の復讐をしようとした瞬間を思い出した。
あの時、僕は確かに同じモノを感じていたのだ。
口の中に溜まった唾を飲み込むと喉が動き、鎌鼬はその動きをじっと見つめていた。
「よしよし、あったのだな。
ヌシは、ただの愚か者であり失敗作だ。
何も出来ない男だ。
何かの役に立ったこともないだろう?
なぁ?そうだろう?ただの道化で、お荷物だった。
それなのに選ばれし者となったことで、何らかの力を得たと勘違いして「何かを為そう」と思い上がったのだろう。
今までの領域でヌシが何かを成し遂げたと思っているとしたら、それは幻だ。
ヌシは何もしていない。ヌシは何の力もない男だからな。
やがて本物の光を見ることになれば、それが幻だとヌシにも分かるだろう。
その光はヌシが出来ぬことを一瞬でやり遂げ、ヌシはその場を目の当たりにして発狂するんだ。
実に面白く、よく出来た筋書きよ。
それなのに気づきもしないとはな。
何の力もなく何も出来はしないのに、自らが選ばれし者であると本当に信じているとは哀れな人生だな。
ヌシの人生は、哀れだ。哀れな人生だ。
失敗作が辿るに相応しい、真っ白な人生だったな」
鎌鼬はそう言うと、紐で縛られ雪にまみれて転がっている男に哀れみの目を向けた。
その瞳に耐えられなくなり僕が顔を逸らすと、殺された鎌鼬の上半身が目に入った。突き刺さっていた鎌は粉々になって、皮の上に散らばっていた。
その上を、しんしんと降り続く雪が積もっていく。
そう…辺りに点在する雪の山は自然とできたものではなかった。
この雪の下には、いくつもの屍が埋まっている。
鎌鼬でなくても、この領域に住むモノや軸の歪みで飛ばされてきたモノの屍だ。埋められることなく焼かれることもなく放置され、その上に雪が降り積もっているのだった。
しんしんと降り続く雪のように目の前が真っ白になると、聞こえるはずもない声が聞こえてきた。
(同じ兄弟なのに、こうも違うとは。
お前には、ガッカリだ。
なぁ、母さん…昌景は失敗だったな)
その言葉が頭の中で鳴り響くと、ぐしょぐしょになった背中の雪に体がどんどん沈んでいった。
切られた傷口にも溶けた水が染み込んでくると、痛みと共に雪の冷たさを全身に感じるようになり、抗う力は完全に凍りついた。
見上げた空は灰色で、何処を見ても光はない。
情け容赦のない言葉と恐ろしい影に飲み込まれて、僕は力を失った。
ー今を、生きるー
その言葉は、僕には無理だったのだろう。
死んでしまった方が楽だと思ったことは数えきれない。生きていることすら辛い日々を過ごしながら、僕は何度遠く輝く月を眺めたことだろう。
何年も何年もかけて深く刻み込まれた呪いは強力で、ぽっかりと傷口が開くと、容易く体の中に入り込んできて力を奪っていく。
あの頃のように穏やかに自分を照らしてくれる光をまた求めていると、鎌鼬の鋭く光る鎌が目に入った。何の力もない惨めな男が、紐で縛られていた。
(何の力もなく、何も出来ない失敗作なのかもしれない。
共に戦うことを夢見ていた。紅天狗の力になって、紅天狗を守れるようになりたいと願ったこともあった。
夢を語るには力が必要だが、僕にはその力がなかったのだ。
夢は夢であって、現実になることはない。
願っても願っても、願いは届かない。
真の姿は、こうなのかもしれない。
紅天狗がいなければ簡単に捕えられて紐で縛られる。
本当に惨めで哀れだ。思い上がりも甚だしい。
自分を見失った哀れな男の末路としては似合いだろう。
さっさと僕が死んで、兄さんが選ばれし者となれば、事はもっと上手く運ぶだろう。翼は黒くなることなく白へとかえるだろう。あの男のように世界を滅茶苦茶にする前に、失敗作はそろそろ消えなければならない)
「弱っちいな、ヌシは。
愚か者の方が、もう少し楽しめただろうな。自らに力があると思い込んでいたのだからな。
まぁ…ヌシは、コレと同じ失敗作だからな。
真実の光にはなり得ない。
ワシには、それが、はっきりと視えている。
弱いな…弱いな…」
鎌鼬は呪いのように繰り返しながら立ち上がった。
椅子のように扱っていた下半身が痙攣したように動いた。利用され、殺され、屍すらも残酷に扱われる。
「さぁ、頭のもとに連れて行くか。
失敗作のお前でも、ワシの役に立つことができて、良かったな」
鎌鼬はニンマリと笑うと、血溜まりを踏みつけた。
僕の耳元で虫の飛ぶ音がして、上半身の方にまた顔を向けると、小さな虫がいくつもたかりだしていた。
気持ちが悪くなって目を閉じると、脳裏には体を真っ二つに切り裂かれて放置された僕の死体に蛆虫がわいている姿が浮かんだ。
今すぐに立ち上がらなければ、ソレは現実になるだろう。
けれど動くことすら出来ずに、目を閉じたまま近づいてくる死の音を聞いていると、光の見えない暗闇の中で一人の男が語りかけてきた。
それは、もう1人の僕だった。
(何をやってるの?昌景。
鎌鼬の酷い言葉を信じているのか?
