第17話 鎌鼬 上


 目を開けると、雪がしんしんと降っていた。吐く息は真っ白で、指先から凍えてしまいそうだった。


 僕は洞穴の入り口のようなところで横になっていた。視線の先に広がる世界は背の高い木がまばらに立っていて、枝には雪が積もっていた。地面には雪の山がいくつかできていて、僕の背丈よりも大きかった。

 走り回る動物と飛んでいる鳥の姿もなく、生きているものの気配は感じない。木の枝から落ちてくる雪の音が聞こえるほどに、静かだった。

 目の前に広がる世界はただただ静かで美しく、一点の汚れもない白い世界に思えた。


「ここが、鎌鼬の領域だ。

 どうだ?立てるか?」

 紅天狗の声が聞こえてきたので、横に向けていた顔を声のする方へと向けた。紅天狗は大きな石の上に座りながら、降り続く雪を見つめていた。


「大丈夫、ありがとう」

 僕はそう言うと、ゆっくりと起き上がった。立った瞬間フラッとしたが、動かないと凍え死んでしまいそうだった。


「そうか、良かった。

 なら、こっから出るか」

 と、紅天狗は言った。

 

 外の世界は、安全な洞穴とは違った。

 領域に住まぬ侵入者を出迎える冷たい風が勢いよく吹き出した。風はビュービューと音を立て、その冷たさで耳が痛くなり、あまりの寒さに体がブルブルと震えた。少しでも温かくなるようにと思い、体を両腕で抱き締めて背中を丸めて歩き出した。

 踏みしめる雪の感触は柔らかく、時折、ズボッという音を上げて足が地面に入っていった。


 紅天狗は雪がどれほど降ろうとも、その歩みが変わることはない。

 徐々に風が静かになり男の翼を雪がまばらに白く染める頃、紅天狗は僕を振り返った。赤い髪は少し濡れて、キラキラと光っていた。


「いいぞ、昌景。ここも、いけそうだな。

 ところで、今回の目標は決めたのか?」

 と、紅天狗は言った。


 慣れない寒さで歯がカチカチと鳴り、口が上手く動かない僕は首を横に振った。黒天狗のことで頭がいっぱいになっていたので、何も考えてはいなかった。


「そうか。

 なら、鵺の領域ではどうしたんだ?」

 紅天狗はそう言うと、口を小さく動かしながら僕の頭をクシャクシャと撫でた。すると頭の先から体がどんどん温かくなってきて寒さを感じなくなり、体の震えもおさまっていった。


「あれ…どうしたんだろう…」

 僕が呟くように言うと、紅天狗はニヤリと笑った。


「で、どうなんだ?」


「えっと…自分の足で歩いて帰ることだった。

 行くだけでなく、歩いてお堂に帰ることが出来たのなら…自分に自信を持てるような気がして。上手く言葉には出来ないけれど」

 僕がそう言うと、紅天狗は嬉しそうに頷いた。

 

「あぁ、そうだな。帰ることに意味がある。終わらせることにな。

 よくやったよ、昌景は。

 なら今回の目標は、俺が決めてやろう。

 この先にな、青い花が咲き乱れている場所がある。真ん中だけがぽっかり空いてるから、そこで会おう。

 真っ直ぐ歩け。道を逸れんなよ。

 逸れなければ、辿り着く。足が勝手に動いてくれる」

 紅天狗はそう言うと、僕を励ますように肩をポンっと軽く叩いた。

 