君の一体何を知っている?
何も知らない。苦しむ姿を見て喜んでいるだけだ。
しかし、僕は君を知っている。
君は戦える男だ。あの時の、君の拳を僕は覚えている。
紅天狗と共に戦い抜くと約束したんだろう?泥だらけになっても戦うと決めたんだろう?
君自身が、そう決めたんだろう?
約束は守らなければならないよ。
大丈夫、君は立ち上がれるさ。
慣れない雪にまみれて体が冷たくなり、思考を奪われているだけだ。君が戦うのなら僕は君の力になれるだろう。このまま眠ってしまってはいけないよ。
僕を救ってくれたあの日のように、今こそ目を覚ますんだ)
もう1人の僕はそう言うと、転がっている僕のもとへと駆け寄ってきて温かな手を差し伸べてくれた。
(僕は君を信じているよ。あの日のように、戦う意志を持って動き出してくれると。
一方的に投げつけられた言葉と戦うんだ。
君は変わった。
君は、他の誰でもない、刈谷昌景だ。
君が、それを否定してどうするつもりだ?
夢も願いも、君がその手で叶えなければ意味がない。
それを叶える為の戦いだ。
腰に差しているものを思い出せ。
何度、泥だけになってもいい。全ての泥を払いのけるには時間が必要なんだから。君にまとわりつく泥は…とても残酷なのだから。
それでも立ち上がれるのならば、泥はやがて君を恐れるようになるだろう。
青い花の咲く場所で、紅天狗が君を待っている)
もう1人の僕は明るく強い眼差しを向けながら手を握ると、勇気を呼び起こすような金属音を静寂の中で聞かせてくれた。
その誓いの音は、諦めようとしていた感情を粉々に砕いてくれた。
こんな瞳で見てくれる男を、僕はまた裏切ってしまうところだった。あの時、なんとしても守り抜かねばならないと決めたのに。
凍りついていた僕の右手の指がピクリと動くと、背中はぐちゃぐちゃになった雪に沈んだままだったが、頭の先からじんわりと熱くなってきて冷たさを感じなくなった。
繰り返し聞かされ、僕自身もそう思うように仕向けられた心ない言葉を燃やし尽くすような熱が体中に駆け巡っていった。心ない言葉は傷つける為に存在し、それ以上の意味はないのだから。
熱は力となり、暗い中で辺りを照らす光となると、紅天狗と共に駆け抜ける自らの後ろ姿を見た。
(昌景は強い。自分を信じろ)
その言葉の方が正しいと信じさせてくれる男の背中だった。まさにヒーローになろうとしている勇猛果敢な男の背中だ。
僕は、ヒーローになったことは一度もない。
学校でもアルバイト先でも目立つ存在ではなかった。その他大勢…それが似合いの言葉だろう。
けれど、これは僕の物語だ。
その血を授かった男の物語でもなく、刈谷昌信の物語でもなく、刈谷昌景の物語だ。ここで戦っているのは、刈谷昌景だ。
(天狗と共に妖怪に立ち向い、盃を取り返して、世界を救うヒーローになる為だ)
あまりに壮大に思えた言葉だが、僕の物語の主人公は「僕」だったのだ。主人公が世界を救い、ヒーローとなる。物語としては、最高だ。
それこそが、僕の好きな物語だ。
弱い主人公が何かのキッカケで強くなり、つまづいて叩きのめされても、必ず以前よりも強くなってかえってくる。
今、まさに僕はその叩きのめされている時だろう。
ならば、僕は立ち上がらなければならない。
立ち上がり、以前の僕よりも強くなり、僕を嘲笑い僕の人生を決めつけたアイツらの鼻を明かしてやらねばならない。
下した評価が、クソだと思い知らせてやろう。
そうなれば面白いほどの手のひら返しをしてくる。「屈辱」「失敗作」と罵った言葉が「誇り」に変わるのだから。
その時、僕はアイツらを決して受け入れはしない。
地面は雪と血でグシャグシャになり足元は悪いが、あの頃の僕とは違うことがあった。以前よりも鍛えられた経験が盾となり、身を守る為の短刀も手にしていた。
光を見出した僕が右手を握り締めると、抗う力を凍らせていた体中にまとわりつく雪は恐れをなして溶けていった。
腰に差している短刀は、主人を支えるかのように熱を発してくれた。
僕の見えざる刃は、まだ折れてはいなかった。
(僕は屈してはいけない。
決して、屈してはならない)
僕がカッと目を見開くと、獲物は意識を失ったとばかりに思っていた鎌鼬の動きが止まった。
僕は雄叫びを上げながら、紐で縛られている両手に力を込めた。
鋭い痛みが走るだけかもしれないが、このままでは鎌鼬の頭のもとに連れて行かれて殺されるだけだ。血で紐と両手はドロドロになっていて嫌な感触がしたが、運良く紐は切れたのだった。
腹に力を入れて勢いよく起き上がると、驚いた顔をしている鎌鼬に向かって思いっきり頭突きをした。
「お前が、誰の事を言ってるのか知らない。
僕が歩むのは、僕の道だ。
これは僕の物語であり、同じ物語にする気はない。
僕は、そいつじゃない。
僕は、刈谷昌景だ!」
完全に油断していた鎌鼬が血溜まりの中に倒れ込むと、怨みがこもっているかのように赤い血が渦を巻いてから両足に絡みついた。キィキィと声を発しながら抜け出そうとしていたが、死者の復讐は止まらなかった。ヌメヌメとした血に足が滑ると、椅子のように扱っていた下半身に頭をぶつけたのだった。
「調子に…乗りよって…」
鎌鼬は目を回しながら、なんとか声を絞り出した。
「さっき吐いた言葉は、そのままお前に返してやる!
お前こそ、橙色の瞳に縋っているだけのクソみたいな鎌鼬だ。橙色の瞳がそれほど優れているというのならば、それに見合っただけの振る舞いをしたらどうなんだ!
見た目の色だけで全てを決定づけるというならば、色などそもそも必要ない。色は自由であり、様々な色が咲き乱れてこそ美しい。
殺しておきながら傷つけておきながら、それでも力があるのならば許容するというのならばソイツも狂っている。
僕は、お前を許さない。
それを許せば僕自身も、力があれば許されるということを肯定してしまうからだ。
お前は、そろそろ相応の罰を受けるべきだ。
何度も罰せられなければならない時に、お前は逃げ続け、そうして逃れられる方法を学んでいき、ここまで腐り果てたんだ。
お前の体からは、ひどい悪臭がする!
劣っているのは、お前の考え方だ!」
僕は怒鳴るように叫んでいた。
溜め込んでいた感情を一気に吐き出すと、短刀を鞘から勢いよく抜いた。見えざる刃が眩い光を放つと、柄を強く握り締め、両足を縛っている紐を切り裂いた。
「暖色系の色が特権の証というのなら、真っ赤にしてやろう」
僕はよろめきながら立ち上がった。
眩い光を放ち続ける短刀を握りながら近づいて行くと、鎌鼬は妙な声を上げた。
橙色の瞳が異様なまでに大きく見開かれると、体は石になったかのように動かなくなった。硬直した鎌鼬の首根っこを掴むと、大きく目を見開いたままの顔を赤い血溜まりの中に押しつけた。両目の中に赤い血が染み込んでいくと、鎌鼬の体は激しく痙攣したのだった。
僕は鎌鼬から手を離した。背を向けて、その場から走り出した。
走る時間は稼げたのだから、これ以上はしてはならない。許せない奴だが、僕は暴力的な意味で戦ってはならないのだ。
今何処にいるのか分からなかったが、足は進むべき道を知っているかのように動いてくれた。懸命に走り続けたが、次第に縛られていた両足がひどく痛み出した。
風がまた勢いよく吹き荒れ、目を開けられないほどの吹雪となった。両腕を顔の前にもっていき棒のような足を引きずっていたのだが、視界がどんどん悪くなってきて何かにつまづいた。倒れた僕の体に容赦なく雪が吹き付けてくると、非常な眠気に襲われたのだった。
目を開けると、安全な洞窟の中にいた。
あのままでは吹雪の中で死んでいたのだが、運良く「誰か」が助け出してくれたのだろうか?