「それだと、いつもと変わらないよ」


「そうだな。

 しかし今回は、それでいいんだよ。

 茶褐色の獣の姿が見えたら、それが鎌鼬だ。両腕は鎌だから、すぐに分かるだろう。

 鎌鼬は攻撃的な性格で血を好む。鎌を乱暴に振り回し、昌景の体に切りかかってくるかもしれん。

 切られんなよ、昌景。

 お前の正体がばれるかもしれんぞ。

 鎌鼬に何か言われても、答えに困れば黙っておけ。この領域では、沈黙が味方になってくれる。奴等はおしゃべりだ。黙っていれば自分のイイヨウにベラベラ喋ってくれるぞ。

 嬉しそうに、醜い面でな」

 と、紅天狗は言った。


 そうしている間にも雪は絶え間なく降ってきて、紅天狗のがっしりとした肩にも積もっていった。

 両腕が鎌をした生き物だなんて想像すらもしたくなかった。僕が黙りこくっていると、紅天狗は肩の雪を払いのけてから思い出したかのように口を開いた。


「そうそう…鎌鼬には同族殺しは許されない。

 歪んだ思想を持ち、女神の怒りに触れたのだ。

 禁を犯せば、罰を受けねばならない」

 紅天狗はそう言うと、真っ直ぐな瞳で僕を見つめた。


 その瞳は何か言いたげだったが、僕が何も言わないでいると肩に積もった雪を手で払いのけてくれた。雪はハラハラと散っていき、男の手が僕の肩に置かれた。 


「鎌鼬は、俺がまだ出来ぬ話を昌景にするだろう。

 その答えは、ヤツに言わなくていい。

 俺に、聞かせてくれ」


「え?どういうこと?」


「そうだ。

 刈谷昌景の答えだ」

 紅天狗はそう言うと、急に息を荒げて胸に手をあてた。

 逞しい首筋には透明な汗が滲み、襟の隙間から紫色の光が明滅しているのが見えた。何かを呟いてから深く息を吸い込んで胸から手を離すと、汗は蒸発するように消えていった。

 紅天狗は呼吸を落ち着かせると、太陽が遠く見える灰色の空を見上げた。


「歩いて帰ろう、昌景」

 紅天狗はそう言うと、翼を広げた。

 翼に降り積もっていた白い雪は落ちていき、真っ白な雪の世界では紅天狗の翼の色が、より一層黒に近く見えたのだった。





 紅天狗が空高く飛び立っていくと、僕は不安を抱えながらも歩き始めた。


 すぐに風が出てきて、その勢いを増した。

 ヒューヒューと音を上げながら吹き、僕の顔に雪が吹き付けてきた。また背中を丸めるようにして進んだが、風がおさまってきた頃に地面に伸びる2つの青い影を見た。

 顔を上げると、影は2つの雪の山だった。

 山と山の間には人1人が歩けるぐらいの細い隙間があり、その道の地面は黒く、足を踏み入れたら奈落の底に落ちていくような嫌な感じがした。

 僕は少し怖くなり、しゃがみ込んでから手を伸ばし、地面の感触を確かめた。もちろん奈落の底ではなかったが、伸ばした手には血を凍らせるような冷気を感じた。

 雪の山をよけて遠回りをすることも出来たのだが、紅天狗の「真っ直ぐ歩け」という言葉が頭の中で響いていた。

 立ち上がり足を踏み出すと、もう寒さは感じないはずなのに体がブルブルと震えた。背中には嫌な汗が流れ、誰もいないはずなのに低い呻き声を聞いたような気がした。

 上を見上げ後ろも振り返ったが、誰もいなかった。

 奇妙に思ったが、雪の山に手をつきながら細い隙間の道をなんとか通り抜けると、今度は前方に恐ろしい旋風が発生しているのが見えた。

 旋風は轟々と音を上げ、前方にいくつか見える小さな雪の山を滅茶苦茶にしながら迫ってきた。


 鴉のお面が、痛いくらいに締まった。

 鵺の時のように、あの旋風は鎌鼬によるものなのかもしれない。短刀の柄に手を伸ばして身を守ろうとしたが、手がかじかんでいて上手く動かなかった。

 その間に、旋風は目の前まで迫ってきた。

 急いで逃げようとしたが雪に足を取られ、次の瞬間には風に巻かれて空高く巻い上がっていた。空中でグルグルと回ってから通り抜けた小さな雪の山に乱暴に叩きつけられると、そのままコロコロと転がっていった。薄れゆく意識の中で、ギラギラと光る2つの灯りを見たのだった。