冷え切った体を温めようと丸まっていると、優しげな声が聞こえてきた。声のした方を見ると、そこには兄がいた。
兄はしゃがみ込んで、雪にまみれている僕を両腕で抱き締めると「いけそうだな、昌景」と言ったのだった。
ハッとして目を開けると、吹雪はすっかり止んでいて体には柔らかな雪が降り積もっていた。
このままでは僕が新たな雪の山になってしまう。
両腕の力を使って体を起こすと柔らかな雪は落ちていき、前方からは甘くて柔らかい香りが漂ってきた。
ゆっくりと顔を上げると、僕は思わず大きな声を上げた。
青い花が溢れんばかりに咲き誇り、細かい雪が花弁を濡らしてキラキラと輝いている夢のような場所だった。風に吹かれて青い花が揺れると小波のように揺れ動き、陽の光を浴びて宝石のように煌めく海面を思わせるほどだった。
空は相変わらず灰色だったが、この場所には目には見えない光が射しているようにも思えた。
どこまでも続く青い海のように広がっていたが、真ん中だけがぽっかりと島のようにあいていて、乱暴に切り倒された木が橋のように倒れていた。
切り株にはコロコロとした丸い小さな鳥がとまっていて、小さな鳴き声を上げると、チョコチョコと幹の上を歩いて行った。
僕が立ち上がり近づいて行くと、空へと飛び去っていった。その小さな鳥を真似るように幹の上を歩き真ん中に辿り着くと、そこだけ倒れた木の葉が腐ることなく敷き詰められていた。
僕は安全な木の葉の上に降り立つと、青い花は僕の勇気を褒め称えるかのように眩い光を放ってくれたのだった。
体が震えて、目から涙が溢れそうになった。
ここまでの道のりは、あまりにも残酷だった。
その場に座り込んで、青い花の光を見ながら生きていることに深く感謝していると、旋風が怒りのような音を上げながら迫ってきた。
青い花の光が弱まっていき辺りが暗くなると、怒り狂った鎌鼬が現れた。茶褐色の体毛は赤く染まっていた。目を擦りながら鼻をしきりに動かしてフラフラと近づいてきたが、青い花の少し手前で足を止めたのだった。
「こっちに来い!今なら、まだ許してやる!」
鎌鼬はそう叫んだが、それ以上は近づこうとはしなかった。
僕は答えることも動くこともしなかった。
風の吹く音だけがすると、鎌鼬は苛立って乱暴に鎌を振り回して尾を逆立たせた。
ひどい悪態をつきながら風を巻き起こして青い花を吹き飛ばそうとしたが、青い花は鎌鼬の巻き起こす風ではビクともしなかった。
鎌鼬はキィキィと鳴き声を上げると、鎌を掲げて大きく口を開いた。
「ヌシは、何も出来やしない。
ヌシは、愚か者と同様、何も出来ない役立たずな男だ。
最期には、妖怪に食われて死ぬだけよ。
ワシには、はっきりと視えている。
苦労するだけの、哀れで、不幸な人生とな」
呪詛のように低い声で言い放つと、大きく掲げた鎌は妖しげな光を放ち、勢いよく振り下ろされた。
憎しみのこもった妖術が放たれると、稲妻のような赤い光が空から降ってきた。暗かったこの場所が凄まじいほどの赤い光で溢れかえると、鎌鼬は恐怖の叫び声を上げた。
赤い光の中から姿を現した男は、眩いばかりの光を放つ刀を鞘から抜いて空を切り裂いた。妖しげな光は銀色の光に容易く飲み込まれ、耳を塞ぎたくなるような音が上がった。
すると青い花が烈しく揺れ動き出して茎がみるみる伸びていき、空まで届くような壁となったのだった。
「昌景は、昌景だ。
あの者とは違う。
己の道を切り拓き、己の道を歩いて行くことが出来る。
最後には、最高の男になるだけだ。
俺には、お前とは違う未来が視えている。
そして、俺の視ている未来の方が正しい」
鎌鼬は恐れ慄いて逃げようとしたが、紅天狗は逃げる尾を掴むと少し離れた雪の山に投げつけた。
紅天狗は伸びている鎌鼬を雪の山に押し付けると、橙色の瞳を隠すように両の瞼に右手を置いた。鎌鼬は逃げようとしたが血管の浮き出た逞しい左腕に押さえられ、長い脚で踏みつけにされると動くことすら出来なかった。
「禁を犯してはならない」
紅天狗は低い声でそう言うと、鎌鼬の瞼から湯気が上がり自慢の鎌が小さくなっていった。否、異様なまでに大きかった鎌が、体に合った大きさに戻ったといった方が正しいのかもしれない。
紅天狗が右手を離すと、目を開いた鎌鼬の瞳の色は橙色ではなく紫色になっていた。紫色の目をぱちくりさせると、鎌は美しい輝きを放った。
だが、それは一瞬だった。
鎌はみるみる錆びついていき、風で飛んできた石が左の鎌に当たるとヒビが入り脆くも崩れ落ちていった。
「ワシの…鎌が…宝の…鎌が…」
鎌鼬は大粒の涙を流しながら鎌の破片を集めようとしたが、冷たい風がその破片をさらっていった。
「宝とはな、磨き抜いてこそ価値がある。
お前が、宝であるはずがない。
宝であるならば、誰かを蔑むような言動はせぬものだ。
そのような者は、決して本物にはなれぬ」
紅天狗がそう言うと、右の鎌も音を上げながら粉々に砕け散っていった。
「あっ…あっ…助けてください。
お願いします…すみません…ごめんなさい。
助けて…お願いします」
鎌鼬は怯えた顔で何度もそう言い続けた。
しかし紅天狗は鎌鼬が何を言おうとも、険しい表情をしながら鎌鼬を見下ろしているだけだった。
「昌景を縛っていた紐が切れたのは、お前が馬鹿にしていた翡翠色の鎌鼬が死に際に施した妖術によるものだ。
お前がぺちゃくちゃと喋っていた間に、血が紐を徐々に溶かしていき、最後は昌景自身の力で切った。
相手を馬鹿にしていたお前は、結局のところ、何も見えてはいなかった。
それにな、女神の怒りは山の神様にも引き継がれている。女神の怒りは、山の神様の怒り。山の神様は、お前がこれまでしてきた事を知っておられる。
お前はな、自らの都合のいいように考え過ぎだ。
罪を犯していながら自らが助かろうとする為の何の意味もない言葉を、俺は受け入れぬ」
紅天狗は雪よりも冷たい氷のような声で言った。
「頭!かしらぁ!」
鎌鼬は立ち上がると、空に向かって大きな声を上げた。
だが新たな旋風が起こることはなく、寂しい風が吹いて右の鎌の破片もさらっていくだけだった。
「なんでだ…なんでだ…。
ワシの鎌が…なんでだ…どうなってるんだ…」
鎌鼬はヘナヘナと崩れ落ちていった。
涙と鼻水でグチャグチャになった雪を鎌のなくなった両腕でかき回し始めた。雪の下から土が顔を出すと、鎌のなくなった両腕は見るも無惨な姿になっていた。
「分からぬか。
ならば、最期に教えてやろう。
お前の方こそ、考えもしなかっただろう?
どうして鎌鼬が、この青い花を怖がり近寄ることも出来ぬのか。
かつてお前達の頭は異界でもっと影響力を強めたいという野心を抱き、もっともらしい大義を掲げて別の領域に攻め入ったことがある。
だが、失敗に終わった。
多くの鎌鼬を失い命からがら逃げかえってきたが、数日経つともう次の侵攻について考えるようになっていた。
ある夜、月明かりの下で、凍った池に映る自らの姿を見た。
真っ赤な瞳は攻撃的で爛々と光り、両腕の大きな鎌は鋭く光っていた。まさに戦闘に有利となる、理想的な鎌だった。全ての鎌鼬が、このような瞳と鎌であれば負けはしなかったと思った。
すると、後ろにいる配下の鎌鼬の姿が目に入った。
自らとは対照的な青い瞳は頼りなく、深傷を負った自らよりも小さい鎌にはヒビが入っていて、もう使い物にはならないように思えた。このような鎌鼬がいるから負けたのではないかと思えてならなかった。
全ては歪んだ感情が見せた幻だったが、奴の中で愚かな思想が浮かび、ある悍ましい計画を実行に移すことにした。
次の日、この場所に、領域中の鎌鼬を集めた。
青い瞳をした鎌鼬を紐で縛り、侵攻に失敗した全責任を押し付ける為に、皆の前に引きずっていった。
『戦に負けたのは、この青い瞳をした鎌鼬の責任だ。
コイツは、我等の情報を敵に流していた。
コイツは以前から、暖色系の瞳をした鎌鼬の大きくて鋭い立派な鎌を妬んでいた。敵と通じ、暖色系の瞳を持つ鎌鼬を砂金と引き換えに次々と敵に殺させて、青い瞳をした鎌鼬が支配する領域にしようと画策していたのだ。
だが敵は薄汚く、情報だけが利用され、コイツも深傷を負った。
コイツの裏切りによって、多くの同胞が死に、勝利が約束されていた戦が失敗に終わったのだ。
青い瞳をした鎌鼬と交尾をすれば、このような裏切り者が生まれてしまう。このような卑しい心と小さな鎌を持った鎌鼬が生まれてしまう。
それは我等の衰退を意味し、いずれ滅びてしまうだろう。
青い瞳をした鎌鼬は、全て処刑せねばならない。
青い瞳をした鎌鼬は、鎌鼬にはなりえない。
暖色系の瞳をした鎌鼬のみが、真の鎌鼬となりえるのだ。
我等は種の繁栄と存続の為に、裏切り者と弱さを許してはならないのだ!我等の正義と強さと安全は、裏切り者と弱さを絶滅させることによってのみ守られる!』
頭は声高に叫んで不安と憎しみを煽り、青い瞳をした鎌鼬の鎌を切り落としてから首も刎ねた。側にあった木も切り倒すと、自らの強さを主張するように血にまみれた鎌を掲げた。
『大きくて鋭い立派な鎌』『優位性』は、暖色系の瞳をした鎌鼬の耳には心地よく響いた。
敗北による苛立ちと日頃の不満と鬱憤をぶつける対象ができたことに、暖色系の瞳をした連中は喜んだ。
頭の言葉が真実かどうかなど、どうでも良かった。
こうして青い瞳をもつ鎌鼬は忌み嫌われるようになり、残忍な方法で次々と殺されていったのだ。
だが、これで終わるはずがない。
理性を失った連中は狂い、さらなる凶行が行われた。
青い瞳だけでなく寒色系の瞳をした鎌鼬も憎しみの対象となり、様々な場所から締め出されて子を作ることも制限された。
愚かにも、色の選別をおこなった。
青でも赤でも黒でも緑でも、神が与えた色は美しい。
本来優劣などない色に優劣をつけ、罪もない命と可能性を摘んだのだ。
その結果、女神の怒りに触れ、暖色系の瞳をした鎌鼬は生まれなくなった。女神はそうすることで、お前達の目を覚まさせようとしたのだ。
だが生まれた子の瞳の色を見ても、鎌鼬は驚愕し憤慨し嘆くだけだった。同胞の目を恐れ、自らも危うくなるのではないかと思い、生まれたばかりの子を、最初に犠牲となった青い瞳をした鎌鼬の死に場所に連れてきて次々と殺したんだ。数えきれぬほどの屍が埋められることもなく放置されていたから、増えたところで分かりはしないと思ったのだろう。屍はそのまま放置し雪が覆い被さっていったが、雪が溶けると青い花が咲き、一年中咲き続けることになった。
そう…殺された者の数だけ、強く美しい花が咲いたのだ。
美しい青い花となって、摘まれた生命を咲かせたのだ。