 嫌な夢を見ていた。

 真っ白な雪の上を歩いていたはずなのに、後ろを振り返ると僕が歩んだ地面は茶色に色を変えてドロドロになり、前を歩く僕に背後から迫ってきた。

 雪に足を取られたように、今度は茶色の泥水に足を取られた。

「やめろ!はなせ!」と大きな声で叫んだが、それはだだっ広い空間の中で虚しくこだましていった。

 泥はどんどん僕の体をよじのぼりだすと、短刀を握ろうとした右腕にからみつき「逃げられると思うなよ」と身の毛のよだつような恐ろしく冷たい声で囁いたのだった。

 

 ハッとして目を開けると、寂しい灰色の空と木の枝が見えた。背中からは雪の感触がして、胸や太腿にも雪が少し積もっていた。

 僕は起き上がろうとしたが、両手と両足は茶色の紐のようなもので縛られていて動くことが出来なかった。なんとか紐を切ろうとして体をくねらせていると木の枝から雪が降ってきて、僕の顔にポトリと落ちた。

 あまりの冷たさに声を上げ、顔を左右に振って払い落としていると、聞き慣れない足音が聞こえてきた。


「よしよし、起きよったぞ」

 そう言いながら姿を現したのは、茶褐色の動物だった。

 両腕は残酷に光る異様な大きさの鎌で、細長い胴体に短い四肢をもち、鼻先がとがった顔には丸く小さな耳がついていた。

 可愛らしい顔のように思えたが、両の瞳は橙色だった。その瞳は攻撃的で悪意に満ちている。

 少し開いた口からは鋭い歯が見えていて、体からは独特の獣臭がしていた。

 鎌鼬は僕の顔をじっと見てから、鎌を乱暴に振り下ろした。耳のすぐ近くに突き刺すとズボッという音が脳にまで響いてきて、体がぶるっと震えた。歯がカチカチと鳴ると、鎌鼬はニンマリと笑った。

 

「よしよし、そのまま大人しくしてろ。

 暴れたりしたら、今すぐ喉を掻き切ってやるからな。

 いいな?」

 鎌鼬は低くくぐもった声を発した。


 大きな鎌がチラチラと目に入ると恐怖が広がっていき、声を発することも出来なくなり、体に降り積のる雪の冷たさを感じ始めた。

 鎌鼬は鼻を動かして僕の体のニオイを嗅ぎ始めたが、途中何度か首を傾げてブツブツと独り言を言った。


 上半身のニオイを鎌鼬が嗅ぎおえた頃、ゲラゲラと笑う別の声が聞こえてきた。鎌鼬は不機嫌そうに顔を上げると、キィキィという声を発した。橙色の瞳が見つめる先には、さっき見たのと同じような旋風が発生していた。

 その旋風は、僕達から数メートル離れた所で止まった。そこから姿を現したのは翡翠色の瞳をした鎌鼬だった。口の端から涎を垂らしながらチョコチョコと歩いてきた。


「よしよし、オイラにもよこせ。

 ここはオイラの縄張りだ」

 と、翡翠色の瞳をした鎌鼬は言った。


「縄張りすらも守れんヌシが何をいう!?

 ヌシが寝入っていた間にワシが見つけたのだから、ワシのものだ。やらんぞ」

 橙色の瞳をした鎌鼬がそう言うと、翡翠色の瞳をした鎌鼬はキィキィと鳴き声を上げた。


「寝入っていたんじゃない!寝たふりをしていただけだ!ヒョコヒョコ歩いている獲物を驚かしてやろうとな。

 ここはオイラの縄張りだ!