それが、この場所だ」
紅天狗がそう言うと、青い花が見事な輝きを放った。
青い花は摘まれることも枯れることもなく、本来そうであったはずの喜びに満ち溢れた日々を、こうして姿を変えて送っていくのだろう。
「多くの鎌鼬は恐れ慄いたが、狂った頭は止まらなかった。
頭は生まれた子を集め、瞳の色を変えるだけでなく鎌も異様なほど大きくなるように妖術を施すようになった。
だが許されざる操作に、細胞は悲鳴を上げて崩れ落ちていく。
多くの鎌鼬が犠牲になり、ようやく橙色に変えることに成功した。
お前は、そんなかの1匹だ。
頭が何度もお前を守ったのは、成功した実験体だったからだ。成功体が上手くいけば、その方法でどんどん増やしていくつもりだった」
紅天狗がそう言うと、鎌鼬の体が激しく震えた。聞き取れないほどの小さな声だったが「嘘だ、嘘だ」という言葉を、僕は聞いたような気がした。
「お前の本来の色は、紫色だ。
俺が術を解いた時に、鎌は本来の輝きを放った。
妖術でいじくり回された異様な大きさではなく、その者が持って生まれた自然の美しさだ。
お前達は、それを否定してはならなかったんだ。
否定しなければならなかったのは、頭の思想だった。
お前達は立ち上がり、凶行に走る頭を止めなければならなかったが、頭を恐れてお前達は立ち上がることはしなかった。
お前達の目は覚めることはなかったが、青い花への思いは、女神がお前達の魂に埋め込んだ。
最後の慈悲だった。
それに、気づかないとはな」
紅天狗はそう言うと、鋭く光る刃を鎌鼬の目の前にかざした。
鎌鼬は自らの本来の色である紫色を見ると、大きな声を上げながら泣き崩れ、男の足元に跪いて助けを求めた。
「お願いします…許して下さい。
もう2度としません。これからは大人しくします。ワシの鎌は…もうなくなりました。洞穴の中で…ずっと大人しく暮らします。
禁のことは知らなかったのです…ワシにとって…初耳でした」
鎌鼬は哀れを誘うような声を出したが、銀色の瞳は険しくなるだけだった。
「知らぬか。
ならば、知らぬことこそ罪だな。
お前が、知らぬはずがない。
お前が知らぬのは、殺した者への謝罪だ。
罰を受けなければならない」
紅天狗は死の裁きを下す者の目で裁かれる者を見下ろした。
空気を切り裂く音と共に、鋭い刃が描く銀色の恐ろしい弧を僕は見た。
断末魔の叫び声を聞きながら、僕も大きな声で叫んでいた。
鎌鼬の肉体が真っ二つに斬り裂かれ、さっきまで繋がっていた体がまったく別の方向に分かれていく。
夥しいほどの血が地面に降り注ぎ、裂かれた肉塊がすぐさま燃え上がっていくと、血と肉の焼ける悪臭が漂った。鎌の無くなった両腕が水を求めるかのように動き回っていたが、虚しく炎にのまれていった。
僕の目に映るのは、燃え上がる肉と荒れ狂う炎、そして身動きもしない男の後ろ姿だった。
あまりの熱量で、僕の体も燃えてしまいそうだった。
体中から大量の汗が流れ、恐怖と熱で喉がカラカラに乾いていった。
恐ろしい火の粉が風に吹かれて僕の方まで飛んできたが、空へ届くほどに伸びている花茎が銀色に光ると火の粉は消えていった。
瞬く間に灰も残さぬほどに鎌鼬を焼き尽くし、全てが無になると、銀色の光は和らいでいき元の大きさへと戻っていった。
全ては、紅天狗の妖術によるものだったのだろう。
「あり…がとう。
僕を…妖術で…守ってくれて。
僕も…いつか…紅天狗の役に立ちたいな…役に立てたのなら…もっと…もっと…」
僕は途切れ途切れにそう言った。
あまりにも恐ろしい死を見過ぎたせいか、頭の中はひどい混乱状態にあった。
紅天狗は刀を鞘に納めると、僕を振り返った。
風で揺れる男の着物は殺した者の血で赤く染まり、血肉を見ていた銀色の瞳は烈しさを増し、その頬にも赤い血がついていた。
「そんな事、考えなくていい。
俺の役に立とうなんて思うな。
急に、どうした?」
紅天狗はそう言うと翼を広げ、僕のところに飛んできた。木の葉がカサッと音を立てた。
紅天狗がその場を離れると、燃えていった鎌鼬の跡を残すようにぽっかりと雪が溶けた地面が見えた。