 さぁ、食わせろ!もう腹ペコだ!」

 翡翠色の瞳をした鎌鼬は鎌を振り回しながら怒りの言葉を次々と吐き続けたが、その鎌は橙色の瞳をした鎌鼬の鎌が異様に大きいせいか随分小さく見えた。


「黙れ!静かにしてろ!」

 橙色の瞳をした鎌鼬が睨みつけると、翡翠色の瞳をした鎌鼬はたじろいだ。しばらく黙ってニオイを嗅ぐ様子を見ていたが、口の端から涎が垂れ始めるとまた口を開いた。


「一体、何をやっている?

 オイラに食わせず食おうともせずに、ニオイばかり嗅ぎ続けてよ。

 なぜ、早いとこ殺さないんだ?」

 翡翠色の瞳をした鎌鼬がそう言うと、橙色の瞳をした鎌鼬は唸るような声を上げた。


「うるさい!この妖怪から変なニオイがしてるんだ」


「変なニオイだと?どんなニオイだ?」

 翡翠色の瞳をした鎌鼬は性悪な目で僕を見下ろした。


「はっきりとは分からんが、変なニオイだ。

 なんだか妙だから、今から問いただしてやろうと思っていたところよ」

 と、橙色の瞳をした鎌鼬は言った。


「ニオイを嗅いでいたところで分かるわけがねぇ。聞いたからって、本当の事を言うとはかぎらねぇ。

 腕でも切ってみろ。流れ出る血を舐めたら分かるってもんよ」


「馬鹿なことを言うな。

 頭の命令と関係のあるヤツならば、傷をつけてはならない」


「命令?どんな命令だ?

 オイラ、命令なんか聞いてねぇぞ」

 翡翠色の瞳をした鎌鼬がそう言うと、橙色の瞳をした鎌鼬は蔑むような目で翡翠色を見た。


「あぁ、そうか。翡翠は知らんのだったな。

 なら、教えてやろう。

 いるはずもない「モノ」がウロチョロしている。

 軸の歪みで飛ばされたのではなく「なんらかの目的」をもって来たのかもしれない。

 その「モノ」を見つけたら、傷をつけずに生きたまま連れて来いとの命令よ」

 と、橙色の瞳をした鎌鼬は言った。


「何の警戒心もなくヒョコヒョコ歩いてんだから、軸の歪みで飛ばされて来たんだろう。

 なんらかの目的があるのならば、もっと警戒してるはずだ。

 コイツは関係ない!勝手に鎌鼬の領域をうろついてやがるんだから、望み通り切り刻んで食ってやろうじゃないか!」

 翡翠色の瞳をした鎌鼬は興奮しながら言った。

 

「馬鹿なことを言うな。

 頭の命令は守らねばならない」

 橙色の瞳をした鎌鼬はそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。


 鎌鼬は大きな声で言い争いを始めたので、僕は音を出さないように気をつけながら紐を切ろうと力を込めた。

 だが動かすほどに食い込んでいき、手首に鋭い痛みが走った。

 僕は思わず声を上げたが、それをかき消すほどの興奮した叫び声が上がった。


「この妖怪は関係ない!

 どっかのメスの鎌鼬が異種交尾して生まれてきたんだ!

 軸の歪みで飛ばされてきたんだ!

 オイラ、腹ペコなんだ!

 もうオイラ我慢できないや!」

 翡翠色の瞳をした鎌鼬はそう言うやいなや、僕に向かって飛びかかってきた。鎌の先端が僕の右腕に触れると黒い血が吹き上がったが、すぐに出血は止まり、不思議なことに痛みはなかった。 


 だが、僕は大声を上げていた。橙色の瞳をした鎌鼬が、翡翠色の瞳をした鎌鼬を真っ二つに切り裂いたのだ。

 その瞬間は、ゆっくりと僕の目に焼きついた。

 ヌメヌメとした赤い血が雨のように降ってきて、口にするのも恐ろしい臓器が腹の上をナメクジのように動き回った。大きく見開かれた翡翠色の瞳には、恐怖に染まった僕の顔が映っていた。

 それでも、大きな鎌は止まらなかった。

 執拗なまでに体をさらに滅多切りにすると、口からも大量の血が流れてきて、僕の両手首に降ってきた。

 切り裂かれた体の上半身は僕の左側に落ち、下半身は僕の右下側に落ちた。切り落とされて空中でクルクルと回っていた妖しげな光を放つ両腕の鎌は、自らの上半身に突き刺さった。

 白い雪が、どんどん赤く染まっていく。

 生臭いニオイがたちこめていき、僕の精神を侵そうとしていた。

 未練があるかのように開いたままの翡翠色の瞳が僕を見、ポッカリと開いた口が小さく動いていたが、それもやがて止まったのだった。


 目の前が真っ暗になり意識を失いそうになったが、切られた右腕の痛みが今になって激しく襲ってきた。

 その感覚は、僕に現実を教えてくれた。

 意識を失ったら、次は僕が切り裂かれてしまう。僕は生きて帰らなければならない。僕は、こんなところで死ねない。

 紅天狗と共に、盃を取り戻さなければならないのだから。


「仲間を…殺したのか…」

 なんとか意識を保とうとして口から出たのは、その言葉だった。心に強く紅天狗を思ったからかもしれない。


「よしよし、うまくいったぞ」

 鎌鼬はニンマリと笑い、僕の腹の上の臓器を足で蹴り飛ばした。血溜まりの中にポトンと音を上げて落ちると、鎌鼬は声を上げて笑い出した。


「何がうまくいっただ…仲間を殺しておいて」


「仲間?仲間などどこにいる?

 コレか?コレのことか?

 こんな劣った者と、一緒にするな。

 コレはな、出来損ないだ。出来損ないの翡翠は頭が空っぽだから、頭の命令を知ることもない。ギャーギャー騒ぎ立てるだけで何の役にも立たんからな」

 鎌鼬は薄汚い笑みを浮かべると、動物の毛皮の敷物に座るかのような残酷さで、真っ二つに切り裂いた下半身の上に座り込んだ。

 命の上に平然と…否、自慢げに座る姿は本当に悍ましかった。

 

「何を言っている…仲間だ。

 やめろ…同じ鎌鼬だろ…」

 

「ヌシよ、ワシのおかげで命拾いしたんだろう?

 コレが死ななければ、ヌシが死んでいた。

 ちがうか?」

 鎌鼬は薄気味悪い瞳で僕を見た。


 その言葉に僕が黙り込むと、鎌鼬はニンマリと笑った。


「コレとワシを一緒にするなと言っただろうが。

 鎌鼬としての価値が違う。

 知らんようだから、とくと教えてやろう。

 鎌鼬は生まれた瞬間から、瞳の色で優劣が決まるのよ。暖色系の色でなければ鎌鼬ではない。

 見ろ。

 ワシの鎌は、コレとは比べ物にならんほどに大きくて鋭い。一振りで、真っ二つに出来るほどにな。

 ところが、どうだ?コレは。

 この、みっともない翡翠色の鎌は。この小さな鎌を見るだけでウンザリさせられる。失敗だ、失敗作だ。

 理想的な鎌鼬は暖色系の瞳をし、大きな鎌を持つ者だけだ。

 こんな失敗作が鎌鼬にいるなんて、屈辱的だ。

 こんな失敗作がワシの役に立って死んでいけたのだから、感謝してもらいたいぐらいだ」

 鎌鼬が大きく溜息をつくと、僕の頭がグルグルと回り始めた。


 血のニオイと死体に挟まれているが、それだけじゃない。

 心を抉るような言葉の数々は、僕をずるずると深い暗闇の中へと引き摺り込もうとしていた。


「ちがう!鎌鼬だ!そんな言葉は使うな!