「役立たずと…言われたんだ。鎌鼬に…そして母にも。
僕は…誰の役にも立たずに…この鎌鼬のように…何も残すことなく死んでいくのだろうか…」
自分でも妙な事を言っているのは分かっていた。
鎌鼬は死んでいったが、放たれた言葉は僕の中で生き続けていた。
僕にはまだ乗り越えられていない「何か」があるのだろう。その「何か」こそが、僕に重くのしかかっている。その事を、あの瞳は見抜いていたのかもしれない。
「ソイツらの役に立ちたいか?
ソイツらがやろうとしている事は、正しい事だったか?
どうなんだ?昌景」
紅天狗は真っ直ぐな瞳で、目の前の人間の男にそう問いかけた。
「ちがう。
役には立ちたくないし、正しい事でもない」
僕がそう言うと、紅天狗の瞳から烈しさは消えていった。
「だろ?
なら、お前は誰の役に立ちたい?」
「そう…だね。
兄さんと…紅天狗の…役に立ちたい。
2人は…大切だから。
役に立って喜んでもらえたら、僕は嬉しいから」
と、僕は言った。
「そうか。
なら、兄貴は「俺の役に立てよ」と言ったことがあるか?」
紅天狗はそう言うと、僕の肩にのっていた一枚の青い花弁を掴んで吹く風に乗せた。
花弁が空高く飛んでいくのを見ていると、青い蝶が羽を広げて飛んでいくかのようだった。舞い上がるその色を見ていると、煙によって濁った空に目の覚めるような青が広がっていった。
「ない。兄さんは…そんな事は言わない」
僕はそう言うと、その青い色に引き寄せられるかのようにヨロヨロと立ち上がった。
「そういう事だよ、昌景。
役に立てなんていう言葉は、俺は好きじゃない。
役に立てなんて言う奴は、自分の事しか考えていない。昌景の気持ちなんて、これぽっちも考えていない。
ソイツの役に立ったかどうかであって、お前には何の意味もないんだ。ソイツにイイヨウに使われてやることなんてない。
そういう奴ほどな、自分の思い通りにならないと「役に立たない」というんだよ。
当然だろ!?俺には俺の考えがあるんだから。
誰かの物差しで、お前が動いてやることなんてない。
『俺は、お前の道具じゃない。
自分でなんとかしろ』
そう答えてやればいいんだよ。
それにな、役に立ったからといって、ソレが正しい事なのかも分からない。
そうだ…何も考えずに、何も疑問を持たずに付き従っていくのは、非常にやりやすいだろうな。
そうだな…歪んだ思想を実現させる為の役には立つだろうな」
紅天狗はそう言うと、後ろを振り返った。
ぽっかりあいた地面には、雪が降り積もり出していた。
雪が降り積もれば、そこで紅天狗に斬られた鎌鼬がいたことなど誰も知ることはないだろう。
「その気持ちは受け取っとくわ。
俺も、お前が大切だ。
だからこそ、役になんて立たなくていい。
俺は、俺のやりたいようにやっている。
昌景は、昌景がやりたいと思うことをやればいいんだよ。その方が、俺も嬉しい。
自分の心に従うんだ。それで相手が喜んでくれるようなことがあれば、それでいいじゃないか。
行くか、昌景。
もう一つ、やらねばならないことがある」
紅天狗はそう言うと、僕の腕を掴んで自らの肩に回すと空へと飛び立っていった。
しばらくの間、空を飛び続けていると、鳥達が異様な鳴き声を上げながら旋回しているのが見えてきた。その鳥達は羽の色が一枚一枚違っていて、灰色の空にあらゆる色が広がっていた。
「さぁ、着いたぞ」
紅天狗はそう言うと、徐々に降下していった。
近づいてくる地面は赤く染まっていて、そこに集まっていた生き物達は顔を上げると、一目散に逃げ去っていった。
降り立った場所は、僕が紐で縛られていた場所だった。切り裂かれ踏み付けにされた翡翠色の瞳をした鎌鼬の屍がある場所だ。
僕達がいなくなってから、上空を飛んでいる派手な色をした鳥達や他にも様々な生き物が群がっていたのだろう。
滅茶苦茶に食い荒らされ、剥がれた皮と肉がこびりつく骨が散乱し、なんの妖怪であったのかすら分からなくなっている。
生き物達がいなくなると、雪が覆いつくす前にと、見たこともない虫達が群がり始めた。