 お前と同じ鎌鼬だ!

 お前は禁を犯したんだぞ!」

 僕は迫り来る暗闇から逃れようとして大きな声を上げていた。


「ほぅ…禁のことは知っとるのか。

 そんな格好をしていながら威勢だけはいいんだな。なんの力もないくせに。

 女神の怒りなど、誰も恐れちゃいない。

 コレ以外にも殺したが、何もなかった。今までも、今も、これからも、何もない。

 それは何故か?

 それはな、ワシが特別だからだ。

 特別な者は、何をやっても許されるのだ」

 罪の意識の全くない鎌鼬は魂のない瞳で僕を見た。


「お前…何を言っている…?許されるはずないだろうが」


「ヌシよ、知らんのだな。

 禁であってもな、力のあるモノには適用されぬのだ。

 力があれば、ねじ曲げられる。

 力があれば、辿る道が変わるんだ。

 大きくて素晴らしい鎌を持つ、橙色の瞳をした鎌鼬は何をしてもいい。その証拠にワシは何度も赤い瞳をした頭に守られ、頭はワシが何をしようとも許してくれた。ワシの鎌を「数百年に一度の宝だ」「お前がいなくなっては大変な損失だ」とも仰った。

 どうだ?ワシは、特別なんだ。

 この橙色の瞳と素晴らしい能力が、ワシを守ってくれる。ワシという鎌鼬がいなくなれば困るからな。

 もし女神の怒りに触れるようなことがあっても、ただただ頭を下げ、ほとぼりが冷めるまで大人しくしていればいいだけのことよ。あの優しい女神ならば、涙を見せれば、命を取るようなことはせん。

 食料の蓄えはあるのだから、しばしの休暇と思えばいい。

 どうじゃ!?

 禁など、あってないようなものよ。

 橙色の瞳の特権じゃ。

 何をしても許される、素晴らしい生き方よ。

 力と時の流れが、ワシの味方をしてくれるわ」

 鎌鼬はニンマリと笑いながら、自慢の鎌を見せつけてきた。


 並べたてられたのは、クソみたいな言葉だった。

 鵺よりも、もっともっと薄汚い。

 地位と力があれば、何をしても許されると思っている。


(ちがう…人間とは…違う。人間は、ここまで醜くない。

 妖怪は、恐ろしい)

 僕は強くそう思ったが、同時に妙な違和感を覚えた。


 心に「何か」がひっかかった。

 鏡のように光る鎌に映った自らの顔を見ていると、鏡の中の僕は微笑みを浮かべてから「綺麗」「醜悪」「皮」「化け物」と口をゆっくりと動かしてから、僕をじっと見つめてきた。

 何処かで見た瞳の色だった。

 それを思い出そうとしていると、鎌鼬が嬉しそうな顔で自らの所業を自慢しようと口を開いた。


「馬鹿も使いようによっては役に立つ。

 頭の役に立ったのは、今回もワシよ。

 たしかにコレの言ったように、ニオイを嗅ぐだけじゃあ分からん。鎌鼬の血が入っていないか、血を舐めないと分からんのだ。

 けれど、傷はつけてはならない。

 だから、コレを使ったのよ。

 コレはヌシを見れば必ず切りかかる。コレの前でヌシを見せ続け、コレが切った傷口から流れた血を舐めてやろうとな。 

 コレがつける傷なら、そう深くはなりはせぬからな。

 頭の命令と関係ないならば、そのまま食ってやればいい。

 頭に傷の事を問われても、ヌシの傷はコレがつけた傷だ。傷口は鎌鼬の鎌によって、それぞれ違うからよ。コレが食らおうとしていたところをワシが見つけて、コレを殺して助けたのだと沈痛な表情をしながら答えればいいだけのことよ。

 死ねば、何も喋ることが出来ない。

 ヌシが何を言っても無駄だぞ。

 ワシは頭から信頼を得ている。橙色の瞳をした鎌鼬の言葉は何よりも信じてもらえる。

 力のある者の言葉は、ない者の言葉を粉砕出来る。

 あぁ…褒美が今から楽しみだ」

 鎌鼬がニンマリと笑うと、得体の知れない生き物の鳴き声が聞こえ始めた。血のニオイを嗅ぎつけ、肉を漁ろうときたのかもしれない。


「いや…しかし、コレの血は臭いの。

 悪臭じゃ…鼻がもげそうだ。

 はやいとこ、美味そうな血を舐めるとするか」

 鎌鼬の口の端から涎が垂れ始めた。

 だらしなく口が開くと鋭い歯の奥から赤黒い舌が伸びてきて、雪の上に落ちた僕の黒い血を舐めた。茶色い毛がゾクゾクするように震え、尻尾がビクリと動いた。


「ヌシ…妖怪…か?」

 鎌鼬は目を細めながら僕を見た。

 鼻先を突き出して傷口をスンスンと嗅いでから、赤黒い舌を伸ばして腕に残った血と傷口を舐め始めた。

 傷口を舐められる度に鋭い痛みが走り、鎌鼬の荒い息とベタベタした舌の嫌な感触が腕に残った。


「なんだ…この血は…ひどく甘ったるくて…頭が痺れてくる。舐めれば舐めるほどに上手い…ニオイも…たまらん。

 これは…知っている…はて…なんだったか…?」

 鎌鼬は目を閉じ鼻を動かしながら考え込んでいたが、急にその動きがピタリと止まった。


「そうだ!この血のニオイは嗅いだことがある!

 ずっと頭が舐めている布に染み付いている…あのニオイだ!

 そうか、そういう事か!

 天狗の翼が、ようやく黒うなりよるのか!

 頭の機嫌が最近やけにいいと思ったら、そういう事か!

 ならば、よしよし!本当にいいモノを見つけたぞ!

 ヌシは、選ばれし者だな!」

 鎌鼬は嬉々としていたが、急に尻尾を震わせると辺りをキョロキョロと見渡してから鼻を激しく動かした。


「天狗は…いないのか?ヌシ…1人だけ…か?

 どうやって…やってきた?なぜ、こんな所にいる?」

 そう問いかける鎌鼬の声はとても小さかった。


「天狗は…いない。

 結界門が開かれた時に…軸の歪みで…僕だけ…ここに飛ばされたんだ。天狗を探して…さまよっていた。

 もし近くにいたとしたら…僕はこんな目に遭ってはいないだろう?

 一体…何の話をしているんだ?」

 と、僕は言った。


 先程聞いた言葉に合わせるように答えたつもりだが、鎌鼬はじっとりとした目を向けた。

 嫌な沈黙が流れたが、やがて意地悪く笑い出した。

 僕の言葉を信じたというよりも自らの嗅覚を信じたからなのかもしれない。それとも僕がこれからどんな顔をするのか見たくなったからなのかもしれない。

 鎌鼬が嬉しそうに尻尾を振ると、血で染まった赤い雪が勢いよく吹き上がった。


「ヌシのような者が…選ばれし者とはな。 

 選ばれし者が、こんな所をヒョコヒョコ歩いているとは…信じられん。本当に選ばれし者ならば、もうとっくに天狗が見つけ出しているだろう。

 ヌシは、本当に、選ばれし者か?」

 と、鎌鼬は言った。


(貴様は、選ばれし者ではない)

 黒天狗のその言葉も思い出すと、僕は何も言い返せなくなった。急に自信がなくなり、少し開いた唇は虚しく震えているだけだった。

 

「いや、天狗も所詮は妖怪だ。

 そろそろ人間を殺したくてウズウズしているのかもしれんな。選ばれし者と思わせて、適当な人間を異界に放り込んで妖怪に嬲り殺しにされるのを見て楽しんでいるのかもしれんな。 

 ヌシよ、そう思わんか?