紅天狗は黙したまま刀を抜き、翡翠色の瞳をした鎌鼬にも刀を振るった。屍は瞬く間に燃え盛り、上空を飛んでいる鳥達を蹴散らすように煙を上げ始めた。
僕は、ずっと「無」になってしまうようで怖く感じていた。
けれど、こんな風に死体を放置してはいけない。こんな風に終わらせてはならない。死者には尊厳が必要だ。
今の僕には、火葬のように思えた。
炎が強くなると、紅天狗は僕を守るように前に立ってくれた。炎は紅天狗をよけながら灰も残さぬほどに全てを焼き尽くした。
灰色の空高く煙が立ち昇っていくさまを見ていると、どんどん息苦しくなり目と喉も痛くなってきた。鼻と口から煙を吸い込むたびに、僕の体の中に死が広がっていく。
あらためて両手を見ると、手の平に無数にある線には翡翠色の瞳をした鎌鼬の血がこびりついていた。服を見ると、赤い血がこびりついていた。靴とズボンの裾にも、赤い血がこびりついている。
紅天狗だけが血にまみれているように思っていたが、そうではない。僕自身も血にまみれている。
少しずつ…僕自身も気付かぬうちに、このニオイに慣れようとしていたのだ。
それに気づくと、僕はペタリと座り込んだ。
涙が一雫、頬を伝っていった。
全てが終わった時に、僕は一体どうなっているのだろう?
これは、まだまだ序の口だ。
残酷な現実に、これからも立ち向かっていけるのだろうか?
何があっても自分を正しいと信じて、走りきれるのだろうか?
凄まじい恐怖が僕を襲い、むき出しになった地面を見ながら僕は嗚咽を漏らしていた。
僕を呼ぶ男の声が何度も聞こえたが、それは遠い遠い所から呼ぶ声のように思えた。答えることも、立ち上がることも出来なかった。
「帰るぞ、昌景。
立ち上がるんだ。
自らの足で歩いて帰ると決めたんだろう?」
紅天狗は腰を下ろすと、僕の肩に手を置いた。大きな手の温もりを感じて顔を上げると、銀色の瞳が僕を見つめていた。
その銀色の瞳は、空に浮かび僕等を照らす月のように麗しかった。
男も、男が守りたいモノの為に戦っているのだ。
泣き崩れ膝を折っているだけでは何も守れないのだと、その色は教えてくれたのだった。
(そうだ…僕は…立ち上がらなければならない。
それが、腰に刀を差すということなのだから)
「そうだ…僕は…諦めない。
諦めてはいけない…決して…」
戦い続ける銀色の瞳を食い入るように見つめながら、僕は何度もそう繰り返した。
「そうだ。
何度でも口にするんだ。
決して、諦めないと」
紅天狗は僕の顔を見ながら挑戦的な笑みを浮かべた。
赤い髪に、白い雪が舞い落ちていく。
男の髪を濡らし、灰色の翼を白く染めるかのように雪は降り出した。
とても長い時間が流れたのだろう。
それでも、紅天狗は辛抱強く僕を待っていてくれた。
僕は守りたい者を心に思い浮かべると、その思いを胸になんとか立ち上がった。兄さんに、紅天狗に、楓さん…山で暮らすうちに、僕には守りたい者が増えていったのだ。
しんしんと降り続く白い雪が、地面を白く変えていく。
それに目を向けなければならないのに、真っ白で穢れのない世界が広がっていこうとしていた。
だが、一点の汚れもない白い世界など存在しない。それは幻想だった。生きている限り、汚れもシミもどんどん増えていく。
雪が溶けた時、ここは、どうなっているのだろう?
その答えは僕には分かるはずもなく、点在する雪の山が目に映るだけだった。
「僕は…答えが…分かったんだ」
僕がそう口にすると、紅天狗はゆっくりと頷いた。
「その答えは、まだ言わなくていい。
異界で、その名を口にするのは良くない。
山に戻り、滝で体を清めてから教えてくれ」
紅天狗はそう言うと、僕の頭をクシャクシャと撫でた。
降り続く雪が、僕の黒い髪の毛を白く変えようとしていたのだろう。
ハラハラと舞い落ちていく白い雪を見ていると、僕の心に妖怪と手を握った白い髪をした男の後ろ姿が浮かんだ。
白い髪を振り乱しながら、数多の妖怪から逃げようとする悲しい男の後ろ姿だった。
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