 選ばれし者ならば「あの話」を知っている。

 天狗の真の姿を知っているのだろう?」

 鎌鼬がそう言うと、扇を掲げる天狗の像の姿が脳裏に浮かんで体がビクンと震えた。


「そうよ。

 天狗とはな、人間を殺す存在だ。

 天狗はな、ワシらが恐れる者から、人間が恐れる者へと変化する。まさに変幻自在じゃわい。

 いくつもの意味があると知ることよ」

 鎌鼬はそう言うと、踏んづけにしている下半身に鎌を突き刺した。

 死してなおも無惨に痛めつけられていることを苦しんでいるかのように、両足と尾がピクピクと動いた。

 鎌鼬はその様子を見ると、鎌を引き抜いて高々と振り上げてから、ピクリと動いた尾を切り落とした。尾は音を上げて血溜まりの中に落ち、茶色は赤く染まり血を吸って重たくなるともう動かなくなった。


「いや、選ばれし者とは、そもそもそういう意味だったな。優秀な者は選ばれない。楽しめる者でなければ、意味がない。

 選ばれるのは出来損ないだ。失敗作だ。

 なぁ、選ばれし者よ。

 お前も、コレと同じ失敗作だな。必要がなくなれば、今のように尻尾を切り落とされる。お前はな、見捨てられたのだ。

 あの時と、同様だ。愚か者の血が色濃く流れているだけのことはあるなぁ…」

 鎌鼬はそう言うと、薄ら笑いを浮かべた。


「愚か者の…血が流れている…?

 一体…何の話だ?」


「血の話については知らぬのか?」

 鎌鼬がそう言うと、僕は黙り込んだ。

 

「そうかぁ…そうかぁ…そういうことかぁ。

 ならば、ワシが特別に教えてやろう!」

 鎌鼬はニンマリと笑い、上機嫌になった。


 無惨に切り落とされ血を吸ってグシャグシャになった尾を見ると、僕の心臓は激しく音を立て始めた。雪の冷たさで、体はどんどん痛くなってきた。


「ヌシよ、考えたことはなかったか?

 人間は、いくらでもいる。食っても食っても減ることはない。

 それなのに、どうしてヌシの一族の男だけが、選ばれし者とされるのか?

 天狗が放つ黒羽の矢が、突き刺さるのか?

 それは祖先である、あの愚か者が原因だからよ。

 そう…その血を授かりながら、禁を犯した。その命をもってしても消えることのない罪をな。裏切り者の肉は腐り果て、悪臭が漂い続ける。千年経とうが、布にニオイがこびりついているほどにな。

 犯した罪が許されるまで罰を受けなければならないが、愚か者の犯した罪は神を裏切る大罪よ。

 永遠に許されることはない。

 永遠に償い続けなければならず、その血が流れる子にも引き継がれた。

 永遠に続く責任を取らせる為に、その腐った血と肉のニオイを追う、生きた黒羽の矢が突き刺さるのよ。

 恐ろしい黒羽の矢じゃ。地の果てまでも追いかけてくるぞ」

 鎌鼬は舌舐めずりをしてから、弓矢を放つ真似をした。


「あの矢の羽はな、鴉の羽じゃない。

 あの山の鴉は、生まれ出づる者達だ。

 だからこそ龍に姿をかえ、山の空を自由に飛ぶことが出来る。

 生まれ出づる者を傷つけることは、誰であっても出来ぬ。鬼であっても、天狗であってもな。

 ならば、あの黒羽は誰のものだ?」

 と、鎌鼬は言った。


 灰色から真っ黒になった翼を想像すると恐ろしくなり、僕は鎌鼬から視線を逸らした。

 高い木々の枝に積もっていた雪がパラパラと降ってきて血溜まりの中へと落ちていくと、白い雪は瞬く間に血の赤へと色を変えていったのだった。









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